無題Name名無し20/03/08(日)00:57:26 No.505042
wikipedia:Drhoehl
3月8日だし
何となく三八式の話でも‥
ゴボウとの相性は異常!
タナカ 旧日本陸軍 三八式歩兵銃 version2 グレー スチール フィニッシュ 18歳以上ガスライフル
posted with amazlet at 20.03.17
タナカ(Tanaka)
無題Name名無し 20/03/08(日)12:37:26 No.505063
https://may.2chan.net/39/src/1583638646389.jpg
世界に褒められたのは銃本体じゃなく使用する弾薬
小口径高速弾、低反動っていう方向性を打ち出したものでは最古の類
画像は同弾薬を用いた露助の自動小銃
無題Name名無し 20/03/08(日)16:15:04 No.505084
>画像は同弾薬を用いた露助の自動小銃
フェドロフM1916は革命さえ起こらなかったら、後に減装弾が開発されて、世界初の本物のアサルトライフルになったかも知れないね。
それからバーティカル・フォアグリップが当時にしては画期的だね。
無題Name名無し 20/03/12(木)01:28:34 No.505270
>フェドロフM1916は革命さえ起こらなかったら、後に減装弾が開発されて、世界初の本物のアサルトライフルになったかも知れないね。
フェドロフは革命後も変わらず銃器業界の重鎮だったので歴史の流れは変わらないと思う
彼は世界各国訪問とWW1の経験から小口径弾の優位性を確信してロシアにおいて小口径推進路線を推していたし
コンセプトはともかくとして中間弾薬を用いた自動火器は世界各国で試行錯誤されていた
6.5mmアリサカは低反動と言ってもフルサイズに分類される弾薬だしアサルトライフル的な銃に用いられる弾薬としては過渡期的なものだろう
無題Name名無し 20/03/12(木)22:55:16 No.505310
>6.5mmアリサカは低反動と言ってもフルサイズに分類される弾薬だしアサルトライフル的な銃に用いられる弾薬としては過渡期的なものだろう
308や243に近いサイズで、当時の06や8mmに比べると相当小さいぞ?
無題Name名無し 20/03/13(金)11:15:31 No.505320
https://may.2chan.net/39/src/1584065731782.jpg
データ古いけど弾薬対比図貼っておくね
最新の6.5mmクリードモアとか.300AACはないけどこれで大体の目安になる
無題Name名無し 20/03/12(木)09:15:21 No.505275
>フェドロフM1916は革命さえ起こらなかったら、後に減装弾が開発されて、
>世界初の本物のアサルトライフルになったかも知れないね。
23年前に開発されたこの人が何か言いたそう
全/半自動切替式で6.5mmx52弾使用
無題Name名無し 20/03/12(木)09:31:25 No.505276
>世界に褒められたのは銃本体じゃなく使用する弾薬
>小口径高速弾、低反動っていう方向性を打ち出したものでは最古の類
6.5mm×52 Carcano 1889年
6.5mm×55 Swedish Mauser 1891年
6.5mm×57 Mauser 1893年
6mm×60 U.S.N. 1895年
6.5mmx50SR Arisaka 1897年
それほど古くもない様な
無題Name名無し 20/03/08(日)22:41:51 No.505108
>小口径高速弾
6.5mmってあきらかにふんわり飛ばす弾のようだが?
無題Name名無し 20/03/08(日)12:40:13 No.505066
そういえば最近は6.5mmの弾が
再び脚光を浴び始めたとか何とか言われてますよね
無題Name名無し 20/03/08(日)18:15:47 No.505092
https://may.2chan.net/39/src/1583658947244.jpg
「38式は白兵戦を重視して長くなった、白兵主義の表れだ」という論が昔はよく聞かれ
今は「弾丸に必要な初速からあの長さになった、西南戦争・日清戦争の経験や当時の操典を見てもメインは射撃」というのが主流だと思うんだけど
素人考えとしてその後38式騎兵銃が評価高かったり99式が短小銃になったことから単に射撃能力だけなら1mくらいに収める余地はあったけど、38式というか30年式が設計された時期(1890年代序盤)はまだ騎兵(ロシアが強いとされた)の突撃を歩兵の射撃だけで抑え込めるか実戦で証明されてなくて最悪マスケット銃時代みたく歩兵が槍襖を形成する必要が考慮されて、馬上の敵の腹をつける程度の長さを確保することが意識されていた、ってことはないのかな?
主要国の小銃を見るとだいたい銃剣込みの長さは38式と同じくらいだし「長い」が歩兵同士の白兵戦の強さに直結するかはちょっと疑問
最初から短小銃を採用した英国(SMLE)と米国(M1892)はあんまり騎兵集団に対峙すること意識する必要がなさそうな国だし。
個人的には38式騎兵銃が形状の美しさと長さのバランスの良さからマイフェイバリットボルトアクションライフルです!
無題Name名無し 20/03/09(月)11:12:23 No.505141
>38式というか30年式が設計された時期(1890年代序盤)はまだ騎兵(ロシアが強いとされた)の突撃を歩兵の射撃だけで抑え込めるか実戦で証明されてなくて最悪マスケット銃時代みたく歩兵が槍襖を形成する必要が考慮されて、馬上の敵の腹をつける程度の長さを確保することが意識されていた、ってことはないのかな?
でしょうな
明治時代の軍隊は騎兵の戦力が大きく(機動が優れるから現代だと航空騎兵=ヘリコプター部隊か)
日本が敵対しそうな国には騎兵か騎馬の部隊があったわけですから
無題Name名無し 20/03/08(日)18:28:29 No.505094
同じく当時のライフルは騎兵隊のチャージを止める為
馬を撃って一発で倒す事が考慮されていたとか聞きました
大戦時代になり機械化が進み馬に乗っての突撃が無くなると
今度は効率良く人間を倒す必要が出てきて拳銃弾で威力は十分という思想になりSMGが登場し・・
無題Name名無し 20/03/10(火)16:00:56 No.505189
>大戦時代になり機械化が進み馬に乗っての突撃が無くなると
>今度は効率良く人間を倒す必要が出てきて拳銃弾で威力は十分という思想になりSMGが登場し・・
サブマシンガンとアサルトライフルの中間みたいなPDWが出てきて
PDW用弾薬を使う拳銃もある
イラク戦争やアフガニスタン戦争で平地や山岳の戦いが無かったら
かなり普及したかも知れない
無題Name名無し 20/03/08(日)22:03:58 No.505104
戦前、日本製の武器の海外輸出をほぼ一手に引き受けていた昭和通商の社員だった方々の回想記に依ると、例えば北支臨時政府や蒙古連合自治政府などを相手の商売で、最も扱った銃器はやはり38式歩兵銃であったそうです
主に中古品というか、内地の教練用のものを日本の兵器廠から送ってもらっていたそうなんですが、後に不足を来したので、「イタリア製の小銃が38式小銃の弾を使えるというので1万挺ばかり輸入し、蒙古軍に売ったことも」あったんですとか
更に支那事変の最中、時には敵方の中国軍相手にも「三八銃」を売った事も有ったそうで、南京支那代表部員だった松沢雄蔵さんによると
「昭和通商の社員でありながら大佐待遇の軍属として長いサーベルをつり、司令部の参謀3課で、参謀たちと机を並べて仕事をした」
無題Name名無し 20/03/08(日)22:06:19 No.505105
「たとえば、敵陣深く岩塩がある。わが方はその岩塩がほしい。敵は武器がほしい。そこで交換協定を結ぶ。必要量の岩塩を届けさせると、それに見合う武器を渡す」
「武器といっても、三八歩兵銃である。この銃は、内地の学校教練用を集めてきたものである。古くて使いものにならない」
「敵からクレームがつく。そこで私は射撃のうまい兵隊を集めて、その銃で試射をやらせる。みんな名人だから、銃をダマしダマし使って、ちゃんと的に命中させる。私は『この通り正確に当るではないか』といってクレームを受けつけない」
…なんてコトも行われていたそうです
長いこと使われていた38式小銃だけに、中古品も多く出たんでしょうけれど、擦り減りきった老銃でも、最後にそれなりの御奉公先というか、使い道があったという話なんでしょうか…w
無題Name名無し 20/03/08(日)22:33:51 No.505107
>擦り減りきった老銃でも、最後にそれなりの御奉公先というか、使い道があったという話なんでしょうか…w
AKもそんな感じかな
いろんな国で撃ってきたけど、大体ガタガタでした
無題Name名無し 20/03/08(日)22:48:37 No.505112
>中国軍相手にも「三八銃」を売った
無可動銃の38式みてると戦後?中国で短くカットされたやつがぼちぼち出るよね。
中国も38式から大は野砲まで結構コピー生産してるみたいだしおもしろい。
無題Name名無し 20/03/08(日)22:43:33 No.505109
酷評される話を聞くが命中精度とかも良く決して悪い銃ではなかった
無題Name名無し 20/03/08(日)22:53:26 No.505114
6.5mm×50SRは低伸性が高くて初速が遅めなのに関わらず真っ直ぐ飛ぶからよく当たる弾だったというのがよく云われる評価だな
但し時代の変化に対応させるために弾薬を新しくする必要があって強力な7.7mmに替えようとして結局変えきれなかったと
完全なリムレスにして尖頭弾にしたら今でも軍用弾薬として通用しそうな性能に生まれ変わりそう…という理想の姿が今注目の6.5mmクリードモアなんだろうな
特徴がよく似てる
無題Name名無し 20/03/08(日)23:15:39 No.505118
>6.5mm×50SRは低伸性が高くて初速が遅めなのに関わらず真っ直ぐ飛ぶからよく当たる弾だったというのがよく云われる評価だな
日露戦争後、第一次大戦前に尖頭弾とかボートテール弾が出るまでは低伸性がいちばんいい小銃だったという説は聞くね。
無題Name名無し 20/03/09(月)12:52:36 No.505142
https://may.2chan.net/39/src/1583725956532.jpg
蓋を開けてみると黒溝台会戦の営口の戦いとか脅威と見られたコサック騎兵の襲撃を数でも劣る村田銃装備の輜重輸卒部隊(普段は銃剣くらいしか持ってないけど臨時で銃を渡した模様)が射撃だけで退けたそうで(まあ、ロシア側がどのくらい本気だったのかはわからないですが)
無題Name名無し 20/03/10(火)19:12:12 No.505199
日露戦争に歩兵第4連隊の小隊長として参加した、多門二郎陸軍中将の回想記にある話だそうなんですが、日露戦中のある時、多門さんの部隊が宿営していた村落が、およそ1300mほど離れた敵砲兵の猛射を受けたんだそうで
連隊長の指示で、小銃によって反撃することになったんですが、「千米以上であるから、とても駄目だろうと思っておった」ところ、意外にも兵が射撃を始めると敵砲兵はみな姿を隠してしまい「距離が遠くも、兵が安全な所に匿れて精密射撃をするのであるから、その効力は至大」だった、というのが多門さんの弁なんですが、結果的に歩兵の小銃射撃が敵砲兵の砲撃を撃退した戦いになったようです
30年式歩兵銃の最大射程2千メートルと云いますから、リクツ上は無理はないんですけれど、よっぽど腕利きの射手さんが揃っていたんでしょうか…w
無題Name名無し 20/03/10(火)19:16:25 No.505200
一方、昭和期のIJAで幾多の銃器開発に当たった銅金義一陸軍少将の手記に、自身が設計に関わった99式小銃に関する思い出話がありまして
「99式小銃には長と短がある。長は38式歩兵銃と同長で、短は約10センチ短い(略)この銃身長を約10センチ短くするためにも、相当長いあいだ議論があったことを思い出す」
「陸軍には戸山学校という剣術、銃剣術(略)学校があった。このなかで賛否両論があり、なかなかきまらない。そこで筆者は、小銃を発射姿勢にして突撃前1発射って格闘すればよい(自動小銃なら(略)なおさらよい)ではないかといったが、反対論が強硬で容易にきまらなかった」
…そうです
銃身長で言えば30年式と38式はほぼ同じですし、明治の頃から長年親しんだ長さを変えるのは、やっぱり抵抗があったんですかねえ…
無題Name名無し 20/03/10(火)20:06:58 No.505202
戦後64式小銃の銃剣を長さを決める時ですら長い方がいい(どうも旧戸山学校の流れをくむ派)と短くていい派ですごい議論があって決闘騒ぎにまで発展したとか聞きますね
結局両者の意見の折衷で中間の長さになったんだとか
そういう時には偉い人が責任もって決定して下は黙らせて終わりにしないのかな?とも思うけど、まあ、会社での風景を見ればそんなもんなのかな、とも…
無題Name名無し 20/03/10(火)20:12:18 No.505204
>結局両者の意見の折衷で中間の長さになったんだとか
だから米軍のM1銃剣(10インチ)よりブレードが長かったんだ!!
知らなかった・・・
無題Name名無し 20/03/10(火)21:15:30 No.505210
>だから米軍のM1銃剣(10インチ)よりブレードが長かったんだ!!
タコツボ掘りに使うからってことになってたような、40年くらい前に読んだ本ではね
無題Name名無し 20/03/10(火)21:33:20 No.505212
>>だから米軍のM1銃剣(10インチ)よりブレードが長かったんだ!!
>タコツボ掘りに使うからってことになってたような、40年くらい前に読んだ本ではね
実家が農家なんでよく穴掘りやるけど(ちなみに穴掘りやるときはいつも塹壕掘ってるつもりで作業)銃剣で20センチも30センチもいっぺんに土に差し込める絵面が思いつかないんですよね。
穴掘り用の携帯シャベルは持ってるわけだし、緊急時に伏せたままひっかくように掘ると考えても長さが3cmや5cmちがうことよりは園芸ナイフみたいに幅広にする方がよほど掘りやすい気はします。刃渡りは20㎝~15㎝くらいの方が穴掘り用なら使いやすい気が…個人の感想だけど
無題Name名無し 20/03/10(火)20:10:22 No.505203
直接照準しか(間接照準が)出来ない砲の時代らしい面白いエピソードですね
当たらなくても周囲でパチパチ小銃弾が着弾し始めたら士気低めの砲兵は隠れちゃうのかも・・・
無題Name名無し 20/03/10(火)20:24:08 No.505205
https://may.2chan.net/39/src/1583839448651.jpg
今の歩兵部隊から見るとピンとこないけど日露戦争までの歩兵って連隊あたりまでは本当に小銃と銃剣しか武器がないし、まだ密集隊形対密集隊形の打ち合いも考慮されてただろうから照尺が一人対一人用では考えられないような遠距離向けになってるという理解。
イギリスのボレーサイトも同様の目的らしい。
ライフル、というかライフルを持った歩兵が戦場の主役だった最後の時代ですよね、日露戦争…
と言いたいところだけど21世紀になって非対称戦争で軍隊が警察じみたことをやるようになって再び歩兵の小銃火力が重視される時代がこようとは…
無題Name名無し 20/03/11(水)17:30:59 No.505244
https://may.2chan.net/39/src/1583915459997.jpg
微笑みの国でいじくり回されたなれの果ても忘れないでね
一応派生ではあるから
無題Name名無し 20/03/11(水)18:39:59 No.505247
日露戦争後の1911年、「列強兵学家の日露戦に基く戦術上の意見」なる本が日本国内で出版されているんだそうで、要は当の対戦相手だったロシアの軍人さん達や、各国の観戦武官さんらの戦中・戦後の日露戦についての所見・論調をまとめたものだそうなんですが、例えばロシア軍歩兵大尉だったソロヒエブ=サンの、「日露戦の歩兵戦術に関する教訓」では
「現戦争は銃剣の効力至大なるを証明したり」
…とした上で、遼陽戦で銃剣を用いて抵抗したロシア軍陣地が、常に日本軍の攻撃を撃退した例を引いて、歩兵戦闘における「銃剣の効用」を特に強調しているんだそうで
無題Name名無し 20/03/11(水)18:45:13 No.505248
また、戦中露陸軍司令官のクロパトキン=サンの発した訓示なども紹介されているんですが、それによると日本側が進んで銃剣突撃するのは稀で、ロシア側が銃剣突撃すると退却し、小銃射撃で対抗してくる、つまり日本兵は
「銃剣戦闘を好まず寧ろ之を恐怖」
…するので、体格・腕力に勝る我がロシア兵は
「日本兵をして我が銃剣戦法の痛苦を屢々感せしむる」
…ことができる、としているんですとか
戦後の調査で、戦中、或いは戦後に至っても、対戦相手だったロシア側が、銃剣戦闘なら日本兵なんてラクショーでハラショー!という意識を持ち続けていたと…と知ったのは、或いはIJAにはショックだったのかもというか、その後の歩兵戦術教育に影響を与えたりしたんですかねえ…
無題Name名無し 20/03/11(水)21:13:54 No.505255
https://may.2chan.net/39/src/1583928834847.jpg
元が日本の銃なのになんか英国面だよな
取り回し面なら三八式騎兵銃や四四式騎兵銃をそのまま使うのがベストだったかも
無題Name名無し 20/03/12(木)00:51:52 No.505269
日本の銃剣術は、剣道から派生した考えが大きいから、銃座をぶんまわして殴るという発想がないとか批判されているね。
無題Name名無し 20/03/13(金)14:02:11 No.505321
>日本の銃剣術は、剣道から派生した考えが大きいから、銃座をぶんまわして殴るという発想がないとか批判されているね。
昭和になってもそういう変化なし
現在の銃剣道にも先で突くだけ
以外にも歩兵でも徒手格闘もなくて柔道とかだった
同時期の米軍では銃剣格闘術や徒手格闘術になった
無題Name名無し 20/03/13(金)17:22:58 No.505322
>現在の銃剣道にも先で突くだけ
戦後GHQが一時禁止してた銃剣術が競技化するに当たって
採点競技としてのスタイルが確立したから変わりようがないんですわ
自衛隊でも体育訓練としての銃剣道は盛んだけど
戦技としての銃剣格闘術は銃剣道とは似て非なるもの
床尾打撃・横打撃・斬撃・足払い等があるのは銃剣格闘術
競技銃剣道で床尾でこめかみを殴ったら死人が出るでしょ
無題Name名無し 20/03/14(土)03:02:57 No.505340
https://may.2chan.net/39/src/1584122577557.jpg
装着した状態の弾倉で相手のこめかみ殴る技とかもあるけど小銃壊れそう
無題Name名無し 20/03/12(木)21:43:50 No.505307
1906年にIJA内で、教育総監西寛二郎大将を委員長とする「陸軍軍政調査委員」なるものが設置されているそうなんですが、その目的はIJA内の各部隊が提出する意見書を審議して、将来の軍政改良の為の参考とする為であったんでそうで
時期的にもある意味ほぼ日露戦争反省会というか、こないだの戦争でこんなコトがあったからこういう機材が欲しい、または今持ってる機材をこんな風に改良してくれ!という意見書が各兵科から寄せられたそうなんですが、例えば歩兵科では要望の第一に挙げられているのは「小銃の口径増大」であったんですとか
意見書によれば、30年式歩兵銃で6.5ミリ弾を採用したのは、当時例えばフランスなどで使用されていた8ミリ弾に比して、1000メートル以内での命中精度が優れていたからなんだそうで
無題Name名無し 20/03/12(木)21:45:16 No.505308
しかしながら、
「最近に於て欧州の一・二強国は其7ミリ9、或は8ミリ口径銃の弾形に改良を加えたるの結果、弾道性能及命中精度に著しき変化」
…を生じており、命中精度や有効射程が大幅に向上しており、仮に我が方が6.5ミリ弾の弾頭形状変更で対抗しようとしても、今度は遠距離射撃での殺傷能力に影響が出る恐れがある上、日露戦での経験からして、今後の歩兵の小銃戦闘ではますます遠距離射撃での命中精度が重要であることからも、
「6.5ミリ口径銃を保守するは頗る不利なり(略)口径の増大を要する」
…と結論付けておりましたり
少なくとも日露戦争直後のIJA歩兵部隊が次期主力ライフルに第一に求めたのは、遠距離射撃戦における威力と精度の向上だったということみたいですなあ
無題Name名無し 20/03/15(日)20:44:24 No.505407
先述の歩兵さんからの意見書には他にも、テストでは確かに小口径弾(6.5ミリ)が良い結果を示しているけれど、
「但し実際に於て側方偏避に関する大気の交感量多大にして且つ其状態不定なるの不利は之を掲示し得ざるを遺憾とす」
ですとか、
「我が30年式又は38式銃は其弾形を変更するも恐らく我が従来の蚤形弾に属する弾道性能及び命中精度に優越せしめ得ざる」
…など、シンプルな口径だけでなく、30年式/38式の銃弾形状・質量等から来る問題にも懸念が示されていて興味深いんですが、この辺は色々な研究結果や、銃弾が使われる戦場の様相次第で、また色々と要求は変わってくるんでしょうねえ
無題Name名無し 20/03/15(日)20:51:13 No.505409
因みにコレは余談なんですけれど、WW1の最中の1916年、IJA参謀本部が作成した「戦史及び戦術の研究」なるレポートによると、日露戦争中の「突撃成功の戦例」は「極めて少な」く、
「敵前4、500メートル(略)より一挙に実施したる突撃は悉く中途に於て失敗し、夜間敵前至近の距離に迫り、翌日我が砲撃の為敵兵萎縮し在る機会を利用したる場合のみ成功」
…した、とされているんだそうで
現実の陣地攻略戦闘では、歩兵小銃の威力や白兵戦というより、まず何よりも砲兵さんとの適切な協同こそが大切だった、ってことなんですかしらん
無題Name名無し 20/03/15(日)21:10:19 No.505410
>「敵前4、500メートル(略)より一挙に実施したる突撃は悉く中途に於
敵前で4,500mも全力疾走したらそりゃ兵隊もバテるし、戦列歩兵の時代ならともかく
機関銃の時代じゃ途中で撃たれまくって、そりゃ突撃失敗するよなとしか言いようが・・
無題Name名無し 20/03/15(日)21:16:14 No.505411
4せん5ひゃくメートルでなくて
4~500メートルでないかな
旅順とか更に斜面を駆け上がる形になるから、実質的距離はもっとありそう
無題Name名無し 20/03/16(月)02:07:58 No.505423
日露戦争ごろの「突撃」ってどんなだったんだろう?
軽機関銃はまだないし数名に分かれて障害物とかを利用して相互支援しつつ前進とかじゃなくて(密集の疎密はあったにしろ)一斉に早駆けだったのかな?
開けた土地を4~500mも進むのは敵の銃火があったらミニエー銃時代でも無理な気がする…
無題Name名無し 20/03/16(月)07:53:24 No.505425
昭和になるとさらに大声で万歳を叫びながらというさらに過酷な条件になるという
無題Name名無し 20/03/16(月)13:46:41 No.505427
>昭和になるとさらに大声で万歳を叫びながらというさらに過酷な条件になるという
被弾したとき「やられた」では士気が下がるので
吶喊は「萬歳」で統一しようという記事が日露戦争中の東京朝日新聞に載ってたな
無題Name名無し 20/03/16(月)21:19:13 No.505434
日露戦争後におフランスの砲兵少佐だったムーニエー=サンという方が、日露戦争の戦訓について論評している所に依ると、例えば鴨緑江の戦闘で日本側が圧勝したのは、「歩、砲両兵の連携完全なりしと、砲兵の援助有効なりしとに因る」ものであったそうです
ムーニエー=サンは続いて、今のフランスの操典では、歩兵が敵前500メートルまで達したら、砲兵は射撃中止するよう定めているけれども、日露戦争の戦訓を見る限り、小銃の性能が向上した現在、歩兵はこの残り500メートルを砲兵支援無しでは突破できない、従って今後は多少の誤射は覚悟の上で、ギリギリまで支援砲撃を継続するよう改めるべきだ…と述べているんですが、逆に言えば当時の欧州でも、日露戦前までは突撃開始距離500メートルというのは、「普通」の感覚だったんじゃあないでしょうか
無題Name名無し 20/03/16(月)21:19:57 No.505435
もっとも、ムーニエ=サンは、歩兵攻撃の奏効は
「最後の時機まで砲兵の援助を受けたる者に帰せり」
…と結論付ける一方、日露戦争では勝者の側の日本軍の戦死者が寧ろロシア軍を上回っている事を引いて、
「攻撃は勝利の秘訣にして之が為には多大の犠牲を供することを覚悟」
…しなくてはいけないとし、従って自国の兵士が
「残酷なる苦痛を忍ぶに至る」
…よう、教育する必要がある、とも述べているんだそうで
砲兵の支援なしでは歩兵攻撃は成功しないYO!という至極合理的な思考の持ち主が、攻撃では多大な犠牲者が出る?じゃあつまりどんなツライ目に合っても我慢できる兵士を育てれば勝てるってことじゃろ?
という「精神的」な要素を重視するというのは、今の私らからすればちょっと矛盾して見える気もしますが、当時の感覚としては両者は普通に並立し得るモノだった、ってことなんですかねえ
無題Name名無し 20/03/16(月)22:14:41 No.505437
>「最後の時機まで砲兵の援助を受けたる者に帰せり」
>勝者の側の日本軍の戦死者が寧ろロシア軍を上回っている
よって
>「残酷なる苦痛を忍ぶに至る」…よう、教育する
第一次世界大戦の消耗戦の思想ですねぇ…
無題Name名無し 20/03/17(火)07:32:03 No.505445
どんなに手を尽くしても必ず何割かの損害は出るものだから、それに怯まない教育が必要ってのは正しいんだよな
ただ、あくまで同時に味方の被害を最小に抑える為に、あらゆる手段が用意されている上でのことだけれど
無題Name名無し 20/03/17(火)20:53:00 No.505462
明治42年に改正されたIJAの歩兵操典では、それまでの「歩兵戦闘は火力を以て決戦するを常とす」とされていた内容が、「戦闘に最終の決を与えるのは銃剣突撃である」と変更された点で、白兵主義への後退である!なんて批判される場合があるんですが、一方では例えば敵陣前1千メートルまで接近できれば、「小銃射撃」で敵野砲を制圧し得る、なんて記述もあるそうです
ある意味、千メートル以内での命中精度に定評のある、サンパチ式歩兵銃の威力に信頼を置いているが故の戦法、って感じがしなくもないですな
また、「砲兵及び機関銃は歩兵に随伴して前進し、突撃点に火力を集中せよ」なんて文言は、逆に旧歩兵操典にはない項目で、ある意味では日露戦争の戦訓に基くというか、実際に敵陣地に突撃した経験がちゃんと反映してる内容ではあるんじゃないでしょうか
無題Name名無し 20/03/17(火)20:55:11 No.505463
また、戦後開発が要求された新兵器に、敵陣攻撃用の大口径機関砲なんてのがあったりするそうです
要は日露でIJAに多大な犠牲を強いた敵機関銃座、及びコチラの小銃弾を防ぐ防盾を装備した敵野砲を直射してブチ抜く為の、高威力の対地機関砲を作ろう!という話だったみたいなんですが、1907年ごろから「試製甲号37ミリ機関砲」や速射砲式の「乙号試製37ミリ砲」の開発が始まったものの、進捗はあまり思わしくなく、実用化には至らずに終っておりましたり
結局1916年ごろ、ようやく同コンセプトの兵器が「狙撃砲」として実用化されるんですが、シベリア出兵などでは狙い通り、敵銃座などの攻撃に大いに威力を発揮したんですとか
「火力重視」の伝統も決して廃れていなかったわけですけれど、現場の欲しい新兵器が行き渡るまでには、それなりに時間がかかるということなんですかねえ
無題Name名無し 20/03/17(火)21:51:14 No.505469
>一方では例えば敵陣前1千メートルまで接近できれば、「小銃射撃」で敵野砲を制圧し得る、なんて記述もあるそうです
大陸での戦いだとそれでよかったんだろうけど
南方のジャングルで1000メートル開けた箇所なんて殆ど無いだろうから
この点では想定外だったんだろうな………
無題Name名無し 20/03/18(水)11:19:17 No.505489
というか第一次世界大戦から野砲の威力と射程が大幅に向上する上に間接射撃法の技術も上がるからな
歩兵がライフルで砲兵潰すどころか、敵砲兵を味方の砲兵が制圧していない間は塹壕の中に引きこもるしかなくなるという
日本軍ももっとそういう体験していればよかったんだろうけど、満州事変以来ろくな砲兵のない中国軍ばっか相手にしてきたからなあ
無題Name名無し 20/03/18(水)12:47:13 No.505492
中国大陸で連戦連勝の部隊が南方戦線に行ったら、文字通りけた違いの米軍の火力になすすべもなかった…なんて話は戦記で良く読みますね
大戦後半は砲撃だけでなく、制空権も取られて昼間は空襲を恐れて動けなくなるとか、もはや38式小銃の性能がどうこうとかだけではどうしようもない状況に…
無題Name名無し 20/03/18(水)21:09:48 No.505501
歩兵砲って日本だと結局山砲を連隊が常備する形で落ち着いたけど、逆にそれまではなんでその形にしなかったんだろう?
明治時代から大隊でも行李を持ってたからある程度は馬は扱ってたわけだし、単純に数が足りなかったのか、補給や訓練・人事その他諸手続きの複雑化を嫌ったのか、そこまで必要性(歩兵に大砲が直協しないと敵の頭を下げさせとくことができない場面とか、少数の機関銃や歩兵の射撃で1000人が足止めされちゃう場面)が無かったのか…
無題Name名無し 20/03/18(水)21:24:07 No.505503
昭和19年5月、折しもインパール作戦の最中のビルマ戦線におられた、歩兵第124連隊所属の砥板藤喜さんという陸軍伍長の回想記にある話だそうなんですが、当時砥板さんは兵站部からの依頼により、前線への物資輸送隊の護衛に当っておられたそうです
物資の輸送は現地のビルマ人が操る牛車によったものの、当時既にビルマ上空の航空優勢は失われつつあり、1日に2~3回は必ずエゲレス空軍機に襲撃されるため、38式小銃位しかロクな武装のない輸送隊はその度逃げ回るしかなかったそうなんですが、コレに不満を抱いたのがビルマ人側のリーダーで、砥板さんは連日
「何度モ日本軍ノ物資輸送ヤテルケド、日本ノ兵隊サン逃ゲ隠レバカリ!ナンデ小銃デ反撃シナイカ!コワイノカ!?」
…と責められていたんだそうで
無題Name名無し 20/03/18(水)21:25:39 No.505504
そこでつい「意地になって」しまった砥板さん、よし、次に敵機が来たら俺が撃ってやるぞ!と啖呵を切ってしまったそうなんですが、内心「とんだ約束をし」たと悔やんでいた所に、折悪しくエゲレス空軍機が几帳面にやって来たんだそうで
そこでカクゴを決めた砥板さんが、チークの大木を盾に機銃掃射をかけて来る敵機を待受け、幹に機銃弾が突き刺さる中、ほんの一瞬敵機が横腹を見せたトコロで反射的に引き金を引くとコレが見事に命中、異様なエンジン音に変わった敵機は、そのまま地面に激突したんですとか
この顛末を木陰から見守っていたビルマ人さんたちの「喜びようは私たち日本兵以上」で、「欧米人に対する(略)怨念を垣間見る思いであった」
そうなんですが、おかげで砥板さんは、38式小銃のただ一発で、自身と、ついでに日本軍への現地人の株を、大いに上げることに成功したそうです…w
無題Name名無し 20/03/21(土)20:28:37 No.505580
38式って戦前にタイ・満州とかに輸出されてたのね
無題Name名無し 20/03/21(土)22:01:27 No.505585
イギリスやロシア、フィンランド等にも輸出してますね
メキシコ向けは作ったけどメキシコがお金払えなくなったのでロシアへ
無題Name名無し 20/03/22(日)16:01:40 No.505611
>メキシコ向けは作ったけどメキシコがお金払えなくなったのでロシアへ
数年前までドンパチしてた相手に輸出してその武器を使うって抵抗無かったんだろうか
そりゃ戦後自衛隊も同胞を撃ったかもしれないガーランドやボフォース機関砲使ってたけど
無題Name名無し 20/03/22(日)17:38:23 No.505614
ロシア革命の写真集でロシアの水平が30年式か38式構えてる写真があった(正面からだからどっちかはちょっとわかんなかった)
eBayでエストニアだかラトビアから戦争遺物の6.5㎜のアリサカ弾のクリップ買ったこともあるからロシアで結構使われたのかもの
なお代金は革命騒ぎで踏み倒されたんだとか…
無題Name名無し 20/03/29(日)09:27:17 No.505769
https://www.youtube.com/watch?v=beDlh_1tBHE引用元:https://may.2chan.net/39/res/505042.htm
38式を詳しく解説してる動画
すごく評価が高い
字幕で日本語あるからおすすめ
<管理人より>
最後の動画、解説が分かりやすくておすすめです。特に海外では評判の悪いダストカバーについてきちんと説明しているところが良いです。
三八式は動画作者さんのお気に入りの銃(ナンバー1)らしいです。
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コメント
1916年にできた37ミリ砲はフランスのプトー砲の実質コピーですね。
日露の頃の躍進距離は4千五百ではなく4もしくは5百メートルですね。
それで当時は、最初は疎開隊形で前進して最後は中隊単位でまとまって突撃です。交互躍進の本格的採用を見たのは一次大戦の仏軍のようですね。(その前提として軽機の配備が)なんですが、スレにも出てくる「列強兵学家の日露戦に基づく戦術上の意見」にはロシア軍が、日露戦争終盤に試験的に複数小隊による射撃と移動を連携させた交互躍進とおぼしきことを実行したらしき記述がかいま見えます。
半自動狙撃銃を少数の組み合わせが汎用的最適解だと思うんだが
実際の戦場はそうもいえないんだろうな
現代の戦場だと敵味方ともに着剣して格闘する状況はまずないだろうからなぁ
三八年式小銃の銃身長については、小口径の弾丸を十分に加速するためと、射撃時の反動を小さくするためにあの長さになったんであって、製造が始まった当時としては特別長い銃ではない。ただ、第一次大戦の塹壕戦に参加しなかったせいか、第一次大戦前に作られた小銃を実際に使ってみると長すぎるから短くすんべ!ないし、歩兵にも騎兵用のカービンを持たせとけという時流に乗れず、長いまま第二次世界大戦を迎えてしまったというだけ。
これよく聞くけど、確か陸軍はその後欧州に人を派遣して1次大戦の研究してた訳で、何で長すぎるという至極当たり前の感想を拾えなかったんだろうか。
兵士に聴けばすぐに分かりそうなものだけど。
二百三高地の撮影は三十年式のモデルガンが手に入らず、三八式を改造しているので、オヤジさんが正しい。
7です、そうなんだありがとうございます。
家の父親実銃扱っただけによく解ってたということなのか。
しかし、中学生に実銃扱わせて射撃まで教育したとか凄いよな。
これが銃の取り回しと白兵戦を両立させる一番良いアイデアに見える。
ていうか第二次世界大戦における日本の主力小銃は99式のはずなのに…
内地には戦後も使われるくらいには残ってたんだろうけど、逆に外地の部隊はずっと
38式だったりしたのかな
内地に99式が多数あったのは本土決戦に備えたのと99式が後発だったから。
外地でも末期のフィリピンなんか村田銃まで送られてきたみたいだ(戦史叢書が正しければ)
戦後、99式の開発者と後期型の設計者が言い争いになり、殴りあいの喧嘩にまで発展
したとか
この出来の悪い後期型99式を米軍の弾薬に合わせる改造をした99式はさらに
最悪で、99式の悪い評判はだいたいこの銃のせいで、元は決して悪い物じゃないのに
ひたすら運が悪かったと言う印象
約半分ぐらい更新したらしい。
後内地と外地というより一線級部隊か予備部隊かで配備量が違ったっぽい
99式短小銃 1118ミリ
38式 1276ミリ
m1ガーランド 1108ミリ
モシンナガン 1230ミリ
大体こんな感じっぽい
そういや一木支隊は99式装備でしたね。亀井氏のガダルカナルにあった。
※5だけど「長さにこだわった」というのは三八式開発時じゃなくて
九九式や64式開発時の話からのつもりだった。紛らわしかったようでごめん
WW1後における各国小銃の短縮軽量化トレンド自体は知ってただろうけど
三八式を短くする(四四式騎銃に更新?)よりは
九九式で弾薬もろもろ含めて一気に近代化する気だったと見るべきだろうかね
1930年採用の改良型で短くなってそのサイズ
元はもっと長い130センチ(これでさらに銃剣がつく…)
> 「攻撃は勝利の秘訣にして之が為には多大の犠牲を供することを覚悟」
第一次世界大戦前のフランス軍歩兵教典には「突撃は生命の輝き」みたいな事が書いてあったとどっかの雑誌で読んだような
(うろ覚えなんで、詳しい方の御教授願いたく(汗
第一次大戦直前の仏軍は「今後は攻撃以外の法則は之を排す」だったかな、その前に29さんの書いている個所があったような。1914年だかの仏軍作戦要務令だった記憶が。「第三共和政の興亡」に出てるし「歴史群像」にも出てたはず。
「突撃は生命の輝き」は「エラン・ヴィタール」のことですかね。訳すと「生命の躍進」もとは哲学用語でベルグソンという哲学者が言ったことですね。仏軍のフォッシュ将軍がなぜかベルグソンの哲学にかぶれて哲学用語を持ち出したという経緯。
おぉ、それです! ありがとうございます!
というか、「生命」しかあってないんじゃぐぐっても出てこないわけだorz
薬室を3006に切り直したら、破裂事故起こして
使用禁止になったんですよ。99式改悪2型か?
こんなもん、マイトの雷管胸ポケットに入れてるようなもんだとさ。
開発された弾薬では無くドイツの弾薬製造会社で
開発されたナンバー410番と言う弾薬です。
良く見る38式小銃の尖鋭弾は明治41年に
改良された41式弾頭と言われる物です。
3お年式は丸型弾頭ですが当時プレス技術が
発達していなかったからです。
フランスのレベル小銃の尖鋭弾頭はプレスではなく
旋盤で削られた物。
>27さんがモシンナガンで1891/30モデル
を話されていますが、30モデルは日露戦争以前の
銃を見た事が有ります。
モシンナガンドラグーンです1899年の刻印が有りました。
日本に有るモシンナガンの古銃は多くの刻印が1899年でした。
ドラグーンは1891/30と同じ長さで外見上の違いは
1891のスイベルリングがストックの先端上帯と弾倉の前に
スイベルリングが付いていますが、ドラグーンは直接ストックに
スリングが取り付けられる様になっています。
30タイプとの相違点はフロントサイト・リアサイト・
レシーバー(角型丸型の違い)
部品では弾倉止め・エジエクターが一体削り出しから
プレスになりました。後はチャンバー部分のストックに
反動受けが入っているくらいです。
1891の銃剣は1891/30には取り付けられないです。
38式小銃の一番の問題は部品の互換性がほぼ無い事です。
同じ時期、同じ工廠で造った部品でも銃に付けると
ガタガ出たり合わなかったり、着くに撃針を交換すると
引き金の二段引きが無くなったりする。
安全装置が掛からない・ボルトが銃に入らない・
弾倉低版止め(トリガーガード前)の部品がガタツクです。
エジェクターを交換すると排莢時に空薬莢の飛び方が
大きく変わる・今まで入っていたボルトが履いたなくなるです。
99式小銃で戦後アメリカ軍の弾薬3006に改造された99式小銃は
赤羽99ですが御紋章の後ろがわレシーバーを7~5ミリ削られていますが
レシーバー左前に06の刻印があります。
弾倉の箱を真中で切って約5ミリ伸ばして有ります。
昭和43年入隊の自衛官(善通寺部隊)の方は新隊員の時に
99式小銃で訓練をうけたと聞きました、その時に
弾薬はアメリカ軍の3006か聞きましたら後から
使った64式よりも長い弾薬で3006よりも短い
弾薬を使ったとの事でアメリカ軍のM1ライフル、64式よりも
良く命中したとの事で99式弾薬でした。
今まで見た日本軍の弾薬で南部14年式・99式・38式の
弾薬で雷管部分が銀メッキの雷管は戦後の自衛隊・海上保安庁に
納入された物です。
互換性はホトンド有りません。
互換性の有る部品は引き金止め軸(引き金逆鉤)をレシーバーに
止める軸・撃針バネ・抽筒子(エキストラクター)止め・
逆鉤バネくらいで後は、安全子と撃針をセットにしたら
99式と38式は互換性が有ります。
8時26分投稿 上から6行目
3お年式→ 30年式
8時26分投稿下から6行目
着くに撃針→ 特に撃針
薬室を3006に切り直したら、破裂事故起こして
使用禁止になったんですよ。99式改悪2型か?
と有りますが私が自衛隊の武器係OBの方他に
方面武器隊の友人に確認した所では
3006に改造された99式はホトンドが初期~
昭和18年までに製造された製品で言われる様に
99改(末期型)はホトンド無い状態でした。
また自衛隊から放出された切断銃剣も末期の物は
有りません。(末期型とは銃剣の竜頭及び竜尾)
が四角い板状の物)
また赤羽99式の多くは朝鮮戦争で韓国軍に
送られています。
自衛隊OBの方に聞きましたがM1ライフル弾用に
改造された99式は教育隊でしか見た事は無いと言っていました。
私も赤羽99式を操作しましたがカートリッジがレシーバーの
先端下に潜り込んで非常に扱い難い小銃でした。
チャージャー(挿弾子)クリップと言われますがこれは
間違い、クリップはM1ライフルの様にカートリッジごと
弾倉に入る物を言います。
送填後カートリッジだけが弾倉に入りボルトを前進
させると外にハジキ飛ばされる物がチャージャーですが
アメリカ軍の06弾わ支給される時にスプリングフイールドの
チャージャーで5発渡されるので99式に装填する時に
チャージャーがボルトの前まで入り込むので装填がとても
扱い難いと思いました。
日本軍の装弾子(チャージャー)を使用すると装填には
06弾も問題なく装填出来ました。
8時26分投稿 下から1行目
今まで入っていたボルトが履いたなくなるです→ボルトが入らなくなる。
日本兵はただでさえ偽装が上手く本銃を装備した狙撃手を探し出すのは非常に困難で特にガ島撤退時に捨て駒として配置された狙撃手数名が圧倒的多数の米軍を足留めし撤退までの時間を稼ぐという戦果をあげている
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