ソ連軍の秘密戦史16
ハンガリー動乱


文:nona


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T-34戦車に群がる市民

フルシチョフによるスターリン批判

 1956年2月末、フルシチョフ第一書記は第20回ソ連共産党大会にて、1953年に死去したソ連の最高指導者スターリンへの批判を敢行。

 スターリンの評価はソ連に圧政を敷いた暴君とするか、第二次世界大戦を勝利に導いた英雄とするか、意見の分かれる人物ですが、当然のことながら当時のソ連や東欧諸国では神の如く崇拝されており、ソ連では修正路線にあったものの、衛星国では未だスターリン主義の政策を維持する国もありました。

 ゆえにスターリン批判は秘密会議という形で実施されたものの、結局は公然の秘密と化し、世界中に大きな衝撃を与えます。

 西側においては批判の詳細は不明な点があったものの、イスラエルの諜報機関モサドが東欧某国の外交官を買収、一般の持ち出しが禁じられていた、スターリン批判原稿の入手に成功しています。

 この頃のソ連は、イスラエルと敵対するエジプトと友好関係を築きつつあり、スタリーン時代の末期にユダヤ系党員が排除されるなど、国内でポグロム(弾圧)が再発する気配もあったことから、イスラエルはソ連の情報を探るために躍起になっていたのです。

 モサドのハルエル長官はこの原稿を手土産に渡米し、CIAのダレス長官に米国の持つ中東情報の提供を要求。

 批判原稿を入手したCIAはニューヨークタイムズ紙にリークし、敵対するアラブ諸国の情報を得たイスラエルはこの年の10月末に始まる第二次中東戦争に臨んでいます。


スタリーン批判が与えた影響

 スターリン批判の翌月、彼の故郷であるグルジア(現ジョージア)では、命日である3月5日に始まった抗議集会が暴動に発展。

 スターリン批判はグルジアの民族主義に火をつけ、暴徒はソ連からの独立が叫び、ロシア系やアルメニア系住民への暴行に及んだ、とされます。

 3月12日にはポーランドのビエルト書記長がモスクワで客死。死因は伏せられたものの、彼は熱烈なスターリン主義者だったため、スターリン批判によるショックで体調を崩した、あるいは自殺、はたまた憤死した、などと囁かれました。

 スターリン批判は、ソ連にとって最大の同盟国といれる中国にも動揺を与えたものの、中国共産党は議論の果てに、スターリンの功罪について「七功三過(7割の功績があり、3割の過ちがあった」として総合的に評価する姿勢を示します。

 スターリンの死後、ソ連は軍事出費を削減するために朝鮮戦争を終結させ、米国との平和共存を掲げたのですが、一方の中国は台湾問題を巡って米国と対立していたこともあり、ソ連の方針転換には疑問を抱きはじめ、ソ連から距離を置くようになっていました。


ポーランドで脱ソ連の動き

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コンスタンチン・ロコソフスキー元帥の肖像。同時代の軍人であワシリー・ソコロフスキーは元帥は名前のよく似た別人。


 ビエルト書記長亡きあとのポーランドでは、1956年6月に地方都市ポズナンのとある工場、その名も「スターリン金属工場」における賃上げのストライキが大規模な暴動に発展します。

暴徒は警察署や刑務所を襲撃するなどして武器を奪おうとしたため、同日中に軍隊が投入されて暴動は鎮圧されたのですが、政府内でも改革の機運が高まり、スタリーン時代に失脚していたゴウムカ書記長がこの事件をきっかけに復権。10月21日に第一書記に選出され国内改革の方針を示します。

 ところが、ゴウムカ書記長はロコソフスキー国防相の解任を検討していたため、ソ連政府は彼を説得する必要に迫られます。

 ワルシャワに向かったのはフルシチョフ第一書記、ミコヤン副首相、ジューコフ国防相、コーネフ第一国防次官、政治局員のモロトフとカガノヴィチらで、ゴウムカに対し、ロコソフスキー国防相の留任と、政治改革の穏健化を要求しました。

 ロコソフスキーは第二次世界大戦で活躍したソ連軍の元帥ですが、ソ連によるポーランド支配を確実なものとするために、1949年から同国の国防相を兼任していました。

 先のポズナン暴動では軍隊の投入をためらわず、しかもソ連本国にかけあい国境にソ連軍を送る、といった措置をとっていました。

 実は彼はポーランド人の父を持つポーランド系ソ連人であり、幼少期にワルシャワで暮らすなどポーランド語にも通じていたのですが、ポーランド側からは彼はソ連人として見られたようです。

 両国政府首脳による交渉の結果、ポーランドは社会主義体制とソ連との同盟関係の維持を約束したものの、ロコソフスキー国防相については内政干渉であるとして解任を譲らず、結局彼はポーランドから去らざるを得ませんでした。


ハンガリーへ飛び火

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10月23日にはじまったブダペストの大規模デモ


 スターリン批判をきっかけとする情勢不安はハンガリーに飛び火し、ポーランド以上に深刻な政治危機を招きます。

 10月23日に首都のブダペストにて20万人規模のデモ(ソ連側は10万人と記録)が発生。

 程なくしてデモは暴動へ発展し、ブダペスト市内に存在した全長25mのスターリンの銅像を引き倒しました。

 スタリーン像の撤去はすでにソ連内でも始まっていたのですが、ブダペストの市民は倒した像をトラックで引き回し、頭部を切断し落書きを加えるなど、スターリン対する強い恨みを露にします。

 暴動の始まった23日の夜、ゲレ第一書記はラジオで声明を発したものの、市民側を激しく批判したことで火に油を注ぎました。

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https://budapestbeacon.com/hungarian-revolution-1956/
ブダペストに置かれていたスターリン像


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https://24.hu/belfold/2016/10/25/sosem-latott-kepek-a-forradalom-napjaibol/amp/
足元から溶断されたスターリン像


 先鋭化した暴徒は軍や警察、銃器工場を襲撃し多数の銃器類を強奪。これに加え市民に同調する警察が武器を横流ししたり、兵士が銃を持ち出すなどして多数の武器が流出し、市民はレジスタンス化しました。

 事件直後の当局発表では、後に押収された銃器は44000丁に及んだ、とされています。

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https://www.theguardian.com/world/gallery/2016/nov/10/1956-hungarian-revolution-in-pictures
武器を手に、ハンガリー国旗を掲げる市民。ソ連風の国章は切り抜かれている。


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https://tass.ru/mezhdunarodnaya-panorama/3725940
市民側について戦うハンガリー軍兵士


 レジスタンスはデモの発起人が掲げた16箇条の要求を国内外に発信すべく、夜になってラジオ局へ突入。同所を警備していたAVH(ハンガリーの秘密警察)との銃撃戦が開始されました。

 多数の死傷者を出した末にラジオ局はレジスタンスに奪取され、AVH職員の遺体は市中に吊されます。

 この暴動ではAVHの本部も襲撃をうけ、ここでも職員はレジスタンスによる私刑をうけ、数名が殺害されています。

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https://www.theguardian.com/world/gallery/2016/nov/10/1956-hungarian-revolution-in-pictures
吊るし上げられるAVH職員の遺体。彼への「死体蹴り」を加える写真も残っている。


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https://www.theguardian.com/world/gallery/2016/nov/10/1956-hungarian-revolution-in-pictures
AVH関係者とされたため暴行される女性。


 この非常事態に際し、ハンガリー政府は暴動の拡大を予見していなかったため、軍隊の投入が間に合わず、自力での暴動の抑え込みに失敗。23日の夜にソ連へ救援をもとめました。

 事件当時の駐ハンガリー大使であったユーリ・アンドロポフは、暴動の以前から不穏な情勢をソ連本国へ伝えており、ハンガリー国境のティサ川では、10月21日ごろから架橋部隊が集結するなど、介入の準備を進めていました。

 加えてハンガリー国内やその周辺に出動可能な5個の師団があり、緊急時の行動計画は同年の7月には策定されていました。

 ただ、ワルシャワ条約では該当国からの要請がない限りソ連による介入はできなかったらしくこの時のソ連軍は律儀にもハンガリー側の要請を待ってから、日付の変わった24日0時に出動したようです。


参考
スターリンの将軍ジューコフ(ジェフリー・ロバーツ著 松島芳彦 訳 ISBN978-4-560-08334-5 2013年12月10日)
フルシチョフ 封印されていた証言(ストローブ・タルボット序 ジェロルド・シェクター ヴァチャスラフ・ルチコフ 編 福島正光 訳 ISBN4-7942-0405-1 1991年4月10日)
中ソ国境 国際政治の空白地帯(前田哲男 手嶋龍一 ISBN4-14-008487-1 1986年5月20日)
ハンガリー事件報告に関する若干の疑問 二つの世界とナショナリズム(角田順 日本国際政治学会 1959年1月)
ハンガリー事件 二つの世界とナショナリズム(村上公敏 1959年)

The Budapest Beacon
The Hungarian Revolution of 1956(2016年10月23日)