ソ連軍の秘密戦史03

ソ連空軍の朝鮮戦争


文:nona

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196118/north-american-f-86a-sabre/
デイトン空軍国立博物館に展示されるF-86AとMiG-15bis。

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金日成の野望とスターリンの変心

 1949年3 月3日、朝鮮民主主義人民共和国の指導者である金日成は、スターリン書記長との会談で朝鮮半島の武力統一を提案しました。

 当時の韓国内では李承晩政権に対するフラストレーションがたまっており、この機に人民軍が南下し、浸透させたゲリラ部隊が革命をあおることで統一は成功する、というのです。

 スターリンは「絶対的な軍事的優位を確保するまでは、冒険的な攻撃は行うべきではない」と、自制を促すものの、あくまで自衛的なものとして軍事援助を約束。

 T-34戦車、SU-76自走砲、122m野砲、La/Yal/戦闘機とIL-2/10襲撃機が人民軍に配備されました。

 一方の韓国でも李承晩大統領が「北進統一」を掲げます。これは自国民の怒りの矛先を逸らす目的があったと言われますが、米国は李承晩の暴走を恐れ、韓国への兵器供与を止めてしまいます。

 また、1950年1月に米国のアチソン国務長官が、自国の不後退防衛線を日本であると語り朝鮮戦争について言及しませんでした。こうした米国の姿勢は共産勢力の増長を招いた、と言われます。

 程なくしてスターリンも金日成の主張に同意。1950年4月下旬、スターリンは「毛沢東の同意」を条件に、金日成の計画を承認しました。


開戦

 1950年6月25日の未明、朝鮮人民軍は韓国への侵攻を開始しました。

 作戦計画はヴァシリエフ中将らソ連の軍事顧問団が立案したもので、ソウル市への両翼包囲はスターリングラードにおけるウラン作戦の再現であった、といいます。

 この時期にスターリンは「攻撃を続けよ。南朝鮮が早く解放されれば、外国は介入できなくなる。」と督戦の電報を金日成に送っていますが、表向きは米国との関係に配慮し、ソ連政府は北朝鮮との無関係を主張しました。

 米国の提案した国連軍の派遣についても、中国の常任理事国問題をめぐって安保理をボイコットしていたため、これを黙認しています。

 米国の介入に関してはソ連にとって不可抗力であったと考えるべきなのか、あるいは今後の世界情勢に鑑み、スターリンが意図的に米軍を朝鮮に引き込んだと見るべきなのか、諸説あるようです。

 いずれにしても金日成は米軍の介入を想定しておらず、最後に残った釜山を攻めあぐね、1950年9月15日の仁川上陸作戦成功により、人民軍は総崩れとなりました。

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https://en.wikipedia.org/wiki/File:Wrecked_North_Korean_tank_on_bridge_south_of_Suwon_HD-SN-99-03158.JPEG
韓国の水原にて橋ごと爆撃され行動不能となったT-34。人民軍の戦車は戦争の初期に壊滅した。


 人民軍が潰走を始めると、国連軍は南側による南北統一を成そうと38度線を越境。つい数日前まで朝鮮の統一を目前にしていた北朝鮮は、一転して国家存亡の危機に陥りました。

 金日成はスターリンと毛沢東に助けを求めたものの、両者は核を持つ米国との本格戦争を恐れ、援軍の派遣を躊躇します。

 ところが、スターリンは毛沢東に対して「戦争に巻き込まれることを恐れるべきではない。戦争が不可避なら、むしろ今起こせばいいのだ。さもなければ、数年後には、日本がアメリカの同盟国として再び軍事力を持ち、中国大陸への足場を築くだろう。」と不安を煽り、中国による援軍の派遣を決心させています。

 彼らは国連軍に平壌が占領される前日の晩、10月19日に中朝国境の鴨緑江を秘密裏に渡河。11月に始まる大攻勢で国連軍を38度線の南側へ押し戻しました。

 この軍勢の実態は中国人民解放軍でしたが、米国への刺激をさけるため自らが義勇兵の集団であるとし、「人民志願軍」を名乗りました。


ソ連空軍の極秘派遣

 地上軍の派遣はためらったスターリンではありますが、中国にはソ連空軍と高射砲、通信、電波探知、兵站などの支援部隊を派遣しており、彼らに中朝国境の防空を命じました。

 当時の満州にはソ連空軍の第64戦闘航空軍があり、隷下にMiG-15(一部はLa-11)を有する5個程度の戦闘航空師団があったようですが、うち2個の師団は訓練中、別の2個も中朝のパイロット育成にあてられ、当初参戦したのは第151師団でした。

 ソ連の戦闘機師団は通常3個の連隊(ボルク)を有し、連隊は36機+指揮官および連絡用の戦闘機が配備されます。ただし、満州に派遣された師団の多くは2個連隊だったので、第151師団の戦力も80機程度と推測できます。

 ちなみにソ連の戦闘機部隊では12機でエスカドリーリア(飛行隊)、4機でズヴェノー (小隊)、2機でパーラ(分隊)の単位が使用されましたが、中国軍の場合は50機で1個師(師団)、25機で1個団、8機で大隊、4機で中隊という単位が使用されており、各軍ごとの個性がうかがえます。


Remember – no Russian.

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https://en.wikipedia.org/wiki/File:USAF_MiG-15.jpg
MiG-15戦闘機。写真の機体はパイロットの亡命によりアメリカに渡ったもの。


 中国に派遣されたソ連人パイロットは「ロシア系の中国人」という体裁をとり、人民軍の制服を与えられ、身元は秘匿されました。

 当然、ロシア語による無線交信も禁止されますが、付け焼刃の中国語が実戦に使えるはずがなく、現場の部隊は禁止令を無視し、ほどなくして空軍も追認しています。

 国連軍はVHF無線の傍受により、ほどなくしてソ連軍の影を疑うのですが、あえて指摘することはなかったようです。(マッカーサー司令は別として)米本国はソ連との戦争が全面核戦争を招く、と恐れていました。

 ソ連空軍は現場におけるロシア語の使用をあっさり認めたものの、パイロットを捕虜に取られることには最後まで神経質になっており、共産軍の支配地域外、および国連軍が制海権を握る海上での飛行は厳しく禁じました。

 もし捕虜が現れた場合、ソ連政府はパイロットが自由意志で志願している、と自国の無関係を主張するつもりでしたが、現地の部隊に派遣された政治将校は、「捕虜になればすべてを失う」とパイロットを警告しています。これは本国の家族が報復を受ける、という意味を含んでいました。

 実際にソ連人パイロットは一人も捕虜にならなかったのですが、こうした制約は敵機撃墜の機会を逸する原因となり、戦果拡張のうえで大きな障害となっています。


参考
NHKオンライン 朝鮮戦争不信と恐怖はなぜ生まれたのか?
(2019年3月1日 NHK  NスペPlus)
朝鮮戦争をめぐる中朝関係の歴史的経緯と現代への含意
(赤木完爾 2017年12月5日)

ソ連軍事力の徹底研究 最新情報(藤井治夫 ISBN4-7698-0357-5 1987年9月15日)
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山崎正弘戦史ノート Vol.8 北朝鮮建国史(山崎正弘 2014年1月19日)
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