日本駆逐艦175隻。消耗と補充の45か月間 
-造船士官の集計を通して見る駆逐艦戦争の実態-


文:加賀谷康介(海洋軍事美少女ゲーム研究家(タペストリー学専攻))


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(フィリピン、ミンドロ島付近で大破擱座した夕雲型「早霜」とされる写真)

 厳しい消耗戦を強いられた太平洋戦争当時の日本海軍の中でも、とりわけ駆逐艦はその過酷な戦いぶりで知られています。開戦以来終始第一線を行動しながら戦争を生き延びた「雪風」が“奇跡の駆逐艦”と称されたことでもわかるとおり、開戦から敗戦までの45か月間は日本駆逐艦にとって仮借ない消耗とその補充の日々でした。

 戦時中の日本駆逐艦については既に数えきれない程の書籍が世に出ていますが、今回取り上げるのは堀元美・元海軍技術中佐(以後、堀・元技術中佐とする)の『駆逐艦。その技術的回顧』(原書房。昭和44年=1969年刊)です。
 同書は日本駆逐艦の誕生からその終焉までを「主として技術的な興味を中心として書いた(著者のことば)」本ですが、本の終章では太平洋戦争中の日本駆逐艦の消耗と補充について分析したページがあり、それを今日の視点で私なりに再集計してみようというのが今回の趣旨となります。

堀・元技術中佐による分析

 堀・元技術中佐は分析にあたって幾つかの集計表を作成されていますが、ここではその内の3つを引用いたします。

「第1表 太平洋戦争中の日本駆逐艦」
Hori-memo01
日本駆逐艦各型の就役数と亡失数、残存数を算出しています。

「第3表 太平洋戦争中における日本駆逐艦勢力の推移」
Hori-memo02
日本駆逐艦各型の戦時中における就役と亡失の推移から増減傾向を算出しています。

「第4表 日本駆逐艦亡失の原因別・時期別分布」
Hori-memo03
日本駆逐艦がいつ、どのような攻撃その他の理由により失われたかを算出しています。


再集計にあたっての注意事項

 比較するのは加賀谷が今般改めて作成した集計表です。
 作成にあたって特に注意した点は次のようなことでした。

①第Ⅰ期~第Ⅵ期の区分は戦史叢書『大本営海軍部・連合艦隊(1~6)』を基とし、各期の切れ目は加賀谷の主観による。
②艦型の区分は技術的な厳密さを追求せず、現在最もオーソドックスとされている通説に従った。
③就役日、喪失日も現在の通説に従う。とくに喪失日については厳密に何日と判断しがたい場合があるが(擱座、着底による放棄など)、その場合は喪失に至った被害発生日とする。
④喪失艦については予備駆逐艦籍で書類上残存していたものを含む(初霜など)。ただし残存艦でも予備駆逐艦籍とされている艦や、実態は限りなく喪失に近い艦を含んでいる場合があり(榎、柳など)、喪失の定義について厳密な解釈を示すものではない。
⑤増減について月単位の集計を重視したため、昭和16年12月は一か月丸々を戦時として取り扱う。従って開戦3日前(12月5日)就役の「夕雲」を本表では戦時就役艦として数えていることに注意(堀・元技術中佐は開戦前の就役艦として取り扱っていると思われる)。
⑥開戦後、駆逐艦から標的艦に艦種変更された「矢風」を途中まで駆逐艦として取り扱った(堀・元技術中佐は開戦時から駆逐艦として数えていないと思われる)。
⑦上記⑤⑥に従い「夕雲」を除き「矢風」を加えた結果、太平洋戦争突入時点(昭和16年11月末)の駆逐艦現存数は111隻で堀・元技術中佐の集計と一致する。

 それでは、各期別の傾向と特徴を見てみましょう。


【第Ⅰ期】第一段作戦及び第二段作戦(その1)
日米開戦からMI/AL作戦後まで(昭和16年12月~昭和17年7月の8か月間)

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 各月の傾向は要約次のようなものです。
12月…各方面で攻勢に出て4隻喪失は少ない。しかし4隻中3隻で乗組員がほぼ総員戦死、不吉な幕開けとなる。
1月…第一段作戦進行中。就役、喪失ともになし。
2月…第一段作戦進行中。就役なしに対し1隻喪失。
3月…第一段作戦終了。2隻就役に対し喪失なし。最後までこの調子であれば…
4月…第一段作戦部隊内地帰還。就役、喪失ともになし。
5月…第二段作戦開始。就役なしに対し1隻喪失。
6月…ミッドウェー海戦。2隻就役に対し1隻喪失。待望の秋月型就役始まる。
7月…アリューシャン方面で被害相次ぐ。就役なしに対し2隻喪失、1隻駆逐艦籍を離脱。

 艦型別では神風型から陽炎型まで、開戦前月末の時点で就役していた全てのタイプで喪失艦を出していますが、まだ各々1~2隻のレベルで戦力層にゆがみは生じていません。ただし沈没には至らないまでも長期修理で予備駆逐艦に指定される艦など統計に表れない損害もあり、その穴を埋める新造駆逐艦(甲型・乙型)の就役がスローペースであったことから、全体としての兵力はこの時期から既に低下傾向を示し始めていました。

 また最も旧式の峯風型からは、かねてより標的艦任務に用いられていた「矢風」が特務艦(標的艦)に正式に艦種を変更され、7月20日付で駆逐艦籍より除かれました。堀・元技術中佐は著書で「矢風」を始めから駆逐艦とは数えていない模様ですが、開戦時駆逐艦籍にあった事実とその興味深い事例から当記事では駆逐艦として紹介しておきます(峯風型7月分に1隻喪失として計上)。


【第Ⅱ期】第二段作戦(その2)
ガダルカナル島攻防戦の開始から撤退まで(昭和17年8月~昭和18年2月の7か月間)


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 各月の傾向は要約次のようなものです。
8月…ガ島攻防戦始まる。3隻就役に対し2隻喪失でこの月は辛うじて黒字。
9月…南東方面各戦線に対する輸送作戦。就役なしに対し1隻喪失。
10月…ガ島奪回の総攻撃とその準備輸送。就役なしに対し4隻喪失。
11月…ガ島方面で激戦相次ぐ。就役なしに対し開戦以来最多の5隻喪失。
12月…ガ島へのドラム缶輸送。3隻就役に対し1隻喪失で若干盛り返す。秋月型に初の喪失艦。
1月…ガ島撤収開始。1隻就役に対し2隻喪失。旧式駆逐艦も潜水艦にやられ始める。
2月…ガ島撤収完了。就役なしに対し2隻喪失。さらに要修理・要整備艦が続出する。

 最初の受難、ガダルカナル島攻防戦の期間です。艦型別では吹雪型(6隻)の被害がダントツに多く、他の艦型(1~2隻)を大きく引き離しています。吹雪型は開戦時23隻と単一艦型としては最多の同型艦を有していましたが、この大量喪失で残存艦数が陽炎型を下回ってしまいました。また吹雪型だけで固めていた第三水雷戦隊には補填として睦月型以前の旧式駆逐艦(神風型と睦月型)が編入され、やがて吹雪型に代わって同戦隊の主力を形成することになります。
 一方の新造駆逐艦は甲型・乙型の整備が並行して進んでいましたが、激戦の10~11月中に就役艦が1隻もない、という大量喪失にかけ離れた事態が明らかとなり、慌てた海軍を戦時急造型駆逐艦つまり丁型(松型)の整備に走らせることになります。


【第Ⅲ期】第三段作戦前期
北東・南東方面の後退からギルバート諸島の失陥まで(昭和18年3月~11月の9か月間)


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 各月の傾向は要約次のようなものです。
3月…南東方面の輸送作戦とその護衛で大被害。1隻就役に対し開戦以来最多の6隻喪失。
4月…第三段作戦事実上開始。就役、喪失ともに1隻で拮抗。山本長官戦死。
5月…南東方面で機雷により駆逐隊全滅。2隻就役に対し3隻喪失。島風戦列に加わる。
6月…南東方面で月末より連合軍の反攻開始。幸い当月中は就役、喪失ともになし。
7月…南東方面で激戦相次ぐ。3隻就役に対し開戦以来最多の7隻喪失。キスカ島より撤収成功。
8月…南東方面で駆逐艦戦に初の完敗を喫する。就役なしに対し3隻喪失。
9月…第三段作戦ようやく正式開始。奇跡的に就役、喪失ともになし。
10月…南東方面は北部ソロモンまで後退。1隻就役に対し2隻喪失。
11月…南東方面最後の大激戦。1隻就役に対し6隻喪失。特に甲型(陽炎/夕雲型)に被害が集中。

 ガダルカナル以北のソロモン諸島、ビスマルク諸島ならびにニューギニア沿岸部の攻防が焦点の期間です。喪失28隻のうち2隻以外は全てこの方面での喪失でした。艦型別では睦月型から朝潮型までの喪失が2~4隻の範囲であるのに対し、ガダルカナル島攻防戦での喪失が比較的少なかった甲型(陽炎型・夕雲型)が一挙に12隻も失われており、最新鋭艦を投入しても損耗を抑えられない事態が如実に示されています。
 一方で補充は喪失艦の三分の一にも満たない数に過ぎず、喪失以外の要修理や要整備艦を差し引けば、第一線での実働兵力は開戦時の6割程度まで減少を来たしていました。


【第Ⅳ期】第三段作戦中期
マーシャル諸島の失陥からあ号作戦まで(昭和18年12月~昭和19年6月の7か月間)


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 各月の傾向は要約次のようなものです。
12月…船団護衛戦が本格化。就役、喪失ともに2隻で拮抗。旧式艦の被害が顕著となる。
1月…中部太平洋に危機迫る。就役なしに対し3隻喪失。特型以降の駆逐艦にも潜水艦の被害頻発。
2月…トラック島空襲。1隻就役に対し6隻喪失。船団護衛中の旧式艦が立て続けに失われる。
3月…カロリン方面空襲。就役、喪失ともに2隻で拮抗。古賀長官殉職。
4月…絶対国防圏の一角破れる。1隻就役に対し2隻喪失。戦時急造丁型の就役始まる。
5月…あ号作戦発令。2隻就役に対し3隻喪失。甲型最終番艦就役、艦隊型駆逐艦は以後打ち止め。
6月…マリアナ沖海戦。3隻就役に対し開戦以来最多タイの7隻喪失。潜水艦による被害深刻。


 戦局の焦点が中部太平洋に移動し、連合軍の反攻先端がマリアナ諸島に達した期間です。前のⅢ期で頻発した水上戦闘がほとんど見られなくなり、その代り潜水艦による水面下からの攻撃が25隻中17隻の喪失原因と猛威を振いました。艦型別では緒戦のⅠ期以降護衛ならびに輸送作戦に充当され、比較的損耗の少なく抑えられていた旧式駆逐艦(峯風型~睦月型ならびに二等駆逐艦)に被害が急増しています。艦隊駆逐艦もその例外ではなく、この期間吹雪型、白露型ならびに甲型(陽炎型・夕雲型)の喪失が相次いだ結果、夕雲型以外のタイプでは2隊以上の駆逐隊編制維持が困難となってきました。
 失われた穴を埋める新造駆逐艦は甲型の就役が打ち止めで今後の補充の望みがなくなる一方、入れ替わるように戦時急造型駆逐艦丁型の就役が始まります。しかし補充は喪失艦の二分の一にも満たない数であり、損耗の累積により実働兵力は開戦時の半数を下回るレベルまで低下していました。



【第Ⅴ期】第三段作戦後期
マリアナ諸島の失陥から捷号作戦後まで(昭和19年7月~昭和20年1月の7か月間)


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 各月の傾向は要約次のようなものです。
7月…次期作戦への移行準備。1隻就役に対し3隻喪失。すべて潜水艦による被害。
8月…捷号作戦発令。3隻就役に対し4隻喪失。丁型の就役進むが早くも一番艦を喪失。
9月…捷号作戦準備。4隻就役に対し2隻喪失。保有隻数が約2年ぶりに純増となる。
10月…フィリピン沖海戦。1隻就役に対し開戦以来最多の11隻喪失。艦隊型駆逐艦の被害甚大。
11月…多号作戦始まる。3隻就役に対し11隻喪失で最多タイ。駆逐艦の各戦隊は壊滅状態。
12月…多号作戦中止。3隻就役に対し7隻喪失。先月を下回るが開戦以来二番目の喪失数である。
1月…捷号作戦を放棄。4隻就役に対し6隻喪失。先月を下回るが開戦以来三番目の喪失数である。

 連合軍がフィリピンに侵攻し、それを陸海軍が総力を挙げて迎撃した捷号作戦の期間です。改めて説明は不要かと思いますが、航空機、潜水艦そして水上艦艇による複合的な攻撃の結果、44隻という莫大な数の駆逐艦とその乗組員が失われました。艦型別では睦月型と白露型(それに同型艦のいない「島風」)が全艦を喪失、残る艦隊型駆逐艦も陽炎型以外はすべて1~2隻という残存数で、各型混合でなければ駆逐隊編制の維持すら困難な状況に陥りました。旧式駆逐艦の損失も地味ながら多いもので、老朽化や大損傷により戦列復帰不能なものを除けば作戦可能なものは10隻にも及びませんでした。
 その状況で16隻が就役した丁型の存在はまさに干天の慈雨に等しいものでしたが、十分な錬成期間を得られないまま戦場に相次いで投入され、早くも6隻の喪失艦を出していました。


【第Ⅵ期】戦争最終期
南方航路途絶から敗戦まで(昭和20年2月~8月の7か月間)


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 各月の傾向は要約次のようなものです。
2月…南方資源地帯との航路途絶。就役、喪失ともに1隻で拮抗するが、戦力はほぼどん底の状態。
3月…天号作戦準備。喪失なしに対し何と6隻就役、造船業界が最後の奮闘を見せる。問題は錬成。
4月…天号作戦発動。2隻就役に対し5隻喪失。大和と共に最後の艦隊型駆逐艦群が失われる。
5月…沖縄戦続く。3隻就役に対し喪失なし。しかし機雷敷設と燃料不足で訓練すら制限される。
6月…沖縄戦事実上終結。就役、喪失ともに1隻で拮抗。丁型最後(海軍最後)の駆逐艦が就役。
7月…本土決戦準備。就役なしに対し4隻喪失。擬装に努めるが空襲と機雷で一隻ずつ犠牲に。
8月…玉音放送と共に終戦。しかし敷設済みの機雷による被害は降伏後もしばらく続く。

 フィリピン主要部を失って南方資源地帯との航路を絶たれ、本土空襲に晒された期間です。洋上作戦の機会が激減したため潜水艦による被害は少なく、喪失の原因は航空機と、本土沿岸に大量に投下された機雷によるものが殆どを占めています。艦型別には初春型、朝潮型そして夕雲型が全艦を喪失。陽炎型も「雪風」を残してすべて失われました。辛うじて秋月型のみⅤ期・Ⅵ期就役艦を中心に半数が残存しています。また最後の数か月前まで建造の努力が続けられた丁型は、この期間になお12隻を就役させていますが、空襲と機雷による被害で上記の喪失艦のほか、ほぼ実態は喪失か放棄に近い艦も複数発生しており実働兵力は数字を下回っていました。
 昭和20年8月15日のあの夏の日、航行可能かつ乗組員が充足して戦闘任務に耐えうる状態にあった駆逐艦は各型合計で26隻前後と推定され、そのうち何隻が本土決戦の時まで無事でいられるかという状況で日本の敗戦を迎えることになります。


45か月間を振り返って

 堀・元技術中佐は冒頭の著書で「実にがっかりすることは、われわれがあれほどまでに一生懸命に働いて戦力は次第に増大しつつあると信じていた戦争の初期、つまり日本が勝ち進んでいた頃でさえも、駆逐艦は開戦以来減少の一途をたどっていた(後略)」と述べています。
 これは今回の検証でも確かめられた事実で、Ⅰ期はじめの111隻、Ⅱ期はじめの106隻、Ⅲ期はじめの96隻、Ⅳ期はじめの77隻、Ⅴ期はじめの63隻、Ⅵ期はじめの38隻と一貫して減少傾向を示しています。
 敗戦時こそ40隻と一見僅かに回復したようですが、Ⅵ期の解説で述べたように船体・機関・兵装いずれかの損傷や乗組員の欠員、特殊警備艦への転籍等の理由で実働兵力にはカウントできない状態の艦も含んだ数字であることに留意する必要があります(参考として、戦後も航行可能で賠償艦として連合国に引き渡された駆逐艦は26隻)。


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 昭和16年11月末時点の在籍数111隻、プラス昭和16年12月以降敗戦までの45か月間に補充された駆逐艦64隻を加えた総数175隻のうち、敗戦時に残存艦として数えられるものを40隻(堀・元技術中佐の集計に従う)として残存率は23パーセント弱。実働兵力として数えられるものを26隻(加賀谷による推定)として残存率は15パーセント弱という数字が浮かび上がります。

 艦型別で見ると、戦時補充分64隻の内ちょうど半数の32隻を丁型(松型)が占め、残る半数の32隻を甲型(夕雲型)・乙型(秋月型)・丙型(島風)で分け合った計算となります。昭和19年4月の「松」から昭和20年6月の「初梅」まで、15か月間に32隻が就役したハイペースな丁型に比べると、昭和16年12月の「夕雲」から昭和20年4月の「夏月」まで、41か月間に32隻しか就役しなかった甲型(夕雲型)・乙型(秋月型)・丙型(島風)がいかにもスローペースに写ります。
 これは戦時中の建造計画自体の変更もかかわる問題なので単純な比較はできませんが、丁型以前の建造ペースが消耗に比べてあまりにも間延びしたものであったことは否めません。

 これは加賀谷の私見、というより単なる所感とも言うべきものですが、太平洋全域で進攻と防衛、そして海上護衛作戦を展開するのに111隻という当初保有数が少なすぎたのではないかと思います。特に遠洋で艦隊作戦に耐えうる特型以降の駆逐艦が68隻(開戦時)というのは、たとえガダルカナル~ソロモンのような大消耗戦が生起しなかったとしても、遅かれ早かれ健全な艦隊運営に行き詰まりを生じさせたことでしょう。そしてそのような事態に至ってしまった原因には、行き過ぎた性能追求と重大事故、そして性能改善工事の繰り返しに費やされた1920~30年代の時間とリソースのロスの影響が大きかったように思います。
 いざ戦時となってからの兵力増強におのずから限界がある以上、戦時の危機に対応し得るのは堅実にして連綿とした平時からの備えにあることを、この表と数字が物語っているような気がしてなりません。


【参考文献】

堀元美『駆逐艦-その技術的回顧』 原書房 昭和44年
M.J. ホイットレー (原著)岩重多四郎 (訳)『第二次大戦駆逐艦総覧』大日本絵画 平成12年
その他
戦史叢書『海軍軍戦備(1)(2)』『大本営海軍部・連合艦隊(1~6)』
学研『太平洋戦史シリーズ』
海人社『世界の艦船』
など関係各巻を広く参考とした。

<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』

URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx