無題 Name 名無し 19/03/30(土)10:40:20  No.491485

飛燕戦闘機隊―帝都防空の華、飛行第244戦隊写真史
日本軍機も好きだけど、液冷式エンジンの機体も大好きなんだ。
いつも残念に思うのは三式戦闘機「飛燕」のエンジンのこと。
よりによって工作の難しい(当時の日本には無理!)DB601をライセンス国産して、それを搭載しちゃったもんだから、さぁ大変!
 
そこで思うんだけど、当時の日本が入手可能(デッドコピー含む)で、まともに生産できた液冷式エンジンはあったのだろうか?(´・ω・`)
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無題
Name 名無し 19/03/30(土)11:10:45  No.491488      
1553911845734
DB601のハ40の前に作っていた九五式戦闘機に乗っていた
ハ9はBMW系列
九五式戦闘機は、ソ連製のI-15には優勢でいましたが、I-16相手ではもはや劣勢で太平洋戦争にまともに参加していませんが
やはりエンジンの信頼性は低かったようです

無題
Name 名無し 19/03/30(土)17:00:44  No.491505      
上のハ9の事情を見てもP40にのっていたアリソンすら飛燕と同程度の稼働率に下がるんだろうなー

無題
Name 名無し 19/03/30(土)17:44:40  No.491509      
同じドイツでもDB比で製造が容易と言われるユモ211系列の方が多少マシだったかも

最近読んだ本で知ったんだけど本来陸軍とカワサキは自前の設計で液冷を用意する予定だったんだね
高額で雇ったフランス人がまともに仕事をせず見事に金をドブに捨てたようだけど
三景艦と言いフランス人に設計させるとロクな事にならんな

無題
Name 名無し 19/03/30(土)18:58:38  No.491515      
マクラーレンと組んだトヨタみたいなことになるんだな

無題
Name 名無し 19/03/30(土)19:52:05  No.491524      
ユモ211系については、当時川崎のエンジン技術者だった林貞助という人の手記に「『ダイムラーベンツは日本での生産には適せず、クランクケーシング鋳物に多少の難しさはあるが製作権購入はユモに切り替えよ』と意見具申をしたが、軍部側ではやはり新奇構造の方が魅力があったとみえ、既定通りDB601製作権を買ったのは周知の通りである」とあり、DB601よりユモ211を推していた模様

無題
Name 名無し 19/03/30(土)22:41:51  No.491537     
10年以上先を見据えた投資としては間違ってないけど
5年も経たずに戦争が始まったのが不幸

無題
Name 名無し 19/03/31(日)13:44:25  No.491563     
ハ9系列と言えば九八軽爆に搭載されたハ9-II乙だけど、故障が多かった物の九八軽爆は結構な数作られて長期間使われたし、ハ9-II乙は五式中戦車のエンジンにも採用された。
わりと成功した液冷エンジンだと思う。

無題
Name 名無し 19/03/31(日)21:23:40  No.491581      
1554035020647

九五式陸攻も採用がずれ込んだ理由の一つにエンジン不調が挙げられてますな
その後に魚雷艇に転用されたあたり調整後は安定していたのかもしれませんが

無題
Name 名無し 19/03/31(日)23:23:23  No.491585     
>わりと成功した液冷エンジンだと思う。
九五式戦と九八式軽爆に使われたハ9-II系統エンジンは整備部隊から非難轟々の有様だったじゃないか。
あの惨状を知ってたはずなのに、三式戦のエンジンに複雑な新基軸がてんこ盛りのDB601を選んでしまった
陸軍と川崎の理性を疑わざるを得ない。
愛知と川崎の双方でDB601系統のライセンスを購入するくらいなら、片方が研究用に先進的なDB601を、もう一方が量産用に比較的堅実なJumo211を購入していたなら、三式戦の稼働状態はもう少しはマシになっていたんじゃないかな?
ちなみに確かJumo211はモーターカノンには対応していなかったんだっけ?
元々三式戦はモーターカノンは搭載しない設計だったから、Jumo211を搭載しても良かったと思う。

無題
Name 名無し 19/03/31(日)23:26:16  No.491586     
>九五式戦と九八式軽爆に使われたハ9-II系統エンジンは整備部隊から非難轟々の有様だったじゃないか。
でもさ。九八軽爆は同時期採用の九七軽爆より多く生産されたし、運用も長かったのよ。

無題
Name 名無し 19/03/31(日)23:56:13  No.491591    
>九八軽爆は同時期採用の九七軽爆より多く生産されたし、運用も長かったのよ。
当時の三菱の工場では九六式艦戦、九六式陸攻、九七式重爆等などの機種の生産が優先されて、九七式軽爆は競争試作で川崎の九八軽爆に勝利したものの、生産ラインが余裕がないせいで十分な数量を陸軍に納品できないことが判明した。
そこで生産ラインに余裕のあった川崎の九八軽爆が「繰り上げ当選」で多く生産されることに。
現場から不満を言われながらも、ハ9-II系統エンジンが多数の機体(ほとんどが川崎製だが)に採用されていたのは、川崎が液冷式エンジンを盲信していたことと、供給量にかなり余裕があったからであり、整備性・信頼性については高く評価できる水準ではなかったと思うよ。

無題
Name 名無し 19/04/01(月)20:01:13  No.491631      
https://may.2chan.net/39/src/1554116473127.jpg
戦中中島飛行機荻窪工場のエンジン設計部におられた、岡元和理というエンジニアさんの手記「自動車用エンジンの性能と歴史」には、

「コピーするときに、そっくりそのまま真似すればよいものを、見本以上の性能のものを作りたいと思って一部分でも変更すると、見本より性能が下がるものだ。馬力だけ上回っていてもトルク特性が悪化したり、部分負荷に不調が出たりする。また信頼性、耐久性も必ず低下する」

「これがガソリンエンジンの技術導入の歴史であった(略)見本以上のものを作るには、見本を作った人(会社)以上の技術を持っていなければできない。この意味においては、性能は技術に敏感というべきであろう」

…なんて有りますんだそうで

無題
Name 名無し 19/04/01(月)20:02:16  No.491632      
1554116536774
因みに先の大戦後、岡本さんら元中島飛行機の技術者が中心となって設立した「富士精密」が、やはり軍用機メーカーだった立川飛行機系の技術者を擁する「たま電気自動車」が合同でガソリン乗用車の開発計画を立ち上げているんですが、エンジンについては仏プジョー社の製品を「お手本」とすることに決められてたんだそうです
この点、エンジン開発を担当した富士精密側の中川良一さんなんかは不満だったそうで、かつて中島飛行機で「誉」エンジンの設計主任だった氏としては

「ぼくはエンジニアの意地もあって、新しいことをやりたかった。実際もっとよいものをつくれる自信があったんだ。」

…そうなんですが、結局は

「ギア一つでも、そのままやれというんだ。それで徹底的にコピーした」

…んですとか

無題
Name 名無し 19/04/01(月)20:03:40  No.491634      
https://may.2chan.net/39/src/1554116620250.jpg
もっとも、実際にはまだ国内の部品製造技術等の制約から、例えばエンジンのカム軸駆動に用いる8分の3インチの複列ローラー・チェーンが製造できず、代わりにアイドラー・ギヤを用いたギヤ駆動形式に設計変更したそうなんですが、たちまち

「カムシャフトのドライブに入れたアイドラー・ギヤだけ、やむをえずこちらのオリジナルにしたんだが、その変えたところだけがこわれるんだ。不思議だね。実験でも理論的にまったく問題はなかったはずなんだよ。プジョーの完成度というのはすごいものだと感心したね(中川氏)」

…という事態に陥ってしまったんだそうで

その後、ギヤの素材を様々に変えてみる等改良が試みられたものの、結局それに手間取っている間にやがて国内でもルノーやオースチン等との技術提携により、8分の3インチの複列ローラー・チェーンが生産されるようになり、そちらを採用することで呆気なく問題は解決したそうです

無題
Name 名無し 19/04/01(月)20:06:43  No.491636      
https://may.2chan.net/39/src/1554116803763.jpg
「やっと一人前の自動車エンジンとなった(中川氏)」このエンジン、その後は日本独自の改良も加えられて十数年にわたり生産が続けられ、富士精密とたま電気自動車が合併した「プリンス自動車工業」の屋台骨を支える製品となったそうなんですが、仮に目の前に実物のお手本があって、そのコピーからスタートするにしても、まず完全な複製を造って製品として多量生産するだけでも様々なハードルがあるわけですし、そもそもお手本となる品の部品一つから「なぜこういう設計なのか」をそれこそ本家と同レベルにまで咀嚼し理解していないと、その後の発展にまではとても繋がって行かない…っていうお話しなんでしょかねえ

無題
Name 名無し 19/04/01(月)22:09:05  No.491642     
ハ40の場合はそもそもコピーもできなかったので…
代表的な例で行くとクランクのローラーベアリングの精度とか

無題
Name 名無し 19/04/02(火)10:26:54  No.491663     
>その変えたところだけがこわれるんだ。
カム駆動は負荷の周期的変動が凄まじくギアだと一部の歯に負荷が集中するんですよね。他のギアと接触しているのは一つの歯の一点だけですから。チェーンならこの負荷を複数の歯に分散できます。理論的に正しいか否かというよりエンジニアにはその違いは想像できたと思います。

無題
Name 名無し 19/04/02(火)20:55:30  No.491689     
あれだけ航空機のエンジンがダメって言われてる時代からその直系とも言える自動車エンジンで世界に肩を並べるレシプロエンジンはだいたい何時頃からなんだろう?
耐久性そのものは80年台前半にはだいたい出来上がってると思うけど

無題
Name 名無し 19/04/02(火)21:12:59  No.491690    
ハ9系は改造でチューンナップされた分信頼性は落ちたからなぁ
堀越二郎は雷電設計時にRRマーリンだったらって妄想したらしいな

無題
Name 名無し 19/04/03(水)08:47:31  No.491699    
日本車が対米輸出で成功するようになるのは1960年代後半
その頃から、日産A/L型やトヨタK/T/M型のような後に名機と呼ばれるエンジンが登場してくるから、大体この頃には欧米メーカー水準に追いついた、と見ていいと思う
6気筒のL/M型以外は産業用で未だに現役だったりする

無題
Name 名無し 19/04/03(水)14:37:34  No.491708     
>欧米メーカー水準に追いついた
でも80年代「アウトバーンで140km/h以下で巡航してるのはトラックと日本車だけ」って陰口叩かれてたらしい
後半から巻き返したけど

無題
Name 名無し 19/04/03(水)17:32:09  No.491716      
https://may.2chan.net/39/src/1554280329807.jpg
「みつびし航空エンジン物語」という本に、三菱が大正6(1917)年ごろ、イスパノ・スイザ社のフランス法人から航空機用エンジンの技術導入を決めた際の顛末が紹介されているんですが、曰く

「イスパノ社が選ばれた主な理由としては、折から進行中であった第一次世界大戦におけるフランスの航空技術が世界的にも高く評価されていたからであった」

「すなわち、開戦直後においては、ドイツは各種の優秀機を持っており(略)一時は制空権を完全に掌握するほどであった」

「しかし、当時としては馬力当たりの重量が飛躍的に軽量となり、しかも簡潔な構造であったため、艤装や取扱の簡便な水冷式のイスパノ発動機の出現によって、これを装備したスパッド戦闘機などが大いに活躍して、形勢を逆転させることに成功したといわれる」

「この時期、前面抵抗が少なくて大馬力が出せる水冷式発動機は高速度を狙う航空機にとっては欠かせないものと思われていた」

無題
Name 名無し 19/04/03(水)17:33:09  No.491717      
1554280389628
「イスパノ社との間に技術提携の話が決まるや、大正7年1月には、及能技師らの一行がイスパノ社との提携内容についての技術打合せを行うために、ヨーロッパに向かうことになった」

「交渉先のイスパノ社はパリの郊外にあり、到着してやっと宿舎に落ち着いたころ、ドイツ軍の猛攻によってパリが一時陥落寸前になるというきわどい状況に陥っていた(略)こうした中で先方より受領した図面をまとめ、日本郵船の平野丸に船積みして日本へ向けて送付したが、不幸にも途中でドイツ潜水艦に撃沈されたことが判明したため、帰国途中であった小川技師が再度フランスに戻って新たに図面を調達するという場面もあった」

「こうした多くの苦労の末に持ち帰られた資料を基にして、三菱が最初に製作に掛かったのは水冷式のイスパノ200馬力発動機であった」

無題
Name 名無し 19/04/03(水)17:35:52  No.491718      
1554280552974
「200馬力型発動機の製作台数はあまり多くなかったが、次の300馬力型と450馬力型は大正9年から昭和9年にかけて合わせて1100台以上が製作されており、当時最も広く使用された発動機となった。この二つの発動機の気筒径と行程は、共に140㎜、150㎜であり、後の三菱のみならず日本の代表的空冷式エンジンとなった金星発動機はこの実績を踏まえている」

「300馬力型は製作された当時では、国内での最高出力のものであったと共に、馬力当たりの重量も(略)最も軽量の発動機という優れた特徴を持っていた」

「450馬力型発動機の製作は大正14年から開始されていたが、この頃になると(略)他社製作機にも三菱のイスパノ発動機が広く使用されるようになってきていた」

無題
Name 名無し 19/04/03(水)17:36:30  No.491719     
1554280590052
「イスパノ発動機はいわば三菱の看板発動機となっており、『水冷の三菱』とか『イスパノの三菱』と呼ぶ声が高く、社業としてんも順調に伸びてきていた。しかし、発動機の高馬力化が進み、搭載機体の運用方式がより複雑になるにつれて(略)トラブルが次第に増加してくるようになった」

「昭和7年に勃発した上海事変当時にも、450馬力型を装備していた海軍機が急上昇中に、排気弁を焼損して海上に不時着するなどの事故が相次いで怒った」

「450馬力の次のイスパノ650馬力は筒径150㎜、行程170㎜で、この寸法は後の火星発動機に受け継がれている。この型は12気筒発動機であり、気筒内面に窒化を施すなど種々の新技術を加えたもので、初号機は昭和6年に完成している」

「この発動機となってさらに重大なトラブルが続き、関係者は日夜その解決に追いまくられることになった」

無題
Name 名無し 19/04/03(水)17:37:16  No.491720      
1554280636993
「ピストンの焼付き、ロッドが折損してクランクケースを突き破る、排気弁の焼損等の事故が続出して深刻な問題となり、一時は本発動機を装備していた海軍の89式艦上攻撃機が、全機空母から下ろされてしまうという事態まで発生した」

「この頃、長崎造船所から転任してきていた深尾淳二課長は外国文献を調査して、原因は、燃料のオクタン価不足によるデトネーションと推定していたが、担当者らはイスパノから入手していた燃料を使用した場合には異常が起こらないことが分かっていながら、目前の故障対策のみにとらわれて、構造上の変更対策のみを種々打ち続けていたため、一向に改善のメドを得ることができなかった」

「また、現場に対する設計からの指示も適切を欠いていたため、遂には気筒の変形に合わせようとして、ピストンを楕円に削ることまで試みることまであった」

無題
Name 名無し 19/04/03(水)17:39:50  No.491721      
アビモデル 1/72 九六式三号艦上戦闘機 プラモデル AVI72002
「いずれにしても、本発動機の不評によって三菱の発動機事業は次第に沈滞して行き、この後空冷式への大転換が行われたので、イスパノ650馬力エンジンが三菱が製造した最後の量産水冷式発動機となった(略)650馬力型発動機の生産量は昭和6年から10年にかけて271台であった」

…との事

要はまあ、先進国からのコピー生産から始めて、会社の屋台骨を支える主力製品にまで育てたものが、改良に改良を重ねて行き詰った所で三菱の水冷発動機の歴史も終わった…というオハナシみたいなんですが、一方で三菱が自社製「イスパノ」のトラブル続発にいよいよ追いつめられ始めていた昭和7(1932)年ごろというのは、「本家」の仏イスパノ・スイザ社で”12Y”なる新型エンジンの開発が進んでいた時期なんですよね

無題
Name 名無し 19/04/03(水)17:42:14  No.491722      
1554280934896
”12Y”は当初650馬力級でスタートしたものが、最終的に1000馬力級にまで発展して、おフランス空軍主力戦闘機のデヴォアティーヌD.520やモラーヌ・ソルニエ M.S.406等に採用されただけでなく、ソ連でライセンス生産されたものが、後の同国の主力液冷エンジンであるクリーモフM-105や、その後継機種であるVK-106やVK-107エンジン開発の礎になっているんだそうで

先にイスパノ社に学んだ日本がその発展形に見切りをつけた時期に、ちょうど入れ替わるように新たにイスパノ社に学んだソ連が、後のWW2を戦い抜いた技術の始点を手に入れていた…
という事みたいなんですが、仮に三菱が「650馬力型」のトラブル克服に成功して、「イスパノの三菱」路線を続けていくことが出来ていたなら、或はソ連の様にイスパノ技術を基盤に、新たな1000馬力級液冷航空エンジンの系譜を展開していた…なんて歴史もあり得たのかのかもしれないですなあ…w

無題
Name 名無し 19/04/04(木)00:28:47  No.491747     
拾ったB-29の修理跡までも完コピしたソ連の姿勢はやはり正しかったんやな(白眼)

まあ、最新技術のコピーにもそれなりの地力はやっぱり必要なんだろうけど

無題
Name 名無し 19/04/04(木)07:20:37  No.491753    
>一時は本発動機を装備していた海軍の89式艦上攻撃機が、全機空母から下ろされてしまうという事態まで発生した」

ここで液冷機が艦上での運用難しいぞという知見があったにも関わらず
二式艦偵→彗星と液冷機採用の流れになったんだろうか
速度や高度とかメリットか上回ったからか先述の九八軽爆みたいにメーカーと機材を選り好みできる状況ではなかったから?

無題
Name 名無し 19/04/04(木)10:37:34  No.491756     
彗星がDBを採用したのは、当時の空冷エンジンでは要求スペックを達成できなかったからで、リスクは承知の上での採用だった
開発したのが空技廠、という軍の機関で、計画そのものが研究機、実験機的性格だったこともあり、リスク甘受が許された、という背景もある

無題
Name 名無し 19/04/04(木)14:54:33  No.491762     
晴嵐が水冷採用したのは、その方が発進速い(あらかじめ余熱しとけば暖機運転省略できる)
からだっけ?

無題
Name 名無し 19/04/04(木)16:31:07  No.491763      
https://may.2chan.net/39/src/1554363067019.jpg
空冷エンジンも寒冷地用に潤滑油の保温装置はあったけど

無題
Name 名無し 19/04/04(木)16:32:15  No.491764      
手間かかる誉やでかくなる火星以外で1400馬力以上出せそうなエンジンだとアツタと金星62?
金星って手に入ったんだろうか
それに護衛ゼロで攻撃できるくらい高速機にするつもりならあれしかないんでは

無題
Name 名無し 19/04/04(木)18:01:28  No.491767     
まあ後知恵なら液冷も繊細なコンパクトハイパワーも不要で金星ゴリ押し大量生産が一番だったろうけど割りきれないのが日本人だからねえ

無題
Name 名無し 19/04/06(土)01:41:51  No.491799      
1554482511776
「13試艦爆(=彗星)」の試作開始当時、IJN空技廠の発動機部部員だった永野治造兵少佐(当時)が、「彗星」のエンジン選定にまつわる思い出を語られているんですが、曰く

「山名さん(※『彗星』設計主務の山名正夫氏)は『彗星』をやるのにダイムラーベンツにこだわった。私は絶対反対で、『金星』を積めといった」

「結局、そうなったが、ダイムラーベンツは技術的に凝りすぎていて、当時の日本の工作技術水準では、量産すればかならず問題を起こすと思ったからだ」

「その性能と精巧な技術にエンジニアとしてホレこんでしまったところが、山名さんらしいところでもあったが…」

…との事

無題
Name 名無し 19/04/06(土)01:42:40  No.491800      
1554482560603
ある意味、「彗星」開発当初から既に「金星」塔載案もあったという事になるみたいなんですが、一方で「彗星」の生産を担当した愛知時計電機(愛知航空機)の側では、自社で生産するカイグンさん向けの急降下爆撃機にダイムラー・ベンツの液冷エンジンを積みたい!というのは、「彗星」の一つ前の99式艦上爆撃機の時点で既にあった話ではあったんだそうで

99式艦上爆撃機の設計者である尾崎紀男さんの手記によると、

「艦爆は急降下中に操縦者が爆撃照準をするので、前方および前下方の視界を良くする必要があり、索敵にも、またとくに着艦のときには大きな前方視界がほしい。これには空冷星型発動機よりも、液冷列型発動機が最適であるのは言うまでもない」

無題
Name 名無し 19/04/06(土)01:43:46  No.491801      
1554482626942
「(※99式艦爆の設計開始の)当時、愛知航空機はドイツの有名なダイムラー・ベンツ液冷発動機の技術導入をし、かつ日本での製作権をもち、液冷一本で進んでいた会社であった。したがって会社の上層部としては、自社のダイムラー・ベンツ発動機を、試作艦爆機に搭載しようと考えたのは当然のことである」

「そこで本機の発動機の選定にあたり、ダイムラー・ベンツ発動機装備の場合と、当時、入手可能な他会社の各種星型空冷発動機装備の場合について、詳細なる性能検討を行なった」

「視界の点では、液冷式は問題なく優位であるが、性能の点では不安が出てきた。不安というのは、当時、生産に入ることができるダイムラー・ベンツ発動機では性能的に不利で、これの馬力向上を計画し、試作に入っているものでは、他社の空冷より多少優位という結論が出た」

無題
Name 名無し 19/04/06(土)01:44:51  No.491802      
1554482691204
「そこで、私の上司である五明得一郎課長に相談した所、その場で『他社の空冷は確実な性能であり、それにくらべて当社の液冷の性能は試作段階のものである。機体そのものが試作であるのに、これに搭載する発動機も試作に近いものであっては、とても短期間に本機を完成することはむりだ。下手をすると発動機と心中しかねないことになる。会社の重役には自分からよく説明するから、安心して他社の空冷式ですすめよ』と指示されてほっとした」

「こうしたいきさつで選んだ発動機は空冷星型の金星44型(のちに金星51型)であり、発動機としてのトラブルはほとんどなく、大いに助かった」

…んですとか

無題
Name 名無し 19/04/06(土)01:46:46  No.491803      
1554482806125
自社製の機体にやはり自社製(ライセンス品ですが)のエンジンを積みたい!という愛知側の目論見は、99艦爆の後「彗星」で実現するわけですけれど、結局その「彗星」に最後に積むことになったのも、かつて99艦爆の際に安心・確実を元に選んだ「金星」エンジンだったわけでして

やはり幾ら魅力的に見えても、生まれも育ちも全く違う外国生まれのお嬢様とムリをして一緒になろうとするよりは、昔から側にいて支えてくれた、近所の幼馴染系ヒロインの方を選ぶ方が、最終的には正解なんでしょうk(

無題
Name 名無し 19/04/06(土)15:24:18  No.491834     
何だかんだで日本では陸海軍両方というか、愛知でもカワサキでも設計者がコレが使いたい!
ってなるぐらいだからそれなりに魅力的なところはあるエンジンだったんだろうな

まあ、逆にソレが罠だったってことなんだろうけど・・・

無題
Name 名無し 19/04/06(土)17:05:04  No.491848     
小説家になろうで技術系のエッセイとか架空戦記書いてる人が
作中でDB601よかマーリンのほうがまだ作りやすいってなこと書いてて驚いたわ
というかDB601が異常なほど複雑で変な作りになってるとか

無題
Name 名無し 19/04/06(土)21:59:26  No.491868     
彗星はエンジンだけで済まずに機体が実験機だけあって
万年筆のペン先型カウルフラップカバーとか
量産任された愛知があまりの部品の多さに苦しめられたしな
よく空冷換装でガマンしたわ

無題
Name 名無し 19/04/06(土)22:03:46  No.491869     
>作中でDB601よかマーリンのほうがまだ作りやすいってなこと書いてて驚いたわ
結構そういう話は出回ってると思う。寸法公差がドイツ製のほうが厳しいんだっけか
その辺は設計思想にもよるだろうけど、ドイツが無駄に凝っていたのでは?
少なくともDB601よりもはマーリンでもクリモフでもマシな結果にはなると思う

無題
Name 名無し 19/04/06(土)22:10:58  No.491870      
意味もなくニードルベアリング使ったりと無駄に凝った作りだからまぁねぇ

無題
Name 名無し 19/04/07(日)08:37:22  No.491899     
>>意味もなくニードルベアリング使ったりと無駄に凝った作りだからまぁねぇ

エンジンのロマンと言う本を読んでみると。あながち無駄ともいえないと思う。
当時は軸受けのメタルの性能や、高度が上がって気圧が下がると発泡するオイル等の問題もあって転がり軸受は理にかなっていたと言う見方もあるみたい。

それと、凝りすぎとよく言われる流体継ぎ手を介した過給機もインペラーが振動で破損するのを防ぐ効果もあったんじゃないかと思う。

後、立ち上がりはだいたい同じ出力で始まっているマーリンとDB601も、排気量的にはDBが約34リットル、マーリンが約27リットルとDBは余裕が持たされていた。

だから、87オクタンと言うレギュラーガソリンでも大戦中期までは何とかなっていたわけで、アメリカから湯水のように供給される超ハイオクで高性能を稼いでいたマーリンから見たら結果として日本ではDBが分相応だったんじゃないかと思います。

無題
Name 名無し 19/04/07(日)06:00:10  No.491891      
https://may.2chan.net/39/src/1554584410490.jpg
だが待ってほしい
水平対向エンジンを縦にして
「なんちゃって水冷エンジン」にする手もあったのでは?(ナイナイ

無題
Name 名無し 19/04/07(日)07:43:13  No.491897      
1554590593439

ユモ205「来たわよ」

無題
Name 名無し 19/04/07(日)09:12:26  No.491902      
1554595946558
昭和15(1940)年に日本の陸軍省で作成された「盟邦獨逸の航空発動機工業」というレポートに、ドイツの液冷式発動機として「ダイムラベンツ600(或いは601)」「ユンカース・ユーモ211型」が挙げられているんですが、そのうち「ユーモ211」については

「ユーモ211を一言にして批判すると、英国のロールス・ロイス発動機の構造に大変良く似ていゐて、後者を倒立式にして(略)改良したような型式と云う事も出来る」

…なんて述べられていたりします

つまり、仮に当時の日本でユモ211エンジンのライセンス生産が可能であったとしたなら、RRマーリンの和製化だって夢ではなかった、ということにですn(

無題
Name 名無し 19/04/07(日)09:13:21  No.491903      
1554596001094
もっとも、ロールスロイス社のエンジンを参考にした液冷エンジンの開発というのは日本でも既に行われていたことだそうでして、「中島飛行機エンジン史」によりますと

「昭和7(※1932)年、海軍は機体とエンジンの試作政策を根本的に見直し、『試製3か年計画』を定めた。この計画に則り、水冷と空冷エンジンの試作を中島、三菱を主体に多数発令している(略)昭和7年、海軍は7試水冷600hpの試作を中島と三菱に命じた」

「中島では(略)5年11月12日設計を開始していたNWBを以て応じることになった」

「WBはイギリスのロールス・ロイス”ケストレル”V型12気筒を手本にしたものと言われている」

…そうです

無題
Name 名無し 19/04/07(日)09:14:04  No.491904      
1554596044131
もっとも、中島の「WB」は単純に「ケストレル」のコピーという訳でなく、シリンダー容積を拡大して原型の最大出力630馬力から650馬力にまで増大する計画であったようなんですが、

「(※昭和)7年1月下旬から社内運転を開始した(略)運転開始以降、故障の続出に悩まされ不調の発生、運転の中断、原因の探求と対策、試験運転の繰返しであった」

「特に主軸受裏金と接合棒の強度不足によって、当初公称馬力600として審査に臨んだが余儀なく550hpに格下げし、一応第1期耐久運転には合格した」

「昭和8(※1933)年海軍は8試水冷600hpとして、改めて600hpの試作を両社に命じた。中島ではWB1号機の不良個所をすっかり改造した試作2号機”NWB改”を8年3月20日完成し(略)耐久審査の全コースを終った」

無題
Name 名無し 19/04/07(日)09:14:29  No.491905      
1554596069940
「しかしその後、分解検査の結果接合棒軸受とクランク軸々受(下部)白色合金のはく脱が甚だしく、またピストンに亀裂の発生したものもあり、この審査では不合格となった」

「9年に入ってもなお改良と審査を繰り返したが好結果を得られず、10年になり海軍は、完成の見込み立たずとして試作エンジンより除外した。三菱の試作エンジンも審査に合格する見込のないままに終った」

「海軍では600hpに次いで、V型700、V型750、W型900、V型900の試作を広工廠、中島、愛知などに発令した。このうち中島が担当したのはV型900hpである」

「昭和7年海軍は、7試水冷900hpの試作を中島1社に内示した。これに応えて中島では同年、イギリスのロールス・ロイス”ブザード”を手本としたNWDを試作した」

無題
Name 名無し 19/04/07(日)09:15:27  No.491906      
1554596127160
「試作が完成され性能測定に入ってみると、馬力の不足は意外に大きかった(略)大小さまざまの対策を行い、ようやく900hpを出すようになった」

「これにより中島は海軍の命に応じ、8試水冷900hpとして審査に入ったが合格の域に達せず、海軍は9年度にさらに1台の試作を命じた」

「ここで付言したいことは、陸海軍から試作命令が出たエンジンには試作費が交付されたので、設計者は自分の設計が認められたことを自覚し、自社設計の場合とは別の緊張をもって臨んだものであった。また軍の航空政策に乗ったものであるから、軍と会社の期待を集め関係者の熱意も高揚された」

無題
Name 名無し 19/04/07(日)09:17:19  No.491907      
1554596239463
「WDは10年度中に900hp/2400rpmで耐久運転を繰り返したが審査には合格しなかった。1000hpの頂上を目指す9合目の900hpへの到達はこの時期には不可能であった」

…との事

ロールス・ロイス「ブザード(Buzzard)」は「ケストレル」の発展形で、日本機ですと川西で国産化もされたショート社製「九〇式二号飛行艇」に採用されていたりもするんですが、要は三菱のイスパノ系液冷エンジンが限界に達しつつあった時期でも、IJNとしては未だ液冷エンジンに対して見切りをつけてはおらず、ケストレル~バザードのロールス・ロイス路線で進んんだ中島を含め、新たな国産液冷航空発動機を求めて様々な計画を進めていた、というお話みたいなんですね

無題
Name 名無し 19/04/07(日)09:18:43  No.491908      
1554596323605
一方で、それらの新たな国産液冷エンジン計画が結局実現不能になってしまうのが確定する昭和10(1935)年頃というのは、ちょうどドイツに派遣されていた海軍の技術士官さんたちから、ダイムラー・ベンツ社で今がばよか新型液冷エンジンが開発されてるとよ!という調査報告が寄せられ始める時期でもあるわけでして

「国産」の1000馬力級液冷エンジン計画が悉く頓挫する中で、ライセンス生産とはいえ欧米列強の中でも最良クラスのエンジンを手に入れられるチャンスですよっ!と言う提案は、IJN内で液冷航空エンジンに拘り続けていた関係者さんらにとって、ある意味ではタイミングの良いものではあったりしたんでしょかね…?

無題
Name 名無し 19/04/07(日)11:04:38  No.491916     
クランクシャフトとか軸受関連は結局DBエンジンの国産の時も散々悩まされたよね…
当時の日本には鬼門のジャンルだったのかな

無題
Name 名無し 19/04/07(日)13:52:29  No.491921     
>クランクシャフトとか軸受関連は結局DBエンジンの国産の時も
散々悩まされたよね…
>当時の日本には鬼門のジャンルだったのかな

クランクシャフトとか超複雑な型を一発抜きしないといけないから今でも大変よ
軸受も職人がどんどんいなくなってる

無題
Name 名無し 19/04/07(日)16:42:28  No.491936    
>>当時の日本には鬼門のジャンルだったのかな

日本だけじゃなくて、本家のDB601も、出力向上型のDB601Eへの進化の時にこっ酷い目に合ってたと言う話が合った様に思います。

おかげで、機体(Bf109F)は出来ていたのにエンジンが間に合わず、当初は旧型のDB601A積む羽目になったとか?

無題
Name 名無し 19/04/07(日)17:08:14  No.491937      
戦中ドイツに滞在していた航空プロペラ技術者の佐貫亦男さんによると、1941~43年頃にベルリンの日本陸軍駐在武官室で、DBエンジン用のクランクシャフトを出来るだけ多数購入して潜水艦で送ってくれ!という要請が来ている話を聞いて、この期に及んで未だ加工に手擦ってるとは?と耳を疑ったんですとか

その後佐貫さんは、陸軍の命でDBエンジンの組立工場及び下請け部品工場も見に行くんですが、どうしてドイツさんは日本で出来ないクランクシャフトの大量生産を易々と成し遂げているのか?と言えば、結局下請け会社の段階からちゃんとした鍛造プレス機や研磨盤といった工作機械や検査機器、検査工の配員といった条件が揃っていて、それを活用した生産ラインが出来ているという、いわば当たり前の事をやっているから、というオチであったんだそうで

無題
Name 名無し 19/04/07(日)17:09:05  No.491938      
また先の「彗星」に関わる話で回想を引用させていただいた永野治海軍技術中佐は、後に日本初のジェットエンジンの開発・実用化にも当たられているんですが、

「アツタではDBに倣って多列ローラ軸受を用いたが、ローラの精度を保持することがなかなか難しく、ローラの破損とクランクピンのピッティングがしばしば起こって悩んだ」

「過給機扇車軸受も回転が20000rpm以上にも達するのでなかなか難しく、初期には球およびコロ軸受が一般に用いられたが故障が多く、高性能星形エンジンではライト社の設計を模してケルメットの平軸受が多く用いられた。一般に球及びコロ軸受の国産品は故障が多く、其の精度保持に関係者の不断の苦心がはらわれた」

無題
Name 名無し 19/04/07(日)17:10:16  No.491939      
1554624616352
「日本では高速で高推力に耐える深溝型の球軸受が普及していなかったので設計上不便があった。鹵獲アメリカエンジンのプロペラ推力軸受に内輪二つ割りの深溝型が使ってあり、1939年に輸入したユモ207の排気タービン軸受にも外輪二つ割りの深溝型が使ってあって、いずれも小型に収まっているのを見て我々は羨望したものである。此のことはジェットエンジンの設計には重大な問題で、終戦直前のネ20タービンジェット試作に際して惨憺たる苦心を払わねばならぬ結果となった」

「軸受の生命を左右する潤滑油は1937年頃からは主としてアメリカ製テキサコの120番を用い、終戦当時迄主として輸入ストックに頼っていた」

…なんて記されていたりします

無題
Name 名無し 19/04/07(日)17:11:37  No.491940      
1554624697683
因みにスレ内で先に名前の出てます、DBよりユモの採用を主張した川崎航空機の林貞助技師さん曰く

「DB601の特徴であるコンロッド大端部のローラーベアリング(略)のローラーの角の部分を顕微鏡写真に撮って国産のとくらべてみると、ドイツのは自動研磨盤か何かでやったらしく、角は綺麗に丸くなっていたが、日本のは女子工員が手作業で研磨をやっていたので、角が立っていた。しかも、その立ち方が一個ごとに違っていた。これではベアリングに荷重がかかった時、荷重のかかり方が一様でないから、きつく当たった所の金属結晶が破壊されて、故障の原因になることが分かった」

…との事なんですが、エンジンの設計自体とは別に、それを構成する部品の製作精度が大きく影響するとしたなら、結局最初にどの形式を選んでも、最後に行き着く先は同じだったりしたんですかしら…

無題
Name 名無し 19/04/07(日)20:08:42  No.491945     
クランクシャフトって金属の塊を叩きまくってあの形にするものではないのですか?
型抜いてつくるもんなん?

無題
Name 名無し 19/04/07(日)20:08:42  No.491945     
クランクシャフトって金属の塊を叩きまくってあの形にするものではないのですか?
型抜いてつくるもんなん?

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:26:46  No.491967      
>クランクシャフトって金属の塊を叩きまくってあの形にするものではないのですか?
佐貫さんの著書では何冊かでDB工場見学の話は取り上げられているんですが、一部を引用させて頂くと

「1943年に入ると、ドイツ空軍省が(略)重要なドイツ航空機工場見学を許可した(略)その工場の中に問題のダイムラー・ベンツエンジンのクランク軸生産部門があった。私はこれを見たら、ドイツの秘密がわかるだろうと、期待に満ちて出かけた」

「あのころ、ドイツに駐在中の日本軍人の中には、もう半分ドイツ人になった連中も存在した。日本でクランク軸に困っている話が出ると、なに、ドイツでは鍛造工場で仕上げて、エンジン工場へパラフィン紙で包んで納めるだけだよ、と脅した」

「そのあげくに、おまえら技術者どもは、ドイツ人の爪の垢でも飲んで帰るんだな、と罵った。したがって、ドイツ軍が負け始めると、てめえら軍人どもは、ドイツ人のなにを飲むんだ、と反発したくなった。ただし、みなこんな軍人ばかりではない」

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:27:44  No.491968      
「さて、森の中に潜むこの工場の鍛造場は見ごたえがあった。4万kg/mの機械ハンマーを使い、長いブロックの素材を赤めたうえで、上型と下型各1mのストロークでまず30回たたく(略)赤い素材がみるみるうちにクランク軸らしくなってゆくさまを眺めると、こんな機械さえあったら、日本でも作れると思った。ところが、日本はこんな基礎的な鍛造施術を飛ばして進んできた」

「それはちょうど、学校の試験で、基礎定理の勉強をせずに応用問題を解こうとする努力に似ていた。そのとき、しょせんにわか勉強となって、すこしひねった問題を出されたら、たちまち音を上げる。駄じゃれになるが、クランク軸みたいに複雑にねじれた品物は日本技術の手に余った」

「クランク軸素材は機械ハンマーで、第1回30回の鍛造がすむと、また加熱して第2回30回の鍛造をする。日本の刀鍛冶が昔実行したわざを、巨大機械でやっているだけである。ただ、こんな大型鍛造ハンマーは日本のなきどころであった。買えばよかろうといっても、その外貨が不足していた」

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:28:44  No.491969      
「この工場ではクランク軸の素材を作るだけでなしに、機械加工で仕上げて完成品としてからエンジン工場へ納めていた。このやりかたは、当時の日本の事情にくらべて異様に見えた。つまり、日本では鍛造工場と言えば、荒く、熱く、暗く、汚い場所であった。それが、鍛造所がすでに清潔なところへ、さらに目が覚めるほど、細かく、冷たく、明るく、美しい機械工場が同居していた」

「それらは粗削り工場、中仕上げ工場、本仕上げ工場に分れ、いずれの工場も、機械、機械、機械の列であった。しかも、それらは全部ドイツ製品で、改めて機械の国ドイツと感嘆した」

「粗削り工場といっても、かんじんの部分は精密に仕上げ、ファインボーリング(ダイヤモンド工具による切削)まで行っていた。本仕上げ工場では研磨した後にサンドペーパーと砥石で手仕上げしていた」

「手仕上げだけは当時の日本の得意だったが、機械加工の精度が低かったら、その上をいくら手でこすっても完全な製品にはならない」

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:30:39  No.491970      
「逆に言えば、工作機械さえ入手出来たら、クランク軸は日本でだって生産できる。できないはずがない、と感じたのは、作業しているドイツ人工員たちは、別に秘法らしいものをいっさい使わないで、楽に仕事をしていたからである」

「ただ、その工作機械が問題であった。さりげなく運転中の旋盤一台でも、同行の工作機械専門家が、ああ、これは精度の高いので有名な銘柄だと嘆声を上げた。日本の工場だったらたった一台あっても大切に使って、看板になるほどの名であった」

…との事

因みに余談ですが、既に例示されている方のおられる「エンジンのロマン」によると、川崎航空での当時の調査の報告書等を根拠に、国産DB600系エンジンの主なトラブルとして、クランク軸ピン部外周の表面が運転中剥離すること、が挙げられておりましたり

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:32:21  No.491971      
1554654741769
「第一の原因は、外周部の熱処理不足で、鋼の硬さが不足であったことである(略)滲炭焼き入れと言って軸表面の炭素濃度を高め表面の硬度を特に高くする方法をとるが、この技術が不充分であった」

「第二の原因は、ローラー(※ベアリング)の形状が適切でなかったのではないかと思われる(略)この形状の選択はかなり経験的なもので、一朝一夕には求まらない。これが不足していたのであろう」

「第三の原因は、クランク軸自体が真円に加工されていなかったのではないかと思われることである(略)このことは現在の自動車でも非常に重要で、この凸凹は1000分の3ミリ以内に抑えないと耐久性が悪くなる。精密に仕上げるためには優秀な工作機械と、加工技術とが必要になるが、それらが不足していたと推定される」

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:33:28  No.491972      
「日本においてはm、(※クランク)軸は当初、高周波焼入れも行われたらしい。この場合は明らかに表面硬度不足で、運転時間も100時間以内で剥離を起こしている」

「その後、滲炭に変更したが、ごく表面はベンツ製に近い硬度が出たが1㎜くらい深くなると、たちまち低下している(略)ローラーベアリングの場合には、ローラーにより局部的に大きな荷重がかかるので、局部的変形にも耐えなければならない。このため硬化層は大略1.5㎜以上は必要と推測される」

「滲炭部の組織を見ると、ベンツ製はきれいなマルテンサイト組織(焼きが入った場合の組織)であるが、国産のものはマルテンサイトにトルースタイトが析出(焼きが入りきらない場合の組織)している」

「焼入れ前の鋼の組織(略)などは重要な因子であるが、当時のドイツのクルップ鋼を使えばいいともいわれたそうであるので、材料そのものも原因の一つであったことには違いない」

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:33:57  No.491973      
「なお、当時ニッケルの供給が不足していて、それが使えなかったためともいわれるが、ここに引用したデータの場合はニッケルを用いたイ221材(戦時規格)、すなわち最高級のニッケル・クロム・モリブデン鋼によるものである」

…との事で、「エンジンのロマン」の著者さんは結局

「結論として、DB600系エンジンの技術導入は、当時の日本の技術力として無理であったといえるだろう」

…と結んでおられましたり

また、渡辺洋二せンせいの「液冷戦闘機『飛燕』」にも、クランクシャフトの材質に関わるエピソードがあるんですが、曰く

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:34:50  No.491974      
1554654890894
「このころ(※昭和18年半ば)川崎の明石工場では、ハ40について難題を抱え込んでいた。原型のDB601はクランク軸をはじめとするシャフト類や歯車を、ニッケルを混入したクローム・モリブデン鋼(略)で作っており、川崎でもハ40にこれを使用した。しかし、陸軍は入手難のニッケルを、排気タービンなど新開発器材の耐熱部品用に確保したいと考え、ニッケルを抜いて(略)製造するよう、川崎に通達した」

「ハ40の量産は、ようやく軌道に乗ったところだ。軍との会議で、エンジン設計課長の平岡技師は
『こんなときにニッケルを抜かれては困る。冶金屋が泣きます』
と反論したが、軍の以降はくつがえせず(略)決まった」

「クロモリ自体が熱処理温度の許容範囲がせまく、高温にさらしておくとヒビを生じやすい(略)ニッケルを加えることでヒビを防ぎ、また加工精度も高まるのだ」

無題
Name 名無し 19/04/08(月)01:35:46  No.491975     
1554654946543
「ロールス・ロイスでもニッケル抜きのクロモリを用いたが、表面が固くなる窒化鋼にしてヒビ割れ問題を解決している。だが、冶金技術に劣る日本では、すぐにこのまねはできない。熱処理時に焼き割れができないよう慎重に作業し、マグネットを使ってヒビの有無の探知につとめた。うまくいけばニッケル・クロモリと同等の性能に仕上がったが、不良品も少なくない。生産数が限られているなら、十分な検査の上で送り出せる。しかし、少なくとも機体の数だけは作らねばならず、処理能力を上回るノルマになったため、どうしても一部に不良品が混じる結果を生じた。これが(略)クランクシャフトの折損につながるのである」

…なんてあったりします
同著では他にも、ハ40の故障頻発について、戦地に出張してきた川崎の技手さんが「鉄質がドイツのようにできないから、故障が出る」旨述べた話も紹介されているんですが、仮に日本が1000馬力級液冷エンジンの範をドイツ以外に求めたとして、オリジナルと同等かそれ以上の部品精度を維持できる「お手本」というのは、当時存在していたんでしょかね…?

無題
Name 名無し 19/04/08(月)11:53:18  No.491985     
鍛造と削りと仕上げ
全工程で精度が要求されるんならそりゃ大変だ罠

でもなんだかんだでそれを数万機分やり遂げた当時のドイツ人が
やっぱり別格だったんじゃね(棒)

無題
Name 名無し 19/04/08(月)19:36:31  No.492003     
ちなみに上の方で描いたフランス人技師ね

趣味に走ってV16エンジン(ハ11)に莫大な予算をつぎ込んだそうな
試作初号機はクランクが回らず2号機はベンチテスト中にすぐクランクが折れて壊れたとの事
V12のクランクシャフトですら日本の冶金技術の手に余るのに何を考えていたんだろうね

無題
Name 名無し 19/04/08(月)22:49:55  No.492012    
占領軍にジェットエンジンの開発が禁止されたせいで日本は立ち遅れたんだとよく言われるけど、ここまでの話を見ていると禁止されてなくてもあまり変わりはなかった気がしますね
ジェットだとレシプロ以上に冶金は肝でしょう

無題
Name 名無し 19/04/08(月)23:15:27  No.492015     
>占領軍にジェットエンジンの開発が禁止されたせいで日本は立ち遅れたんだとよく言われるけど、ここまでの話を見ていると禁止されてなくてもあまり変わりはなかった気がしますね

戦後の国産ジェットエンジンって確か1950年代前半には開発が始まってたはずですしね

  引用元: https://may.2chan.net/39/res/491485.htm
 

飛燕修復の記録 動力編 2019年 01 月号 [雑誌]: 艦船模型スペシャル 別冊