ソ連軍の秘密戦史18
ヴィーフリ作戦


文:nona


ソ連軍に再介入の動き

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PT-76を先頭にブダペストから一時撤退していくソ連地上軍

 10月29日に始まったソ連軍の撤退により、ブダペストは平穏を取り戻したかに見えたものの、ソ連軍は地方の駐屯地に戻っただけであり、しかも国境から新たな部隊が国内に入るなど、不穏な動きがありました。

 ナジ首相は当時の駐ハンガリー大使であったユーリ・アンドロポフを呼び出し、ミコヤン副首相との合意や、ワルシャワ条約の条文に反する行為であると抗議したのですが、部隊の流入は止みませんでした。

 11月1日の午後、ナジ首相はソ連が約束を守らないことを理由に、ハンガリーのワルシャワ条約からの離脱と中立宣言を閣議決定し、中立の保証を国連に求めます。

 この動きを見たソ連は強硬な対策をとることになり、同日の共産党幹部会議にてフルシチョフ第一書記、モロトフ元外相、ジューコフ国防相らはソ連軍によるナジ政権と抵抗勢力の打倒を訴えます。

 ナジ首相との交渉を担ったミコヤン副首相らは反対したものの、結局は武力介入が決定しました。


ソ連を揺るがす国外情勢

 一時は融和的であったソ連側が、再度恐慌な姿勢を見せた背景には、ハンガリー国外の情勢が大きく影響しています。

 この頃の東独やチェコスロバキアでは6月のポーランドや今回のハンガリーと同様に暴動の気配があり、東独では西独との境界線の入出管理を引き締められ、チェコでは全ての集会が禁止されるなど、地元当局は神経をとがらせていました。

 10月29日には第二次中東戦争が始まり、ソ連と友好関係にあったエジプトは、英仏イスラエルの3国の攻撃をうけ劣勢に立たされます。

 フルシチョフは英仏に対する牽制としてミサイルによる核報復を示唆したものの、実際は彼らを止める術がないのは明らかで、ソ連の威信も揺るがされつつありました。

 この状況の仲、もしハンガリーが東側陣営から離脱した場合、各国でソ連から離反する動きが加速しかねず、ソ連はこの自体に歯止めをかける必要があったのです。


ヴィーフリ作戦

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引退後に撮影されたジューコフ


 ソ連軍の再介入にあたり、ジューコフ国防相はヴィーフリ作戦を立案。ヴィーフリとはロシア語でつむじ風や旋風を意味します。

 作戦に参加する部隊はハンガリーの駐留部隊に加え、ウクライナのカルパチア軍管区とオデッサ軍管区、ルーマニア駐留ソ連軍、これらに2個の空挺師団を加えた総勢17個師団。

 兵士の数は約15万人、戦車2500両、多数の火砲と航空機という大兵力の投入が計画されたのですが、これは前回の介入時とく選べると約5倍の戦力です。

 実際には戦闘に参加しなかったものの、Tu-4爆撃機まで出動しており必要に応じ市内への爆撃すら検討されたようです。


ナジ首相に代わるハンガリー指導者

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1962年ごろに撮影されたカダル・ヤノシュ


 ソ連は再度の軍事介入についても、ハンガリー政府の要請をうけたものである、と正当化する必要があったことから、政府内に協力者を得る必要がありました。

 これに白羽の矢が立ったのがナジ政府の国務大臣であったカダル・ヤノシュ第一書記であり、11月1日の夜に彼はソ連大使館に連行され、すぐさまソ連に移送されました。

 そこでカダルは、ナジ首相を排除した後のハンガリー指導者となり、ソ連への忠誠を誓うことを要求されたのです。

 カダルいわく当初は固辞したものの、ソ連側はかつてのハンガリー指導者であった独裁者のラコシ第一書記や、ミコヤン副首相の同意で解任されたゲレ第一書記の再登用をほのめかしたため、要求をのまざるを得なかった、としています。

 両名は熱烈なスタリーン主義者であり、特にラコシ第一書記はカダルをでっち上げの罪で投獄したことがありました。

 もっとも、彼らは最早ソ連政府の意にかなう人物ではなく、これはカダルへの単なる脅し文句の一つだったのかもしれませんが、いずれにしてもカダルは要求を断れる状況ではなかったのです。


作戦開始

 11月3日の夜、マルテル国防相と軍参謀長のコヴァーチ大将は撤退交渉のためブダペスト郊外のソ連軍司令部に出向き、交渉にあたっていたところを突然拘束され、同時にソ連軍の特殊部隊が各地で作戦を開始しました。

 空挺軍はブダペスト郊外のテケル飛行場と、バラトン湖北にあるヴェスプレーム飛行場に侵入し、対空砲および兵員の武装を解除し、両飛行場を制圧。

 地上軍の特殊部隊も主要な鉄道駅を制圧し、本国からやってくる鉄道旅団による兵站を確保しました。

 軍の主力部隊は夜間にブダペスト近郊へ向け行軍し、砲兵隊はブダペストを一望できるゲッレールト山に観測所を設置。朝4時ごろになってブダペスト市内に砲声が轟き、程なくして戦車隊が市内へ突入。

 ナジ首相は4時40分にラジオで声明を発し、自国民と海外に向け危機が迫っていることを伝えると、数名の側近と共に中立と思われたユーゴ大使館へ逃亡。

 ブダペスト市内を警備していたハンガリー軍は抵抗が無意味と悟ったのか、武装解除を受け入れており、兵士600名、戦車100両、武器庫2か所、対空砲を含む火砲15門と多数の小火器が使用されることなく鹵獲されました。

 7時30分までにソ連軍は国会議事堂、党中央委員会の庁舎、内務省、外務省、市議会電話交換所、ラジオ局、主要道路、駅、ドナウ川の橋と船着き場など重要施設を制圧。

 8時ごろには国防省も制圧され、将官13名と士官300名が逮捕。各地の駐屯地でソ連軍とにらみ合っていたハンガリー軍も降伏を余儀なくされました。

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ハンガリー軍の火砲。

 この状況の中、レジスタンスは再び抵抗の構えを見せており、コルビン劇場の周辺地域、モスクワ広場、ブダ城、その他一部地域はソ連軍による制圧を免れたのですが、ソ連軍は前回以上の大兵力を投入しており、彼らの抵抗は風前の灯火でした。


参考
スターリンの将軍ジューコフ(ジェフリー・ロバーツ著 松島芳彦 訳 ISBN978-4-560-08334-5 2013年12月10日)
フルシチョフ 封印されていた証言(ストローブ・タルボット序 ジェロルド シェクター ヴァチャスラフ・ルチコフ 編 福島正光 訳 ISBN4-7942-0405-1 1991年4月10日)
現代中国の国境紛争史
ハンガリー事件 二つの世界とナショナリズム(村上公敏 1959年)
ハンガリー事件報告に関する若干の疑問 二つの世界とナショナリズム(角田順 日本国際政治学会 1959年1月)
カダール政権の成立と秩序形成過程(松井弘明 1971年)

Антисоветский мятеж в Венгрии 1956 года: на войне как на войне 27 октября 2016
(2016年10月27日 ドミトリー・セムシン)

militera.lib.ru
Советский Союз в локальных войнах и конфликтах.(地域戦争と紛争におけるソ連)
Глава 8.«Вихрь» в Будапеште, год 1956 Как все начиналось
(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)

tacc通信
Венгерское восстание 1956 года. Досье (2016年11月8)