空自の日本防空史59
警告射撃を許可する


文:nona


59
日本の領空を侵犯したTu-16バジャーJとされる機体
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1988/w1988_01032.html

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無線警告を開始

 1987年12月9日午前11時ごろ、沖縄沖に飛来した3機のソ連大型機のうち、2機は途中で進路を変えたものの、なぜか1機(Tu-16J)は変針せずに飛行を継続。

 F-4EJ戦闘機の後席から、Tu-16Jを懸命に監視していた正岡順一郎氏は「このままではまずいな」と感じる一方、「まさか日本領空には入ってはこないだろう」との思いも混在していたそうです。

 宮古島および沖縄本島の与座岳レーダーサイトはVHF波の国際緊急周波数を用いた多言語警告を開始し、続いてF-4EJもUHF波の国際緊急周波数で警告を発します。

 Tu-16Jは無線警告に応じませんでしたが、空自はソ連機側に反応がなくともモニターはしている、との判断から、事件の終始にわたり無線警告を繰り返しました。


1980年に交わされていた警告無線

 航空自衛隊50年史では無線警告を実施する根拠の一つとして、1980年6月のTu-16墜落事故の一件を挙げています。

 この事故は、Tu-16が佐渡沖110kmにて海自輸送艦「ねむろ」に低空で接近、その直後に機体が海面に接触し墜落に至った、というもの。
(墜落の原因が操縦ミスによるものか、機体の不具合によるものかは不明です。)

 「ねむろ」の乗員が生存者を捜索する中、ソ連のIL-38も救難捜索のために飛来し、領空を侵犯したのですが、この時国際緊急周波数による応答があり、実際に交信が行われたのです。
(なお、生存者はなく、3名の遺体のみ発見されています。)

 しかしながら、相手側に警告が全く届かなかったケースもあります。

 1976年9月のMiG-25事件において、ベレンコ中尉は意図的に無線通信を絶っていましたし、1985年10月に日航441便が間宮海峡で迷走した事故では、同機の緊急周波数無線は意図的に音量が下げられ、地上からの警告も聞き逃していたのです。


機体信号による警告

 Tu-16Jが日本の領空から30海里に迫ったとき、F-4EJは与座岳ADDCの指示をうけ機体信号を開始しました。

 機体信号とは、相手機のパイロットに見える位置で機体を左右にバンクすることで「われに従え」と伝える、世界共通の信号です。

 相手機の左翼側で実施すれば「退去せよ」、右翼では「着陸せよ」という意味を持たせることができました。

 当初、F-4EJは「我に従え」と「退去せよ」を数回実施したのですが、無線警告と同様、Tu-16Jの反応はありませんでした。


Tu-16J、領空を侵犯

 Tu-16Jは11時20分に洋上で左旋回を開始したものの、これにより沖縄本島へ侵入する可能性が高まりました。

 F-4EJはTu-16Jの前方で機体を左右にバンクし、さらに右へ旋回する機体信号を実施します。
 これは「我に従い、右旋回で追従せよ」という意味ですが、Tu-16Jはこれに従うことなく、沖縄本島へ接近しました。

 F-4EJ編隊のエレメントリーダーである昆康弘1尉は、この前後に警告射撃の許可を求めており、Tu-16Jが領空に侵入する直前、SOC(作戦指揮所)にて指揮をとる大塚周治南混団司令の命により、射撃の許可が下りています。

 そして、11時24分30秒にTu-16Jは日本の領空を侵犯しました。
 しかし、同機は進路上にある陸地に近づきすぎており、下方の安全も確保できないとして、即座に警告射撃は実施できなかったようです。同機は領空侵犯から約1分後、沖縄本島の直上に達しました。


沖縄の基地上空を飛行するTu-16J

 Tu-16Jは沖縄本島の直上で緩やかに右へ旋回し、空自の那覇基地をはじめ、米軍の嘉手納や普天間飛行場、キャンプコートニー、キャンプシュワブ、キャンプハンセンなど、複数の基地上空を通過。

 このとき、在日米軍では無線の傍受を避けるため、無線封止が実施されています。
 一方、空自の那覇基地では隊員に実弾を装填した小銃が配され、誘導路の脇で待機させる指示が出されました。また、沖縄県警とも連携を図り、機動隊の出動が要請されています。

 これらの対応はTu-16Jの強制着陸に備えるものでしたが、同機は3基6門の23mm機関砲塔を有しており、反撃がなされる危険がありました。

 元戦闘機パイロットの田中石城氏によると、空自機であれば着陸時に武器の安全装置がかかるそうですが、ソ連機についてはどのように設計されているか不明でしたから、これで抵抗する可能性も否定でなかったそうです。


警告射撃

 Tu-16は空自の警告を無視して沖縄本島上空を飛行したのち、東方海域へ離脱。ここで大塚司令は警告射撃の実施を命じます。
(航空自衛隊50年史では1回目の射撃を「信号射撃」と表記しています。)

 F-4EJはTu-16Jの真横に並び、前方に向け機関砲を2回に分け発射。後席に搭乗していた正岡氏からは曳光弾の光は見えなかったものの、代わりに「ガリガリガリガリ」という、F-4EJの独特な振動を感じたそうです。

 本来、F-4は機関砲を搭載しない機体として設計されたそうですが、E型およびEJ型で機関砲を機首下面に後付けしたため、射撃時のブレが指摘されていました。独特な振動もそうした影響があるのかもしれません。

 ともかく、この時の警告射撃は空自が領空侵犯対処措置を開始して以来、初めてのことでした。
 それゆえ事件の反響も大きかったのですが、その当事者であった正岡氏らは、状況の対応に必死であり「はじめてなんていう意識はないんですね」と回想しています。

 この警告射撃の効果は不明ですが、約7分にわたって領空を侵犯したTu-16は11時31分30秒に領空外へ出ています。

 しかし、Tu-16この数分後には再び領空を侵犯しました。


次回に続く


参考

スクランブル 警告射撃を実施せよ(田中石城 ISBN4-906124-26-7 1997年4月27日)

自衛隊指揮官(滝野隆浩 ISBN4-06-211118-7 2002年1月30日)

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)

国会議事録
第112回国会 衆議院安全保障特別委員会 第3号 1988年4月13日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/112/0770/11204130770003a.html

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