ソ連軍の秘密戦史04

MiG回廊


文:nona

1
https://fr.wikipedia.org/wiki/Op%C3%A9ration_Moolah#/media/Fichier:MiG-15_being_hit_over_Korea_c1953.jpg
1950年12月の戦闘でF-86に追跡をうけ、鴨緑江の北側への逃走を試みるMiG-15。

朝鮮戦争―米中対決の原形 (中公文庫)
神谷 不二
中央公論新社
売り上げランキング: 216,923
MiG-15の出撃

 1950年11月1日、国籍を隠したソ連空軍のMiG-15が、中朝国境を流れる鴨緑江の南岸に姿を現します。

 この日には米空軍機から目撃情報があがったものの、国連軍司令部はジェット機の越境を、中国側の国境防衛を目的とする示威的なものと判断。この時点では事態を深刻に見ておらず、F-86Aの派遣を要請したのは11月8日のことでした。

 同日にはMiG-15とF-80による空中戦があり、これは史上初のジェット機同士の空中戦とされます。

 この戦闘ではラッセル・J・ブラウン中尉のF-80がMiG-15を撃墜した、と米空軍は記録したものの、ソ連側はMiG-15は増槽を破壊されただけであり、低空飛行を続けながら基地に生還した、と記録しています。


B-29との闘い

 米空軍のB-29による攻撃は6月28日に開始されますが、国連軍の完全勝利が近いと思われたた10月27日には早くも極東航空軍爆撃兵団は解散していました。

 ところが、中国の参戦をうけて急きょ再編され、人民志願軍が渡ってくる鴨緑江一帯への攻撃に投入されました。

 11月9日には鴨緑江上空でMiG-15とRB-29の空中戦が発生し、B-29は尾部機銃でMiG-15を撃墜したものの(ソ連側記録は帰還を主張)、自身も損傷をうけ、ジョンソン飛行場(現在の入間基地)で大破、乗員5名が死亡します。

 さらに、翌日に別のB-29の撃墜が記録されています。

 他方、B-29は北朝鮮の各地に焼夷弾を投下し都市を無差別に爆撃していました。開戦当初はこの戦法を自制していたのですが、人民志願軍の現地調達と休養を妨害することで国連軍の危機を救えるとして、実施を許されたのです。

 これに対するMiG-15のエアカバーは不完全なもので、北朝鮮の多くの都市が焦土と化しました。

2
https://en.wikipedia.org/wiki/File:B-29-44-61813-shotdown.jpg
11月9日にジョンソン飛行場で大破したRB-29



F-86との戦い

 F-86とMiG-15の最初の戦いは1950年12月17日、鴨緑江の南岸で発生しました。

 この日、MiG-15の編隊は迂闊にもF-86よりも低い位置で会敵しており、うち1機がブルース・H・ヒントン中佐機に背後を奪われ撃墜されたようです。それでもMiG-15の撃墜に1500発以上の12.7mm弾を要したとされ、同機はその堅牢さ示します。

 その後数回の戦闘では、パイロットの練度で勝るF-86が優勢であり、米軍の記録では1機の喪失と引き換えに8機を撃墜、2機の不確実撃墜を記録しています。

 しかし、12月末を最後に、F-86の空中戦果は3か月間にわたって途切れました。

 当時F-86が展開していたソウル近郊の金浦基地に人民志願軍が迫っていたため、前線から撤退せざるを得なかったのです。その後も前線での維持管理の困難さからF-86の稼働率は低下し、部隊の一部を大邱に残し、日本に後退しています。


MiGアレイの恐怖と制約

 人民志願軍の南下に伴い、MiG-15の守備範囲はおおむね平壌と元山を結んだ線までの進出が可能になりました。ただし、スターリンはこの線が第三次世界大戦との境界であると認識し、前線でMiG-15が飛行することは許されませんでした。

 また、人民志願軍が解放した地域でも国連軍による飛行場への爆撃は尋常ではなく、北朝鮮側にMiG-15の基地を作ることはできませんでした

 人民志願軍はエアカバーを欠いたまま南下を続けざるをえず、空からの阻止攻撃によって勢いを削がれ、1月下旬の国連軍による逆襲で北に押し返されました。この時に韓国に残るF-86は戦闘爆撃機として使用されました。


MiG部隊の交代

 1951年3月、これまで戦闘を続けてきたソ連空軍第151師団に代わり、第303/324師団が前線に投入されました。

 両師団は第二次世界大戦中で活躍した多数のエースが集められ、前年の秋から満州にて猛訓練を積んでいました。

 師団長は大祖国戦争最多となる62機の撃墜戦果を誇るコゼドゥブ大佐(後に元帥)と、19機撃墜のロボフ少将(後に中将)が選ばれました。

 ロボフ少将は自ら部隊を率い4機を撃墜していますが、コゼドゥブ大佐は戦闘への参加を止められていたのか、朝鮮における撃墜記録はありません。

 両師団は合わせて4~5個連隊を有しており、計算上は160~200機の作戦機を保有しました。ただし、1951年ごろの実働数は56機前後にとどまったようです。

 対する米空軍では3月にF-86Aが韓国へ再配備されていますが、1951年10月末までの配備機は多くとも44機に留まり、前線における維持管理の難しさから、半数の機体が飛行状態にあれば「整備の奇跡」と言われました。

 加えて、MiG-15に対するアドバンテージであるレーダー連動型のA-1CM照準器の信頼性も問題とされ、第51迎撃戦闘航空団司令のフランシス・ガブレスキー大佐は「風防にチューインガムでも張り付けおいたほうがマシだ」と語っていたそうです。


MiG-15の戦法

3
https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196115/mikoyan-gurevich-mig-15bis/
鹵獲されたMiG-15の計器。マッハ計は0.95までしか刻まれていない。

 第303/324師団のパイロット達はMiG-15の性能を生かした戦いを繰り広げます。同機はF-86Aに対し推力重量比や高高度での飛行性能、機関砲の火力で勝っており、特に最大高度15500mからの降下攻撃と、直後の急上昇による高高度への離脱はF-86Aも追従できませんでした。

 ただし、MiG-15には高速飛行時に飛行が不安低になる欠陥があり、当初使用されたMiG-15ではマッハ0.88、1951年後半に配備されるMiG-15Bisでもマッハ0.92の速度制限が存在しました。

 速度制限を超過した場合は自動でエアブレーキが展開しますが、減速が追い付かない場合はスピンに陥る可能性がありました。この問題は国連軍のパイロットも認識していたようです。

 ところで、当初のMiG-15部隊は、4又は8機の編隊を組んでいましたが、後に6機編隊が主流となったようです。

 朝鮮戦争においては、2機が攻撃を仕掛け、2機が援護に回り、残る2機は状況に応じ遊撃行動をとっていたようです。これは柔軟性の高い編制だったようですが、F-86に対し数に勝るMiG-15ならではの戦法ではないか、とも思います。


参考
ジェット空中戦(木俣慈朗 ISBN4-89409-041-4 1992年7月10日)
世界の傑作機 No.97 MiG-15 ファゴット MiG-17 フレスコ(湯沢豊編 ISBN978-4-89319-097-0 2003年1月15日)
クリムゾンスカイ(J.R.ブルーニング 著 手島尚 訳 ISBN4-7698-2331-2 2001年12月15日)
オスプレイ軍用機シリーズ38 朝鮮戦争航空戦のエース(ロバート.F.ドア著 藤田俊夫訳 ISBN4-499-22817-4 2003年10月10日)
ジェット空中戦―朝鮮戦争からフォークランド紛争まで (光人社NF文庫)
木俣 滋郎
潮書房光人新社
売り上げランキング: 848,934