無題 Name 名無し 19/09/30(月)23:49:04 No.1285803
連隊砲と比べると少し影が薄い気がする歩兵砲
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無題 Name 名無し 19/10/01(火)09:45:37 No.1285822
現在では迫撃砲やRPG に潰されて無くなってしまった砲種なので陰が薄いのはしょうがない。
無題 Name 名無し 19/10/03(木)02:18:20 No.1286008
帝国ホテル総料理長だった村上信夫さんによると、戦時中陸軍に徴兵で入隊した際、
「最初に配属されたのは小銃隊だった。30メートルくらいしか飛ばない練習弾で、約15メートル先の小さな的を狙うのだが、ちっとも当たらない(略)演習が終ると、『弾を無駄にしやがって』と上官に思い切り殴られた」
「小銃隊で失格の烙印を押され、つぎに配属されたのは軽機関銃だった。だが、これも成績が極めて悪く、命中率は全然上がらない。とうとうここも追い出されてしまった。」
「乱視であることが分かったのは、しばらくしてからのことだった」
「次に回された擲弾筒でも失敗した(略)弾頭を下にして筒に入れてしまったのだ」
無題 Name 名無し 19/10/03(木)02:20:32 No.1286009
「擬製弾と呼ぶ火薬なしの練習用だったから良かったが、実弾だったら(略)その場で破裂していた」
「上官が『貴様のようなやつがいると、敵と戦う前に全滅だ』と激怒して、今度は歩兵砲中隊に回された」
…という有様だったそうなんですが、
「4度目の正直、ここでやっと頭角を現した」
「狙いを定めて大砲を発射する照準手だが、双眼鏡を変形させたような眼鏡が大砲に備えつけられているから、乱視の私でも狙いが狂いにくい。そのうえ、照準しながら砲身を動かすわけだから、作業はいつも両手を使う。」
無題 Name 名無し 19/10/03(木)02:21:42 No.1286011
「コックの修行で両手を動かして迅速に仕事をこなすのはお手の物だ。てきぱきと照準して、『使えるやつだ』と上官の覚えもとてもよかった」
…んですとか
その後、実戦でも優秀な照準手っぷりを発揮した村上さん、ホヘイホーの照準手は手が命!
ということで、使役も水仕事は免除、就寝前には手にワセリンを塗って、軍手をはめて寝るなど手入れに気を使い、照準計算に必要な数学の学習も独学で励んだそうなんですが、最前線での歩兵戦闘支援任務はやはり危険も多く、自身4度ほど負傷されているそうです
ともあれ、銃や擲弾筒の扱いが全くダメ!というヒトでも大丈夫だというホヘイホー、つまりはマジメで、ちょっとドジっ子な料理上手のメガネっ子こそが最適の配置!ということなんd(
無題 Name 名無し 19/10/03(木)12:10:13 No.1286043
分解して人が担いで運べる砲としてはギリギリの大きさかな?
まあ山砲とかでも場合によってはやったらしいけど
無題 Name 名無し 19/10/04(金)01:00:30 No.1286118
タ弾はどのくらい配備されたんですかね
無題 Name 名無し 19/10/04(金)01:19:32 No.1286119
>「上官が『貴様のようなやつがいると、敵と戦う前に全滅だ』と激怒して、今度は歩兵砲中隊に回された」
>「乱視であることが分かったのは、しばらくしてからのことだった」
>ともあれ、銃や擲弾筒の扱いが全くダメ!というヒトでも大丈夫だというホヘイホー
この人が小銃手や機関銃手がダメだった根本的な原因は乱視だろうね。
照準眼鏡のついた歩兵砲だと命中弾を出せたんだから。
帝国ホテル料理長になるくらいの人材なんだしいかに人材無駄にしてるかがわかるエピソードだな・・・
無題 Name 名無し 19/10/04(金)02:10:57 No.1286121
機関銃巣を簡単に撲滅するには大隊砲しかないので、小銃兵には有難い存在だったと思うなぁ
連隊砲なんてどこにでも居る存在じゃないし
基本繋駕運用だから馬の問題(馬糧など)があるけどさ・・
無題 Name 名無し 19/10/04(金)02:16:22 No.1286122
迫撃砲ではちょっと掩蓋ついた火点にはもうあやしいし
バズーカRPGの類は有効射程がまだ厳しいし
戦後しばらく無反動砲が流行ったくらいには歩兵の手元に直射火力欲しいものだろう
無題 Name 名無し 19/10/04(金)02:31:20 No.1286123
歩兵砲が有効なことは分かっていたけど日本軍は擲弾筒を定数そろえるので精いっぱいだった
迫撃砲のような製造単価が安くて町工場でも作れる兵器の方が歩兵砲の代替えには向いていたのだが
無題 Name 名無し 19/10/04(金)02:36:31 No.1286124
http://cgi.2chan.net/f/src/1570124191421.jpg
こうして弾を見ると、本当に薬莢小さいですね…
ソ連陸軍の歩兵砲の変遷 その1 Name 名無し 19/10/04(金)07:28:12 No.1286135
【第2次大戦中】
M1943 76㎜歩兵砲 (600kg)
↓
【戦後第1世代】
B-10 82㎜無反動砲 (85kg、車輪含む)
↓ ←使用期間が短い!
【戦後第2世代】
SPG-9 73㎜無反動砲(60kg、三脚含む)
↓
↓ ←使用期間が長い!
↓
【戦後第3世代】 ← 今ここ!(・∀・)b
RPG-29 105㎜ロケット擲弾発射器(12kg、本体のみ)
ソ連陸軍の歩兵砲の変遷 その2 Name 名無し 19/10/04(金)07:28:41 No.1286136
歩兵さん達の頼もしい味方だった歩兵砲も、戦後になると、軽量な無反動砲に置き換えられて次々に姿を消しました。
ソ連陸軍のケースだとこんな風(↑)に変遷して行きました。
M1943歩兵砲とRPG-29の重量を比較するとナント1/50 !
終戦から半世紀足らずでここまで小型軽量になりました。
歩兵砲をお馬さんが引っ張っていた時代から比べると、兵器技術の歩みの速さは、まさに日進月歩の感があります。
この他にも各歩兵分隊には、よりコンパクトなRPG-7などの擲弾発射器が装備されて、歩兵さん達を強力に支援します。
無題 Name 名無し 19/10/04(金)17:16:40 No.1286171
大戦中敦賀の歩兵第119連隊に所属されて、ビルマで戦った陸軍中尉の緩詰修二さんの手記に、「歩兵砲」小隊を率いて戦った時の話があるんですが
「大隊砲(92式歩兵砲)の最大射程は、2千8百メートルである。だが、命中の確率は、射程が約1千メートル以内の場合が最も高い。また、この射程とは関係なく、口径70ミリの大隊砲は、弾着点から半径25メートル以内の人馬を、殺傷する能力を持っている」
「こういう砲のメリットを最大限に発揮するため、少尉(※筆者さん)は敵を1千2百メートルまでちかづけ、彼らの重火器を確認してから、射撃を開始しようと考えていた」
『来た!来た!来たぞおーっ!』
と、門脇兵長が叫ぶ。遥か彼方にその姿を現わした敵は、さながら怒濤のような勢いで押し寄せて来る」
「双眼鏡で見た前面の敵は、少なくとも3千名で、馬に乗った敵の指揮官の姿も目に入ってきた」
無題 Name 名無し 19/10/04(金)17:17:55 No.1286172
「『よしっ!装薬は全部、二号にしておけっ。射撃用意っ!』
と、命令した。4番砲手に門脇兵長、3番砲手に辻上等兵がついた。射撃用意から、かなりたっても射撃命令が出ないため、砲側がじれているようだ。
『よいか。砲弾は四十発よりない。敵の重火器を確認してから射撃をはじめる』
少尉は、そう言いながら、突っ立ったままの姿勢で、敵の重火器を探し求めている(略)やがて、敵の火砲を発見した少尉は、
『千二百、九つ右へ、装薬二号、発射っ!』
と、ようやく射撃を命令した。
『撃てっ!』
中島軍曹が、力強い射撃号令をかける」
「弾着を観測して(略)修正しながら、敵の重火器を確実に潰していく。砲弾が敵の重機を直撃すると、機関銃も銃手も、空中に舞い上がる」
無題 Name 名無し 19/10/04(金)17:19:01 No.1286173
「敵はすでに、陣前6、7百メートルまで接近し、敵の迫撃砲の弾着も、次第に正確になってきた。しかし(略)観測班が全滅したため、少尉は自己の双眼鏡を頼りに敵の重火器を捜し出し、その距離を目測する一方、さらに、弾着観測まで行なわねばならなかった(略)」
「突然、辻上等兵が叫んだ。
『隊長殿、もう危険ですから、伏せて観測して下さい。敵の迫撃砲弾の音が、”シュル、シュル”から”シュッ、シュッ”に変わってきました』
辻上等兵は、中支戦線で負傷した現役の3年兵で(略)数多くの戦闘を経験しているだけに、いうコトに”ソツ”がない。
『分かった、分かった』
辻上等兵の助言をいれた少尉は、それ以降、伏せて観測することにした」
…そうです
なんというか、歩兵同士が殴り合う最前線でのホヘイホーの頼りがいと同時に、相手からも撃たれまくる危険度の高さも伝わってくる感じですねえ
無題 Name 名無し 19/10/04(金)20:00:44 No.1286196
歩兵砲としてお下がりの山砲を使ってる部隊もかなり多いイメージがある
無題 Name 名無し 19/10/04(金)20:07:54 No.1286197
http://cgi.2chan.net/f/src/1570187274363.jpg
未だ第一線で活躍する無反動砲
安価で軽いってのが魅力的
最後の歩兵砲
無題 Name 名無し 19/10/04(金)21:19:15 No.1286207
歩兵砲って小隊編成で大隊指揮下なんですか?
小隊の定数は何門くらいなんでしょう
無題 Name 名無し 19/10/05(土)15:46:23 No.1286299
先述の緩詰さんの手記によると、歩兵第119連隊の3個大隊にそれぞれ1個の「大隊砲」小隊があって、各小隊に2門のホヘイホーが配備されていたそうなんですが、氏が戦死した前任者の交替に着任した第3大隊・第3歩兵砲小隊の場合、当初65名いた人員がわずか8名までに消耗しており、着任後の「初仕事」は隊員の懇請を受けて、扱いかねるホヘイホー1門を大隊本部に後送する許可を得ることだったそうです
因みに、戦闘前の隊員さん達との雑談では、同小隊並びに連隊砲(41式山砲)が、銃火飛び交う最前線に前進配備されたため、大きな被害を受けた直前の戦闘が話題になったそうなんですが
「連隊砲の全滅(略)を知った中島軍曹は、
『連隊砲はお気の毒でした(略)それにしても、うちの連隊には、間接射撃が”建前”の連隊砲や、大隊砲の特性を知らない幹部が多すぎますよ』
無題 Name 名無し 19/10/05(土)15:48:24 No.1286300
『大隊砲の陣地なんかも、そりゃひどいものでした。何の遮蔽物もない、第一線のすぐ傍で陣地を取らされました。これじゃ、大隊砲の威力が、発揮できるわけがありません。連隊の幹部には、直接射撃よりできない砲と、間接射撃が建て前の砲との違いを、もう一度、勉強しなおして欲しいと思いますよ』
と、少尉に話しかけた。
『その通りだ。歩兵操典にも謳っているように、大隊砲と連隊砲は、砲兵と同様の間接射撃が基本で、この方法で射撃しない限り、砲のメリットは発揮できない(略)』
と、少尉は答えた。
二人の会話を聞いていた辻上等兵が不安を感じたのか、突然、横合いから口を挟んだ。
『隊長殿は、将校学生として連隊でただ一人、歩兵学校で歩兵砲を研修してこられた将校です』
無題 Name 名無し 19/10/05(土)15:49:16 No.1286301
『今後、歩兵砲の特性を無視するような命令が出た場合には、歩兵砲のベテランという立場で、堂々と意見具申をしてください』
『分かった。今後のことは心配するな』
と、いって、少尉はこの話を打ち切った」
…んだそうで
最前線で支援される側から言えば、ホヘイホーやレンタイホーにはすぐ傍にいてもらって、あの機関銃を潰してくれ!あそこのハクゲキホーをやってくれ!!と適宜対応してもらいたかったんじゃあないかとは思うんですが、相手が良く見える場所というのは、逆に言えば相手からも良く見える配置なわけで、曲がりなりにもそれなりの長射程を有するホヘイホーが、隠蔽された陣地から出て敵の火点を直射するような用法は、「本職」に言わせれば寧ろ邪道だったということなんですかね…?
無題 Name 名無し 19/10/06(日)01:35:59 No.1286362
>『大隊砲の陣地なんかも、そりゃひどいものでした。何の遮蔽物もない、第一線のすぐ傍で陣地を取らされました。
先日図書館で読んだ個人の回顧録でも中国軍の機関銃座に応射していて
なるほど確かに相手の射線の矢面に立たされる訳ですね…
無題 Name 名無し 19/10/05(土)16:01:21 No.1286304
なるほど
2S1やTOS-1みたいな機材が欲しいのにFH70みたいな牽引砲前に出して支援させられるようなこと現場は強いられてたわけですね
というか砲兵の編成なのに小隊編成で2門だけなんですね
前線の歩兵と連動するから機敏じゃないとダメだからかもしれませんけど
無題 Name 名無し 19/10/05(土)18:34:46 No.1286315
一応九二式歩兵砲は、その先代の十一年式歩兵平射砲の後継として、曲射と平射の両方が出来るってのが売りだったから・・・
でも自分が砲手だったら、やっぱり隠蔽された陣地から射撃させて欲しいかな、やっぱり
無題 Name 名無し 19/10/06(日)07:58:44 No.1286368
>一応九二式歩兵砲は、その先代の十一年式歩兵平射砲の後継として
十一年式平射歩兵砲の正統後継って、九七式自動砲じゃないのん?
無題 Name 名無し 19/10/05(土)18:46:37 No.1286316
レイテ島に降下した高千穂降下部隊のうち、バレンシア飛行場に降りた挺進第四連隊は、空中投下した大隊砲も装備していて、リモン峠からカンキポット山麓に追い詰められた残存日本軍の数少ない砲火力だったようだ。
敗残の日本軍を舐めてかかった米軍を引きつけて、縦隊のど真ん中に榴弾を炸裂させて吹き飛ばしたり、襲撃してきたゲリラを四散させたり最後まで大隊砲は頼りになったようです
無題 Name 名無し 19/10/05(土)19:16:53 No.1286322
>前線の歩兵と連動するから機敏じゃないとダメだからかもしれませんけど
緩詰氏は本来ホヘイホーの教官役&小隊長だったのが、臨時に連隊に組み入れられた機動対戦車砲(1式機動47ミリ砲)小隊長に任命されていたそうなんですけれども、牽引車による移動(機動)前提で基本分解搬送しないこの対戦車砲は、本来歩兵連隊とは「水と油の関係」であった、なんて述べておられましたり
要はまあ、当時のIJAのホヘイホーなら、最低限人の手のみで移動できる大きさ止まりが限度、と考えられていたみたいなんですな
因みに引続き氏の手記からになるんですが、結局戦局利あらずして連隊は転進、「大隊砲」小隊も砲を分解、隊員さん達が手分けして担いで搬送したものの、夜間、その上あいにくの大雨の山中で足を滑らせながら重い砲部品を運ぶ撤退行は、まさに「地獄の苦しみ」であったんだそうで
無題 Name 名無し 19/10/05(土)19:19:49 No.1286323
やがてどうにか山を越え、鉄道線路が通る所まで辿り着いたところで砲を組立て、線路上を引いて移動することにしたそうなんですが、
「この転進行で、第3歩兵砲が困惑したのは駅や鉄橋だけでなく、爆撃によって線路までが寸断され、貨車が随所で立ち往生していることだった(略)中を覗くと、真新しい大隊砲と連隊砲が(略)ギッシリ詰められていた」
「ここまでさんざん苦労して砲を下げて来た隊員たちの心境は、複雑だったはずである(略)貨車内に捨てられている多数の大隊砲、連隊砲を、じーっと凝視していた。”何も、死ぬような思いまでして、砲を下げる必要はなかったのに…”と、思う隊員がいたとしても、決して不思議ではなかった」
無題 Name 名無し 19/10/05(土)19:20:58 No.1286324
「だが、その瞬間、水島兵長が一喝したのだ。
『みんな、よく聞けっ!俺達の砲はな、苦労して、はるばる日本から運んできた砲だっ!それに、この砲には、戦死された大同曹長殿以下、各隊員の執念がこもっている。よいかっ!魂の入ったこの砲だけは、みんな、生きているかぎり大事にしないと罰が当るぞっ!』
この一言が効いて、多少割り切れない気持を抱いていた隊員も、すっかりモヤモヤを払拭し、砲への親近感をよりいっそう深めた様子だった」
…なんてこともあったそうです
今の私らからしましたら、多少不合理に思えるようなリクツでも、当時実際文字通りホヘイホーと生死を共にされた将兵さんにとっては、物言わぬホヘイホーも戦友の分身、あるいは戦友そのもののように思えたというのは、ごく自然な思考だったんでしょうかねえ
無題 Name 名無し 19/10/05(土)19:30:02 No.1286329
アメちゃんみたいに後ろからどんどん新品が送られてくる訳でもないからなぁ
遺棄された砲からガタが来てる消耗部品を拝借してもバチは当たらんと思うけど
…別に移動してた本来の持ち主が回収しに来たときが困るか
無題 Name 名無し 19/10/05(土)20:02:45 No.1286334
「人力でも担送可能」が痩せ衰えたフラフラの病兵にまで強いられる負け戦はつらい
専用の背負子やクッションパッドといった人間工学的配慮も足りんし
無題 Name 名無し 19/10/05(土)20:23:32 No.1286337
>「人力でも担送可能」が痩せ衰えたフラフラの病兵にまで強いられる負け戦はつらい
>専用の背負子やクッションパッドといった人間工学的配慮も足りんし
その点無反動砲は良いなぁとつくづく思う…旧軍に有ればどんなに良かっただろうか
無題 Name 名無し 19/10/05(土)20:45:03 No.1286339
>その点無反動砲は良いなぁとつくづく思う…旧軍に有ればどんなに良かっただろうか
でも弾薬運搬は結局臂力搬送になるので苦労はしたと思いますが
機械力さえあればねぇ・・・
無題 Name 名無し 19/10/05(土)20:52:20 No.1286340
出た!どこの話でも涙なくして聞けない砲兵臂力搬送
とっくに曳馬も駄馬も消えていたのが解かります
「砲側墓場」の話も当時の砲兵らしくて良い?ですね
砲側照準で撃っているから観測はやられたんだと思って読んでいたら想像以上の損耗でした・・
小隊65名が8名・・弾薬運びも小隊内臂力搬送ですからこれはもう・・
一式機動47ミリは扱っていた兵隊の評判が悪いですね
私が聞いた師団速射砲隊小隊長も「欠陥」だと言っていました
そういう砲の構造上の問題以前に古い37ミリより重くて嫌われたようです(そこは優良師団で装軌牽引車を持っていましたが)
『最悪の戦場 独立小隊奮戦す』は昔読んだ記憶があるのに内容を全く憶えていなかったなぁ
日本軍知識が今ほどなかったからかな
無題 Name 名無し 19/10/05(土)22:05:04 No.1286344
http://cgi.2chan.net/f/src/1570280704840.jpg
無反動砲も人力でやろうとすると大変だったみたいだから
機械力の有り難さよ
無題 Name 名無し 19/10/06(日)08:05:23 No.1286369
IJNの主計士官だった瀬間喬さんの手記に、所謂カイグン陸戦隊についての解説に関連して、支那事変の際、厦門攻略の為に新編された佐世保鎮守府第7特別陸戦隊(佐7特)の「砲隊長」に命じられた海軍士官サンの話が紹介されているんですが、曰く
「佐7特は野砲と12糎榴弾砲、92式歩兵砲を持っていたが、皆陸軍の兵器なので、佐世保鎮守府の参謀に、これら陸軍の各種砲の操式や教範類を陸軍から借りるか陸軍から教官を派遣してもらってくれと言ったが皆ことわられた」
「後で判ったことであるが、それは、この厦門上陸作戦を敵ばかりでなく陸軍にも秘匿せねばならなかったからだそうである(略)陸軍は後で(略)行う予定のバイアス湾上陸(広東攻略)の企図がばれることを懼れて(略)遂に中央に於ける陸海の協定が成立しなかったからである」
無題 Name 名無し 19/10/06(日)08:07:06 No.1286370
「着任から輸送船に乗って出発する迄、僅か5日間の間に軍令部から送ってきたガリ版刷りの説明書を見たり自分で手探りで研究するやらしたが、操法を覚えるのがせい一杯で訓練にまでは及ばず、艦砲射撃は亀が首等の射場を持っているが陸砲の射場はないので、庵崎の裏の機銃の射場で減装薬と常装薬による歩兵砲の試射をしただけで出発して」
…いるそうです
幸い、本番の厦門上陸戦では、艦砲および航空機の支援を受けて作戦自体は成功裡に終ったそうなんですが、
「これが陸軍の場合は少なくとも何ヵ月か前から訓練を積んで上陸となるであろうが、海軍ではこのように各種の陸軍砲も初めて見る人ばかりで、悪く言えば泥縄式で陸戦をやる場合があったようである」
…なんて、瀬間氏は結んでおられましたり
まあ、そんな付け焼刃でも扱えるくらい、素直ないい砲だったって話ですよね、コレ(棒
無題 Name 名無し 19/10/06(日)09:57:02 No.1286377
本題ではないですが十二糎榴弾砲なんて持ってたのですね
そういえば後にチハに乗せてたわあ
無題 Name 名無し 19/10/06(日)10:24:29 No.1286381
逆に海軍から大砲あげる代わりに陸戦兵器(小銃?)譲ってもらったりもしたらしいし
持ちつ持たれつってやつですな
無題 Name 名無し 19/10/06(日)14:24:44 No.1286421
|
無題 Name 名無し 19/10/06(日)14:30:27 No.1286422
「陸軍技術本部は昭和10年6月、小部隊と行動を共にし、随時戦車に対して威力ある射撃ができる軽量な20mm自動砲または13mm手動銃の必要を認め、研究に着手した。」
「この頃までに歩兵連隊と大隊の対戦車戦闘兵器として、41式山砲や92式歩兵砲の装備化が行なわれつつあったのに対し、歩兵中隊単位の対戦車戦闘兵器はまだ存在していなかったため、参謀本部と陸軍省は20mm自動砲か13mm手動銃のいずれかを中隊に持たせることを検討していた」
「陸軍技術本部は昭和10年6月、研究に着手し(略)翌11年3月、第1次試作品が完成した」
…そうです
両者の間には開発時期で5~7年程の差がある他、ジドーホーの方は寧ろダイタイホーやレンタイホーより更に小部隊の単位、行ってみれば”中隊砲”としての役割を期待されていたってコトなんでしょかねえ
無題 Name 名無し 19/10/06(日)14:37:00 No.1286425
因みに陸軍省軍務局軍事課・資材班所属だった加登川幸太郎さんによると、昭和15年3月におけるIJA主要火砲の生産高は
・92式歩兵砲…20門
・94式山砲…2門
・41式山砲…7門
・96式15糎榴弾砲…10門
・4年式15糎榴弾砲…3門
・96式15糎加農砲…2門
・89式15糎加農砲…3門
…であったそうなんですが、97式自動砲の生産数が昭和15年度で450門だそうですので、単純に月割りですと月産約38門という勘定に
つまり月間生産数で言えば92式歩兵砲(1門7千330円)と、97式自動砲(同6千400円)の2者がツートップだったようなんですが、それだけにこうした生産数から見る限りは、現場の将兵さんにもっとも身近な「砲」ではあった、ということになるんですかしら…
無題 Name 名無し 19/10/06(日)18:31:05 No.1286445
山砲はともかく重砲まで新型・旧型が並行して生産されてたんだ
無題 Name 名無し 19/10/07(月)01:40:58 No.1286471
歩兵砲や自動砲の生産数が多かったというよりは、むしろ他の砲の生産数が少なかったというべきなのかもしれませんね…
無題 Name 名無し 19/10/07(月)16:04:54 No.1286484
『「砲兵」から見た世界大戦』という本を読んだら米軍でさえ砲兵戦力や運用が貧弱とされていました
英ソの砲数、運用が進んでいると
(砲兵投射量と兵員損害は反比例の法則)
米軍は英ソに比べると砲兵が貧弱なので航空という空中砲兵のアウトレンジ戦法で勝者になったと
それを考えれば砲兵戦力でも日本が相当貧弱というのは間違いないでしょうね
無題 Name 名無し 19/10/08(火)04:55:49 No.1286537
>米軍でさえ砲兵戦力や運用が貧弱とされていました
なんでもアホみたいな数作る米軍だけど、大砲だけは独ソに大きく溝開けられてるからな。
缶詰や電話線まであるレンドリースにも、大砲関係はほとんど入ってない。
無題 Name 名無し 19/10/08(火)06:54:57 No.1286538
>米軍でさえ砲兵戦力や運用が貧弱とされていました
日本軍の小銃も戦車も鹵獲したところでお土産位の価値だったろうに
砲だけは自前で整備して使用してるよね
無題 Name 名無し 19/10/07(月)16:26:07 No.1286485
中国大陸で従軍されていた方の戦記にあった話なんですが、任務の為に出張した先の守備隊(歩兵中隊)に、珍しく連隊砲(41式山砲)らしきモノが中隊本部にシートをかけ置いてあるのを見て、中隊長さんに
「隊長殿、ここには連隊砲があるんですね。凄いですなあ」
…と話しかけた所、
「ああ、あれか、あれは偽砲だよ」
「ギホウ?」
「偽の大砲だ。あれは木製だよ。だからいつもシートをかぶせてある。ただ大砲があるとなると、敵も恐れて出てこんからなあ」
…となんて答えが返ってきたそうです
チホーチュートンの小守備隊レベルですと、レンタイホーなんかはまさに高嶺の花だったみたいですねえ
無題 Name 名無し 19/10/07(月)16:27:04 No.1286486
因みに余談なんですが、ブーゲンビル島で戦った歩兵第23連隊の中隊長だった津々谷利保さんという方の手記にも、同連隊の「大隊砲」の戦闘の様子が紹介されておりまして、
「敵の砲撃が開始された(略)私は中隊を躍進させ駆け足を命じて、敵の弾幕の後縁に出た。ちょうど、そこに小川が流れていた。意外に深く、胸のあたりまで水があったので、中隊をそのなかに入れた」
「そのうちにわれわれが小川にひそんでいるのを察したのか、猛烈に小銃や機関銃を撃ちだした」
「我々の右側には、大隊砲がやはり小川の中にいたが、どうして脚を固定したのか、川の中から零距離射撃を数回おこなった」
無題 Name 名無し 19/10/07(月)16:28:06 No.1286487
「すると、敵は沈黙してしまった。じつに勇敢な射撃であった」
…と、中隊の危機を救った、頼もしいダイタイホーの活躍ぶりを紹介されておられるんですが、それでもやはり戦闘後,殊勲の砲を撤収する際には
「敵前で、しかも小流のなかでの分解、搬送とあって、ずいぶん時間がかかった」
…そうです
というかまあ、ダイタイホーというか92式歩兵砲の射撃体制自体がそもそも非常に低姿勢ですから、操作する砲員さん達は恐らく川の中に浸かりながらというか、下手すれば半潜水状態での必死の射撃だったんじゃあないでしょうか…
無題 Name 名無し 19/10/07(月)22:21:47 No.1286519
逆に砲身が短いのが幸いして、水が入っても腔発を起こしにくかったとか・・・?
無題 Name 名無し 19/10/08(火)18:01:52 No.1286572
ニューギニアで戦った歩兵第66連隊所属だった、篠田増雄さんという方の手記によると
「わが軍の砲兵も、第一線部隊の後方に進出できるのは、道なき山岳地帯で分解搬送のできる山砲までであった。それとても容易なことではなく、一門の砲を搬送して陣地に進入し、弾薬を準備して発射するまでには数日を要した。しかも密林内に入れば射界がなく、草地にあれば敵に暴露して、ただちに敵機に発見されて砲爆撃の目標となった」
「さらに密林は観測点にとぼしく、第一線部隊との通信連絡も十分とれず、第一線部隊は砲兵部隊への期待はできなかった」
「その点では、歩兵部隊の連隊砲も同じで、わずかに大隊砲小隊のみが第一線に踉随して、支援射撃を実施した。それでも携行できる弾薬は少なく、これへの期待もまたできなかった」
…んですとか
無題 Name 名無し 19/10/08(火)18:03:01 No.1286574
一方、同じくニューギニアの歩兵第78連隊で、第2大隊の「歩兵砲」小隊長だった石川熊男さん曰く
「私が指揮する小隊は歩兵砲の独立小隊で、本来は馬匹20頭余で、砲と弾薬とを搬送する編成であった。しかし、ここニューギニアの戦場には、1頭の馬匹もいなかったため、兵は自分の装具と一緒に砲や弾薬も担がねばならなかった」
…そうなんですが、おかげで行軍中に
「小銃中隊なみの行動ができず、ついに本隊からとり残されてしまった。小隊全員で57名、携帯の小銃はわずかに10挺である。このジャングル内で敵と遭遇すれば、ひとたまりもなかった」
…為、やむなく貴重なコメを涙を呑んで投棄し、荷物を軽くして進んだなんてコトもあったんだそうで
無題 Name 名無し 19/10/08(火)18:05:46 No.1286575
また陣地構築についても
「不満ではあったが、観測砲間隔約5百メートルの位置に砲陣地を決定した。観測所は、豊富な樹々を使ってトーチカ様に構築した」
「これが砲兵隊であれば、高度な技術と兵器とにより遠隔観測によるので、観測間隔など問題にしないが、歩兵砲隊ではこの間隔がせまくて、敵に砲陣地を曝露しないということが必要条件であった」
「しかし、この一帯は(略)鬱蒼たる森林であり、自然の姿をとどめながら、しかも広範囲の目標を射撃可能な場所は認めることができなかった」
「だからといって、思いのまま樹木を伐採すれば、完全に敵に制空権を握られ(略)ている現状にあっては、砲はいっきょに撲滅されてしまうことは必定であった」
…という悩みがあったそうです
支援される側の歩兵サンが、最後までついて来てくれるダイタイホーですら当てにできなかった、という裏には、こういうやむにやまれぬ事情があったということみたいですねえ
無題 Name 名無し 19/10/09(水)04:16:30 No.1286605
砲兵の最大の任務の一つは相手の砲をつぶすことだしね
ジャングルと人力輸送で陣地変換が難しいなら偽装をしっかりやるしかないわけだ
無題 Name 名無し 19/10/10(木)11:27:08 No.1286680
まぁ本来、歩兵砲と「本職砲兵」では任務が違いますが・・
想定戦場が大陸でソ連相手だとしても、実際の戦闘を考えると日本陸軍は対砲兵戦をあまり考慮していないのではないかと・・
砲の性能的にも数的にも
そういう意味では本職砲兵も歩兵砲も歩兵直接支援が主務になっているようにも思いますね
無題 Name 名無し 19/10/10(木)17:05:29 No.1286706
先述の石川さんのホヘイホー小隊は、レンタイホー中隊から1個分隊の41式サンポー(1門)の増強を受け配置に付いたそうなんですが、まず最初の陣地はコーヘイさんたちが手回しよく用意してくれていたものの、気を利かせてくれたものか陣前60度の範囲にわたって樹木が伐採されている上に、場所も歩兵と共に最前線の一翼を為す位置という、間接照準を特性とする砲陣地としては、正直に言って「最低の陣地であった」そうです
実際、敵の攻撃が開始されると、危うく敵部隊に近接戦闘で蹂躙されそうになった上、猛烈な砲撃を受けはじめたので、連隊長に陣地変更を直訴し許可を得て、自身で適地を調査の上で、新たな陣地を構築したんだそうで
この陣地は流石に隠蔽がしっかりしており、数度に渡って敵の攻撃を撃退するのに大いに貢献しているんですが、石川氏曰く
無題 Name 名無し 19/10/10(木)17:16:03 No.1286707
「敵偵察機は(略)私たちの上を(略)わがもの顔に飛翔していく。そして、なにか異常を発見すると、発煙筒を投下して味方に知らせる。敵砲兵はこの偵察機の誘導により、猛砲撃を加えてくるというわけである」
「歩兵砲の射撃は、一般的には2門によって試射し、その弾着の遠近を確認した上で修正する。そして、さらに発射して、目標付近に着弾すれば、効力射に移行するのが通例である」
「ところが、敵は3門ずつ、それぞれ距離をちがえて同時に発射して挟差するという試射を行い、2回目には効力射に移るのである。したがって、退避する時間もないくらいであった」
…とのことで、「本職」の敵砲兵隊相手に多勢に無勢の歩兵砲側としては、陣地の隠蔽は文字通り死活問題であったようですねえ
無題 Name 名無し 19/10/10(木)17:17:34 No.1286709
そんな一方で、「屏風山」と名づけられた高地上の別陣地の守備の為にも、同小隊から1個分隊(1門)のダイタイホーが分派されたそうなんですが、
「この屏風山とは、その名のごとく屏風が屹立したような山であった。その稜線上は広いところでも2~30メートル、狭いところでは50センチぐらいしかない岩山である(略)人を寄せつけない急斜面であった」
「したがって、敵は稜線上から来攻する以外に手段はなかった。この敵にたいしては、側面から砲撃するよりも同一線上からするほうが、大隊砲(曲射・平射兼備、射程2千8百メートル)の特性を生かすことができ」
…小銃装備の歩兵さん達との協力も、非常にスムーズにいったそうです
局地的には、軽快性優先で人の背で担ぎ上げられ、ハクゲキホーと違い平射も出来る小回りの利くダイタイホーにこそ、最適な戦場ももあったりしたということなんですかしら…
無題 Name 名無し 19/10/10(木)22:51:41 No.1286736
>「この屏風山とは、その名のごとく屏風が屹立したような山であった。その稜線上は広いところでも2~30メートル、狭いところでは50センチぐらいしかない岩山である(略)
>人を寄せつけない急斜面であった
ここまで極端に急峻だとビルの乱立する市街地での戦闘と変わりませんね
直射火力のほうが有利なんでしょうね
無題 Name 名無し 19/10/11(金)00:07:25 No.1286739
中国軍も軽量砲が好きで山砲を買ったりコピーしてましたけど
九二式歩兵砲のコピーは聞いたことない辺り、何か思う所あったんでしょうかね
無題 Name 名無し 19/10/11(金)06:09:22 No.1286751
>中国軍も軽量砲が好きで山砲を買ったりコピーしてましたけど
>九二式歩兵砲のコピーは聞いたことない辺り、何か思う所あったんでしょうかね
上でも書かれてるけど射程も命中制度も山砲に劣る上
他に迫撃砲とか性能は同程度で生産か平易な砲の選択肢があるなら積極的に作るものじゃないよね...
無題 Name 名無し 19/10/11(金)12:34:39 No.1286765
他国の30~40年代75ミリクラス歩兵砲と云えば、米国のM1A1(所謂パックハウザー)、独のleIG18くらいしか知らないんだけど英仏ソはなかったのかな?
知ってる限りだと57~76ミリ野砲や対戦車砲が歩兵直協兼用という感じ?
山岳部隊(アルピーニ)があったイタリアなんかも中口径歩兵砲や山砲ありそうだけどもどうなんでしょうか?
無題 Name 名無し 19/10/11(金)12:46:21 No.1286767
ここで云う「中国軍」って国民政府軍(蒋介石軍)ですよね?
で「買ったりコピーし」たのって米国供与のM1A1の事?
それって大戦末期(S19くらい)ですよね
それより前に八路など共産軍や軍閥、国府軍に鹵獲された大隊砲って結構ありそうに思ったり・・
大陸軍閥の基本戦術、遊撃戦に砲の帯同は向かないとは思いますが
それらが展開、撤収が速い迫撃砲を多用したのも当然だと思います
無題 Name 名無し 19/10/12(土)20:41:58 No.1286900
http://cgi.2chan.net/f/src/1570880518641.jpg
>それより前に八路など共産軍や軍閥、国府軍に鹵獲された大隊砲って結構ありそうに思ったり・・
師団砲だけどM10に鹵獲九一式十糎榴弾砲を積んだのが
第二次国共内戦で確認されてますね
無題 Name 名無し 19/10/12(土)19:12:56 No.1286883
国民党軍では旧式のクルップ社製サンポーがホヘイホーの代用品として多数使用されているほか、新型のラインメタル社製leIG18ホヘイホーも輸入して、支那事変の頃から対日戦で使用しているそうです
或いはIJA側の92式ホヘイホーと、日中というか日独ホヘイホー対決みたいになった戦場もあったかもしれませんですが、その後大東亜戦争後の国共内戦まで使用されていて、共産党側に接収されたモノが現在も北京の博物館に保存されているそうですので、軍板住人諸子の方々の中には、御覧になっている方もおられるかもしれません…w
無題 Name 名無し 19/10/12(土)19:15:35 No.1286885
またサンポーについては、まだ各地の軍閥割拠の時代から、先述のようにクルップ社製の75ミリ「克式山砲」が大量に輸入されていた他、各地での現地生産が行われており、比較的新型としてはボフォース社製75ミリ山砲(Model 1934)が支那事変時期から使用されている他、日本から輸入された「31式山砲」「41式山砲」「6式山砲(41式山砲の輸出仕様)」、並びに「41式山砲」の現地コピー生産品である「13式山砲」「14式山砲」等があったそうで、満州事変や支那事変では逆にこれらの(現地生産含む)メイド・イン・ジャパンのタイホーが、日本軍目がけて火を噴いてくるコトになっちゃうわけですねえ
オオ・・・インガオホー!
無題 Name 名無し 19/10/12(土)19:17:44 No.1286886
戦前、中国各地の軍閥、特に満州の張作霖=サンの奉天軍閥みたいに日本政府の支援があったような所は、日本製兵器の大のお得意様でもありましたそうで、所謂「泰平組合」を通じて多数の兵器弾薬が輸出されており、その中には「11年式平射歩兵砲」「14式歩兵砲(同砲の輸出仕様)」「11年式曲射歩兵砲」などのホヘイホーも含まれていて、やはり後にサンポーなどと同様、現地の工廠でコピー生産もされているそうです
従ってこうした日中の友好時代がもう少し続いていたなら、各地の軍閥、或いは国民党軍で「92式歩兵砲」、或いはそのコピー品もも当然使用されたとは思うんですが、同砲の試作品が完成した昭和5年というのはちょうど満州事変前夜、日中関係が既にだいぶ悪化していた時期なんですよね
その後の支那事変で日本の92式歩兵砲に対して、国民党軍がラインメタル社製品を使用して対峙したというのは、ある意味そういう時代背景の反映なのかもですなあ
無題 Name 名無し 19/10/12(土)22:36:13 No.1286923
四一山砲をコピーしていたとは!
leIG18も使っていたんですね・・
(独軍事顧問が居るからか)
支那軍に疎いのでご教示有難うございます
>師団砲だけどM10に鹵獲九一式十糎榴弾砲を積んだのが
これはモノスゴイものが・・・
M10ローカルメイドみたいなキャノピーに30口径まで
乗員は日本戦車帽着用というすごい写真ですねぇ
無題 Name 名無し 19/10/13(日)02:40:33 No.1286941
http://cgi.2chan.net/f/src/1570902033364.jpg
シャーマンのサイズだと十榴の後座長気にならないんですかね
無題 Name 名無し 19/10/13(日)06:02:44 No.1286946
>九一式十糎榴弾砲
検索すると
後座長1100~1170mm
とかなり長い数値が出てきますが装薬を三段階に調節できると言う事なので
九一式ではないのですがこっちの動画を見るとそれほど長くないようにも見えます
https://www.youtube.com/watch?v=n8eHQdyyuLw
無題 Name 名無し 19/10/13(日)06:08:42 No.1286947
105㎜榴シャーマンもおるし17ポンドや90㎜の後座すごそうなのも載ったわけだし余裕でそ
M10砲塔だとオープントップなのが発射時の気圧上昇対策や換気によさそうだが妙な天蓋ついとる
相手を考えると優秀な3インチ砲わざわざ降ろしてまで榴弾威力欲しかったんかな
無題 Name 名無し 19/10/13(日)06:55:50 No.1286948
車載する場合は駐退機の調整とか交換で後座量の短縮くらいするんじゃないの?
戦車の重量なら反動を抑えられるだろうし
無題 Name 名無し 19/10/13(日)13:32:09 No.1286982
http://cgi.2chan.net/f/src/1570941129152.jpg
日本で九一式十糎榴弾砲をチハタンの車台にのっけた1式10糎自走砲の場合ですと、後座長は590から620㎜、高低射界は-15度から+25度まで、という諸元なんだそうで
車体サイズの大きなシャーマン版なら、もう少し余裕が付けられそうですけれど、ココらへん米軍の鹵獲した1式10糎自走砲の調査データが反映されていたりしたら面白いんですが…w
因みに余談ですが、支那事変に際して、中国側が購入していた各国各種のタイホーは、鹵獲後そのまま現地で使用されたり、国内で戦利品として展示されたりと様々な運命を辿っっているそうなんですが、優秀なモノについては日本国内でコピー生産されて制式装備になっていたり、後の大東亜戦争期にも各地の部隊に配備されて対米英戦に使用されていたりもするんですとか
例えば1942年、ガダルカナル島に上陸してきた米海兵隊を撃退すべく派遣された所謂「一木支隊」には、鹵獲品の独ラインメタル社製37ミリ対戦車砲4門が配備されていたそうです(独立速射砲第8中隊)
無題 Name 名無し 19/10/13(日)13:36:11 No.1286984
http://cgi.2chan.net/f/src/1570941371085.jpg
もっとも、真先にガ島に上陸した同支隊の第一梯団(916名)には、駆逐艦輸送&折り畳み舟艇による上陸という条件から、折角の舶来品のソクシャホーも同行できなかったそうなんですが、一方で編成を見ると1個大隊砲小隊が含まれていて、結局一木支隊先遣隊唯一の火砲戦力はお馴染みのホヘイホー2門のみ、ということだったようです
周知のように、一木支隊先遣隊は密林内を40キロ近く徒歩移動の後、イル川河口付近で待ち伏せていた米軍部隊との戦闘でほぼ壊滅してしまうんですが、米軍側戦史によれば
「一木支隊は最初の突撃に失敗すると、砂州の端の海兵隊陣地に大砲・臼砲・機関銃射撃を集中したので、海兵隊はあらゆる火器を用いて西岸陣地から砂州と海浜の日本兵に射撃を浴びせかけ、朝までに(略)河口は日本兵の死体で埋まった」
…とのことで、実際日本側のダイタイホー小隊が、叶わぬながら優勢な米軍部隊に必死の反撃を試みていたことがわずかなに窺われましたり
無題 Name 名無し 19/10/13(日)13:38:17 No.1286986
第一梯団生き残りの歩兵小隊長だった佐藤少尉の証言によると
「負傷者、後退者の報告によると(略)敵火力は圧倒的で、味方の重機関銃や大隊砲、いわんや擲弾筒ごときでは、とうてい対抗できない(略)戦車6両が出現したが、速射砲を持たない支隊は、その蹂躙にまかすほかなかった」
「花梅大隊砲小隊長が部下とともに後退してきて、支隊の壊滅状態を確認(略)後続後退者のうち『大隊砲1門がまだ応射していた』という者があり、花梅小隊長は血相を変え、制止を振り切って前線へ駆け戻っていった(略)帰ってこなかった」
…そうです
この戦闘で鹵獲されたとキャプションの付く、92式歩兵砲の写真がいくつか残されているんですが、或いは潰走する1木支隊の殿で、最後まで奮戦していたのかもしれないですねえ…
無題 Name 名無し 19/10/13(日)16:16:35 No.1286999
あちこちで早々にドアノッカー呼ばわりの失格扱いされた37㎜級に榴弾の破片効果でいいじゃんと消えつつあった榴散弾だが
太平洋のジャングルでは対戦車砲に速射砲にと活躍されてしまった
無題 Name 名無し 19/10/13(日)17:14:53 No.1287004
ジャングルの中を移動するなら小回りが効く方が良いってのはアメちゃんも同じだったろうし
鹵獲した大隊砲を重宝した、ってのも案外そういう理由だったりして
無題 Name 名無し 19/10/14(月)02:12:15 No.1287048
http://cgi.2chan.net/f/src/1570986735469.jpg
「一木支隊」の攻撃が頓挫した後、続いて歩兵第124連隊を基幹とする「川口支隊」がガ島に揚陸されるんですが、その途上で駆逐艦「朝霧」がガ島基地を飛び立った敵機の攻撃で撃沈され、同乗の同連隊第2大隊歩兵砲小隊もホヘイホー2門と兵員多数を失うなどの被害を受けるという、いかにも幸先の悪いスタートであったんだそうで
実際、9月13日から14日にかけての「川口支隊」の夜襲も米軍の堅陣を抜けず、結局日本側はマタニカウ川西方に残存勢力を撤収するんですが、連続で日本軍の反攻を撃退して意気上がる米側は更に追撃を決意、伊藤正徳せンせいの「帝国陸軍の最後」によると
「夜襲戦の終わってから4日の後に(略)海兵第7連隊が来着して画意大いにあがり、この機を逸せず、疲憊の日本軍を追撃して痛打しようと決意(略)3個大隊が用心深く進み、それが日本軍の視界に入ったのは(※9月)25日であった」
…んですとか
無題 Name 名無し 19/10/14(月)02:13:09 No.1287050
http://cgi.2chan.net/f/src/1570986789522.jpg
しかしながら、「川口支隊」の残存部隊はコレによく抵抗し
「わが軍の猛抵抗にあい、彼らはマタニカウ川を越すことができなかったので、グリフィス中佐の大隊は河に沿うて下り(略)マグドーガルのだいたいが合流して突破を試みたが、わが軍は必死に防いで、彼らの渡河を許さなかった。グリフィスは重傷を負い、またエドソン夜戦の殊勲者ベイレー少佐も戦死した」
…そうなんですが、なかでも「大隊砲」は
「難境を救うため、ロージャース大尉の1隊は海上を航して日本軍の背面に上陸したが、その決死的行動も、わが倉掛中尉の指揮する大隊砲陣のために死傷続出、ほとんど大部分の兵を浜辺に晒して敗走した」
「日本の大砲(略)が、ガ島において、米軍を痛撃した最初にして、また最後の記録であったかもしれない」
…という活躍ぶりであったそうです
無題 Name 名無し 19/10/14(月)02:14:29 No.1287051
http://cgi.2chan.net/f/src/1570986869927.jpg
歩兵第124連隊(岡部隊)所属だった工藤雷介さんの手記によると
「9月25日、米軍の約3大隊が、川口支隊の東南方から攻撃してきた(略)河口をはさんで激戦が展開され、米軍は渡河することができず、海岸線へ退いた(略)交戦は三日間におよんだ」
「米軍はさらに新しい1コ大隊をわが(略)側背をつくため、舟艇9隻をもって逆上陸せしめた(略)第1大隊の歩兵砲小隊が海岸線で待ちかまえていた」
「舟艇群の先端がまさに上陸せんとするまで引きつけて、大隊砲2門が火を噴いた。たちまち3隻が沈没(略)はじめ千人と目された米軍は約半数となってしまった」
「翌日の偵察によると、マタニカウ川河口には約900の敵の屍体が浮かび、砂浜にころがていた」
「この戦闘は、岡部隊が、大きな犠牲は払ったが、唯ひとつ大きな戦果をあげた勝ち戦であった」
…そうなんですが、ダイタイホーもその勝利に、大きく貢献していたということみたいですねえ
無題 Name 名無し 19/10/14(月)05:09:55 No.1287056
昔フィリピンで大活躍した一式砲戦車の戦記を読みましたけれど、夜間のうちに射撃ポイントまで移動して、夜明けとともに撤収、徹底的に痕跡を隠して米軍の目を逃れる…って感じでしたね
相手方が優勢なら、こっそり移動と隠ぺいが可能な小型砲の方が結果的に生残率も高くなるのかも…
無題 Name 名無し 19/10/14(月)09:26:21 No.1287062
川口支隊の攻撃には、一木支隊第二陣の連隊砲も参加しているんだよね
戦友の敵討ちだっていうわけで随分撃ちまくったみたいだけど・・・
現実は非情であr(略)
無題 Name 名無し 19/10/14(月)15:05:30 No.1287088
https://cgi.2chan.net/f/src/1571033130548.jpg
こちらは大戦も末期の話になるんですが、既に息も絶え絶えの大日本帝国相手に追い打ちをかけるようにソ連が参戦し、大陸各地で日本側と激闘が始まるんですが、その戦場となった場所の一つに、朝鮮半島北部の清津という港町があったんだそうで
当時、羅南師管区羅南歩兵第一補充隊の主計将校だった岡元不器男さんの手記によると、
「8月12日、清津港にソ連がにわかに上陸してきて、8月19日、停戦命令が師管区司令部から伝達されるまで、われわれは一週間というもの無我夢中で交戦していた」
「私の部隊は全員召集兵であった。それでも中隊長には、中国で戦さ馴れした人がきていたし、小隊長は学校を出たての元気いっぱいの幹候出身者が多かった」
「わが部隊の一部は、清津周辺に展開(略)歩兵砲中隊の小隊長林崎正次少尉は、19名の部下をつれて(略)清津湾を眼下にのぞむ高秣山に赴いた」
無題 Name 名無し 19/10/14(月)15:07:06 No.1287089
「15日(略)午前10時ごろ、戦車をともなう敵が清津街道上(略)に現れ、攻撃を加えてきた」
「歩兵砲が先頭の戦車に命中させ、擱座させた。戦車の後ろを2列になって進んできたソ連兵は、蜘蛛の子をちらすように逃げ去った。しかし、空からお返しがくるので、貴重な歩兵砲は山の中に移動させた」
「高秣山に派遣された林崎小隊長以下19名は、全滅したとの悲報が届いた」
「去る13日ごろ(略)林崎正次少尉以下の歩兵砲分隊(略)は、上陸用舟艇をつぎつぎと撃沈したので、ソ軍は緒戦で上陸を1日延期した」
「しかし(略)敵は、高秣山のうしろの東海岸(略)に上陸して、高秣山を包囲していた。空襲と包囲攻撃を受けた高秣山陣地の守備隊は(略)ほとんどが壮烈な戦死をとげた」
無題 Name 名無し 19/10/14(月)15:11:21 No.1287090
…そうです
19日の停戦まで奮戦して、戦後はソ連に数年抑留されるも無事帰国された岡元氏曰く、
「当時、清津には日鉄、旭化成、三菱製鋼をはじめ、これらの会社に関係する大勢の市民がおられたが、こうした人たちが無事避難できたのは、これら英霊のおかげである」
「大東亜戦争の中で、戦さをして邦人市民のためになったのは、清津の対ソ戦をのぞいては他にないのではなかろうか」
…とのことなんですが、その清津攻防戦でも奮戦したダイタイホー(もしかしたらサンポーだったかもしれませんが)の健闘ぶりは、長い戦争の全期間、文字通り最後まであらゆる戦線で戦う兵隊さん達を支援し続けてきた、各地のホヘイホーとその砲兵さん達の活躍の最後を飾るに相応しいものだったんじゃあないでしょうか…
無題 Name 名無し 19/10/16(水)00:44:15 No.1287224
相手がソ連軍で良かった
戦車はおそらく軽装甲のT38とかではないかと
それなら大隊砲でも何とかやれますね
このスレのおかげでまた読みたくなり『最悪の戦場 独立小隊奮戦す』を買って再読しました
やっぱり面白いですね、この本
無題 Name 名無し 19/10/16(水)07:22:03 No.1287246
https://cgi.2chan.net/f/src/1571178123496.jpg
歩兵砲による対戦車破壊
引用元: http://cgi.2chan.net/f/res/1285803.htm
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コメント
あの本は射法をあまり考えないで米軍砲兵を評価してるから気を付けてね。
門数=火力じゃないのよ。
ソ連は数があっても、ドイツもだけど砲兵将校しか前進観測できないし。
伝令に頼る度合いが高くて、砲兵支援も伝令だのみの場合が少なからずありまして。
そりゃ大隊長も手元に歩兵砲おいて最前線で撃たせるわ。
ニューギニアのマダンだったかの話で、峠道を連隊砲一門だかしかないけど、砲弾が千発だかあって長期間守りきった話を靖国偕行文庫で聞いたんだけど、知ってる人いますか。
当時よりは、圧倒的に通信環境で恵まれてる今でも特科や重迫への要請は計画射撃はまだしも臨機目標だと現場レベルではリアクションが遅く感じるんで、当時なら尚更でしょうね。(勿論、砲側も急いでるでしょうが。)
そう言う意味でも普通科中隊直轄で運用出来る迫撃小隊は威力こそぜんぜん劣るけど、重宝されるし、更に小隊レベルなら84(無反動砲)があると便利ってのは今でも変わらないですからね。
命中精度は、アジ歴で確認したら千メートルではむしろ連隊砲より優秀だった
東部ニューギニア歓喜嶺で、山砲二門で3ヶ月半支えた話でしょうか?(野砲兵第二十六連隊第三中隊)
「ニューギニア砲兵隊戦記」(大畠正彦著)に書いてあるんですけど
火力アップになるのかな?
アメリカ軍では照準狂うし空砲必須という事で専用銃運用もしたらしいし実弾トラップが無い時代はどうだろう。
それで今着剣ラグと銃口にはめ込むタイプの実弾対応型規制子付き小銃擲弾アダプターのアイデアを思い付いたけどどうだろうな。
3です。ありがとうございます。
その本です。
まさしく偕行文庫でその本の話をしてたのですが、忘れてしまいまして、ありがとうございます。
装甲自爆車輛対策としてSPG-9無反動砲を再評価してるみたいだね、
弾速が早く予備弾も携行しやすくて連射が出来て射程も長い、
DIY装甲車相手にはもってこいのようだ。
100式擲弾器「呼んだ?」
銃身に過負荷が加わるので、事後狙撃が困難となる。
06式は自爆秒時があるので、山岳戦で6〜700m下まで叩き込むのは困難だ。
二式擲弾もあるやんけ!これでアドオングレネード作ろうぜ
レイテ戦の回想ですが、米軍の迫撃砲の火力集中がうまく、日本軍が鹵獲した米軍の迫撃砲でまねてもうまくいかないとなってました。
砲兵は弾量があることからか射撃速度が速い(射撃の間隔が短いということです)、対砲兵戦で日本軍の十倍を撃ち返してくる(これはよく言われますね)、なので同じ榴弾砲といっても油断できないと書かれてます。あと瞬発信管と短延期信管を交えて撃つ、煙弾を多用する榴弾と白燐弾を混ぜて撃つなど戦術的工夫がなされてるようで、これで被害が増したようです。
ただ通信設備や弾薬が不足しており地形も悪いとなると砲兵の間接射撃は難しいので日本軍が直接射撃が多くなるのは仕方ないかな(´・ω・`)
間接射撃するにも無線通信は色々と便利だけど電波妨害や電波標定を受ける危険性がある、有線通信なら妨害には強いけど敷設が面倒で切断される可能性も高いと長短それぞれですわ。
ウインドトーカーズって米国映画では直接照準で撃ってくる日本軍陣地を艦砲の関節射撃で吹っ飛ばすシーンがあって両軍の砲兵、無線設備の違いが端的に現れていた思い出・・・
92式歩兵砲なんかより全部97式曲射歩兵砲でええやんって思ってたから
なんか目から鱗。
誘導装置があるミサイルをわざわざ無誘導でバンバン撃てばそりゃあもう
国防総省(とその背後の財務省)から言われますわな
それで米軍もカールグスタフ使うようになってきたし
陸自も使い勝手の良さから01式からまた84に変えてる最中だしね。
そう言えば、最近、英語版Wikipedia見たらジャベリンの値段がメチャクチャ上がってた気がする。
戦場における大口径ライフル復権のきっかけになったといわれている、フォークランド紛争でアルゼンチン軍の機関銃陣地をイギリス軍がミラン対戦車ミサイルで破壊した話の流れと似ているような気がするワニ。
歩兵の直掩としての運用でしょうか?
突撃砲登場以降の変化等も分かる方居ましたらお教えください、
突撃砲は対戦車戦闘への比重が増加して行ったので
一筋縄には行かないとも思いますが。
歩兵の直接支援であってますよ。基本敵陣地之間をすり抜けて、攻撃前進するんですが、敵ので特火点に遭遇した時の対処に使います。
突撃砲が対戦車用途に使えたので駆逐戦車化け。デモ本来の任務にも使われます。
06式てき弾の自爆機能は不発弾防止の為にあるので、結構長く時間設けられてたはず。
曲射でないと距離を稼げないので、どちらかというと樹木の方が問題で、これは小銃てき弾共通の問題と思われ。
フランスのミトラユースは確か砲兵として運用してしまったせいで実力を発揮できなかったはず
関係ないですが、マキシム機関銃以前のミトラユースやノルデンフェルト式のような銃についてまとめた書籍をどなたかご存知ないでしょうか。興味があるのにまとまった文献が…
機関銃の社会史という本なら有りますが。
ありがとうございます。
その本は読みました。ただ、もうちょっと具体的な運用を知りたいと思いまして
そもそも19世紀後半の歩騎砲戦術について理解が曖昧なので精進したいところ
ナポレオン戦争の頃は、スコープが搭載されていなかったので命中率が低かったけどね
日本軍は重機にスコープを載せたけど、これで重機関銃同士では圧倒的に命中率が変わる
同様に、スコープを搭載していないナポレオン時代の火砲と搭載している92式大隊砲が衝突すれば、もちろん92式が勝つ
んな当たり前の事を、と言われるかも知れんが
実際に運用法じゃなくて運用思想に根本的に変化してるっちゅう話ですわな
百発百中の砲は1/100の命中率の砲100門より価値があると秋山真之のお言葉。
実際に撃ち合えばランチェスターの法則で負けるんだけどもこの言葉の真意はそれだけ当たらん火砲に意味は無いっちゅう話よ。だから当たらない迫撃砲にかける金は無い!、ってのが92式歩兵砲推進した日本軍の考え。これは少々やり過ぎとも思うけどね。
ナポレオン戦術の少し後、19世紀後半なら靖国偕行文庫に教範の類がいろいろありますよ。独仏露あたりは陸軍が操典とかかんり翻訳してます。日本語がすごい読みにくいけど。
それから第一次大戦の最初期から終わりまでの期間なら、欧州戦争叢書の欧州大戦に於ける戦術的観察1巻から5巻もおすすめです。大戦の5年間で、戦術が試行錯誤の上で大きく進化していくのが解ります。
もちろん、それは中国軍がゲリラ攻撃する際に81mm迫撃砲を効果的に使っていたことが教訓になっている。
陸自の普通科連隊(甲)は大規模な歩兵大隊の規模だが、120mm重迫撃砲と81mm迫撃砲をそれぞれ16門装備している。ほかの国と比べると途方もないレベル。
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