空自の日本防空史60
Tu-16は飛び去った


文:nona


60
1988年度防衛白書にて公開された領空侵犯事件の概略
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1988/w1988_01.html

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Tu-16J、2度目の領空侵犯

 1987年12月9日、日本の領空を侵犯したTu-16Jは沖縄本島の上空を飛行後、西方の海域に離脱しますが、数分後には左へ旋回。再び日本領空を侵犯するコースをとりました。

 F-4EJは再度、国際緊急周波数の無線と機体信号で合図を送るものの、やはり反応がなく、11時41分30秒に奄美諸島の沖永良部島と徳之島の中間で再び領空を侵犯。

 再度、警告射撃が実施されました。
 この地域にはTu-16Jが興味を持ちそうな主要な自衛隊や米軍関係の施設はないようで、 防衛庁の西廣整輝防衛局長は2度目の領空侵犯の理由について、「領空侵犯を起こさないで回り道をしますと恐らく燃料切れになってしまうような状況」だった、と推測しています。

 Tu-16Jは11時45分に領空を出たのち、東シナ海を北上。当初編隊を組んでいたソ連機の1機、おそらくTu-142と合流し、ともに平壌へ着陸したことが判明しています。

 同機を監視していた2機のF-4EJに対しても帰投が命ぜらますが、搭乗員の昆康弘1尉と正岡順一郎氏は意気消沈。正岡氏の胸中には「やれるだけやったよな、でも入られちゃったよな、」という無念の気持ちがあったそうです。


ソ連の釈明

 事件の翌日、日本政府は外務省を通じソ連に抗議。事件から1日遅れのことであり、対応の遅さが国内で批判されたようですが、その声は野党のみならず、与党の自民党内からもあがっていました。

 西廣防衛局長は抗議の内容について「このような事態であれば撃墜されてもそうおかしくない状況」として「従来に比べても極めて異例なぐらい強い」言葉を用いた、としています。

 ソ連のソロビヨフ駐日大使は11日に最初の声明を発表し「複雑な気象条件下で、航法装置の機能停止のために生起した。ソ連側は遺憾の意を表明し、同様のことが生じないようしかるべき措置をとる」と釈明。

 領空侵犯が意図的なものではない、としたのですが、事件当日の沖縄方面の天候が「複雑な気象条件」といえるものではなく、ソ連に対する疑念も晴れませんでした。


領空侵犯の意図

 今回の事件の数時間前、アメリカのワシントンDCではソ連のゴルバチョフ書記長を迎え、INF(中距離核戦力全廃)条約の締結がなされていました。

 自民党の増岡康治議員は「ワシントンでは雪解けかなと思っておれば、こちらからは氷水を頭からぶっかけるようなものが同時並行した」と事件の印象を語っていますが、Tu-16Jの飛行は、米ソ首脳会談を妨害するために行われたのではないかとか、という憶測もあったようです。

 同じく、自民党の中川昭一議員は「一部マスコミでは、機長が酒を飲んで酔っぱらっているんだというような論調」があった、と国会で語っています。

 この事件の約20年後には酩酊状態での記者会見が疑われ、某議員が辞職を余儀なくされたり、さらに10年後に飲酒で国際線の乗務員が逮捕されるなど、こうした予想は他人事ではなかったりしますが、いずれにしても、日本の側からは、Tu-16のパイロットやソ連軍の意図は知り得ないものでした。


ソ連の見せた姿勢

 12月25日には、ソ連側から追加の説明がなされ、Tu-16Jは航法装置の故障により盲目飛行の状態であったこと、パイロットは空自機を目視していたものの、信号を誤認し領空侵犯をしたこと、同機に偵察機器は積まれていなかった、と釈明しました。

 さらに、事件を起こしたパイロットの降格処分も公表し、対策として編隊の間隔を3km以内に制限、互いが目視できる間隔を維持することや、航法装置の改良、パイロットの訓練向上を図るなどして、同種の事故が起きないことを約束しています。

 ソ連の主張は鵜呑みにはできないものの、パイロットの処罰を公表するのは(それが嘘だとしても)極めて異例のことでした。日本政府はソ連の姿勢を尊重し、これ以上の追求をせず、事件は終息に向かいました。

 その後、今回の事件で領空侵犯対処措置における、武器使用の要件が明確でないことが指摘されたため、防衛庁内、外務省、内閣法制局による検討を経て、1988年9月4日に関連規則が改正されています。


なぜ撃墜しなかったのか?

 今回の事件におけるF-4EJや南混団の対応について、航空自衛隊50年史は「日本やアメリカの主要マスメディアではおおむね肯定的に報道された」と記しており、実際に当時の在日米軍司令官も空自の対応を高く評価していました。

 しかし、領空侵犯対処に関する措置として認められている、侵犯機の着陸措置や退去措置をとれなかったこと問題視する意見も当然のことながらありました。

 特に極端な意見として、自民党の国防部会で「なぜ撃墜しなかったのか」との声が上がった、という話もあります。

 こうした勇ましい主張が自民党の総意でないとしても、(現代でいう)グレーゾーンの事態に空自が対処できるのか、といった質問が防衛庁に多数寄せられています。

 特に4月13日に中川議員と西廣防衛局長が交わした質疑応答の議事録(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/112/0770/11204130770003a.html)が、当時問題とされた事柄や、それに対する防衛庁の方針が、わかりやすく説明されています。
 ただ、内容の詳細は「政治的議論」そのものであるため、ここでの解説は割愛いたします。

 なお、F-4EJ編隊のエレメントリーダーとして事件に対応した昆1尉は、半年後の1988年6月29日、小松基地においてF-15J戦闘機に搭乗し戦闘訓練をしていたところ、空中衝突事故が発生、相手機のパイロットと共に殉職されています。

次回は、予告していたF-4EJ戦闘機の改修事業について解説いたします。


参考

自衛隊指揮官(滝野隆浩 ISBN4-06-211118-7 2002年1月30日)

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)

防衛庁五十年史 CD-ROM版(防衛庁編 2005年3月)

国会議事録
第111回国会 参議院予算委員会 第1号  1987年12月11日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/111/1380/11112111380001a.html

第112回国会 衆議院 安全保障特別委員会 第3号 1988年4月13日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/112/0770/11204130770003a.html

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