無題Name名無し19/12/31(火)02:21:16 No.502230
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真相はいかに?
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無題Name名無し 19/12/31(火)07:39:30 No.502235
スレ画像で触れられている「造船艦の記録」の中の明石乗り組みの小倉竜朗技術少佐の回想記では、
「給糧艦伊良湖が入港すると艦隊からランチが蝟集し、生菓子、アイスクリーム、豆腐などの懐かしい味を持ち帰りました。生菓子といっても酒保にある干菓子に対して生菓子というわけで、菓子パン程度のものです」
「洗濯板と異名をとった駄菓子のようなものや、小倉あんを固めただけの羊羹などが人気がありました」
…となっていますので、少なくとも「明石」がトラックにいた昭和18~19年位に、「間宮」だけでなく「伊良湖」でも、羊羹とは別物としての「洗濯板」と呼ばれるお菓子が作られていたってことになるみたいですねえ
無題Name名無し 19/12/31(火)07:41:38 No.502236
ただ、昔の歴史群像で「間宮」の記事を書かれた斎藤義朗氏などは、例えば元「間宮」乗組員の脇原徳夫さんの
「間宮のようかん、別名洗たく板と呼ばれて愛されたようかん」
…などという発言を引いて、「洗濯板」はやはり羊羹であったか、若しくは時期によりその名で呼ばれる対象が変化していたのでは?と推測されておられましたり
因みに同記事によると、昭和13年の「間宮」では、羊羹1000本、最中1万2000個、アイスクリーム2000個の他、「パン菓子」1万5000個を製造しているそうです
また昭和10年にはフルーツバー(ロックケーキ)と称する洋菓子を5000個ほど艦内で焼き上げていたりもするんだそうで、乗艦していた職人さん達の創意工夫次第で色々なお菓子が製造されていた可能性を考えると、やはり羊羹でない「洗濯板」は、存在したんではないですかしら…w
無題Name名無し 19/12/31(火)08:11:22 No.502237
つまり羊羹=洗濯板だった時期と羊羹≠洗濯板だった時期があると?
喰い物の話になると昔の軍板らしくなってくるな
無題Name名無し 19/12/31(火)09:38:23 No.502238
あくまでイメージ上の話ですが今も昔も洗濯板は木製の板状が連想されると思います
そう考えると棒状?の羊羹を思い浮かべるのは難しい気もするのですが
カット前?の大きな状態を洗濯板と言っていたのか?
前述の通りイメージから予想してみると茶色(木の色)に近く
板状のお菓子…焼き菓子等が近いのではないかなぁっと思っています
無題Name名無し 19/12/31(火)14:23:31 No.502250
単に切るのはそっちの船でやってねって渡されると大きな羊羹が食べられて嬉しいなあみたいな話では
無題Name名無し 19/12/31(火)19:30:20 No.502265
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人の記憶にはどうしても混同や間違いも生じますので、例え当事者の手記の内容ですら必ずしも正しくない可能性がある、というのがまた悩ましいトコロだったりしますよね
かといって、同じ時期に同じ対象について的確な記録を複数の人物が残している、なんてのはまたレアだったりするわけですから、どうしても追求しきれないところがでてしまうのは、ある程度は仕方がないのですかも
因みにこれは余談で、昭和20年5月24日に沖縄の米軍飛行場に突入した義烈空挺隊隊員だった熊倉順策さんという方の回想にある話なんですが、氏の便乗した97重爆は沖縄への途上でエンジントラブルに見舞われ、操縦者から「海没を覚悟してくれ」なんて言われたそうなんですが、
「ふしぎに死ぬという実感は湧かないが、前から(死ぬときは葬式饅頭でも食って一緒に死のうぜ)と冗談を言い合っていた。ふと、私はそれを思い出したので、雑のうから饅頭をとり出すと、頭の上にささげて一同に示した」
無題Name名無し 19/12/31(火)19:31:53 No.502266
「(※機内では)防音装置などはなかったから、大声で叫んでも、隣にでもいない限り聞こえない。饅頭をささげて食うまねをし、手で海へとび込む形をした。つまり、(どうせ死ぬんだから、一緒に饅頭でも食って海没しようや)という意味をしめしたつもりです。すると、それがみんなにも通じたか、『諒解、諒解』と、みんな饅頭を出して食いだした」
…なんて事があったんだそうで
幸い機はその後なんとか熊本の飛行場に滑り込み、熊倉氏らは九死に一生を得、前述の回相談を残されることになったわけなんですが、この話を聞き取った作家さんは
「熊倉氏の談話には『饅頭を食った』とあるが、当時隊員が携行した糧食に饅頭はない」
「携行した食糧は、午後4時に基地で一般夕食をとって後、7時に機上で食するものとして、海苔巻寿し(手巻2個)稲荷寿し(普通大10個)力餅(2名分)生卵(2個)梅干および大根漬(若干)とある」
無題Name名無し 19/12/31(火)19:33:50 No.502267
「また機上および作戦中に用いる羊羹(1個)キャラメル(1個)生果実(水分多きモノ1個)、作戦中の食料欠乏時の用心に救急食(3個)固型塩(10個)、他に『熱地戦力源』『撃滅錠』などと称する活力増進剤と番茶、紅茶、飲料水などを各人が携行した」
「この中に力餅(2名分。これは別包みとす)というのがある。饅頭は熊倉少尉の記憶違いで、この力餅ではなかったかと思えるのだ」
…と推測されております
何にせよ、当時の陸海軍軍人さん達にとってごくありふれた食べ物であっても、数十年後の私らは、限られた文献の描写からその姿を推測するしかない…なんて話は結構あるわけですけれど、その正体についてアレコレ想像を逞しくするのも、それはそれで楽しくはありますですね…w
無題Name名無し 19/12/31(火)20:21:07 No.502268
空挺部隊のレーションにお餅、って言うのがいかにも日本軍というか日本人らしい話やね
まあ、そもそもお餅自体、糧食に採用している国は他になさそうだけど・・・
無題Name名無し 19/12/31(火)20:32:22 No.502270
>「この中に力餅(2名分。これは別包みとす)というのがある。饅頭は熊倉少尉の記憶違いで、この力餅ではなかったかと思えるのだ」
饅頭では無く"饅頭(意訳)"だったという説
無題Name名無し 19/12/31(火)21:07:08 No.502273
昔の[丸]に洗濯板という菓子という一文が
あった気がする。
無題Name名無し 19/12/31(火)21:33:19 No.502275
この時代だと八幡製鉄所の労働者の為に堅焼きとかが生まれた頃だし、 洗濯板という感じからパイ生地みたいな パン菓子かもね。と妄想。
無題Name名無し 19/12/31(火)21:57:45 No.502276
>餅
前述熊倉氏の部隊は、もともと昭和19年12月にはサイパン島のB-29基地奇襲に投入される予定で、訓練と準備を進めていたそうなんですが、
「12月8日(略)いよいよ明日決行という前夜、参謀本部から思いがけない御馳走が届いた。それは4、5日前に『みんな、なにか望むものはないか』といわれた。その時、我々隊員の一人が『もう一月たらずでお正月だ。正月の餅だけは食って死にたいと思っていたが、それのできないのだけが残念だ』といった」
「その時はなんの話もなかったのだが(略)つきたての餅と、おせち料理が届いたのです。参謀本部といえども物に不自由していたあの当時、よくもできたと思えるような御馳走で、腹ふくらました我々は、本土ですごす最後の一夜をぐっすりと眠った」
…なんてこともあったそうです(この作戦自体は翌日直前で中止)
無題Name名無し 19/12/31(火)22:04:11 No.502277
また、ドイツへの連絡航海に出て、昭和19年の元旦をインド南端から真南に2千マイルの洋上で迎えることになった、伊号第29潜水艦に便乗していたIJN技術士官の田丸直吉さんの手記によると
「(※昭和18年)12月30日に(略)ドイツの補給船(※『ボゴタ』号)から燃料の補給を受けることになった(略)給油作業の間にボゴタのボートが両船の間を往復して、多量の生糧品を届けてくれた」
「新鮮な野菜や大きな鮮魚を多量に受け取ることができた(略)有難い話である」
「それだけではない。この次の会合の時には母国への便りをお預かりしてもよいから準備しておいて欲しいと言ってきた。この予期せぬ好意に、乗組員一同は喜んで、思い思いの便りを準備することになった。海に生きる男同士の裸の友情とでもいうべきか」
「翌31日(略 明くる元旦の初日の出を楽しみに、夜食の年越しうどんを味わった」
無題Name名無し 19/12/31(火)22:09:03 No.502278
「元旦の艦内食(略)豪勢なようであるが、材料はほとんど全部、缶詰あるいは乾燥品で、ボゴタからの配給品がわずかに色を添えた」
「朝の御屠蘇代わりに賀茂鶴の冷酒が配られて新年を祝った。本当に久しぶりのこの懐かしい賀茂鶴の香りが五臓六腑に沁み渡り、恍惚の境にさまようような気がした」
「雑煮の餅は軍需部支給の缶詰入りのもので、直径25センチ厚み8センチ程の、かなり大きなものであった。乗組員の中にはなかなか器用な人物がいて、中味を丁寧に削り上げて立派なお供えを作り上げ、それらしい輪飾りを載せて、士官室や兵員室に飾ってくれた。これでいくらか新春らしいムードを出すことができた」
「1月3日(略)10時よりボゴタに接近(略)再び送られてきた生糧品と交替に、乗組員が心をこめて書きあげた故郷への便りの束が運ばれた」
無題Name名無し 19/12/31(火)22:10:59 No.502279
「ボゴタからの温かい配慮に、こちらからも何か心持ちを表す返礼ができないものか、しかし、どう考えても適当なものがないので、例の士官室に飾ってある立派なお供え餅を届ける事にした。
『これは日本のお正月のお祝いの飾りもので、非常にめでたいものである。ささやかなお礼の印に差し上げる。ご幸運を祈る』
という意味のことを、鮫島教授が黒板にドイツ語で書いた。先方ではしばらく双眼鏡で読み取っていたが、分かったと見えて頻りに手をふるのが見えた。お供えは手紙の束と一緒にボゴタに届けられた。
『Danke schön(有難う)!』
『Auf Wiedershen(さようなら)!』
たがいに黒板に大書して別れを告げた。ボゴタは東へ、私どもは西へ」
…んですとか
日本帝国陸海軍の行く所「お餅」あり!というわけみたいなんですが、伊29潜から鏡餅を受取ったドイツ補給船の方々、その後ちゃんと「カガミビラキ」できたんでしょうか…w
無題Name名無し 20/01/01(水)00:57:43 No.502287
日本ニュースにも餅ついてる部隊のニュースがあったな
探すのめんどくさいから貼れないけど
無題Name名無し 20/01/01(水)03:49:09 No.502298
餅はすぐにカビちゃいそう
無題Name名無し 20/01/01(水)18:36:17 No.502317
>餅はすぐにカビちゃいそう
駆逐艦「夏潮」乗組員だった大西喬さんの手記にあるエピソードなんですけれども、
「昭和17年の正月には、ミンダナオ島のマララグ湾に、南方艦隊が集結して遙拝式が行なわれた。『夏潮』は、水雷戦隊の旗艦『神通』から、餅搗きの要具を借りてきた」
「烹炊所の近くに臼をおき、餅搗きがはじまったが、肝心の餅取り粉がない。しかたなく、メリケン粉で代用することになった。ところが、意見が二つに分かれ、『そんなもので餅を取ったらお前…』という者と、『大丈夫だよ』という意見が出た」
「見物人は気らくなもので、勝手なおしゃべりをやっていたが、烹炊所にすれば取り粉がないのだから、メリケン粉を使用しないことには、どうしようもない」
無題Name名無し 20/01/01(水)18:41:21 No.502318
「搗きあがった餅を、メリケン粉で小餅に取りはじめたところ、さあ大変なことになってきた。メリケン粉は水分を吸収して、早くもベタベタに溶けだしたのである」
「搗きあがったものから小餅にして、艦橋の後方にある涼み台に並べられた。なにしろ暑い南洋のこと、メリケン粉もわざわいしてか、みるみるうちに形がくずれていった」
「涼み台は餅に占領されてしまったが、餅は時間をへてもかたまらず、おまけに腐敗するのも早く、雑煮らしいもので祝ったのは一度だけであった。残念ながら、残りは全部、海中に捨てるという始末であった」
「それでもマストには、松の代用に椰子の葉をかざり、正月らしい気分をあじあうことができた」
…そうです
メリケン粉の代用餅は残念ながら実用に耐え得るモノでなかったようなんですが、当時のIJNでは少なくとも軽巡洋艦以上では、餅つき用の杵と臼が標準装備だったと言うことなのですかしら…
無題Name名無し 20/01/02(木)06:51:35 No.502339
考えてみればお米の旨みを凝縮した食品がモチなわけですから、「餅を食ってから死にたい」
なんてのは日本の兵隊さんにしたら当然の感覚だったのかもしれないですね
でもモチ米じゃなくて小麦粉を丸めたなら、ただの饅頭にしかなりませんよね…
無題Name名無し 20/01/02(木)19:29:10 No.502360
>乗組員の中にはなかなか器用な人物がいて
これどんなに小さい規模の隊でも突然現れる謎の器用さと機転が効く奴湧いてくるよな
無題Name名無し 20/01/02(木)10:01:03 No.502340
戦地で糧食の餅を喉に詰まらせて死んじゃったら、戦死扱いにしてもらえるのかな
(遠くから聞こえる救急車のサイレンに耳をすませながら)
無題Name名無し 20/01/02(木)17:17:00 No.502347
御子息は遠い南方で従軍中突如敵に襲われ
命の危機に際しただひとり勇敢に奮闘されましたが
部隊の応急処置も敵わず
あえなく敵の猛攻に倒れ戦死なされました
無題Name名無し 20/01/02(木)19:59:42 No.502362
昭和17年の元旦を、米本土砲撃に向かう洋上で迎えた伊17潜水艦乗組員だった原源次さんの日記には
「発令所の神棚に合掌し、発射管の上に祀られた御符にも手を合わせた。朝食は1人4切れ宛の雑煮で、『餅まで缶詰とは、驚きの極みだ』などと言いながら、餅が食えたことを喜び合った」
「祝日は終わった。横たわったベッドの暗さの中で、心気が冴え返り、家でも餅をついたろうか──と、父が広東(現広州)に在住していることから、心がかりに思いをはせた」
…なんてありまして、前線で支給されるオモチが故郷を忍ぶ縁になっていた様が伝わってくるものでありましたり
無題Name名無し 20/01/02(木)20:07:07 No.502363
また、昭和18年末、当時ラバウル基地に展開していた陸攻部隊の搭乗員だった蔵増実佳さんの手記にある話なんですが
「昭和18年の最後の日をむかえた(略)午後、マーカス岬の陸軍に、糧食を投下してこい、との命令(略)今夜の糧食は、お餅のようだ」
「トラックで搬入された小形の荷物が、4機の爆弾投下器にそれぞれ12個ずつ、48個が搭載された」
「白昼の投下は、戦闘機の護衛がいるので、夜間に投下することになった(略)今夜は3個、正三角形に(※目印の篝火を)点灯するとの約束をとりつけた」
「午後4時、夜間組の4機が、爆弾ならぬお餅を、味方の最前線に配達するために、飛び立った。今晩だけは、雨をさけてやりたい。濡れては、商品価値が落ちるかもしれない」
無題Name名無し 20/01/02(木)20:08:33 No.502364
「先発のわが小隊が、マーカス東方の約束の地点に到達したとき、なんと地上の篝火は10ヵ所にもなっていて、陸軍さんの切なる要求がわかるような気がした。篝火の一帯では、大晦日のプレゼントを、待ちわびているであろう」
「篝火の中心地帯に編隊で投下し、帰途についた。つい目と鼻の先のマーカスの敵には、残念ながら今夜だけは、なにも進呈するものがない。夜8時半に帰着した」
「宿舎のうす暗いランプのもとに、配達に飛んだ(略)4人が集まって、年越しそばならぬ、夜食のうどんを食べた」
…そうです
単に美味しいだけでなく、家族や故郷とのつながりを思い起こさせてくれるお餅だからこそ、絶対にロストしてなるものか!という気持が、無数の篝火の裏にあったりしたんでしょうか…w
無題Name名無し 20/01/03(金)04:41:38 No.502376
アメリカ軍でもクリスマスケーキと七面鳥の特別配給にすごい労力かけてたらしいね
用意する主計兵は大変そうだけど、喜ばれるのが分かっているなら気合入るんだろな
無題Name名無し 20/01/03(金)08:00:35 No.502377
https://may.2chan.net/39/src/1578006035177.jpg
おそらく以前にも出ているだろうと思われるので恐縮ながら
「正月料理といつても戦場では何も出来ない。それで、やはり糧秣廠でつくりた小判形の大きい缶詰につめられて、小さいけれどもびんと尾頭を張つた鯛の焼ものや艶やかな黒豆や、うこん色の金とん、それに数の子、昆布巻、田作が一通り揃つてゐる。これが一箇づゝ渡つた時の兵隊達の喜びやうは、大へんなものである」第二二一号(昭一六・一・一)野戦のお正月料理 陸軍糧秣本廠 より抜粋
無題Name名無し 20/01/04(土)10:57:51 No.502418
この画像pixivの方のコメント欄に身内が間宮の主計科に居たって人が長年の謎にあっさり正解らしき書き込みしてて呆気にとられた記憶
https://www.pixiv.net/artworks/59569222
>薄く広く焼いたワッフルの生地?どら焼きの生地?に、
>餡子を薄く塗った物を巻いた和風あんこロールケーキみたいな物だったそうです。
>さらに巻きが解けない様に型箱に挿みがら冷ますのですが、その型箱の内側に凹凸が有り、
>型箱出した姿が洗濯板風の凹凸が付いて分厚い板状になって出来上るので通称が洗濯板と呼ばれた様です。
無題Name名無し 20/01/04(土)11:46:32 No.502422
>No.502418
>自分も叔父も甘党だったから自然と食い物とお菓子の話ばっかしてた
…なんてあって笑っちゃったんですが、おかげで「正解」を知ることができるのは有難いことですね…w
大東亜戦争初期、フィリピンで戦ったIJA飛行第8戦隊(99双軽)に勤務する21歳の主計中尉だった佃藤吾さんの回想記によると、やはり思い出の中心は戦隊のごはんに関わる諸々で
「わが戦隊が緒戦に爆撃したツゲカラオ飛行場(略)に進出したのは、12月の16、7日頃だったと思う。先発の99双軽に、つめるだけの箱詰の酒、裸ビンのままの酒を積んで、私としては始めての戦地に着陸した(略)着陸滑走中はひどいデコボコ田舎道を行く感じで、積んだ裸の酒ビンが割れはしないかとヒヤヒヤした」
「飛大(※飛行場大隊)も兵力不足か、泊る、食うの世話までは出来ないという(略)現地にも米がない。ただ、小麦粉と砂糖はいくらでもある(略)今夜一晩は、各自携行の諸々と、チョロチョロする鶏を現地調達して我慢して貰うこととして、明日からの対策を真剣に考えなければならなかった」
無題Name名無し 20/01/04(土)11:47:26 No.502423
「街を廻るとパン屋が数軒ある(略)如何せんパンの職人がいない(略)そこでチョッとひらめいたのが、(※台湾の)屏東時代、酒保に出入りしていたパン屋の職人、周某のことだ。早速戦隊本部のT少佐に相談し、翌朝ただちに同少佐操縦の重爆で屏東に帰り、パン屋の主人を口説き、人事的な手続も後廻しで即日ツゲカラオへ連れて行った」
「気のきいた兵隊3名を周君の下につけて、佃屋パン工場?は操業開始。原材料には不自由しないし、能率も上々で、各種パンを続々生産した」
「終には、過剰気味で、他の部隊にも頒けてやる始末。油もふんだんにあったので、特にアゲパンに砂糖をまぶしたのは、大好評だった」
「パンは成功したが、何としても野菜がない(略)野菜なしの日が三日位続いた」
「野菜も重爆で屏東から運ぶことにした。その中に、林檎が少しあった。内地から台湾へ運ばれたものであるから、そう新鮮なものではなかった。これが思わぬところで役に立った」
無題Name名無し 20/01/04(土)11:49:43 No.502424
「街には、所謂枢軸ラインの外国人は残っていた。これらの連中に、クリスマスに林檎を配ったところ、全く随喜の涙と形容する程の喜び方で、途方もなく感謝された。この後彼等の協力ぶりは全く一変した。林檎1個の持つ威力、まざまざと見せつけられた」
「やがて正月も間近いので、又屏東に帰り、国防婦人会に御出馬願って、つき上げた餅が2000個。マニラ攻撃で意気昂る戦隊諸子に対する正月の何よりの贈りものであった」
「又アパリにいる飛大にも餅をお裾分けしようと(略)ドイツ人から借りていたフォード(略)乗用車のトランク1杯に餅を積んで、単身ツゲカラオからアパリまで、約100粁を突走った。今考えれば、全くの無謀さだった」
…なんて奮闘ぶりだったそうです
まさに主計兵さんは部隊のおふくろさんというか、戦闘部隊の将兵さんに少しでも美味しいものを届けるために、陸海問わず色々と現地での独自の工夫や努力が重ねられていたんでしょうねえ
無題Name名無し 20/01/04(土)22:16:56 No.502438
やっぱり揚げパンは人気者なんだな..
無題Name名無し 20/01/05(日)03:22:07 No.502448
羊羹なんかも兵隊にはとらやの上品なものより、間宮の砂糖たっぷりのものが
受けがよかったって言うしね
分かりやすいというかしっかり濃い甘味が喜ばれたんだろな
無題Name名無し 20/01/05(日)17:26:53 No.502469
戦中ビルマのラシオに駐屯していた、第9飛行場中隊の主計官だった今井新兵衛さんの回想記に依れば
「炊事ではみんなが休みの時ほど忙しい。勤務は休めても、食べる方は休めない。その上日曜日は勿論、祭日等には増食や加給品の調理分配で一層忙しい。幾ら忙しくても、休みがなくても、兵隊が愉しんで食事をしている姿を眺めて満足している」
「愈々正月が来る。戦地にいてもお正月だけは内地の気分を味わいたい。せめて餅だけでも将兵の皆に食べさせたいと思うのは、私が主計だからと云うだけではない」
「幸いなことに、航空隊は内地からの空輸で、意外にぜいたくなおせち料理に舌鼓が打てた。餅米はあるが臼がない。これでは折角の内地の追送品も餅なしでは何にもならない」
「何とかして餅を搗かねばと炊事班長に『村の市場に餅をみかけるからには臼がある筈だ。臼と杵とを探してこい』と命じた」
無題Name名無し 20/01/05(日)17:35:12 No.502470
「だが、せいろがない。仕方がないので、これは器用な兵隊が案外簡単に作ってくれて、30日は頭の上を警戒しながら終日餅搗きに暮れてしまった。随分数の多い餅も、使役に出た兵の非常な張切りようで景気のよい行事となった。
『輝かしき昭和18年の戦捷の元旦を寿ぎ、併せて来年の第一信を南方ビルマのラシオより差し出すことを何より嬉しく思います(略)戦地では暮も正月もありませんが、それでも内地から空輸された昆布、田作、数の子、するめ、煮豆に、お酒は大関と云った豪華版で、朝食はかしわのおだしにすまし雑煮で多少なりとものんびりした気持ちがしました。街はずれの街道に沿って珍しく桜が咲いているのを、食卓の花瓶に挿しました「桜と迎春」如何にも南方らしいですね。では無事を祈っています』
朝からからりとした日本晴で、早朝の全員宮城遥拝後、すまし雑煮の朝食がすむと、日向ぼっこをしながら年賀状を書く」
無題Name名無し 20/01/05(日)17:36:34 No.502471
引用元:https://may.2chan.net/39/res/502230.htm
「いつ内地に着くとも考えない。こうして便りを書いている間が故国へはせている時なのである」
「大きな餅を幾つか食べたのと、久し振りの日本酒のほっこりとした廻り具合とで、いい按配に眠気がさしてきた。窓ガラスに止っている蠅のにぶい動作を眺めているうちに、いつの間にか夢の国に入ってしまった。何処に戦争があるのかと思う程、静かなラシオの元旦であった」
…なんて長閑なお正月の光景も、たまには戦地で見られたそうです
おせち料理も餅搗きも、年賀状でさえ最近では廃れつつあるなんて聞きますけれど、かつて遠い異国で戦っていた日本のヘイタイさん達にとっては、それらを味わっている間だけは故国に居る気分でいられた、大事なモノだったんでしょかね、やっぱし
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コメント
戦中にはすでにあったんだな
生き証人がいらっしゃる間に、変な方向に思いきりのいい艦これ運営さん辺りが復刻でもしてくれれば話題性もあって面白そうですが
羊羹と洗濯板のどちらがより良い羊羹だったのかは知らんが、戦争の過程でどちらかの生産量が減ったり、グレードが曖昧になっていったりして羊羹だったものが洗濯板、或は洗濯板だった物が羊羹と呼ばれる様になったとかもあるだろうし
揚げパンは南北戦争当時のアメリカにはあったみたいだから(パン生地のドーナツだろうけど)幕末から明治初期には日本に入って来ていたのではないかな。
そこからヨーロッパに伝来したのがチュロス
笑って読んでるうちに、その切実さと望郷の思いが胸に迫って
気が付くと涙が滲んでいる
歳の所為なんだろうけど
中国から伝わっているしね
ただ、パン食が庶民の間で一般的になるのはそれこそ
明治以降だし…
洗濯板なる食品の存在は噂で聞いても、実物を見ていない兵隊さんが
後に間宮の羊羹を入手して「以前聞いた洗濯板って羊羹の事だったんだな」と
勘違いして広めてしまったパターンもありそうな気がする
火傷して膿んだ傷にウジに膿を食べてもらってウジを食べる位に何もないんだからな。
止めて!某空母の喫水線がマイナスになっちゃう!
懐中汁粉のお湯に戻す前のやつ。
アズキバー食べた時にジッジがコレの乾燥したみたいなやつを戦時中に食べたとか
思ってた以上に歴史ある食べ物なんですね、ありがとうございます!
一度パンとして焼いたものを改めて揚げたものを指すならもうちょい歴史浅くなりそうですが
ありふれた言葉だし、同じ言葉が地方によって別物だったりとか今でもあるし。
受けがよかったって言うしね
>分かりやすいというかしっかり濃い甘味が喜ばれたんだろな
確か、阿川弘之の『軍艦長門の生涯』だったと思うけど、「士官は『虎屋の羊羹がこの値段で手に入るのは有難い。』って喜んだけど、兵卒には濃厚な虎屋の羊羹よりも淡泊な間宮羊羹が好まれた。せっかく虎屋が好意で安く納入してくれているのに、売れ行きが悪いものだから、主計課が『もっと消費して下さい。』って依頼していた。」って書いてあった気がする。
間宮羊羹が『砂糖たっぷり』『濃い甘味』ってどこからきた話だろう?
「軍艦長門の生涯」から該当部分を探してみたんですけれど(下巻、P118~119)
「赤坂虎屋の主人黒川武雄は、大の海軍びいきで、「うちの羊羹を、水兵さんにも食べさせ
てあげたい」と、包装に工夫をこらし、値段も安くした小型の虎屋羊羹を海軍に納めたが、
これは酒保ではあまり売れなかった。兵隊は駄菓子が好きで、羊羹なら田舎風の間宮羊羹の
方がよかった」
…とありますね
「田舎風」をどう解釈するかは人によって分かれそうですが、「間宮羊羹」は一説には佐賀
の「小城羊羹」に近い、固めで砂糖の白く浮いたタイプだったそうです
http://gunji.blog.jp/archives/1073448073.html
兵隊さんからすれば、表面が砂糖でじゃりじゃりしてるくらいがちょうどよかったのかも…
水兵さんだけでなく、士官も間宮羊羹は虎屋より美味とかいってたような。
福井静夫もそんなこと書いてた。
ただし戦後の回想である。
戦中と終戦直後は材料に恵まれず虎屋といえども味が低下していた可能性がある。
といったことも考慮に入れた方がよいでしょう。
実際、菓子にせよ料理にせよ半世紀前と今では砂糖使用量が今の方が減ってるはず。
にも拘わらず現代人には今の方が美味のはず。時代と共に味覚も変化するらしい。
子供の頃、祖母の実家でよく出されたシベリアが波形だったし、多分その店の調理器具の関係なんだろうけど
伊良湖に乗ってた人の手記に餡パンを洗濯板とか書いてあったとか話があったような?
洗濯板と言うあだ名が付けられていたそうだ。
まるで洗濯板みたいだったから間宮の洗濯板とあだ名されていたそうだ。
そのデカい羊羹を小分けにして各艦船に配給していたそうだ。
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