ソ連軍の秘密戦史13
S-75ドヴィナー


文:nona


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http://otvaga2004.ru/boyevoe-primenenie/boyevoye-primeneniye02/s-75-dvina-desna-volxov/
演習で同時発射されるS-75


 
Su-9フィッシュポット

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https://en.wikipedia.org/wiki/Sukhoi_Su-9#/media/File:Su-9.jpg
Su-9フィッシュポット。主にソ連防空軍で迎撃機として用いられた。


 1960年5月1日にソ連領を侵犯したU-2偵察機はカザフスタンを通過し、ロシアに達しました。

 ウラルの西にあるぺルミ市のコルツォボ基地では、MiG-19に搭乗するアイバイジャン大尉とサフロノフ中尉が緊急発進指令に備え待機していました。ただし、大尉いわくMiG-19でU-2を撃墜する確率は1000に1つ。

 そこで、この基地に前日の悪天候でダイバートしていた、最新鋭のSu-9戦闘機を発進させる措置が取られます。パイロットのメンチュコフ大尉は一時外出のためバス停にいたようですが、急きょ連れ戻されて南東に飛ぶよう指示をうけました。


目標を体当たりで破壊せよ

 ところが、このSu-9には固定武装としての機関砲はなく、適合する空対空ミサイルもコルツォボ基地にないために、同機は丸腰だったのですが、管制官は牙歯にもかけず「ドラゴン(コールサイン)の命令だ。目標を体当たりで破壊せよ。」と指示を送ります。

 古今東西で行われる戦闘機の体当たり攻撃ですが、ソ連においては「タラーン」と呼ばれ、特に大祖国戦争初期の劣勢下で、ドイツの爆撃機を撃墜するために多用されました。一見すると自殺攻撃に見えますがパイロットには脱出のチャンスもあり、生還後も体当たり攻撃を繰り返す者もいたようです。

 ただし、U-2のような高高度機に体当たりを仕掛ける場合、与圧服を着ていないメンチュコフ大尉はコックピットの気密が失われた時点で死ぬ恐れがありました。

 とはいえ、大尉は抗命もできず、ただ身重の妻と母を頼むと言い残し、機体の加速を始めたのです。


防空軍のドラゴン

 この時代の防空軍で「ドラゴン」といえば、大戦のエースであるサヴィツキー将軍(少将?)を指しました。

 彼は大戦にて単独で22機を撃墜したエースであり、ソ連で2番目となる女性宇宙飛行士スベトラーナ・サヴィツカヤの父としても知られます。

 そんな彼は防空軍時代に専用のYak-25戦闘機に乗り込んで各基地を視察して周り「こちらはドラゴン、上がって来い」の合図で、緊急発進の抜き打ち訓練をしていました。(日本ではアニメやゲームでしか見られないような人かもしれません)

 ただし、実のところサヴィツキー将軍がそのような命令を発したのかは不明で、現地指揮官が彼の名を借り、そのような命令を下した可能性もあるようです。


目標を発見できず

 メンチュコフ大尉は目標の手前でレーダー捜索を開始したものの、機器の不調によるものかスコープにノイズが混じりU-2を探知できず、やむなく目視捜索に切り替えたものの、やはりU-2は見つからなかったそうです。

 U-2は開発段階では空気抵抗の増加を嫌い無塗装だったのですが、U-2を知らない一般のパイロット達から「銀色の物体が通常の航空機では上がれない高度を飛んでいる」という報告が相次いだため、暗闇の成層圏に溶け込む独特な黒塗装が施され、目視での発見を難しくしていました。

 ついにはU-2を発見できないままSu-9の燃料がきれてしまうのですが、代替のMiG-19が出撃したこともあって帰投を許され、大尉は無事に家族と再開できたようです。(実のところ大尉はU-2を発見していながら、自身の生存のためにわざと見逃した可能性もあるようです。)

 事件の翌日、サヴィツキー将軍はメンチュコフ大尉から戦闘報告をうけた際「Su-9の接近により侵犯機は進路変更を余儀なくされ、この結果としてS-75の有効射程に入った」と大尉の貢献を労いました。将軍は戦闘機部隊の貢献を誇張して触れ回ったようですが、 体当たり命令の真相は不明のままでした。


撃墜のチャンスが巡ってきた

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https://www.radartutorial.eu/19.kartei/11.ancient/karte030.en.html
S-75のサイトに1個ずつ配置されるファンソングレーダー。目標の追尾とビームライディングによるミサイルの誘導を実施する。


 U-2はソ連領空に侵入してから2000kmほど飛行し、ウラル山脈の東側にある工業都市スヴェルドルフスク(現在のエカテリンブルグ)上空へ達しました。

 同地の防空軍部隊ではメーデー休暇による欠員があったものの、S-75連隊長指揮官のペブニイ大佐は、各サイトに侵入機の諸元を伝達し、指令をうけたボロノフ少佐(隊長が不在につき副隊長として臨時に指揮をとっていた)の部隊では、管制レーダーのファンソングによってU-2の追跡を開始しました。

 ファンソングはしばらくU-2を補足していたのですが、同機は偶然に進路を変え、有効射程から遠ざかろうとします。

 ここでボロノフ少佐はシステムが同時管制できる最大数である3発のV-750ミサイルを発射するよう命じますが、途中でU-2が有効射程に出てしまったため、実際に発射できたのは1発だけでした。

 のちに二重スパイとして活躍するGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)のオレグ・ペンコフスキー大佐によると、もしU-2が1kmあるいは1km半ほどサイトの右側を飛んでいた場合、撃墜されることもなかった、としています。


急降下

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U-2 ユーティリティ・フライトハンドブック(1959年3月1日)より
パラシュートで脱出する擬人化されたU-2


 V-750は1分ほど燃焼した後に弾道飛行に入り、U-2の予想進路へと飛び続けました。操縦士のパワーズはちょうどフライト・ログを記載しており、外界への注意をはらっていませんでした。

 現地時刻8時53分、V-750の弾頭がU-2の尾部至近で爆発。

 爆風をうけたU-2の尾翼は破壊され、姿勢を崩し機体は裏返しになり、負荷のかかった主翼は空中分解。胴体はスピンしながら落下しました。

 パワーズは自力で脱出したものの、郊外の農場に降下したところを現地人に囲まれました。当初、現地人は彼がソ連のパイロットだと誤解されたものの、彼の所持品やサバイバルキットの記載から、すぐに米国人だと気づかれたようです。

 パワーズはその日のうちにTu-104旅客機に乗せられ、モスクワのルビヤンカ(KGB本部)へと連行されました。この機は飛行再開の第一号と言われます。
 一方のモスクワからは軍、共産党、KGB、GRUの幹部が乗り合わせたTu-104がスヴェルドルフスクへ向かっていました。彼らの目的は撃墜されたU-2の残骸を自分の目で確認することでした。

 当時のソ連では中央の覚えをよくするための虚偽の報告がなされることがあり、下からの報告を自らの目で確認せず鵜呑みにすることは、自身の足をすくわれる危険があったそうです。


参考
U-2秘史 ドリームランドの住人たち(浜田一穂2019年9月1日)
図説ソ連の歴史(下斗米伸夫 ISBN978-4-309-76163-3 2011年4月30日)
寝返ったソ連軍情報部大佐の遺書(オレグ・ペンコフスキー著 フランク・ギブニー編 佐藤亮一訳 ISBN08-760246-3 1988年12月20日)
CIA and U-2: A 50-Year Anniversary Central Intelligence Agency(2010年5月13日 CIA)
U-2 ユーティリティ・フライトハンドブック(1959年3月1日)
Воздушная баталия над Уралом ウラルを巡る空中戦(Анатолий Докучаев 2002年5月17日)