空自の日本防空史51
ナイキからペトリオットへ


文:nona


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2014年に埼玉県入間基地で公開された地対空誘導弾ペトリオット

Defense of Japan 2018(防衛白書2018年版・英語版)
防衛省
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ナイキ、サポート終了へのカウントダウン

 航空自衛隊は1962年に陸自から地対空誘導弾ナイキを引き継ぎ、途中ナイキJ弾の国産化や北海道の長沼ナイキ訴訟事件などを経て、79年までに全国24箇所の高射隊へ配備します。

 しかし、その途上にあった1973年、アメリカはナイキ向けFMS部品の調達支援の逐次うちきりを発表していました。

 うちきりの理由は真空管など旧式部品の生産停止によるもので、国産トランジスタへの換装を実施していた空自のナイキは当面は維持できる見通しでしたが、これがナイキ後継を検討するきっかけとなったのです。

 続く1977年、アメリカはナイキ支援を1985年で完全に打ち切る、と告知しています。
この時期、米陸軍とレイセオン社はXMIM-104ペトリオットの試験を始めていました。

 ナイキシステムは1950年代の古い設計のもと旧式の部品で構成されており、アメリカとしてはペトリオットへの世代交代を加速させたかったのです。

 とはいえ、1985年以降もナイキを運用せねばならない運用国は多く、NATO諸国においてはNAMSA(NATO保守整備補給機関)によるナイキの寿命延長改修が計画されました。

 実際にイタリアなどは2006年までナイキを維持し続けたようですが、改修コストは高く一部の部品は1985年以前から備蓄する必要がある、といった欠点があったため、空自はナイキの改修を見送ります。

 代わりに維持部品の一括購入によってサポート終了後も10年間ナイキを維持しようとしたのですが、長期間の維持管理に不安があるとして、事前に国内企業の協力をうけ、保管体制を入念に準備していました。


ナイキ後継装備

 前述の1973年の発表をきっかけとして、日本でもナイキ後継の検討が開始されており1974年5月(その筋で有名な)山中防衛庁長官は「ナイキの後継は国内開発を含めて検討」と発表します。

 1975年に技術研究本部は、国内メーカー3社からナイキ改良案と新システム案双方の導入案を募っていますが、この時点ではナイキ改良案が望ましいとされました。

 1977年には空自も海外に調査団を派遣。アメリカ、英仏、イタリアの対空ミサイル開発を調べていますが、この調査団もまた、「ナイキ改良システムも検討の価値がある」と報告しました。

 そして1978年、三菱重工は海外メーカーと提携し、ナイキ改良案の一つとしてナイキ・フェニックスを提案します。

 ナイキ・フェニックスとは、F-14戦闘機のAIM-54フェニックスAAMの誘導装置とナイキJ弾の推進部が組み合わせたミサイルと、F-14のAN/AWG-9射撃管制レーダーと国産の三次元捜索レーダーを装備した地上システムで構成される、地対空誘導弾システムです。

 F-14とナイキJ、アメリカと日本の技術を融合させるという奇妙なアイディアの元に成り立つシステムですがペトリオットと比較した場合、既存のナイキシステムを流用することによるコスト安、また捜索専用のレーダーを組み込むことによる全周警戒能力が注目され、防衛庁内では技術開発本部が中心となって検討が行われました。


天秤にかけられた2つの案

 技術研究本部がナイキ・フェニックスを検討する一方、空自は陸自と共同しペトリオットの導入を検討していました。

 ペトリオットの開発は難航し価格の高騰も予想されていましたが、ナイキフェニックスは完全なペーパープランであり、契約されてから開発を始める、という非常に怪しい品です。開発費用や期間もペトリオット以上に増大するリスクがありました。

 そこで防衛庁は技術研究本部にナイキ・フェニックスを、空自と陸自にペトリオットを検討させ、両者の報告を比較検討した上でナイキの後継を選定する、という姿勢をとりました。

 こうした検討事業は1978年ごろから続きますが、ペトリオットが完成に近づくにつれ、そちらに傾いていったようで、1984年にペトリオットはナイキ後継に選定、ライセンス生産での調達が公表されました。

 また陸自と空自が共同でペトリオットを共同検討していたものの、陸自はこれを運用せず、改良ホークの運用を継続する方針も示されています。


空自版ペトリオット

 空自のペトリオット取得に関する日米のMOU(了解事項覚書)は1985年10月までに行われた交渉によって締結されます。

 交渉の結果、捜索・識別・誘導関係などのペトリオットの核心部といえるソフトウェアは開示されなかったものの、その他のソフトウェアは開示され、BADGE連接用のソフトウェアの追加が認められました。

 車両・通信装置・発電機の独自化も認められ、車両は国内の道路事情に対応した国産車(旧日産ディーゼル製)に、通信装置は旧郵政省の認可を得られる周波数に対応、高射群本部には山岳地での運用を考慮した有線でのBADGE通信機能が追加されました。

 さらに発電機にはオリジナルのディーゼル方式ではなく、独自のガスタービン方式が採用されました。ガスタービンの採用は冬季の北海道など低温化での始動を容易にするねらいがあったようです。

 こうした改修は当時の空自が北方を重視していた戦略がうかがえますが、その後ガスタービン装備が増えなかったことを考慮すると、むしろ実験的な意味が強かったようにも思えます。


ペトリオット調達に影響を与えた湾岸戦争

 ペトリオットの調達は1985年度の予算から開始され、当初は訓練用機材と訓練用の2個高射隊が調達された後、1986年から毎年1個高射群(4個高射隊)のペースで調達が進みました。

 ただし、ライセンス生産の影響もあり1高射群の当初価格は1094.3億円。非常に高価な装備でした。

 しかも、1991年度においては想定外の支出が発生し、3個高射隊(0.75高射群)の調達に留まっています。

 この前年に発生した湾岸戦争の影響で、日本から湾岸アラブ諸国協力理事会へ湾岸平和基金への拠出が求められました。

 その額は当初90億ドルが要求されていましたが、政府にとって想定外であったのか、財源として防衛関連予算から1000億円強が差し引かれたのです。

 (湾岸平和基金の拠出額は最終的に1兆4912億8000万円に達し、税金や国際から捻出されましたが、基金の用途や意義は批判の対象となりました。)

 こうした苦々しいハプニングを経て、1994年に全国へのペトリオットの配備、そしてナイキの退役が完了したのですが、その湾岸戦争においてペトリオットの能力不足が露見します。

 空自は直ちにペトリオットの改修に着手するのですが、詳しくは次回の記事で解説いたします。


参考

第101回国会 参議院内閣委員会 第12号1984年5月17日
第120回国会 衆議院予算委員会 第18号 1991年2月26日
航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
日本の防衛戦力③航空自衛隊(読売新聞社編 ISBN4-643-87032-X 1987年5月14日)
会計審査員 湾岸平和基金に対する拠出金について
http://report.jbaudit.go.jp/org/h04/1992-h04-0309-0.htm

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