無題 Name 名無し 19/11/10(日)17:25:06 No.1289716
「日本陸軍航空隊の軍馬」とか「戦争中全期間を通じて使われた名機」とか
言われるけれど、いざどこでどんな使われ方をしていたのか?というと
よく分からない
そんな九九式襲撃機・偵察機スレッド
屠龍/九九軍偵・襲撃機 (ハンディ判図解・軍用機シリーズ)
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無題 Name 名無し 19/11/10(日)19:20:46 No.1289740
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酷い復元だが一応唯一の現存機
無題 Name 名無し 19/11/10(日)19:32:55 No.1289742
「大東亜戦争」緒戦、シンガポール目指してマレー半島を南下するIJA部隊の支援に当たった陸軍航空隊の中に、99式襲撃機装備の飛行第27戦隊もあったそうでして、同隊の空中勤務者だった押川静雄さんの手記に依りますと
「地上部隊の進撃はめざましいものがあった。襲撃隊は2機~3機の編隊で、次から次へと出撃した。地上部隊から1分1秒でも長く上空にいてくれとの要求があった」
「50kg爆弾の1発1発を丹念に敵陣にたたきこむ。その間に自転車部隊は山すそを前進する(略)投下し終わると、今度はトップ銃射撃だ」
『胡蝶の如く舞い、隼のごとく襲いかかる』
無題 Name 名無し 19/11/10(日)19:34:07 No.1289743
「と当時の日記に書いた記憶がある」
…という戦いぶりだったそうなんですが、そんなある日、不時着して重傷を負った中隊長さんの見舞いに野戦病院へ赴いた時のこと、
「衛生兵とともに(略)十数名の兵隊さんが、飛行服姿の私をとり囲んだ。ある者は手足に包帯を巻き、中には片腕のない人もいる。
『飛行隊の方ですか』
『どんな飛行機ですか』
(略)
と矢つぎばやに質問してきた」
無題 Name 名無し 19/11/10(日)19:35:14 No.1289745
『本当に有難うございました。あの飛行機が飛んでくると、敵の砲兵も戦車も撃ってこなくなるので、その間に大威張りで前進出来ました』
『敵の撃ってくのが激しく、もう駄目だと思っているところに飛んできて、助けてくれました』
(略)
周囲の輪はだんだん大きくなり、約30名近くにもなった(略)先刻の感謝の言葉を繰り返し述べ、中には私の手を固く握ってくれる者もあった」
…なんてコトがあったそうです
大戦中活躍した日本機は数あれど、前線の陸軍のヘイタイさん達の直接人気という点で比べたなら、かなり上位に食い込んでくるんじゃないでしょうか…w
無題 Name 名無し 19/11/10(日)21:28:49 No.1289757
>『敵の撃ってくのが激しく、もう駄目だと思っているところに飛んできて、助けてくれました』
A-10が退役できないわけだねえ
無題 Name 名無し 19/11/10(日)19:35:06 No.1289744
スケビか何かに載ってた当時の操縦手へのインタビュー記事が載っていたね
拉孟・騰越の戦いの航空支援で単機で侵入して近接支援をするけど
地上の兵達が必死に帽子を振って応援してくれる話は良かったな
多分いつもの人が詳細を書いてくれるでしょう
無題 Name 名無し 19/11/10(日)21:18:21 No.1289755
洗練された機体に固定脚のアンバランスさが好き
キ30やキ32はこの機種で更新されたのでしょうか?
無題 Name 名無し 19/11/10(日)22:01:21 No.1289763
やはりマレー攻略戦で活躍した、99式軍偵装備の独立飛行第73中隊という部隊がありまして、1943年末からは西部ニューギニアで味方船団の航行援護等に当たったそうなんですが、第4航空軍司令官から1944年8月21日に授与された部隊感状によると、1944年8月上旬までの約9か月間に、対潜攻撃に出撃すること88回、掩護隻数は延べ300隻余りに登り、敵潜水艦の撃沈7隻を報じているんですとか
敵潜の撃沈戦果7隻の内、2隻は26歳の中隊長島田三郎大尉自らの手によるものだったそうなんですが、長期間の前線活動はやはり消耗も激しく、44年7月20日の時点で中隊の可動機は4機にまで減少、更に翌日には1機が飛行中行方不明になり、その捜索に出た別の1機まで事故で大破してしまったそうなんですが、幸い無事だった空中勤務者さんの収容のため、島田中隊長自らが99軍偵で迎えに出向き、自機の射手さんと合わせて3人乗りの窮屈な機内ながら、7月28日、無事収容して帰途につかれたんだそうで
無題 Name 名無し 19/11/10(日)22:02:39 No.1289764
ところが基地を目前に、運悪く米陸軍航空隊のP-38戦闘機の編隊と遭遇、近傍の地上から、偶々その空戦の模様を目撃した飛行第75戦隊の伊藤誠謙中尉によると
「島田さんの飛行機に5機のP-38がロッテ式に次から次へ(略)攻撃するその都度急旋回にて回避する。惜しむらくは友軍の戦闘機は1機もない。ただ島田さんの敢闘を祈るばかり」
「島田さんの老練さ、さすがに頑張ってくれましたが、交戦時間実に25分、その時またもや彼方より現れたるP-38が4機、よってたかって島田さんを攻撃しましたら遂に島田さんも精魂尽き、身に1弾を受けたらしく飛行機は緩降下をしながら海中に自爆を遂げられました」
…という奮戦の後、戦死されておられるそうです
無題 Name 名無し 19/11/10(日)22:04:14 No.1289765
一方、当時ニューギニアでは、大西洋単独横断飛行で有名なチャールズ・リンドバーグ=サンが、民間人の身分ながらP-38を駆って戦闘飛行に参加していたそうなんですが、氏の戦中日記の中に、1944年7月28日、西部ニューギニア上空で日本軍の”ソニア”と空戦になり、真っ向からの対向戦での撃ち合いでコレを撃墜した、なんて記述が有るんだそうで
リンドバーグ=サンのこの空戦を傍で見ていたP-38パイロットのチャールズ・マクドナルド=サンによれば、
「リンディの弾丸が命中したが、両機の衝突は避けられぬように見えた。ただ幸運にもリンディ機の方が少し高かったので(略)すれすれですれちがったのち(略)ソニアの機体はこわれたおもちゃのように落下して行った」
…とのこと
島田機搭乗の方々の最期の敢闘ぶりが、日米双方に見届けられてこうした記録に留められているというのは、せめてもの慰めと言うべきなんでしょうかねえ
無題 Name 名無し 19/11/11(月)00:32:50 No.1289791
スパッツが特徴的
無題 Name 名無し 19/11/11(月)02:54:58 No.1289795
運動性能はとにかくよかったらしいね
無題 Name 名無し 19/11/11(月)15:13:31 No.1289817
「キ51(99式襲撃機/軍偵察機)」の設計者だった大木喬之助さんによれば、
「Soniaというまさに優しいニックネームを頂戴した、99式軍偵察機の生い立ちを語るには、まずその姉妹Ann(97式軽爆撃機キ30)から始めなくてはならない」
…とのことなんですが、実際
「わが陸軍は昭和11年、当時の国際情勢からみて、急降下爆撃の重要性に着眼し、これに適した軽爆撃機の試作を、三菱と川崎の両社に対し同時に指令」
…されて出来上がった97式軽爆の経験が、99式襲撃機の際大いに役立ち、後の同機のスムーズな開発経過と制式化にも繋がっているんだそうで
無題 Name 名無し 19/11/11(月)15:14:54 No.1289818
もっとも一方で氏によれば、キ51という機体は
「しばしば発生したソ満国境事件などの体験から、対機甲部隊作戦の必要を生じ、これらの戦訓が陸軍をして襲撃機の試作を固めさせる動機となった。昭和12年12月その試作が三菱に対して発せられ、設計基礎要項案が示された」
「敵飛行場にある飛行機ならびに地上部隊の襲撃を主目的とするもので、戦闘機に近い軽快性と低空性能を備えた単発複座機であり、戦闘機と爆撃機との中間を行く新しい思想のものであった」
「要約すればキ30の爆弾量と行動半径とを減らし、低空におけるより軽快な運動性を要求されるものであった」
無題 Name 名無し 19/11/11(月)15:15:54 No.1289819
…ものの、その性質上求められた防弾板の装着については、
「装甲を飛行機に適用するのはわが国最初のことであるので、専門メーカーと協力し(略)厚さ6ミリの防弾鋼板を(略)装着する」
…こととしたものの、
「整備機の生産で一番で一番手こずったのは防弾鋼板であった。冶金学的には相当高性能のものができていたが、形状寸度を飛行機ほどやかましくいうものは初めてとのことであった」
「せっかく寸度に合わせて整形切断したものも、焼入処理ですっかり歪みを起してしまい(略)修正することは全く不可能であった」
「熱処理方法の改善で物にはなったが(略)中々まとまらないのに閉口した」
…なんて苦労話も、ないでは無かったそうです…w
無題 Name 名無し 19/11/12(火)00:39:22 No.1289891
https://cgi.2chan.net/f/src/1573486762839.jpg
>「せっかく寸度に合わせて整形切断したものも、焼入処理ですっかり
>歪みを起してしまい(略)修正することは全く不可能であった」
考えてみれば防弾鋼板で胴体前半部の外皮を形成していたIl-2の製造技術はスゴイものだったんですね。
あれを36,000機も作るなんてソ連の工業力はバケモノか。
無題 Name 名無し 19/11/12(火)00:55:13 No.1289893
九九式襲撃機は地上部隊の兵士たちに熱烈に支持されていた割には、なぜか終戦まで大した改良もされてないのが不思議に感じます。
精々主翼の機銃が強化されたくらいのもので。
同類のJu87やIl-2が非常に多くの改良型が開発されたのと比べると不自然に感じるほどです。
エンジンや装甲が強化されたり、兵器搭載量が増加したり、機関砲を装備したり、航続距離が延長されたりとかはされていません。
また純粋な後継機が開発されなかったというのも不可解に感じます。
日本陸軍は戦争末期に双発襲撃機を幾つか開発していましたけど、九九式襲撃機の後継機と呼ぶには違和感がありますので。
無題 Name 名無し 19/11/12(火)19:21:16 No.1289958
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キ51の試作機審査にも参加した、陸軍航空整備兵の刈谷正意さんの手記に、キ51の性能向上型「キ71」についての項も有るんですが、
「キ51完成後、その性能向上が計画され、20番上がったキ71の試作番号が与えられた。その異なる点は、エンジンのパワーアップと、引込脚にあった」
「設計変更は(略)瀬川技師の指導の下、その指揮下にあった満州飛行機の設計陣によって行われた(略)馬力は離昇1300馬力と350馬力のパワーアップである」
「各部に大きな変化はなく、両翼の備砲が、7.7ミリから12.7ミリと変わった(略)さらに、口径の大きなものを装備することも研究されたとの大崎技手(装備係)の話だが、大して積極的でなかったようだ」
「重量の配分が適当であったため、キ51と寸法的にはほとんど同一である」
無題 Name 名無し 19/11/12(火)19:22:27 No.1289959
https://cgi.2chan.net/f/src/1573554147962.png
「元来、キ51は(略)航続3時間の要求で作られたもので、燃料タンク増加収容の余席が外翼以外にはない。したがって、馬力向上のこのキ71では、燃料不足になるのは自明の理で、不採用の理由の一つとなった足の短いことも当然である」
「すでに大戦は起こり、量産に入っているキ51の生産を乱し、脚機構の取り扱い複雑化を忍んでまで量産に移すほどの高性能であったとは思えない」
…なんてサンザンに書かれておりましたり
また、戦史家の碇義朗せンせいが、戦中の「キ71」の思い出について書かれているところを引用させて頂くと
「昭和18年に立川の陸軍航空技術研究所にはいった私は、地理的に不便な満州から内地にうつって、陸軍航空技研に間借りをしていた満飛の設計チームを知った」
無題 Name 名無し 19/11/12(火)19:23:30 No.1289960
https://cgi.2chan.net/f/src/1573554210548.jpg
「偶然、同窓の一人がこの中にいて(略)キ51の改良型について、いろいろ話してくれた」
「それによると、この機体はキ71とよばれ、すでに試作機も飛んでいた。しかし、試験飛行のときひどい振動で(略)しらべたところ、設計ミスで脚を引き込んださいにうまく収容できず、やむなく工員の一人が、桁のフランジ部をけずって脚がはいるようにしたためであったという」
「しかも、せっかく引込脚としたかいもなく、エンジン出力の強化にもかかわらず、最大速度は思ったほどに伸びず、おまけに燃費の増加と、脚引き込みによる翼内燃料タンク容積の減少によって航続力が不足するという、悪い面ばかりが出てしまった」
無題 Name 名無し 19/11/12(火)19:24:47 No.1289961
https://cgi.2chan.net/f/src/1573554287231.jpg
「もともと、引き込みにするか固定にするかは、キ51の最初の段階でさんざん検討した末に固定に踏みきったものであり、エンジンもまた要求性能に見合ったものが選ばれていたので、単純に引込脚とし、パワーアップによって速度向上をねらうことは、この機体の総合バランスをくずす以外の何物でもなかった」
…とのこと
要はキ51という機体はよく言えば既に完成形、悪く言えば発展の余地が既になかった、というコトみたいなんですが、一方で碇氏によると、キ71はこのあと満飛が着手する本格的なキ98戦闘襲撃機の前の腕馴らし的役割を果たした…ということになるんだそうで、してみるとオーソドックス過ぎるくらいに普遍的なスタイルのキ51の、「単発襲撃機」としての正統後継機は、双ブーム尾翼推進式という野心的なキ98だった…ということに
…なるんですかねえ…?
無題 Name 名無し 19/11/13(水)02:41:51 No.1289988
襲撃機型より爆装もできる偵察機型の生産数の方が多いとどこかで読みましたが実態としてはどうなのでしょうね
無題 Name 名無し 19/11/13(水)06:34:36 No.1289995
初代が傑作だと後継機開発に苦労する話は結構多いよね
まあ、読んだ感じキ71はシンプルに失敗作だったみたいだけど
無題 Name 名無し 19/11/13(水)18:14:12 No.1290094
>実態としてはどうなのでしょうね
設計者の大木さんの手記には、三菱での年度別のキ51生産数なんかも出てくるんですが、両者を合わせた数しか載ってなかったですね
言われてみれば気になる所ですし、是非詳しい方に御教授頂きたいものです…w
因みに、99式「軍偵」装備の独立飛行第52中隊中隊長だった手島丈夫さんの手記に、1944年10月からのフィリピン決戦(捷1号作戦)での「軍偵」運用について述べた部分が有るんですが、曰く
「軍偵部隊は、偵察戦力としてではなく、攻撃戦力として運用されたことに特色がある」
「島嶼作戦においては、飛行機の協力は、必要欠くべからざるものであったはずである。しかるに、4FA(※第4航空軍)は、大本営によって分与された軍偵6個中隊のうち4個中隊までを、襲撃機の代用的用法によって、瞬時に消尽してしまった」
無題 Name 名無し 19/11/13(水)18:15:35 No.1290095
「このため、地上各兵団は、1飛行機の支援も得られず、前近代的作戦を強いられる結果となった。背に腹はかえられなかったという弁明があるかも知れないが、それは、事態の認識の欠如を物語る以外の何物でもない」
…とのことで、如何にほぼ同一機体で、同じような性能を発揮できるといっても、「軍偵」部隊を「襲撃機」部隊として使用したのは間違いであった、と痛烈に批判されておりましたり
手島さんが「当時における軍偵用法の傾向がうかがえる」として紹介されている、1944年12月16日付の第4航空軍司令官名の独飛52中への賞詞によると、
「敵戦闘機跳梁の下、高千穂部隊通信器材の『オルモック』空輸、同部隊一部の『タクロバン』強行着陸戦果の観察(略)第68旅団との連絡」
無題 Name 名無し 19/11/13(水)18:19:02 No.1290098
「海上敵輸送船団及(略)敵上陸部隊の捜索の外、4次に亘り、特別攻撃隊戦果の確任に任じ、武功特に大なり(略)軍偵部隊の精華を遺憾なく発揮したるものと認む」
…とされておりまして、要はこのような味方地上部隊への物資輸送・連絡・空中偵察による情報提供・(特攻等含む)戦果確認、などが「軍偵」部隊の本来のオシゴトであって、そのために訓練・整備された人員と機材を「襲撃機」として運用し、それらの任務を果す部隊を早期に消耗したのは、
「安易に、物量に勝る米軍と勢威を競い、消耗戦に陥ってしまったことは、作戦上の過失といわざるを得(手島氏)」
…ないというのが、「軍偵」型キ51を運用する部隊長さんの偽らざるホンネだったということみたいですなあ
無題 Name 名無し 19/11/14(木)06:11:31 No.1290141
正直、アメリカ軍がすでにF6F、F4UやP-47、P-38といった新鋭戦闘機を投入している戦場で、最大速度400キロそこそこでは偵察機としても襲撃樹としても使い難かったでしょうけれど、他に戦力がない以上、やむをえないとされていたんでしょうかね…
無題 Name 名無し 19/11/14(木)12:29:48 No.1290160
海軍だって99式艦爆をまだ使っていたし(震え声)
たしかフィリピン戦で、米軍の艦が99式艦爆にやられた!と
報告している中に、実際は99式襲撃機だった例があったはず
無題 Name 名無し 19/11/14(木)15:42:33 No.1290170
手島氏によると、独飛52中隊の装備機は99式軍偵12機が定数のところ、捷1号作戦では第4飛行師団の特別措置で、100式司偵2機と1式双練2機の増加配属を受けたとのことで、
「司令部偵察機の配属は、偵察能力と指揮連絡機能の強化を意味し、双発練習機の配属は、師団の緊急空輸能力の増強を意味していたようである」
…とのことなんですが、実際、捷1号作戦での独飛52中の「初仕事」は、ネグロス島基地への航空機用20ミリ弾と酸素発生剤の緊急輸送であったそうで
その後、しばらくは機材・人員輸送、敵情偵察、戦果確認…といった「軍偵」本来の任務をこなしていたそうなんですが、1944年も末になると
「(※米軍の)飛行場攻撃は、最初は4式戦などによって昼間行なわれていたが、対空火器が増加(略)戦闘機が大挙進出するにおよび、夜間攻撃に頼らざるを得なくなった」
無題 Name 名無し 19/11/14(木)15:44:24 No.1290171
「しかし、夜間飛行の可能な熟練パイロットが(略)減少し(略)偵察中隊であるわれわれ(略)にも、たびたび、夜間攻撃(略)が下令されるようになった。中隊には夜間飛行の可能なパイロットがまだ何人も残っていたからである」
「私も12月24日と1月2日の深夜(略)出撃したが(略)対空砲火はすさまじく、飛行機には弾痕がいくつも残っていたことを思い出す」
「1月2日(略)第4飛行師団は前半夜(午後10時~午前2時30分)延べ30機で、第30戦闘飛行集団は後半夜(午前3時~5時30分)、延べ16機でサンホセの両飛行場を攻撃し、炎上数ヵ所、爆発2ヵ所を報じた」
「第4飛行師団の延べ30機は、飛行第32戦隊(99襲34機)が(略)参入したための増加であるが、この中には私と堀口伍長の2機も含まれているはずである」
無題 Name 名無し 19/11/14(木)15:45:05 No.1290172
…という状況であったんですとか
第30戦闘飛行集団は新鋭戦闘機「疾風」の戦隊からなる精鋭集団で、それがこの時点ではだいぶ旧式化しつつあった99襲、更に「助っ人」の軍偵部隊機と轡を並べての夜襲作戦であったみたいなんですが、連合軍側の公刊戦史では同日の空襲でP-38戦闘機が15機、A-20攻撃機が7機破壊または損傷という損害が発生しているそうです
(第2飛行師団の7機によるタクロバン飛行場攻撃の戦果も含む)
米軍の戦力全体に対する総数でいえば正直焼け石に水といった戦果で、僚機堀口伍長機がこの攻撃で未帰還となっている軍偵隊の手島氏から見れば、或は不本意な作戦ではあったんでしょうけれども、夜闇に紛れてなら未だ固定脚・低速の99襲/軍偵でも、ベテランパイロットの手で戦果を挙げられた、という話ではあるんですかねえ
無題 Name 名無し 19/11/14(木)18:32:45 No.1290177
陸軍から海軍に提供された飛龍のように彗星を陸海軍共通で使う案は無かったんですかね?
無題 Name 名無し 19/11/14(木)19:04:44 No.1290178
陸軍がトーチカ攻撃用に彗星を欲しがったって話は何かで読んだなあ
無題 Name 名無し 19/11/14(木)19:46:34 No.1290180
海軍の局地戦闘機は陸軍機で、陸軍単発攻撃機は海軍機でいいんじゃないかとは思う
無題 Name 名無し 19/11/15(金)15:48:23 No.1290253
>陸海軍共通で使う案
前述大木氏の手記に依りますと、「キ71」の前に「キ65」という機体も計画されていて、
「昭和15年(略)ノモンハン事件の生々しい戦訓から、火力の大きい単座襲撃機の試作問題が持ち上がり、三菱に対して同年7月設計基礎要項が示された」
「射撃に重点をおき(略)最高時速530キロメートル以上、標準行動半径400キロ」
…というものだったそうで、対米英開戦の前に、既により高性能の次世代襲撃機の開発プラン自体はあったそうなんですが
「さっそく河野課長を中心に、筆者や東条輝雄技師が協力して基礎型の検討を始めた。単発双発の両型式について比較研究したが、整備に入るころまでには必ず条件が苛酷になることを予想し」
無題 Name 名無し 19/11/15(金)15:49:40 No.1290255
https://cgi.2chan.net/f/src/1573800580467.gif
「対戦闘機のいわゆる巴戦をあきらめて速度性能に徹すべきとし、双発形式を有利と考えた(略)しかし軍では単発に未練があるもようであった」
「当時の三菱は、キ46(司令部偵)の性能向上やら、キ67の(重爆飛竜)の試作やらで、陸軍関係の設計陣は手一杯の状況であり、キ65の設計推進はほとんど不可能に近かった」
「陸軍航空技術研究所所長以下の関係諸官を名古屋に迎え、これらの試作研究状況説明会を聞いたのが、あたかも昭和16年12月8日、会議半ばにして太平洋戦争開幕のニュースが入った。そのときの強い印象はいつまでも忘れられない」
「こんな経過でキ65は残念ながら陽の目を見ず、いわゆるペーパープランに終ってしまった」
…そうです
無題 Name 名無し 19/11/15(金)15:52:47 No.1290256
キ51の次代を担う高速襲撃機の開発は遅れて、発動機を変えて引込脚にしたお手軽改造のキ71はどうも出来の良くない子…という状況下で、単発・高速の新型爆撃機で実用化して生産に入っている機体…といえば海軍サンの彗星ぐらいなわけで、陸サンの方でちょっと興味を抱いた関係者が出ても、おかしくはなかったかもしれないですな
因みに余談ですが、襲撃機としての「キ65」がお蔵入りした後に、陸軍では改めて今度は単発・単座の重戦闘機計画としての「キ65」計画をスタートさせているんですが、コレが今度は三菱で開発中の14試局戦、後の「雷電」を陸軍仕様にして採用する計画だったりしたんだそうで
陸サンではこの「キ65重戦」を襲撃機としても使用するつもりで、その為の装備研究も命じていたそうですので、もし上手く行っていたら、戦争後期、陸軍版「雷電」が、99襲の後継機として、連合軍を襲う光景が見られていたかも知れないですねえ…
無題 Name 名無し 19/11/15(金)20:51:49 No.1290291
キ102とかもそうだけど、何故日本陸軍は邀撃機と襲撃機を同じ機体で済ませようとするのか・・・
無題 Name 名無し 19/11/15(金)22:03:35 No.1290301
キ102の場合は、重武装の双発機が迎撃機と襲撃機の双方にとって理想的だったからじゃないですかね? (´・ω・`)b
ソ連のPe-2は迎撃機として開発されたのに、軽爆撃機として完成して、大量生産されたし、Bf110、P-38、二式複戦なんかも戦闘機なのに対地攻撃機にも活躍していましたしね。
戦闘機相手に戦うのでなければ、エンジンパワーに余裕があって、兵器搭載量も多くて、機首に重武装を施せる双発機は、中々使い勝手が良いんじゃないでしょうか。
無題 Name 名無し 19/11/16(土)14:54:14 No.1290382
前述の刈谷氏によれば、99式「軍偵」のエンジン(ハ26)は
「その運用高度から与圧高度3600メートルのⅠ型を装備した」
…のに対して、99式「襲撃機」では
「低空馬力を増すためにⅠ型より与圧器の扇車径を30ミリ縮め、ベンチテストでは離昇940馬力・与圧高度2100メートルの低空行動機の仕様だった」
…んだそうで
因みに山脇基輔さんという方が、操縦者から見たキ51という機体の評価を詳細に述べられているんですが、例えば操縦席にしても、同機の座席は97戦や97司偵のように狭くもなく、97直協(ママ)のように「浮かび上がったような感じ」もなく、適当な広さで視界良好の、乗り心地のイイものであったそうです
また飛行性能も、固定脚ながらエンジンの信頼性は抜群で、
「水平飛行中の安定感もよく、それにも増して低空性能のよかったことは、この機の最も良い点で(略)安心して超低空飛行、低空低速飛行ができた」
無題 Name 名無し 19/11/16(土)14:55:21 No.1290383
「急旋回、垂直旋回には100%本機の性能を発揮し、同方側旋回戦闘(戦闘機より攻撃を受けた場合の回避戦闘)で無理に引き回して操縦士の目がくらんでも」
「機は安定を失わず、最後に翼端失速に入りかけても操縦桿を少しゆるめることによりすぐ直るくらいで、直協のようにはね返ることはなかった(同方側旋回戦闘により7.7ミリ銃で逆に敵戦闘機を撃墜した実例がある)」
「特殊飛行も一部の旧操作を除いてはOK。キリモミからの回復も容易で、射撃・爆撃・写真撮影等においてもほぼ満足できる状況であった。ただし機銃の貧弱さと航続時間に不足したが、これらは後日補修された」
…との事で、全般として非常に乗り心地の良い機体であったんですとかただ、唯一玉に瑕というか、気に入らない点もなかった訳ではなくて、
「われわれがいちばん難点と思ったことは着陸時、たびたび尾輪を破損したことである」
無題 Name 名無し 19/11/16(土)14:55:56 No.1290384
「これは設計上の欠点で、設置時尾輪が回らず尾輪支柱が回り、滑走路の凹凸で支柱取付け部が破損し、尾端と方向舵をつぶす結果となった」
「また三菱製の機体にはなかったが、航空工廠の機体でときに空中分解のおそれがあると、特別な検査員が派遣され、翼端を持って機体を大きく上下に振り、これはまだ大丈夫、といっていたことがあり、笑えぬナンセンスとして忘れられない」
…そうです
まあまだ機体構造の非破壊検査なんて、望むべくもない時代のハナシでは有るんですけれど、自分が命を預ける機体を手で揺さぶられただけで「ヨシッ!」とか言われても、確かに気分は良くはなかったでしょうねえ…
無題 Name 名無し 19/11/16(土)20:10:12 No.1290405
>キ102とかもそうだけど、何故日本陸軍は邀撃機と襲撃機を同じ機体で済ませようとするのか・・・
二式複戦が大型爆撃機の邀撃で活躍したのはよく知られてるけど軽爆戦隊に配備したら好評だったとかいう記述も見かける
その割には二式複戦が襲撃等で活躍した実話を俺はよく知らんのでご存じの御仁がいればご教示願いたい
無題 Name 名無し 19/11/16(土)20:44:33 No.1290409
キ102なんかは、逆に排気タービン付けた高高度戦闘機型が開発に手間取っている間に、
襲撃機型がB―29落としたなんて話があったような・・・
無題 Name 名無し 19/11/16(土)20:49:31 No.1290410
二式複座戦闘機は、フィリピン戦で襲撃機として使った記録や回想が散見されるね。
レイテ島ブラウエンに降下した高千穂降下部隊の掩護にも出ていたようだが。
無題 Name 名無し 19/11/16(土)21:32:52 No.1290421
「99式双軽」から「2式複戦」に機種改編した部隊として有名なのは飛行第45戦隊なんかがありまして、渡辺洋二せンせいの「双発戦闘機屠龍」から引用させて頂くと
「軽爆戦隊の複戦への機種改変は、いささか奇異に感じられるかも知れないが(略)軽爆戦隊はよく戦ったものの、99双軽ぐらいの速度では撃墜される可能性が高く(略)速度が高く機動性に富んだ複戦を用い、奇襲的な作戦を行ったほうが効率がいい」
「99双軽から複戦への改変はさほど困難ではなく(略)2中隊先任将校の黒川昇中尉も(略)機動性のよさに好感をもち(略)『双軽よりも機動力が優れ、軽快で頼もしかった』が(略)機上通信の毛利豊伍長の感想だ」
「全般に2式複戦は好評だった」
…そうです
無題 Name 名無し 19/11/16(土)21:36:09 No.1290422
また、戦争初期に99襲を用いて活躍した飛行第27戦隊なども、「2式双発襲撃機(複戦の襲撃・軽爆部隊での呼称)」へ機種改編が進められているんですが、その際には2式双襲の先輩部隊である飛行第45戦隊に、新機種の整備隊員の教育の協力を仰いだりもしているんだそうで
もっとも、45戦隊と共に参加したレイテ島攻防戦では、未だ1個中隊のみしか複戦への改編を終えておらず、旧機材の99襲と後継の2式複戦が、編隊を組んで出撃する光景なども見られたそうで、巡航速度の違いから足並みを合わせるのに苦労した…なんて話が有る一方、敵艦船や飛行場攻撃に両機種とも連日奮戦しているんですが
「稼働率100パーセントとすら表現できる旧機材の99襲に比べ、複戦のひんぱんな滑油および作動油漏れに閉口し、部下の泣き言もこの点に集中した」
…とのこと
無題 Name 名無し 19/11/16(土)21:39:06 No.1290423
因みにレイテ戦の終盤、色々と評判の悪い第4航空軍司令官の富永恭次サンの台湾への「独断後退」の際も、当初予定されていた乗機は飛行第45戦隊の2式複戦であったそうなんですが、
「16日0800(略)富永中将は、第45戦隊の複戦に搭乗して台湾に向かいエチャーゲ南飛行場を出発しようとしたが、滑走路面が不良で離陸に失敗し(略)出発は午後に延期された」
「1600(略)第32戦隊の99襲撃機(操縦 渡辺行准尉)ほか1機により、第30戦隊の1式戦2機が護衛してエチャーゲ南飛行場を出発した(防衛庁公刊戦史)」
…そうで
この場合、「99襲」が「2式双襲」の代役を務めたということみたいなんですが、雨季で
ぬかるんだ不良の滑走路から無事飛び立って要人輸送を果した軽快さは、99襲ならではのものだったのかもしれないですねえ
無題 Name 名無し 19/11/17(日)01:51:41 No.1290458
軽爆も最大500kgじゃあ複戦で何とかなっちゃいますもんね
無題 Name 名無し 19/11/17(日)03:22:14 No.1290461
でも軽爆の500キロって、15キロ爆弾24発みたいな搭載も可能なんだよね。
露天目標相手に攻撃かける時には最強だが、こういうのは複戦じゃ無理。
無題 Name 名無し 19/11/17(日)11:53:27 No.1290496
https://cgi.2chan.net/f/src/1573959207288.jpg
>でも軽爆の500キロって、15キロ爆弾24発みたいな搭載も可能なんだよね。
>露天目標相手に攻撃かける時には最強だが、こういうのは複戦じゃ無理。
いいよね小型爆弾のバラマキ攻撃…
無題 Name 名無し 19/11/18(月)19:08:07 No.1290646
> 軽爆の500キロって、15キロ爆弾24発みたいな搭載も可能なんだよね。
九九軽爆はそれが行き過ぎて250kgや500kg爆弾は搭載不可
無題 Name 名無し 19/11/19(火)02:15:48 No.1290679
>九九軽爆はそれが行き過ぎて250kgや500kg爆弾は搭載不可
陸軍的には、そういうの積むのは本来重爆の仕事じゃからのう。
大型爆弾は搭載するのからして設備がいる。
陸軍的には50キロ爆弾までは人力搭載が可能なので、小型爆弾積んだ軽爆や襲撃機は前線近くの野戦飛行場から迅速に反復攻撃ができる。
本当に重砲みたいな使い方をするのだ。
予定ではな……。
無題 Name 名無し 19/11/17(日)19:43:29 No.1290539
>いいよね小型爆弾のバラマキ攻撃…
Il-2は全部成形炸薬弾だけど日本はどうなの?
無題 Name 名無し 19/11/17(日)20:43:30 No.1290544
>Il-2は全部成形炸薬弾だけど日本はどうなの?
カ四弾とか焼夷弾あるよ
そもそも日本の爆撃機は対ソ戦睨んだ航空撃滅戦大好きな高速機だから搭載量よりも燃料や速力重視
ぱぱっと敵基地の上に潜り込んでババンと広範囲(の在地機)を焼き切るって寸法よ
無題 Name 名無し 19/11/17(日)23:32:57 No.1290574
タ弾用の35kgコンテナ
確かに機体を選ばなさそうな兵装ですね
無題 Name 名無し 19/11/17(日)06:38:28 No.1290469
ソビエトのIL-2襲撃機なんかも、最初は単座機だったのが、敵戦闘機対策で
銃手席が付いたんでしたっけ
無題 Name 名無し 19/11/17(日)06:40:57 No.1290470
ドイツのJU87急降下爆撃機なんかも、西部戦線では敵戦闘機の前に被害が続出して、早々に最前線から引っ込められてしまいましたし、低速の爆撃機や襲撃機が戦争の後半で活躍できる場面は限られてしまいますよね…
無題 Name 名無し 19/11/17(日)10:04:39 No.1290486
>低速の爆撃機や襲撃機が戦争の後半で活躍できる場面は限られてしまいますよね
東部戦線の後半戦で、独軍が対地攻撃の主流をスツーカからヤーボに切り替えたのに対して、航空優勢を確保していったソ連軍は終戦までIl-2とIl-10が主役のままだったのが対照的です。
対地攻撃機は超低空飛行時や爆撃コースに入った時は後を警戒する余裕がないので、後部銃手を載せた複座機を使うのは理に叶っているのだけど、ソ連軍同様に戦争後半に航空優勢を手に入れた米軍では、独軍と同様にヤーボを主流にしたのが面白いですね。
ソ連軍の思想は「制空権があるから安心して低速な複座襲撃機を投入できる。」
米軍の思想は「制空権があるから後部銃座を持つ複座襲撃機は必要ない。」
どちらの思想の方が正しいのか、私には少々分かりかねますけど。う~ん。
無題 Name 名無し 19/11/17(日)10:17:31 No.1290487
>JU87
大日本絵画出版の「南方進攻航空戦」という本がありまして、内容は戦争初期、日本軍の猛進撃の前にボロボロにされていくマケイクサの有様を連合軍側から綴ったものなんですが、例えばマレー戦線での「99式襲撃機」に関わる部分を引用させて頂くと、
「Ju-87のような4機に連続の攻撃を受け(略)1発の爆弾がボイラー室の横、左舷5~10フィートのところで爆発しました(大破した哨戒艇『カンパー』乗組員より)」
「(※1941年)12月13日(略)約30機の爆撃機がジョージタウンに近づきつつあるとの報告があった。この攻撃部隊には戦闘機による掩護はなく、戦隊長代理の堀田邦実大尉が指揮する75戦隊の99双軽3機、独飛71中の99襲18機からなっていた」
「バッファロー隊の編隊長ヴァンダーフィールド大尉は(略)99双軽に遭遇(略)直ちにその1機を攻撃(略)この時点で6機の99襲が戦闘に参加、激しい格闘戦が始まった」
無題 Name 名無し 19/11/17(日)10:19:09 No.1290488
「2人のバッファローパイロット、コリヤー軍曹とリード軍曹は単発の99襲を3機(彼らはスツーカ急降下爆撃機と識別していた)を不確実共同撃墜し、リード機はひどく被弾した(記録ではおそらく2機の99襲が未帰還となっているはずである)」
「ヴァンダーフィールド大尉は回想する。
『我々は(略)爆撃機を攻撃すると、雲から5機か6機の急降下爆撃機が出てきて、我々は攻撃されました。好きなようにやらせてから2機を確実に、最初の攻撃で撃墜しました』
『編隊の軍曹パイロットが私の後ろにつこうとしていた急降下爆撃機を撃ちました。それは横転すると消えてしまいました。別の機が長い急降下で海上に出て行きました。これらは撃墜不確実として報告しました』」
…などとありましたり
無題 Name 名無し 19/11/17(日)10:20:27 No.1290489
この戦闘ではヴァンダーフィールド=サンらの「バッファロー」戦闘機の攻撃により、堀田大尉機含む2機の双軽が撃墜されておりまして、或は果敢に「バッファロー」に空戦を挑んできた独飛71中の99襲の行動は、その窮状を見かねての事だったのかも知れないですねえ
(初見の99襲撃機を、独の「スツーカ」と見ているのがちょっと興味深いトコロですが)
因みに残念ながらこの空戦では、「バッファロー」相手に返り討ちにあってしまった形の99襲なんですが、同著によれば翌12月14日には、逆に「バッファロー」戦闘機1機が、飛行第27戦隊の99襲との空戦で撃墜されているそうです
著者さんは後部機銃の反撃によるもの、と推定されているんですが、或は先述の「同方側旋回戦闘」戦法が、効果を発揮したのかもですな
無題 Name 名無し 19/11/18(月)16:40:43 No.1290640
キ51が開発進行中の、昭和13年7月に決定された、「陸軍航空本部航空兵器研究方針では、襲撃機および軍偵の特別装備として、ガス雨下装置の装備が要求されているんだそうで
昭和10年ごろから研究が進められていたこの器材、要は毒ガスの空中散布装置なんですけれども、キ51の試作と合わせて製作・試験も行われており、前述刈谷氏によれば試作機審査中のエピソードとして、
「要求装備にあるカ装置(ガス雨下)テストでは、左右各1コあて爆弾懸吊架に取りつけた水約100リットル入りの爆弾型の容器の後ろ姿を空中で開いて、内容の水を放出するのだが、着色撒布テストなどはしなかった」
…なんて話もあったんですとか
無題 Name 名無し 19/11/18(月)16:41:52 No.1290641
その後「大東亜戦争」も佳境に入った昭和18年、静岡県浜松に「三方原教導飛行団」という、ガス雨下装置装備の99襲による航空化学戦専門部隊が創設されているそうなんですが、同部隊で教育を受けた岡沢正さんによれば、歴戦の99軍偵搭乗者で、同隊の教官になっていた士官学校の先輩を訪ねたところ、
「飛行場の99襲を見たか?あれで、敵までとどくと思うか?運よくとどいても、ガス雨下の前にイチコロよ。イチコロはいいとしても、ガスを積んどるとバレたら、あとは報復がくるぜ」
…と、「空戦経験者だけあって、現実的なことをいわれ」たそうです
無題 Name 名無し 19/11/18(月)16:43:46 No.1290642
昭和19年12月、岡沢氏ら「第1期航空化学戦将校学生」の教育修了に際し行なわれた卒業演習は、「行軍中の地上部隊が、敵機のガス攻撃に対抗する」想定だったそうなんですが、内容は極めて実戦的というか、模擬弾ではなく、実際にイペリットガスを用いて行われ、地上部隊側の指揮官という貧乏クジを引かされた岡沢氏、99襲の「すごい急降下」に対処しきれず、装面が遅れて有毒ガスを吸い込んでしまい、「99襲の超低空の優秀性の認識が不足だった」為、その後1ヶ月ほど病床に倒れる羽目になってしまったんだそうで
「私はこのとき身をもって、毒ガスは非人道兵器の最もたるものである、と信じた。そして私は、99襲の攻撃操縦手にならなかったことを神に感謝したものであった」
…との事なんですが、まあイロイロな意味で「ガス雨下器」装備の99襲が、実戦投入されずに終わったことは幸いだったんじゃあないでしょかね、やっぱし
無題 Name 名無し 19/11/18(月)20:12:49 No.1290655
野戦を支援するとか飛行場攻撃なら重砲弾程度の炸薬量・威力がある航空爆弾撒ければわりと十分
小弾でも爆弾一発ぶんとしてコストや手間かかるからドイツやソ連のクラスター弾もそう常時使えたもんではないと思うが
無題 Name 名無し 19/11/18(月)20:38:36 No.1290657
本物のイペリットを使って訓練・・・?
致死量にならないくらいの濃度にしてあるとか?
いずれにせよ当時の人の感覚がわからない
無題 Name 名無し 19/11/18(月)20:54:02 No.1290658
クラスター爆弾は、爆弾倉がなく、限られたハードポイントに爆弾を懸架するしかない機体でもそれなりの広域制圧ができるので
無題 Name 名無し 19/11/18(月)22:23:17 No.1290664
対潜部隊の軍偵で、海軍の爆弾をもらって使っていたんだけど
正規のラックには付かないので、現地改造で投下器を作ったと何かで読んだなあ
昔の「丸」だったか・・・
無題 Name 名無し 19/11/19(火)15:22:45 No.1290700
>現地改造
実戦部隊としては99式軍偵を最初に受領し、また終戦まで同機で戦った部隊の一つである、飛行第44戦隊の整備員だった末田一夫さんの手記には、前記の尾輪支柱問題にまつわる話なんかも出てくるんですが、曰く
「尾輪支持金具用取付金具が弱くて亀裂が生じやすく、亀裂の発見が遅れると、無理な着陸をしなくても、これが破損して尾輪が上にハネ上がり、尾輪支持金具は勿論尾端覆まで無茶苦茶にしてしまう事故が連発した」
「それで材質のヂュラルミンを軟鉄にし同一寸法にて製作依頼を漢口航空廠に出したところ、航空廠の技術将校曰くに
『取付金具を余り丈夫にすると今度は機体の方が持たなくなる』
無題 Name 名無し 19/11/19(火)15:23:36 No.1290701
『取付金具に亀裂が入るのは機体を保護する緩衝装置の役目を果しているのだから、材質の変更は駄目だ』
と一蹴された」
「翌日更に私は
『取付金具が欠品になり飛行不能では困る。取付金具の破損が(略)尾端覆の破損迄惹起するようでは緩衝装置としては下手な考えである。これは最初から亀裂を許す計算の設計ではないと思う』
と縷々説明した」
「結局試作実験の結果調子上々で、当部隊は勿論、航空廠の部品棚にも軟鉄製の取付金具が並べられるようになったのはうれしいことであった」
…そうです
無題 Name 名無し 19/11/19(火)15:24:53 No.1290702
また、同戦隊軍偵中隊長だった大塚正七郎さんの回想によると、
「わが軍偵機の巡航水平速度が少しでも大であれば(略)任務達成に好結果をもたらすことは疑いもない」
「99式軍偵察機の補助翼は、主翼に対して若干の角度をもって取りつけられていることに気がついた。そこで(略)取付角を修正して(略)主翼と補助翼の仰角を同一にして、性能テストをしてみた」
「巡航水平飛行で従来より(略)10粁ほど増加した(略)中隊全機を修正させて(略)攻撃を敢行したのであった」
…なんてコトもあったんですとか
キ51”飛行第44戦隊型”と言うところなんですが、仮にプラモデル改造で再現してみせても、なかなか気づいてはもらえなさそうなではあります…w
無題 Name 名無し 19/11/19(火)22:26:47 No.1290723
ビルマの隼部隊の整備兵だった人が、予備部品で一番大事なのがエンジンのプラグ、次が尾輪だって言ってたな
そのストックをどれだけ持ってるかが稼働率に直結するとか・・・
無題 Name 名無し 19/11/19(火)22:57:07 No.1290726
尾輪なんていざとなりゃソリでいいって、フィリピンの整備兵さんが言っていた。
無題 Name 名無し 19/11/20(水)02:15:06 No.1290732
それは多分ソリが合わない
無題 Name 名無し 19/11/20(水)06:41:02 No.1290733
ソリゃ良くないな。ちゃんと備品をストックしておかないと。
無題 Name 名無し 19/11/20(水)14:04:03 No.1290747
終戦後、尾輪が壊れた99襲に、適当な尾そりを付けて引き渡したら、連合軍の人たちに、やっぱりえらい剣幕で英語で怒られたそうです
そこで思わず「あいむ・そーりー!」っt(略
…因みにこれも44戦隊での現地改修のおハナシなんですが、
「99式軍偵察機には発動機の左右に集合排気管が取り付けられていた。夜間飛行の場合(略)排気が大きな焔となり(略)まずいので、この焔を消すため『消焔管』と称する煙突の如き(略)装置が開発された」
「然しこの装置を装備すると、気筒内の背圧が増加して発動機の馬力が減少し(略)空気抵抗が増加し、結局巡航速度380粁に対し20粁の速度減少となった」
「昼間は取り外すことにしたが、着脱に手間がかかり面倒なので、整備員には嫌われる状況にあった」
「こんな或る日、敵戦闘機グラマン(ママ)の夜間襲撃を受けた」
無題 Name 名無し 19/11/20(水)14:05:10 No.1290748
「不思議に排気管よりの焔を全然見ることが出来なかった。後日(略)撃墜されたグラマン機の残骸を見て焔の出ないわけが判明した。それは集合排気管ではなく各気筒よりの単排気管であった」
「私共は(略)排気管の取替をすることにした。いざ着手して見ると排気管は非の打ちどころの無いほど立派に装着出来たが、カールフラップが排気管で邪魔になり閉めることができない」
「勝手に切断することはできないし、困ったものだと思案中に、小原曹長が邪魔になるところは切断せねば(略)と切断してしまった」
「整備班長(略)に状況を説明して試験飛行実施の結果、飛行速度が従前のものより20粁増加して消焔効果も良好と判断された」
無題 Name 名無し 19/11/20(水)14:07:46 No.1290749
「速度が増加した事で操縦者の間ではその飛行機は虎の子のように可愛がられ、無断でカールフラップを切断したことは問題にならず安堵した次第である」
「この件は軍司令部兵器部に報告され(略)正式に採用された。新しい飛行機には製造の段階から単排気管が装備されるようになり、これを装備した飛行機を見たときは、実に嬉しいものであった」
…そうです
単排気管化自体は既に1式戦2型改などで採用されていて、カール(カウル)フラップを思い切りよく切断した小原(禎二)曹長の回想では、改造用排気管もそこから流用したいうことなんですが、「軍偵」の性能向上に大きく寄与したこの自主研究に対し、1944年10月、末田・小原両氏を含む4名に、第5航空軍司令官・下山琢磨中将名の賞詞が届けられているんですとか
やはり使えないハイキカンは、さっさと廃棄せなイカンですね!
無題 Name 名無し 19/11/20(水)16:05:18 No.1290752
エルロン改造でプラス10キロ
ロケット排気管効果でプラス20キロ
合計30キロも早くなれば、グラマンくらいぶっちぎりだな!
(白眼
無題 Name 名無し 19/11/20(水)21:45:34 No.1290781
>グラマン機の残骸を見て焔の出ないわけが判明した。
>それは集合排気管ではなく各気筒よりの単排気管であった
単排気管は排気炎が小さくて、夜戦で有利になるとは今まで知りませんでした。
とても勉強になります。 ((φ(-ω-)カキカキ
無題 Name 名無し 19/11/20(水)22:35:03 No.1290793
https://cgi.2chan.net/f/src/1574256903528.jpg
排気自体の熱炎も目立つが排気管そのものが赤熱して光りだすのもあかん
無題 Name 名無し 19/11/21(木)03:23:53 No.1290846
戦争初期は我がもの顔で戦場上空を飛び回れていたのが、戦局が不利になるにつれて夜間作戦を余儀なくされようになり、遂に行きつく先は特攻作戦という…
悲しいですねえ…
無題 Name 名無し 19/11/21(木)17:43:01 No.1290919
>特攻
三菱及び立川陸軍工廠で生産されたキ51総計2000機余りの内、特攻機として出撃した機数がおよそ16%にあたる319機で、他に終戦時90機が待機していたそうです
「キ51」で編成された特攻隊は19隊で、最初の特攻出撃の場が1944年12月5日のフィリピン・スリガオ海峡、最後が1945年7月26日、マレー半島プーケット沖になるそうなんですが、その初回の12月5日、スリガオ海峡で米輸送船団に攻撃をかけた「石腸隊(7機)」の戦いぶりを、大岡昇平氏の「レイテ戦記」から引用させて頂くと、
「1100(略)『神風』が現れた。レーダーは海峡西側を限る(略)山々に妨げられて機影をとらえることが出来なかったのである」
「P-38が2機、『ラヴァレット』と『フラッサー』の対空砲火がそれぞれ1機(略)もう1機が撃墜された。しかしまだ3機残っていた」
無題 Name 名無し 19/11/21(木)17:46:31 No.1290920
https://cgi.2chan.net/f/src/1574325991486.png
「その1機がLSM-20に直角に突き刺さった(略)船は一瞬にして沈んだ」
「他の1機はLSM-23の船腹に激突して、大破させた」
「最後の1機(略)目標をミスしたと判断した操縦士は、とっさに機を左翼を下に横に立てた。機は艦首の5インチ砲に激突し、機体の大部分は海上に散らばったが、翼の一部と操縦士の脚が艦上の6人の水兵を殺し、12人に負傷させた」
…というものであったんですとか
一方、キ51によって実施された最後の特攻攻撃である「七生昭道隊(3機)」の場合、日本側の判断では3機中2機命中、「轟沈1隻、撃破1隻」の戦果を挙げたとされているんですが、実際連合軍側の記録等に依れば確実な戦果としてこの日、特攻機1機の命中を受けた英掃海艇「ヴェスタル」が大破・沈没している他、梅本弘氏の「ビルマ航空戦」によれば、護衛空母「アミーア」にも1機が命中して火災を発生させているそうです
(但し、同著では同隊の乗機は「97戦」とされています)
無題 Name 名無し 19/11/21(木)17:48:13 No.1290921
「ビルマ航空戦」では、3機の「七生昭道隊」の内、1機は対空砲火で撃墜されたとされているんですが、別の資料によればやはりこの日、英国艦隊の重巡洋艦「サセックス」も特攻機1機の突入を受けている、とのこと
しかしながらこの機は、英国側にとっては幸いにというか、搭載爆弾が不発に終ってしまったようで、同艦の舷側にくっきりと、低翼単葉・固定脚の機体シルエットそのままの「爪痕」を残すのみで終っているんだそうで
ともあれ、結局は同隊の全機が見事突入を果されていた、と言うことになるのかもしれませんが、戦争開幕直後、シンガポールへ向けて敗走する英軍を猛追する地上部隊の上空支援に当たっていた機体が、ほんの数年後に同じマレー半島で、今度は爆弾を抱いて英国艦隊に必死の突撃行に出るとか、当時は誰も想像もしなかったんじゃあないでしょうか
無題 Name 名無し 19/11/22(金)15:27:37 No.1291059
陸軍航空戦史って本だと、襲撃機乗りは腕のいいベテランが多かったので、ギリギリまで特攻隊には出さないで温存してたってあった記憶
逆にそういう人達だから、いざ特攻しても戦果が上げられたのかなあ
無題 Name 名無し 19/11/22(金)20:53:58 No.1291097
風車式安全装置がつかいづらそうな特攻での信管はどうしてたのだろう
いちおう最終段階で爆弾は切り離すのが正式な手順ではあるが
ダイブの加速に任せて突入しようにも頭上げが始まるわ舵きかなくなるわで
ベテランじゃないと理想的な急角度・高速突入は難しそう
無題 Name 名無し 19/11/23(土)17:05:13 No.1291202
飛行第27戦隊付きの整備員だった、土井光一さんという方の手記に、「爆弾の機上信管切り換え装置」なるものの話が出ているんですけれども、曰く
「昭和18年(略)のことであるが、軍司令部の命令で99式襲撃機の爆撃装置の改修を行なうことになった(略)36機全機の改修を終了した」
「しかしこの装置は、飛行中その目標によって信管を瞬発から短延期に電磁器で切り換えるものであって、その作用が不十分の場合、超低空で瞬発のまま爆発したら自分自身が爆風で損傷し、墜落は確実である」
「当部隊では演習前に全機の再検査をしたが結果は不良」
「各機4発ずつ装備して行ったが完全なものはただの1機、後は4発の中1発とか2発とかで完全な飛行機はなかった」
無題 Name 名無し 19/11/23(土)17:06:04 No.1291203
「ただちに部隊長に報告(略)技術将校の来隊を待って実地検査したが、同様なのでとりあえず全機装置を取りはずし、後刻にその処置をすることになった」
…そうなんですが、結局
「きけば、満州の全機を改修したとか、せっかくの良いアイデアも研究不足、あるいは装置の製作不良でとんだ失敗である。その後なんの話もなく立ち消えになった」
「当時の上層部のやりかたはこんな具合であった。それが第一線将兵にいろいろなことを強いてきたのであろう」
…という結末に終っているんだそうで
無題 Name 名無し 19/11/23(土)17:08:04 No.1291204
因みに余談なんですが、キ51の急降下時の操縦性自体は非常に良好だったそうでして、ある時、射撃訓練用の吹流し標的の曳航役を務めていたキ51が基地まで帰って来たものの、吹流しを切り離すことが出来ずにいるようでて、このままでは着陸時地物に引っかける危険があるし、どうするのか…?と下から見ていると、やおら上昇をはじめ、高度を稼いだところで切り返すと、飛行場めがけて「急降下着陸」して難を逃れた、なんてエピソードも伝えられているんですとか
更に前述刈谷氏の手記によれば、他機関のへの協力業務というわけなんでしょうか、キ51により
「富士山剣ヶ峰から浅間神社の火口へ急降下して測定資材を投下」
…なんて、ピンポイント爆撃ならぬ、ピンポイント投下なんて任務も行われた事もあったそうです
カコウに急コウカ、と言(
無題 Name 名無し 19/11/23(土)20:34:38 No.1291223
地上攻撃用の襲撃機や攻撃機、もしくは爆装した戦闘機を地上戦闘の近接支援に使う、ってのは
大戦中の交戦国では大抵用いられた戦術だけれど、その効果の大きさを左右するのは結局、どれだけ地上部隊との連携が取れるか、ってとこなのよね
無題 Name 名無し 19/11/23(土)20:40:23 No.1291226
この点、一番先駆的だったドイツは、早くから前線の地上部隊に空軍側の要員を派遣して、上空の味方機と連絡を取らせていたし、無線で連携することで、攻撃箇所やタイミングの指定、或いは味方の誤爆を防ぐのに役立たせていた
この点は戦争後半には米英等、連合軍側もまた同様の戦術を取るようになってる
無題 Name 名無し 19/11/23(土)20:45:14 No.1291227
一方で日本陸軍航空隊の場合、基本的に地上支援重視の方針で、軽爆・襲撃機・直協と用途によって多様な機種を整備していた割には、そうした航空隊からの直接人員派遣や、無線連絡による前線航空管制には不熱心だったように思える
ドイツ軍との技術交流もあったし、大戦前半の電撃戦の成功等も見ているはずなんだけどねえ・・・?
無題 Name 名無し 19/11/24(日)08:27:14 No.1291259
>地上部隊との連携
先述の飛行第27戦隊の押川氏の手記にある話なんですけれども、マレー作戦終了後、引き続き今度は蘭印攻略作戦の支援に任じることになったそうなんですが、地上部隊の方も歩兵第18師団などが参加していて、
「同兵団はマレー作戦の折、共に戦った身内のような部隊、しかも対空共同に慣熟している兵団である」
「メイクテーラー付近であったと記憶しているが、(※日本側の)車両部隊が平原の1本道路に長蛇をなして停止している。不審に思い、第1線付近に行ってみると、前進をしている様子が見られない」
無題 Name 名無し 19/11/24(日)08:28:00 No.1291260
「地上に梯形布板が出た。『要求あり』。次いで『この方向』の記号に続いて→印が標示された(梯形布板とは、地上部隊から飛行機に対して意志を伝える白い布板でありT型をしている(略))」
「その方向を見ると(略)陣地の中に砲が据えられ、わが方をつるべ撃ちできるように並んでいる。僚機の2機を単縦陣として、1機ごと、単発の精密爆撃ができるようにし(略)爆撃を開始した(略)装甲車らしい車両と徒歩部隊がいるのを発見した。これもあわせて攻撃する」
「(※味方の)司令部らしいところに行ってみると布板が出た。何か要求があるのではないかと見ていると『緊密な協力を感謝す』というお礼の言葉であった」
「私もつい調子に乗って、
『マレー作戦で一緒に戦いました襲撃隊であります。ご健闘を祈ります』
無題 Name 名無し 19/11/24(日)08:29:42 No.1291261
…と、機上のこと故、極めて乱筆で書いて通信筒に入れ投下(略)拾い上げて手を振っているのを確認し翼を振りながら離脱した」
…なんて、微笑ましい話もあったんだそうで
その後、戦隊宛に改めて歩兵師団長からこの通信筒にも触れた「お礼状」が届き、なぐり書きぶりを思い出した押川さんは「冷汗三斗」だったそうなんです
が、達筆の戦隊長さんが、返書を出したと聞いて、これで戦隊の面目も取り戻せた…と安堵した、なんて後日談があったそうです
因みに当時の歩兵第18師団の師団長さんはイロイロな意味で有名な牟田口廉也サンだったりしまして、先の富永サンもそうですが、キ51は長くあちこちの戦線で使われていただけに、「有名人」と関わる機会も多かったみたいですねえ…w
無題 Name 名無し 19/11/24(日)10:21:55 No.1291266
無線通信は日本陸軍というか日本軍全体のウィークポイントやからね・・・
そもそもは「相手が黙っていても察する」のが美徳の日本の文化がいけないんや!(錯乱)
無題 Name 名無し 19/11/24(日)17:05:03 No.1291288
こちらは前述の手島氏の手記からになるんですが、レイテ島での戦いの帰趨がほぼ決し、ルソン島に後退した独飛52中は、引続き同島地上戦闘の支援任務に就いていたものの、
「爆撃の効果は、多くは不明であった(略)飛行部隊と第一線部隊との間に通信回線がなく、間接的通信も、途絶えがちであったからである」
…という状況であったんですとか
しかしながら、
「しかし、戦後30年にして、私はただ一つ、次の戦果を知った。結果的に、直接共同の好例と見られるので、原文(”我等かく戦えり”元戦車第2師団参謀河合重雄氏記)を引用し紹介する。
『サクラサク峠において、師団は、苦戦の連続であった』
無題 Name 名無し 19/11/24(日)17:07:31 No.1291289
『師団としては(略)軍に対し、再三、爆撃を要請した。確か、4月下旬だったと思う。夜9時過ぎ、頭上に爆音が聞こえ(略)やがて、敵幕営地の真っただ中に、にわかに、大火焔が上り、猛烈な爆発音を聞いた』
『炸裂する弾薬の響、聞く第一線将兵の感慨は、どうであったろうか(略)思わず万歳を唱えた次第であった。この爆撃は、幸いにして、燃料・弾薬集積所に命中し、数日にわたって燃え続いた』
私は(略)これほどまでに喜んでもらったとは、夢にも、想像しないことであった」
「この爆撃は、米第32歩兵師団の(略)記録(略)にも、その記事が掲載されている(略)
『敵(注:日本軍)の航空活動は非常に衰退していたとはいえ、心配の種は完全には除去されてはいなかった』
無題 Name 名無し 19/11/24(日)17:09:29 No.1291290
引用元:https://cgi.2chan.net/f/res/1289716.htm
『4月24日、敵の1機は投下した1発の爆弾を第732軍需品補給中隊の補給処に命中させることに成功した。多数の死傷者の外に、中隊の軍需品がそっくり焼失した』」
…なんて事があったんだそうで
1944年の比島決戦開始時、軍偵12機含む16機の機材と、空中勤務者42名の陣容だった独飛52中が、45年6月、台湾へ最後の1機を撤退させた時までの損害総計は、戦死135名(空中勤務者20名)、自爆および未帰還10機(99軍偵9機、1式双練1機)に上るそうで、部下を台湾に送り出し、地上勤務員さんらとルソン島に残留した手島氏以下の生還者は、約100名のみであった、とのこと
そうした苦闘から数十年ごしに、思いがけず当時の戦果の実際を知らされた、というのは、さぞ感慨無量であったんではないでしょうか…
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コメント
とは言っても99襲撃については殆ど知らないんですけどね…
99襲撃のパイロットって爆撃機乗りってことでいいのかな?戦闘機のパイロットが乗っていたとは聞かないし、どうなんだろ?
日中戦線で活躍してたイメージが定着してて、マレーは海軍の攻撃機の活躍がクローズアップされててな。
日中戦争の初期から海軍航空隊が陸上部隊支援できてるのを見てやはり飛行機は海軍は進んでいる(陸軍は遅れてる)と見られてたり
陸軍航空隊は思想的には航空撃滅戦指向と空軍化へ進んでいたんだけど、それがかえって仇になって陸上部隊との協調が不首尾に終わる要因になったのかも
あと前線航空管制官が主役の『BAT☆21』もあるけど、これはベイルアウトして敵の直中で孤立した友軍の搭乗員をセスナから救難支援する話だった。
ワイ、好きな駄作機を挙げろと言われたら、まずキ71を挙げるくらい好き。
スレにあるように、エンジンの大馬力化に引込み脚と、目新しいことやってる訳でもなしに、みんな良かれと思って盛り込んだ要素が全部裏目に出てるのが好き。
襲撃機とか直協機の類いは、実は本来の爆撃機とはまた別の、戦間期に起きた植民地の反乱を鎮圧するためのコロニアル・ボマー(植民地爆撃機)からの系譜で、正規軍より格下の相手をボコる空の豆タンクみたいな代物なので、大戦中盤以降の正規軍以上の敵を相手にするには力不足という(降爆もここからの派生だけど、こっちは対艦攻撃や拠点攻撃の任務に特化したおかげで若干寿命が延びた)。
以前の読者投稿記事にあったけど、正規軍相手にタメ張れる襲撃機を欲するとなると、ヤーボしか選択肢がなくなってしまったり。
個人的に一番好きな日本機だったりします。
補助翼と単排気管の件は意外でした。
30km/hアップは心強いですね。これが制式化時点で採用されてカタログスペックに掲揚されていたら一段と評価は上がっていたでしょう。
使い回しがよく、武装はそこそこだけど装甲もあり、信頼性も数もあった。
航空優勢があって、重防護目標を叩く爆撃機は別に存在するなら、地上部隊から最も頼もしい存在だと思う。
近接航空支援なら過剰な火力も必要ないし。
これで28号噴進弾とか積めたら、また違った注目をされたんだろうなぁ。
「この貧ぬう眼鏡地味っ子、意外に人気出たなあ…そやっ!眼鏡取って胸盛って髪色とか服装も派手にしたろ!」
信じて送り出した99襲撃がキ71になってダブルピースビデオレターを送ってきた件
航空機に熱心では無かった…?海軍航空隊に陸軍航空部隊が遅れている面ってそんなにありましたっけ。ニューギニアの戦いもかなり長い期間に渡ってですし前期と後期では航空戦力比も大きく違うんですから比較出来るものでは無いんじゃ…?
海軍の銀河は男装系女子だったのに、どうしてこうなった。
直協機は本来は戦術偵察機ですからねえ。
爆撃はついでなわけで。
便利さ故にコイン機的に使われたりしたけど。
日本陸軍は機甲師団の構想でもそうなんだけど、新しい兵種に対する明確なビジョンが無いのよ
戦闘機でなら海軍は中国戦での経験から迎撃機の雷電を開発に進むけど、陸軍はあくまで戦闘機は対戦闘機戦のものとしたままで、敵の航空撃滅戦への対抗とかはあまり考えられてない
爆撃機も97式、100式、4式と新型になっているのに元の要求は大して変わって無く、4式では開発側がこれじゃ戦争できないと自発的な設計になったり、スレで上った機体のように後継機の開発も上手くいかずも多い
そんな体だから戦争中期から爆撃機の戦果は不振で爆撃機不要と見られるようにもなって爆撃機は減産、もともと防空も陸軍の担当だったから防空軍化していくけど、そのわりに専用の夜間戦闘機や迎撃機の新規開発は海軍にはあるのに陸軍には無い
こういった思想面での手落ちが陸軍には多くて、陸軍内で航空戦に明るい東條英機もソロモン方面での作戦で海軍は航空機戦力の扱いを理解してるが陸軍はわかってないと愚痴ったり
海軍の航空機開発は時代の変化に合わせて変化していってるけど、陸軍は基本的に今ある機体のアップグレードで時代の変化に追い付けてなかったのよ
陸軍の航空撃滅思想自体が敵の爆撃等に対する回答ですし…一〇〇式重爆もそのために作られてますよ。
>>そんな体だから戦争中期から爆撃機の戦果は不振で爆撃機不要
いや、いたずらに戦線を広げた海軍のお陰で陸軍の防衛戦略とそれに対する航空戦術が不能になったからでしょ。もともと陸軍は航空撃滅行えるエリアでの防衛とその後の反抗を提案してます。
そもそも雷電を例に出されていますが500機程度の生産であたかも海軍の戦略が合ってたと言われるのは疑問です。
>>専用の夜間戦闘機や迎撃機の新規開発は海軍にはあるのに陸軍には無い。
Ki87やki94I、IIは?
あと、陸軍は海軍に比べマルチロール性を求められて機体を開発しているわけで専門機種なんて作るのはリソースが無いから同じ機種で襲撃、対爆撃、対戦闘機をこなせる四式戦の開発に成功していますよね。
>>海軍の航空機開発は時代の変化に合わせて変化していってるけど、陸軍は基本的に今ある機体のアップグレードで時代の変化に追い付けてなかったのよ
なんて仰られても零戦のアップデートでお茶を濁し続けた海軍機に言われてもはいそうですかとは言えませんね。
二式戦闘機って迎撃機じゃなかったっけ。
3桁酷道の狭いトンネルにもアパッチと違い、エンジン停止後ローター停止すれば直ぐに格納できるんよ。人力でも6人居れば良いし、最悪軽トラでも荒縄でトーイングリングに縛り付けて引っ張っても良い位。
パジェロでは、牽引テストして1速で牽引ワイヤーで引けた事は、機付長の時(現役)にやった事があるし。ウルトラローがある、農繁モデルなら完璧だと思うよ?
山岳戦による抵抗線の構築に、滑走路が不要で直径26m程の空間が有れば、武装してて離陸できるってのが大事でね。
なるほど、サンクス。
ドイツから輸入した型落ちbfとベテランパイロットと一式、二式、三式(原案)、三式擬きで性能検査してお墨付きが二式。
陸軍も量産や!けど97式に慣れてたパイロットから不評やったんよ、乗り慣れた機動力から火力、早さの一撃離脱に変えるのキツいわ。
そして二式だけだと連合戦間に合わんから一式隼を作ろうで隼は大活躍、二式は乗り慣れたパイロットがおらんから全く駄目。
丁度いい具合にドゥーリットル空襲で97式じゃ迎撃出来ないから二式は殆どが内地に帰還で殆ど前線で活躍してない。
迎撃機扱いなのはこの事からやろうな。
2式戦を迎撃機と評したのは米軍で、日本陸軍としては高速、重武装の万能戦闘機として計画、開発されてます
99艦爆は彗星ができるまでのつなぎのつもりだったので本格量産するつもりがなかったんです。
Hs 129、COIN機、A-4、A-10、AC-130等々・・・
対地攻撃機には、惹き付ける何かが有るようですね。
そして彗星も少数精鋭で少量生産する予定という‥
アメ公が悪いよ、アメ公が。
アメちゃんは日本最良の迎撃機として評価してるね。
武装については雷電のほうが良さそうだけど、何故か二単。運動性能が良かったからかね?
二式戦を作らない理由はある程度はそうだけど、二式戦が若手パイロットのステータスになってたのも目にいれた方が良いですよ。
中国戦線を見てもさすがに前線で活躍して無いとは言えない。
これを推力排気管にしたら490km代は出そうなんだよなぁ。
逆に固定脚に戻して燃料搭載量増やしても450km代は出そうだし、
99艦爆よりちょっと速くて機首の機銃同調装置がいらない分
整備しやすいって感じでこっちもアリに見えてくる。
でも当時求められてたのはそういう中途半端にイイ機体じゃなくて
全ての性能が高いいわばポ●モンの個体値6Vのような機体だったんだろうなぁ…。
戦闘機は結果的に陸軍のが完勝では?
二千馬力級の四式戦の普及とか編隊空戦とか
よく言われる五式戦はエンジン変えるだけなのに遅すぎた!って声あるけど、
同じ金星エンジンの零戦54型なんて間に合ってすらないし、こっちは元が空冷だから五式戦より作りやすいと思うんだが…
海軍の夜戦って、長距離戦闘機→陸偵→月光でようやく成功したけど性能不足で、艦爆とかに斜め銃つけて凌いでたようにそんなに誇れる印象ないんだけど…
それ話して大丈夫な内容か?割とギリギリな気が・・・(同じく元自
空地提携に関して陸軍は海軍かなり充実してるよ当たり前だけど
てか何かと海軍航空隊を贔屓しすぎw
ノモンハン航空戦全史で地上部隊と密な提携して空地直協してたのにソ連軍が驚いてる
支那事変でも当然の様にやってるし、九七式軽爆なんかもよく師団直協任務に着いたりしてた
重爆は航空撃滅戦だけじゃなくて普通に敵拠点攻撃にも使ってたし
その航空撃滅戦のやり方が上手くいかなかったから陸軍内で爆撃機不要という声が出てきたのよ
戦線が広がったのはちゃんと陸海軍共同の了解のもと行われたもの、西進を提案した海軍にその余力無しと陸軍が答え、東なら良いとなったもの
そも最初の戦争方針でインド、オーストラリアのアメリカ、イギリス本土との連絡線を絶って連合から離脱させることが目標の一つだから当初からの決定事項、詳細な計画は検討されてなかったという問題はあるけど
で陸軍は重爆が活用できないという認識はあったのにその方針のまま4式重爆の開発要求を出したので、開発側からこんな飛行機で現代の航空戦ができるわけがない!となかば陸軍の要求を無視する形で開発された
この辺はまさに陸軍がどんな航空戦があるのかするのかといったビジョンが無かった証明で、その4式重爆にしても陸軍雷撃機構想が立ち上がらなければ採用されたとは必ずしも言えない
なお4式重爆を雷撃機にできると教えたのは海軍
雷電の開発指示は39年で計画要求は40年、開発が遅れたから生産数が少ないだけで本来は42、3年中には主力戦闘機として量産配備されてる計画
陸軍のキ87は存在を忘れてたけどあるのはこれくらいで、キ88、94にしろ技術者側からの提案からであって陸軍自身の航空戦思想から産まれたものじゃない
陸軍はリソースが無いから機体を絞ったりはしてません、してないから単発戦闘機がわざわざ軽戦重戦の2本立てにまでなっています
1式戦は戦訓から防弾タンクを装備するが、なのに武装は7.7ミリ2挺のままで防弾装備機が出るとしておきながら結局武装の換装指示は米英戦まで行われなかった
武装強化も開発側では翼の再設計で翼内機銃の提案もあったが生産効率のため認められず、結果として2挺しか機銃の無い戦闘機でありながら終戦まで生産され続けることになる
2式戦は主力と目された重戦闘機ながら生産が不振で、42年度の生産数はたったの131機、同年度の1式戦が616機、零戦の1366機と比べればその少なさが際立つ
後発の3式戦ですら量産開始後の43年10月には月産100機を超えたのに2式戦は44年4月の85機がピーク、これも軽火力の1式戦が使われ続ける要因の一つ
3式戦はもともと液冷エンジン搭載戦闘機の叩き台としこれから本命を開発するものであって実用機では無かった
しかし良好な性能を示しまた1、2式戦の問題、そしてその後継機たるキ62、63もそれぞれ1、2式戦の改良型へと進み、実質このとき次期新型戦闘機としての開発プランが何もないという状態(後の4式戦になる機体の研究指示とかはある)で他に選択肢が無い行き当たりばったりでの採用
4式戦の搭載エンジンの誉、この誉エンジンは海軍と中島の共同開発品、つまりは4式戦は海軍の研究のおかげで産まれた戦闘機
4式戦が紫電に比べ生産数が多いのはメーカーの規模の違いもあるけど、誉エンジンを海軍は各種の機体で使用する機材統合エンジンで紫電以外にも銀河、流星、彩雲や試作機でも烈風、連山、天雷、陣風と搭載を考えられてる、こういった将来のビジョンが海軍にあったからで、陸軍にそんな構想は無いから4式戦に集中できたというだけ
誉エンジンの配分は陸海5:5で元を考えたら陸軍はかなり海軍から融通してもらってる
九四式飛二号無線機の運用レポートがあるよ
日本陸軍もドイツと同じく攻撃指示を無線で可能だった
実際艦隊撃滅戦に拘泥して不向きな双発機で対艦攻撃で戦力擦り潰した海軍より何倍も先進的かつ効果的やわ
陸軍は二式複戦なんか襲撃機として大活躍してるがな
もうちょっと調べてね
もはや「ビジョンが無い」とか実の無い話になってますがな
悪い所だけ抽出して適当にくっ付けてるだけ
・隼の武装
実際は、未知の剣によるとホ103が給弾不良や復座バネの問題、信管不良等で苦しんでいた故の対応策だし、「米英戦まで」というタイミングは審査部で問題をひと通り洗い出せたから
・二式戦の42年度生産数
二式戦はそもそもキ43とほぼ同時期に試作指示が成されており、また試作機完成が1年半以上も遅い事を全く考慮に入れていない。
実際にはその時点で量産型の影も形も無い雷電が言えた話ではない。
・三式戦が液冷の叩き台に過ぎずいきあたりばったりとは?
三式戦は九五式戦から続く川崎製液冷戦闘機の流れであり、叩き台を言うなら先行するキ60がその役目を果たしている
そもそもいきあたりばったりなんてのは強風→紫電なんて海軍が最も当てはまる。
フィリピンでのこの機はグラマンに運動性が及ぶべくも無いと評されてる。
紫電改なんて戦争末期にやっと少数出てきたぐらい。それが良いなら陸軍には五式戦がある
・四式戦の誉融通に至ってはただのイチャモンでしか無い
機体の設計の問題では無いしこの機自体は上手く纏まっているわけだが、使用するエンジンは当然使えるものなら何でも使うし海軍だって零戦の「栄」はもとより陸軍キ43の為のハ25だったんだが。
そんな縄張り意識に囚われている方がよっぽど足を引っ張るよ。誰が開発に絡んだとか関係無い。
>>戦線が広がったのはちゃんと陸海軍共同の了解のもと行われたもの、西進を提案した海軍にその余力無しと陸軍が答え、東なら良いとなったもの
いや中期以降の話をしてるんでしょ?国防圏策定時の海軍の長大な国防圏に対して陸軍は縮小すべしとしているんですが?
>>開発側からこんな飛行機で現代の航空戦ができるわけがない!となかば陸軍の要求を無視する形で開発された
長大な航続距離と高速、重武装は陸軍爆撃機の直系でしょ。んでもって四式重爆って陸軍の要求イマイチわかってないぞ。
>>4式重爆にしても陸軍雷撃機構想が立ち上がらなければ採用されたとは必ずしも言えない
採用は1943年ですし雷撃機改装は1944年に指示ですよ…
>>なお4式重爆を雷撃機にできると教えたのは海軍
なんで海軍の担当の雷撃を陸軍がやらなきゃいけないんですか…?(現場猫)
>>本来は42、3年中には主力戦闘機として量産配備されてる計画
結局されてないじゃないですか。零戦まだまだ主力ですし。
>>陸軍のキ87は存在を忘れてたけどあるのはこれくらいで~
二式複戦、キ96、キ102 やキ108、キ64は?
>>陸軍はリソースが無いから機体を絞ったりはしてません、してないから単発戦闘機がわざわざ軽戦重戦の2本立てにまでなっています
明確なビジョンが合って二機になんったんでしょ?結果的に見ても成功していますよね。反対にあなたが言うところの明確なビジョンを持ってるはずの海軍は零戦の製造でお茶を濁してる現実は?
四式重爆の航続距離は三菱が勝手にいれた奴だな。
均整の取れた美しいプロポーションだと思います
百式司偵や零観も群を抜くプロポーションであるけど
共に丸みや流線型を強く感じるのに対して
九九軍偵の日本機としては珍しい
直線を多用したフォルムが何とも子気味良い
ビジョンが無いからこういう開発になったという話
1式戦の武装の大口径化が遅れた理由にはなっても翼内機銃未改良の理由にはならない
2式戦は1式戦と同世代機でありながら生産数が少なく伸びも悪い
43年519機で前年度の1式戦以下、後発の3式戦にすら710機と上回られてる
3式戦の元キ60も61と同じくあくまで新型液冷戦闘機の練習機、そうでないなら陸軍は同じエンジンで同じ用途の戦闘機をわざわざ軽戦重戦にわけて造ろうとする謎計画になってしまう
いくら陸軍のビジョンが弱かったからといって1250馬力の2式戦の後に来る主力戦闘機を1100馬力のエンジンで造ろうとするほど愚かじゃない、すでに42年度中には零戦と1式戦だって1100馬力になってるというのに
紫電が行き当たりばったりなのは当然で、海軍には雷電烈風と正式な主力戦闘機開発プランが動いてた、陸軍にはそれが無かったから3式戦以外に道が無かった
イチャモンでは無く事実、誉エンジンは中島から海軍に提案された物をその技術的難度の高さから官民共同で開発されたもの
縄張りとかそんな低次元の話では無く『何のためのエンジンか』を考えられたもの
だから海軍は誉前提での開発計画がいくつもあり、あくまで完成品の拾い物でしかない陸軍には同様の計画が他のエンジン含めても無い
栄は中島が中島として作ったエンジンであって陸軍のためのエンジンでは無いし、そもそも栄は零戦1式戦よりも97艦攻が先に搭載してるし、何向けで出身が決まるなら栄の元は海軍向け10試600馬力エンジンだから由緒正しき海軍エンジンになっちゃいますよ
絶対国防圏の話をするならそれは縮小範囲の話であっていたずらに広げ過ぎた、などという言い方は当てはまりません
4式重爆はまとめて次
雷電の配備が遅れたのは開発が遅れたからで、開発が遅れたのは思想とは無関係の技術的問題
陸軍のやらなかった思いつかなかったと海軍の出来なかったは違うという話
2式複戦はそもそも迎撃機じゃないしキ96、102はその性能向上型だから同じ、キ108も102の転用機であって目的のために1から作られた飛行機じゃない
キ64に至っては高速実験機
このあたりの適当な名前あげてもむしろ陸軍機への無理解を表明しているようなものよ
その軽戦重戦というコンセプトの内容が毎年変わり敗戦を待たずして陸軍内で消えてしまうものを明確なビジョンと呼べるのならそうかもしれません
結果的に見て成功していないから消えたコンセプトなわけで、仮に成功しているのなら3式戦はいらないし、成功してるにも拘らず3式戦を造った陸軍はまさにリソース無駄遣いの達人といえるでしょうね
1、2、3式戦の3機種が採用されたということは、1&2の組み合わせでどちらかが失敗だったから3式で補うとされたか、そもそもそのコンセプトが間違いだったか、コンセプトが正しいうえでさらに用途不明の戦闘機を作ったかの3択です
4式重爆についてはこのサイトの過去まとめに優良な記事があってそこから引用すると
4式重爆が雷撃機に向いてるとの回答は43年12月で陸軍が雷撃装備改装指示が44年1月、生産中の量産機の17号機以降全機に雷装指示
と陸軍の雷撃は陸軍自身が望んだこと
そして4式重爆当時の要求は
>>長大な航続距離と高速、重武装
の高速以外は当てはまらない
昭和15年研究方針の重爆に求められた能力は
航続距離は通常爆装で片道1000キロ、軽荷で1500キロ、爆弾搭載量も標準500キロ
と100式重爆から進歩が無くただ漠然と次の飛行機を作るという以上の物が無い
これを開発側が標準で片道1500キロ爆装も800キロの前提で開発したから雷撃もできる爆撃機に仕上がった
なお海軍での爆撃機の要求は銀河なら大型爆弾による急降下爆撃を求められた高速爆撃機、未完に終わった16試陸上攻撃機は思想面での進化がわかりやすく、それまで陸攻は艦隊攻撃を第1としていたのが航空基地へと変わり、爆弾搭載量が1500キロと増加、航空基地の潰しあいになる以上多くの火力投射が必要という認識がある
まるで荒らしのようになってしまったのでここではこれ以上しません
管理人及び皆様失礼しました
末期になっても防弾8mmがせいぜいで大半を通じて防弾皆無(消化器のみ)の零戦やこれまたインテグラルタンクのせいでやっつけ防弾or皆無のところとかはガン無視ですか?
双発機での艦隊撃滅に拘りすぎた海軍の話なんて散々言われたところなのに、陸軍の航空撃滅戦ガー、とか全く不公平極まりないし
そんな先進的な海軍がなんでインターセプター作った偉いー(雷電)で思考停止してるんですかね
>>「理由にはならない」
あれ、ビジョンが全くない、とか言ってたのにビジョンの「良し悪し」を語りたいの?
大口径化と他連装化はまた別、四丁で相対的に重武装なキ44の開発も同時に内示されてるし、キ43はキ43でホ103への機首武装強化を志向してる。
結果的に間違いだったかと、「ビジョンが無い」だのは全く無関係。
>> 3式戦の元キ60も61と同じくあくまで新型液冷戦闘機の練習機、そうでないなら陸軍は同じエンジンで同じ用途の戦闘機をわざわざ軽戦重戦にわけて造ろうとする謎計画になってしまう
謎計画でも練習でもなんでも無い。キ60はキ44と同じく重戦のコンセプトで、キ61開発時点で既にキ44に敗色濃厚、キ61は土井技師の中戦思想に基づいたものだが陸軍がこれに理解を示しただけで、外部からの由来のものを採用してる=考えなし、と決め付ける方が早計
キ61自体更なる馬力増大を見込まれての採用だし、当然陸軍は性能向上策も早くから検討してる
結局考えなしに動いた帝国陸軍という思い込みに基づいて論を述べ過ぎ
重爆の件もそれだけを根拠に話を広げ過ぎ
陸軍はドイツみたいに戦闘機を爆装する方向に舵をきったり、それまでは軽量小型の単発/双発爆撃機で近距離支援するというオーソドックスな「地上直協型の空軍」で一貫してるし、海軍みたいに珍妙かつ歪な要求押し付けることが「ビジョン」などともてはやす評価要素では無い。
荒らしではないですよ。ここでの荒らしが居るならば「言い逃げ」をする者がいた場合でしょう。
>キ67
それも陸軍は航続距離や搭載量にあまり拘泥しなかったという点で一貫してるだけですし、しかしちゃんと速力や防御火器は譲っていません。
結局、「これが結果論として間違っていたか」と「考え無しにやった」をごっちゃにしているだけでしょう。
そのビジョンやら、防弾も不十分で無理な長距離進駆を前提とする作戦そのものを邪道としていただけでしょう。結果生まれたのが一切陸攻なら手放しで喜べない
陸軍が間違っていたというなら海軍も散々失敗を積んだ挙句、零戦が末期まで主力機を務める有様で、上で行った誉搭載機も少数例を除いて大した戦力になっていません。結果論で言うのなら酷いのは海軍です。
口では、「試陸上攻撃機は思想面での進化がわかりやすく」なんて海軍も言っておきながら、実態は最後まで双発機でも艦隊撃滅戦に拘泥し続けて、本来陸軍の様に戦闘爆撃機に割くべき貴重なリソースを消費し続けたわけですよ。
>>2式複戦はそもそも迎撃機じゃないし
二式複戦改乙は?
>>このあたりの適当な名前あげてもむしろ陸軍機への無理解を表明しているようなものよ
専用に迎撃機の機体を設計しないと迎撃機って認めたくないの?何でいちいち専用機を作って専用のレーンを工場に作る「無駄」をさせたいの?
>>キ64は研究機
いや研三と勘違いしてない?
>>その軽戦重戦というコンセプトの内容が毎年変わり敗戦を待たずして陸軍内で消えてしまうものを明確なビジョンと呼べるのならそうかもしれません
隼以降はほぼ一貫して重戦傾向だろ…なんで四式戦出来たか調べてください。
>>1、2、3式戦の3機種が採用されたということは、1&2の組み合わせでどちらかが失敗だったから3式で補うとされたか
そりゃ一機種のみに絞って開発すると烈風がコケて零戦を作り続けた海軍さんと同じになっちゃいますからね。
大陸で戦争してたから発想が陸軍国みたいになっていたんだろうか。
どうも結論ありきのこじつけ論にしか見えないなあ。
一式戦の翼内機銃は構造上搭載不可でしょ。実戦投入が急がれ主翼丸ごと造り直すような余裕はなかったって話。
重戦軽戦は今で言うハイローミックスみたいなもので明確なビジョンと言える。
キ60(重戦)が性能不足で没って、キ61(軽戦)が重戦枠より高速だったので採用された。
馬力は関係無い。重要なのは性能。例に挙げた一式、二式、零戦より要求、結果共に高速なんだから。
重戦軽戦構想が消え、重戦よりになっていったのはそれこそ状況に柔軟に対応した結果では。
機体が残ってないのは、戦闘機などに比べて日本では人気ないのと、
日本が敗れた後もアジアの各国で便利に使いたおされたって事があるだろうなぁ。
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