無題 Name 名無し 18/11/22(木)18:23:11  No.485410

NHK出版 歴史ドラマがさらに面白くなる本 幕末 列藩&人物名鑑 (教養・文化シリーズ)

https://may.2chan.net/39/src/1542878591166.jpg
幕末あたりの武器について
蘊蓄沢山ください。
笑えて、泣けて、するする頭に入る 超現代語訳 幕末物語
房野 史典
幻冬舎 (2018-08-23)
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無題
Name 名無し 18/11/22(木)21:06:20  No.485412
アメリカ内戦(南北戦争)で余った古い武器が大量に流れ込んだ

無題
Name 名無し 18/11/22(木)22:23:23  No.485415
長州「え?龍馬のつてでグラバーから買ったミニエー銃って実は旧式?」

無題
Name 名無し 18/11/22(木)23:45:24  No.485418
NHKの歴史秘話でやってたな
鳥羽伏見の戦いでは幕府軍が後装式の新型銃を装備していて
新政府軍の方が旧式銃で、射撃速度に4倍の差があったそうだ

無題
Name 名無し 18/11/23(金)00:04:36  No.485419
>新政府軍の方が旧式銃で、射撃速度に4倍の差があったそうだ
自分もそれ見たんだけど、シャスポー銃とミニエー銃の不発割合とかがわからないからなんともと思った
実際急襲されたとして、弾丸入れてなかったとしても、優勢でかつ4倍の射撃速度なのに反撃できない状況ってのがよくわからない

無題
Name 名無し 18/11/23(金)00:11:44  No.485420
いくらいい銃でも兵隊が急襲され浮足だって武器捨てて逃げたら一緒だからね

無題
Name 名無し 18/11/23(金)00:25:11  No.485422      
https://may.2chan.net/39/src/1542900311552.jpg
>いくらいい銃でも兵隊が急襲され浮足だって武器捨てて逃げたら一緒だからね

素人が思ってるより索敵や陣形が大事ってことなんかね

無題
Name 名無し 18/11/23(金)01:09:35  No.485423
>いくらいい銃でも兵隊が急襲され浮足だって武器捨てて逃げたら一緒だからね
赤備えで威張ってた彦根が寝返ったり
淀が様子見でグダグダだったりそんなん見たらなあ

無題
Name 名無し 18/11/23(金)03:45:00  No.485424
>新政府軍の方が旧式銃で、射撃速度に4倍の差があったそうだ

装備の優劣や兵力差だけで決まるなら日清戦争は負けてたね

無題
Name 名無し 18/11/23(金)07:32:47  No.485425      
https://may.2chan.net/39/src/1542925967548.jpg
>素人が思ってるより索敵や陣形が大事ってことなんかね


もう終了しちゃったけど米沢市上杉博物館で戊辰戦争の特別展をやっていて
それによると銃と一緒に戦術も伝来
戦列歩兵が役に立たない事も伝わっていて
なるべく目立たない黒い服装の着用や散兵として戦っていた事が展示されてた

他には溶けた金属を挟んで弾を作成する道具にも刻印がされているので
ちゃんと道具も海外から買っていたこと

砲の設計図も入手していたが、とうてい当時の日本の技術では製作不能だったこととかか

無題
Name 名無し 18/11/23(金)07:55:16  No.485426      
https://may.2chan.net/39/src/1542927316544.jpg
こいつが量産された暁には・・・

無題
Name 名無し 18/11/24(土)11:11:07  No.485459
>素人が思ってるより索敵や陣形が大事ってことなんかね
何にでも言えることだけど事前の段取りこそが大切
段取りさえしっかりしてれば清仏戦争のベトナム方面のように団連(半正規兵な自警団)主力で武装は旧式銃と刀槍でもフランス軍を撃退できたりしているわけでして

同時代の中国における火器の進歩や技術導入もなかなか面白い
地方政府による雷管の国産化にも成功してたりするし技術水準的には侮れないのよね

無題
Name 名無し 18/11/23(金)10:00:15  No.485428
フランスやイギリスが
まともな銃を売ったんだろうか?
少々不良品でめ まあいいや的に売り付けた気がしてる。
ソースは無い。

無題
Name 名無し 18/11/23(金)17:09:29  No.485438
>まともな銃を売ったんだろうか?
ヨーロッパ情勢の軍縮で不要になったとか旧式ではあった気がする

無題
Name 名無し 18/11/23(金)18:00:24  No.485442
>ヨーロッパ情勢の軍縮で不要になったとか旧式ではあった気がする
南北戦争終結で大量に余りまくった火器を日本に売りつけた
因みに米国(北軍)が火器を調達したのは、当時日本と海外の金の差額で大儲けした金と言われてる
明治政府が後でそれに気づいて真っ青になったとか

無題
Name 名無し 18/11/23(金)20:48:01  No.485448
>因みに米国(北軍)が火器を調達したのは、当時日本と海外の金の差額で大儲けした金と言われてる
そっちは有名だからね
国内での銀と金の兌換レートが海外より良かったから(でないと貨幣を十分に流通できなかった)から日本相手に銀を売って金に換えまくった
日本側も気づいていて交渉したけど撤廃させる力がなくて泣き寝入り

無題
Name 名無し 18/11/23(金)21:23:00  No.485449      
https://may.2chan.net/39/src/1542975780008.jpg
>明治政府が後でそれに気づいて真っ青になったとか


幕末の通貨問題
流出の具体的な量と影響
上記で「大量」とのみ表記されている日本からの金貨の流出量について、具体的な量は概算レベルでも一致した見解が提示されていない。武田晴人が2009年にまとめた資料によれば、開港からの半年で流出した額は10万両とも50万両ともいわれ幅が広い[10]。ただし、この流出に関連した国内経済へのインパクトは1861年には沈静化したと見られることから、「金貨流出の影響は一時的なものにとどまった」とした[10]。

武田資料を参照した鎮目雅人は2016年発表のワーキングペーパー上において、過去の研究では大量流出という捉え方が主流であったことを前提としつつも「最近の研究では流出規模はそれほど大きくなかったとの見方が有力」とした[11]。

どうなんだろうね

無題
Name 名無し 18/11/23(金)21:28:49  No.485450
金の流出って明治初期も起こってたと思うけど
渋沢栄一の第一銀行でも似たような話を聞いたことある

無題
Name 名無し 18/11/24(土)11:01:16  No.485458
メキシコ金貨に比べて純度が高かった。
改鋳して純度を下げて対応したはず

無題
Name 名無し 18/11/24(土)14:11:44  No.485461
幕末に海外に流出した金の量は、同時期にアメリカがロシアからアラスカを買った額とほぼ同じ。
って話を聞いたけど、仮に50万両だとしたら、天保小判が11.2グラムで、金56.8%に銀43.2%、50万両だと金だけで3.18トン。
今の価値だとグラム4800円くらいだから、153億円ほど。
アメリカがアラスカを買った額は720万ドル。
wikiによると今の価値で1億2300万ドルだそうだから、1ドル110円として135億円ほど。
荒い計算だけど、なるほど大体一緒だな。

無題
Name 名無し 18/11/23(金)15:26:17  No.485436
昭和20年いよいよ本土決戦となっとき編成された国民義勇戦闘隊だと
村田銃も行き渡らない幕末の洋式銃もごろごろ出てきて装備していたとか
これに弓矢・刀剣も加わって戊辰戦争から70年逆に戊辰戦争レベルまで退化した兵器で米軍に挑む事になっていたかも

無題
Name 名無し 18/11/23(金)17:47:51  No.485441      
https://may.2chan.net/39/src/1542962871172.jpg
ブラタモリでやってたけど薩摩は砲身をムクの金属塊から水車を利用して削りだしで作ってたそうだ

無題
Name 名無し 18/11/23(金)18:01:17  No.485443
水車での削り出しは欧州もそうだったような
後適当に見様見真似でライフリング切っちゃって、欧州から来た教官からめっちゃ怒られたとか

無題
Name 名無し 18/11/24(土)10:50:02  No.485456      
https://may.2chan.net/39/src/1543024202271.jpg
幕末あたりといえば小藩に多く導入された改造管打式銃を忘れちゃいかんと思うのですよ
西洋銃に対抗する形で生まれた何とか存続したい伝統の鉄砲術と仕事を失いたくない鉄砲鍛冶と予算の無い小藩の妥協の産物

マッチロックやフリントロックと比して不発率がかなり下がる雷管は物凄い発明なんだけど一足とびに導入しちゃった本邦ではその凄さが広まって無いと思う

無題
Name 名無し 18/11/24(土)10:58:09  No.485457
西洋式軍学の流入はこれまで剣術的な流派というか一族単位の商売であった伝統の鉄砲術流派にとってまさに存続の危機だった
藩のお墨付きで出世のためにもと学ばれていた各流派はこの脅威に対して西洋式軍学に乗り換えたり部分的に導入したりと生き残りをかけた近代化に励むことになる

しかし最終的には国軍の成立に伴ってバラバラな流派の寄せ集めではは良くないよねってなって歴史の掃溜め送りとなった

無題
Name 名無し 18/11/25(日)12:51:29  No.485483      
https://may.2chan.net/39/src/1543117889557.jpg
幕末に作られた日本刀
当世具足が出た頃から反りは緩くなり 切っ先は長くなる
江戸時代 刀作りは一時衰退するが幕末需要が増えて
名工も輩出するようになる

無題
Name 名無し 18/11/26(月)09:10:56  No.485501
>幕末需要が増えて名工も輩出するようになる
土方歳三が使ってた和泉守兼定がそれだね
情勢不穏を受けて会津藩が刀の量産を始めて、そのうちの一振りが土方のものになった

会津藩降伏→廃刀令で刀鍛冶は廃業するも、明治36年の日英同盟の際、イギリスに贈る刀を打つよう依頼を受けている
完成前に急逝されて未完に終わってるけど、完成できたら、どういう刀が出来ていたのか気になるね

無題
Name 名無し 18/11/26(月)21:36:46  No.485514
>廃刀令で刀鍛冶は廃業するも
サーベル拵えの日本刀とか作ってるのに廃業か・・・
もったいないね

無題
Name 名無し 18/11/28(水)07:58:09  No.485583
>もったいないね
会津藩のお抱えだったので…
会津戦争後は会津の外に逃がされていたし
とてもじゃないけど刀鍛冶を続けられなかったんでしょ

無題
Name 名無し 18/11/25(日)22:05:41  No.485491      
1543151141149
慶応3年(1867年)1月に徳川幕府が幕府陸軍訓練指導の為、フランスから招いたシャルル・シャノワーヌ=サンという参謀大尉が、来日して間もない4月、徳川慶喜ショーグンに幕軍の改革についての専門的意見を建白書として提出しているんですが、曰く

・大体程度の訓練可能な演習場を獲得すること
・兵士は農村出身の強壮なものを選ぶこと
・小銃を整理整備し火薬を統一すること
・火砲の試射を行うこと
・射場を設けること
・牽引用の馬匹を備えること

…とのことで、また幕軍士官について

無題
Name 名無し 18/11/25(日)22:06:22  No.485492      
1543151182603
「日本の陸軍士官中教導を得たるもの更に一人もなし。是皆外国の火器を見知るというのみなり。其内余り年齢多きもの亦少なからず」

…として、少年時代から教育を行う士官学校(兵学校)の設立を勧告しているほか、幕府が諸外国から購入した小銃は累計で4万2775挺あるものの、

「多分は打ち捨てありて清潔ならざれば、差当り戦に用ゆるを得ず」

…という状態で、大小各種千挺余りの砲(内約3百挺が野戦砲)も、すみやかに実射を行って点検すべきである、としているそうです

要は当時の幕軍は十分な演習施設がなく、訓練は足りず、兵卒は壮健ならず、士官は質が低く、装備は雑多でしかも整備不良であった…という事みたいなんですが、これが戊辰戦争の8ヶ月前の話なんですよねえ

無題
Name 名無し 18/11/25(日)22:08:52  No.485493     
1543151332182
因みにコレは余談ですが、「日本軍事技術史」という本に慶応元年から3年までの日本の小銃輸入状況の概況が載っているんですが、この3年間に長崎・横浜・神戸/大阪港から輸入された小銃の数は合計21万5170挺、ドル換算で274万ドルに達しているそうです

これは記録に残されたモノだけであって、実際の輸入数は密輸品等を考慮すれば更に多数であったろう…との事なんですが、この三年間の内訳を見ると、慶応元年が2万5850挺(16万ドル)、2年が2万1620挺(27万ドル)、3年が16万7700挺(231万ドル)となっております

単純に合計金額を輸入数で割った1挺当たりの価格は慶応元年約6.2ドル、2年約12.5ドル、3年が13.8ドル、無論各年の小銃の種類の詳細が分からないので単純に比較はできないんですが、僅かの間に輸入量も単価も大幅に跳ね上がっているのは、内乱に突入しつつあった日本の国内状況も影響していたんでしょかねえ、やっぱし

無題
Name 名無し 18/12/16(日)00:21:06  No.486421
>要は当時の幕軍は十分な演習施設がなく、訓練は足りず、兵卒は壮健ならず、士官は質が低く、装備は雑多でしかも整備不良であった
精鋭であるはずの伝習隊もヤクザや博徒みたいなので構成されてたという
まぁこっちは戦場ではよく働いたともきくけど統制はむずかしかったそうな

無題
Name 名無し 18/11/26(月)07:33:06  No.485499
支払った額は莫大だが
アメリカの南北戦争では68万人の死者が出たが
戊辰戦争だと両軍合わせて死者は1万人程度と新式の銃が流入してる割りに極小

民衆不参加の支配者階級間の交替だから当たり前とも言えるが
日本は武器だけじゃなく西洋の歴史、動きも取り入れ
(まあ、直前の南北戦争は大いに参考になったろう)
江戸の無血開城なども検討した結果であって
ただパクルだけじゃない他国の歴史からも学べる賢い日本人像が見えるね
ついでに民衆の不満や被害予想、士族の不満までくみ取る忖度の心も

これが悪い形になると太平洋戦争となるんだが

無題
Name 名無し 18/11/26(月)09:02:00  No.485500
フランス式軍制の導入とかも結局新政府も引き継いだしな

無題
Name 名無し 18/11/27(火)21:40:55 IP:2404:7a80.*(ipv6) No.485564      
1543322455032
小銃の大量輸入は御一新の後も続きまして、前述「日本軍事技術史」によれば慶応元年から明治2年までの5年間のトータルでは、47万9781挺、651万845ドルとなっておりましたり
また、徳川幕府が当時保有する購入した外国製軍艦8隻、洋式船舶36隻の価格合計が333万6000ドルだそうですので、合計するとそれだけで982万ドル以上…アラスカが余裕で買えちゃいますですなあw

因みに、フランスは軍事顧問団の派遣と共に、4斤野・山砲各12門と後装式のシャスポー銃2千挺を幕府に寄贈しているんですが、当時フランス語通訳として教育を受け、後に函館戦争にも参加した田島応親陸軍砲兵大佐さんの回想記が残されておりまして、曰く

無題
Name 名無し 18/11/27(火)21:41:17  No.485566      
1543322477626
「当時の砲はどういう砲であったかというと、今日から見ますと、実にこういうものをフランスでもあの頃は持っておったかというて、実におかしいようなもので、遊就館に参りますといくらもころがっております」

「銅砲で口込めでありまして、その射程距離というものがどれほど届くかというと、今日の小銃にも劣っておる。山砲が3千メートル、野砲が4千5百メートル、これを極点としておった。今日の小銃弾の4千メートルにも達するのにくらべますと、まことにおかしいものです」

「当時、(幕府)歩兵隊の持っておりましたもので、いちばん多くあったのはイギリスの例のエンピール銃。たいへん筒の太い不完全なものでありましたけれど、これはやはり砲とおなじく、その当時最鋭な利器であったのであります」

無題
Name 名無し 18/11/27(火)21:41:34  No.485567      
1543322494366
「フランスの小銃をわざわざ取り寄せる必要もなかった。それで間に合わしておった。もっとも幕府の時分にありました模範、その当時伝習隊と称えましたものを除くのほかは、オランダ・ゲベールと称えます円弾の口込めの鉄砲を持っておりました。伝習隊のほうは口込めの筋入りの銃(旋条銃)で、射程の遠いエンピール銃を持っておった」

「また騎兵のほうにしましても馬具などというものはきわめて不備で、一部分は和鞍、すなわち例の日本の木骨鞍を用い、その他洋式の革でこしらえた鞍でも、様式は一定しておらなくていろいろの形のものがまじっておった。ようやく伝習する隊だけが揃った洋式の鞍に乗っておることができたぐらいであります」

…との事なんですが、幕府の本格洋式軍隊の創成期の様子がよく窺える内容ではあるんじゃないでしょか…w

無題
Name 名無し 18/11/28(水)04:52:27  No.485579
>No.485564画
本題と関係ないけど西欧人がイメージした日本の版画かなあ?
なんとなく中国風になるんですよね、特に左側の建物(笑)

無題
Name 名無し 18/11/28(水)07:38:59  No.485582
幕府伝習隊の漫画はかわぐちかいじが書いてたな
確かシャスポー銃で敵兵を倒して
「このシャスポー銃は後装式で~」
・・・とか自慢するシーンとかあったような

Name 名無し 18/12/02(日)10:20:53  No.485761      
1543713653612
>幕府伝習隊の漫画

手塚治虫大せンせいの「陽だまりの樹」でも、主人公の一人が幕府歩兵隊の指揮官になってましたですなあ

因みにフランス人教官の招請前に、まず徳川幕府が近代陸軍伝習を申し入れたのは当時横浜に駐屯していたエゲレス軍だったんだそうで、元治元年(1864年)から慶応2年にかけて、その指導の下に「英式歩兵1大隊・砲兵1小隊・楽隊」が編成されているんですとか

結局英側から、期待したほどの援助が得られないと分かると英式伝習の試みは中止され、新たな指導先をフランスに求めることになったそうなんですが、その後(ドイツが新たなお手本になったりもしますが)も「日本陸軍」にフランス式教育の遺風が諸処に残った事を思うと、仮にこの時最初の英式導入が上手く行っていたなら、日本の陸海軍が共に「英国流」で育って…なんて事になったかもしれないですねえ

無題
Name 名無し 18/12/02(日)10:21:37  No.485762      
1543713697595
因みに短い交流でしたが、慶応2年2月5日には神奈川奉行所支配の伝習隊と横浜駐屯のエゲレス軍による合同演習なんかも行われているそうです

その模様は"Illustrated London News”のような絵入り新聞によって彼の国にも伝えられ、逆に今の私らも当時の幕府陸軍の様子をそこから窺うことができるわけなんですが、やっぱり当時でも向こうの国の軍オタさん達がその記事と挿絵を見ながら

「おい、小銃はエンフィールドだぜ?」
「どうせ型落ちだろw」
「このでっかいサーベルカッコイイな…どっかのショップで買えない?」

…なんて、趣味の談議に耽っていたんでしょか…w

無題
Name 名無し 18/12/02(日)23:44:20  No.485799     
ガンズ&ブレイズ(上) (IKKI COMIX)

>幕府伝習隊の漫画

滝沢聖峰『ガンズ&ブレイズ』
主人公が元火消しの江戸っ子で確か伝習隊に所属
物語自体は五稜郭の戦い以後から始まり、
元旗本と北海道を転々としながら新政府軍の追っ手から逃れるという話だが

無題
Name 名無し 18/12/02(日)12:04:41  No.485765
カッコは近代的になっても二本差しなのねん
銃剣も支給されてただろうに

無題
Name 名無し 18/12/02(日)18:24:49  No.485783
>銃剣も支給されてただろうに
銃剣も突き刺すだけのスパイクだったかもね
そうなると別に刀持っても納得できる

無題
Name 名無し 18/12/02(日)19:51:26  No.485786      
1543747886781
>二本差し

幕軍側ではないですが、元長州の奇兵隊隊士だった三浦梧楼陸軍中将の回想記に、鳥羽伏見の戦いで前線へ出陣した際の挿話が有りまして、曰く

「兵隊には『銃剣はあの藪の中へ棄てておけ(略)』と告げてそのまま出陣した。当時、銃剣は兵隊どもの非常に厄介視したものであった。
『両刀があるのに、こんな切れもせぬものを付けて何になるものか。厄介で厄介で仕様がない』などとすこぶる苦情を唱えたものである。我輩が今その銃剣を棄てさせたものであるから、兵隊どもは皆大満足である。この些々たることがなかなか士気の振興を助けるものであった」

…との事

無題
Name 名無し 18/12/02(日)19:52:23  No.485787      
1543747943357
三浦さんはその後、進撃中に幕府軍の一隊との遭遇戦になるんですが

「ちらりと何やら土手下の松の樹陰に見えると斉しく、ドッと喚いてバタバタと堤上に踊り上がった敵の槍隊。『さあ来い』とばかりに槍を突き付けた。この方は弾丸を込めぬ空砲、直ぐには射たれぬ。我輩は刀を抜いて『座れ座れ』と叱咤するうち、『さあ来い』と叫んで、刀を上段に構えたものがある。誰かと見れば隊長の藤村栄次郎(略)『危ない、下れ』と背後から引き戻し、なおも坐れ坐れと味方を制した」

「敵は槍を構えたまま、味方の鉄砲に恐れて少しも動かぬ。淀の橋のかなたに敵の台場はあれども、この味方の槍隊を撃たんことを恐れて一丸をも送り得ざる始末で、実に拙劣極まる戦略であった」

「味方はこの間に早や弾丸を込めた。一斉に打ち出す銃丸、バラバラと降り掛って、敵の槍隊七、八十人、瞬く間にバタバタと皆倒れた」

無題
Name 名無し 18/12/02(日)19:53:07  No.485788      
1543747987096
…ところで、いざ突撃!と部下を率いて突進せんとした時足に敵弾を受け負傷、後送を余儀なくされたそうです
日本刀が未だ大部のヘイタイさんたちにとっては心の支えでもあった一方、既に戦場の勝敗を実際に決するのは火砲・小銃の射撃戦になりつつあって、それに対処する指揮官の対応が重要だった当時の戦場の様相が窺える話ではあるんじゃないでしょか

因みに伏見に後送される三浦さんの所に、部下の山本常次郎さんという方が風呂敷包みを持ってやって来たそうでして、

「『これをお持ちくださるよう』と言いつつ、膝の上へ置いて立ち去った。何かと思って開き見れば、思いがけなき藤村栄次郎の首であった」

無題
Name 名無し 18/12/02(日)19:55:39  No.485791     
1543748139238
「藤村は奮闘して討死にしたが、勝敗未決の折柄、その首の敵手に取られんことを恐れて、かくは掻き切ったものである」

「この山本という男は(略)肥後の決死隊と悪戦苦闘して、山田という隊長も(略)戦死した時(略)首を掻き切った男である。一代に二度も隊長の首を掻き切るとは、不思議の因縁である」

…なんて後日談があったそうです

敵手に落ちないよう、戦死した上司の首を先に切っておかなくちゃ!なんて時には、ロクに切れぬ銃剣じゃあ頼りにならなかったでしょうし、こんな時は、やっぱり持っててよかった、日本刀!って事になったんでしょかね(棒

無題
Name 名無し 18/12/03(月)04:31:32  No.485805 
>日本刀が未だ大部のヘイタイさんたちにとっては心の支えでもあった一方
戦争でポン刀が決戦兵器だったことって
かつて一度でもあったんかな
正に「心の支え」でしかなかったような
多数vs.多数では、槍とか弓のほうがよっぽど意味ありそうだ

無題
Name 名無し 18/12/03(月)07:23:37  No.485806
>多数vs.多数では、槍とか弓のほうがよっぽど意味ありそうだ


多数vs.多数ではそうだが、それで大勢が決した後の追撃・首狩りでは
必須だったから、武士の命であることには確かかと(首無いと報奨とれないし)

ただ単に相手を死体にするだけで良いのならそりゃ槍とか鉄砲とかの遠距離兵器のが良い

無題
Name 名無し 18/12/03(月)21:47:09  No.485892      
1543841229762
元長州藩士だった林錬作陸軍少将の「兵器沿革略(前編)」には、幕末に使用された「ゲベール銃」の銃剣について

「実際之を用ヰることなし 何となれば各自日本刀を帯るが故に 接戦に方ては銃を投じ抜刀突貫以て我利刀の威力を示さんことを欲すればなり」

…なんて書かれていたりします

射撃戦の後の白兵戦では、銃を投げ捨ててカタナで戦う!というのは、当時ではごく常識的な思考だった、というわけなんでしょか…w

無題
Name 名無し 18/12/03(月)21:50:40  No.485893      
1543841440186
同著では続けて、幕軍がフランスから教育団を招いた頃から「ミニエー銃」の評判が高まり、諸藩がこぞって導入に努めるようになっていて、「明治元年の役」では携帯する兵隊さんの姿が多く見られた…なんて記されているんですが、その「ミニエー銃」の派生の一つである「エンピール(エンフィールド)銃」について、

「明治3年徴兵令を定められ 兵制一定するや歩兵銃は「エンピール」に定められたり(略)1853年式銃にして「ヤクガン」形の銃劔を具し(略)以来日本刀を廢し歩兵は(略)銃劔を帯び銃を携う 而して銃劔接闘の演習を試み 用法を了解し敢て日本刀に意を留めさるに到るを見たり」

…と述べていたりします

無題
Name 名無し 18/12/03(月)21:52:58  No.485894      
https://may.2chan.net/39/src/1543841578821.jpg
銃器の発展に従って、刀の実戦における価値が下がっていくのは当然ではあるんですが、ある意味では時代が進んで、日頃刀の用法に習熟していた武士階級から、徴兵で集められて訓練を受ける一般市民に軍の戦力の中心が移って行くのに合わせて、「日本刀に頼らない」でも戦える軍隊の育成が図られた…という事でもあるんでしょかね、コレ

無題
Name 名無し 18/12/04(火)00:29:15  No.485904
日本刀に頼らない軍隊を目指した結果が
白兵戦に弱い日露戦争の日本軍ではなぁ

無題
Name 名無し 18/12/07(金)12:49:36  No.486113
>日本刀に頼らない軍隊を目指した結果が
>白兵戦に弱い日露戦争の日本軍ではなぁ
やはり日清戦争の時、警視庁が抜刀隊を組織して派遣すると申し出たのを受けておくべきだったか。

無題
Name 名無し 18/12/04(火)16:37:56  No.485911
弱かったのかは知らないが白兵戦では体格差がモノを言うのは間違いなし

無題
Name 名無し 18/12/05(水)00:05:54  No.485964
主力だったエンフィールドが
ライフリングのおかげで有効射程が300mと従来より4倍になったとはいえ
装填時間は1分間に3発程度

これなら3発避ければ接近戦に突入されてしまうわけだから
まだ刀も充分実用に耐える

そのうち1分間に20発とか発射速度が向上していくわけだから
特殊な条件下でなければ剣の達人級でもお陀仏なわけで
刀を捨てるのは至極当然、常識的な判断だ

無題
Name 名無し 18/12/05(水)21:44:46  No.485979      
1544013886699
白兵戦での軍刀の価値に対する揺り戻しというか、実戦の戦訓を経ての再評価の動きはそれこそ昭和の大戦でIJAそのものが消滅する間際まで度々起こっているんですけれども、徴兵令制定後で最も至近の出来事だったのが明治10年(1877年)の西南戦争であったんだそうで

戦中の白兵戦闘に於て、セゴドン率いる西軍に度々後れを取った官軍側は、一旦捨て去ったはずの日本刀の再配備や「抜刀隊」に代表される白兵戦部隊の編成等の対応策を余儀なくされたそうなんですが、当時の官軍の最終的な出征人員は陸軍約5万2000人、臨時士族徴募兵約6700人、海軍2200人の合計約6万人(軍夫含まず)、対する西軍側の最終的な総兵力は約3万人、単純な戦力差ではおよそ2対1、ということになるんですとか

無題
Name 名無し 18/12/05(水)21:46:39  No.485980     
1544013999480
一方陸士49期の砲兵士官さんで、戦後は自衛隊で幹部学校の戦術教官等も務めた戦史家の金子常規氏によると、両軍の装備は例えば小銃で見ると

「小銃は官軍がエンピール(先込め)よりスナイドル(元込)、またはエンピール・スナイドル(改造元込)に装備換中であり、東京・大阪・熊本の3鎮台が交換を終わり(ただし14連隊は交換中)その他はエンピールで、動員部隊にはミニエーの所もあった」

…のに対し、西軍側は

「スナイドル、エンピール、ライフルその他火縄銃などまで雑多であるが、各小隊の核心となった城下士はスナイドルかエンピールを持った」

…という状況であったとの事

無題
Name 名無し 18/12/05(水)21:47:30  No.485981      
1544014050601
また戦闘期間約7ヵ月中に官軍が消費した小銃弾が約3500万発、西軍が約300万発と言われているそうなんですが、両軍の戦死傷者数は官軍1万5801人に対し西軍が1万5000ないし2万人とあまり差がなく、単純に計算すれば官軍が西軍兵1人を死傷させるのに小銃弾2000発を必要としたのに対し、西軍が官軍1人を殺傷するのに使用した弾薬は10分の1以下、しかもほぼ倍の戦力差の状況下で…という数字になるんだそうです

まさにSATUMAのぼっけもん、恐るべし!…ということになるんでしょか…w

もっとも、その精強な西軍が脅威とするものとして、「一雨・二赤帽・三大砲」と称していたそうなんですが、精強な選抜兵である近衛兵の象徴の赤帽と、官軍側がより多数を擁していた砲兵戦力に「雨」がならんでいるのは、金子氏によれば雨天下では西軍の小銃の多数を占めていた先込銃よりも、官軍主力の元込銃の方が威力を発揮するため、射撃戦で不利になってしまうことを示しているんだそうで

無題
Name 名無し 18/12/05(水)21:49:22  No.485982      
1544014162647
もっとも、そもそも幕末期に元込めのスナイドル銃の導入に先鞭をつけたのは薩摩藩であって、明治期に入っても国産「スナイドル」のおもな弾薬製造設備の大半は鹿児島県内にあったくらいなんですが、西南戦争の開戦直前に政府側の手でこれらの設備が県外に搬出されてしまったこと、また戦中の3月初頭、勅使柳原前光らに同行して鹿児島入りした官軍部隊が

「鹿児島に残るスナイドル銃弾丸30万発、此の外硝薬・鉛丸の多数なる驚く可き事にして、是を悉く弾丸になさば代価2百万円、戦用1年を支うべし(同勅使)」

…という後方物資を没収しており、これらによって、手持ちの元込「スナイドル」の戦力発揮等に支障を来たしたのが、「一雨」の恨みを生んだ原因であった、ということなんですとか

無題
Name 名無し 18/12/05(水)21:50:31  No.485983      
1544014231490
西南戦争における官軍の銃砲弾薬費は455万円だそうですので、その半ば近い弾薬の準備があったとすれば、戦力比と合わせると「白兵重視」のイメージのある西軍士族軍が、自軍の兵士1人当たりに用意していた弾薬量は、実際の所は「火力重視の」の官軍側とほぼ同じ位だった、って事になるんですかしらん

また、金子氏によれば西軍側の勇壮な切込み戦術も、むしろこうした後方兵站の崩壊による弾薬欠乏の為の苦肉の戦術であったとされており、また当時の戦記等を見ても、敵味方問わず白昼の白兵突撃は、胸墻に拠って防御側が強固に防御射撃を行った場合には撃退される例も屡々だったりするようです

一見、時代に逆行するような白兵戦術の復活は、確かにその後に残るインパクトも残したそうなんですが、一方では結局射撃というか火力戦の優越こそが最後の勝敗を決する鍵だ…というのは、案外かつて「官軍」として戦った経験を持つ、両軍の共通認識だったりしたんじゃないでしょかね…?

無題
Name 名無し 18/12/07(金)09:54:11  No.486056
薩摩はそもそも戦国時代から鉄砲重視じゃなかったっけ?
ただの脳筋白兵突撃馬鹿な家風だったら、今の時代に色々な意味でネタにされるほどの歴史は残せなかっただろう

(多分)

無題
Name 名無し 18/12/07(金)10:39:53  No.486087
この時代、主にアメリカ内戦の影響で銃は日進月歩。
最新式のはずがすぐに旧式化したので輸入するタイミングによっては積極策が却って仇になったりします。

無題
Name 名無し 18/12/09(日)18:45:07  No.486221      
1544348707019
慶応4年、上野のお山に立てこもる彰義隊らの旧幕府軍と、サッチョーら官軍との間の戦闘において、旧幕府軍の中核を為していたのは近代的な軍事教練を受けた幕府新軍の出身者(約1千名)であったそうなんですが、彼らの悩みの一つが、共に戦う元徳川の旗本さんら(約850名)や諸藩からの脱藩者(約400名)らオサムライさん中心の部隊との近代戦への意識の違いと指揮系統の不統一であったんだそうで、新軍幹部だった丸毛利恒さんという方の回想では

「諸子皆勇を恃み敵を軽んじ意となさず。且つ付属諸隊(※前述の武士旗本出身者ら)の如き、陽には我節度に従うも各々自ら用い其の法令一途に出でず。要するに之を統括するの将帥なく満山眼中に官軍なく、他の奇計をも回らさず、剰え壁を築き敵を防ぐの策をなさで坐して敵を待つに至れり」

無題
Name 名無し 18/12/09(日)18:46:40  No.486222      
1544348800559
「是実に官軍の一大僥倖と謂うべし。若し然らずして法令厳粛満山の志士心を一にして壁を固うして防戦したらんには、決して一日二日を以て抜く可らざりしなり」

…と、防御工事の不徹底とそれを招いた武士諸隊との連携不足・指揮の不統一こそが上野籠城戦の敗北を招いたのだぁ!と嘆いておられるそうです

一方、攻囲側の薩長を主力とする官軍側の長州藩指揮官だった大村益次郎=サンは、旧幕府軍陣地の寛永寺攻略に於て、本門(黒門)への主攻をセゴドン率いる薩摩藩部隊らに任せて、長軍は裏手側に当る谷中門・団子坂方面に回らせているんですが、長州兵に対し当時新鋭の後装式スナイドル銃を支給して火力を増強し、本郷の前田藩邸周辺の高台に布陣した砲兵陣地からの支援射撃を与えるものとして、

「長州兵は横合より大砲を以て打挫き 其上上野の後に相迫り候(セゴドン)」

…という、火力優位の元での攻略策を立てているんだそうで

無題
Name 名無し 18/12/09(日)18:48:59  No.486223      
1544348939479
ところが攻撃当日、黒門側への薩軍らの主攻が始まるのに呼応して行われた長軍の団子坂・谷中門方面への攻撃は、待ち伏せた旧幕府軍歩兵隊の一斉射撃を受けて被害続出、そこに逆襲突撃を受けて撃退され、完全に失敗に終わっているんですとか

新式のスナイドル銃は兵隊さんらがその操作に慣熟しておらず効果不充分、遠隔高台の砲台からの砲撃も当時の射撃精度では直接支援の威力を挙げられず、急遽前線まで引き下ろして砲撃を行っているんですが、旧幕軍側の放火戦術などで結局この方面からの攻勢は頓挫してしまったんだそうで、相呼応して黒門攻撃を行うはずだったセゴドンの戦況報告にも

「谷中の戦烈しく候て長州(略)は上野の方へは参り来らず、頼み切ったる味方場所違いに相成り互に救応叶わず、夫故に御国(薩摩)の兵大いに難儀仕り候」

…なんて、この計画倒れの顛末が記されているんだそうです

無題
Name 名無し 18/12/09(日)18:50:20  No.486224      
https://may.2chan.net/39/src/1544349020880.jpg
また激戦場となった黒門側では、先述のように十分な防御工事こそなされていなかったものの、近隣の民家からタタミ・マットを徴発してそなえたという応急陣地に拠る防戦はそれなりに攻囲側に苦労を強いたようでして、

「敵塁堅固にして容易に落ちず(略)三番隊・遊撃隊・大砲隊一緒に相成り、是非突け入り度しとの義頻りに相起り候え共 過分に味方を失い申すべしと相考え候に付(セゴドン)」

…と、なかなか突入の隙を得られなかったそうなんですが、この時薩軍と共に黒門で戦った因州藩の記録によると

「黒門前右手、市店の階上に駈上がり総隙より山内の賊を狙撃し、黒門内にて(略)指揮をなす賊長を斃し続て数人を射殺す」

無題
Name 名無し 18/12/09(日)18:52:32  No.486225     
1544349152055
「賊少しく辟易萎縮の色見わる。我諸隊その機に乗じ黒門右手の高堤に駆上がり発砲力撃 遂に薩兵と共に一斉黒門内に乱入」

…した、なんてありましたり

指揮官を狙撃して防衛側の動揺を招く、なんてのは現代にも通じる戦術ではありますがw
単に兵器の優劣だけでなく、それを運用する兵士の練度から指揮にあたる下級・上級指揮官の判断の良し悪しまでが、全て関わって戦闘の帰趨を決する…というのが、上野の戦いの各戦闘場面でもよく現われていた、ということなんでしょかね

しかし彰義隊の指揮官さんを狙撃して戦況そのものを変えるきっかけになったという因藩兵さんの使用銃、具体的な種類の記録はないようなんですが、やっぱり精度の高い施条式の洋銃だったのですかしら…

無題
Name 名無し 18/12/09(日)22:48:18  No.486235
>しかし彰義隊の指揮官さんを狙撃して戦況そのものを変えるきっかけになったという因藩兵さん
状況が違うけど、30年戦争のグスタフ=アドルフ対ワレンシュタインみたいですね

無題
Name 名無し 18/12/09(日)23:19:17  No.486236
>慶応4年、上野のお山に立てこもる彰義隊らの旧幕府軍

その武士旗本側の残した記録によると、

地形を利用して銃撃戦を行い、機を見て官軍へ突撃して白兵戦で斬りあった後、味方の陣地に興奮しつつ、帰還して血を流しながらもその戦果を喜々として仲間同士と語り合った、と。

どうもいわゆるランナーズハイと思われる状況だったようです。

参加しているのがそもそも食いっぱぐれた旗本の三男みたいな人間で武勇を誇りたい連中ですから
集団戦の訓練を受けた幕府新軍の人とは根本的に相容れなかったのではないでしょうかね

無題
Name 名無し 18/12/10(月)21:15:29  No.486262     
1544444129402
元幕府伝習隊で、やはり新政府への恭順を良しとせず脱走して官軍と戦った浅田惟季さんの回想記中、宇都宮周辺での戦闘についての話だそうなんですが、

「敵我兵の農兵多きを知って頻に接戦を好む。藪の中に伏し或は麦畑の中に潜みて隙を窺い、走り出て背面より突入せんと為す。故に余等是を注意して多く心労したり」

…なんて記されているそうです

農兵中心の幕府伝習歩兵隊が、統率された集団戦闘や射撃戦に強みを発揮した一方、近接白兵戦に於ては武芸に専心してきたサムラーイ相手には後れを取る…というのが彼我双方の認識だったようなんですが、それこそ旧幕府側の元士族兵さんらと農兵出身の近代的歩兵隊が心から一致協力して戦えていれば、こうした弱点をお互い上手く補完し合えたかも知れないですね…w

無題
Name 名無し 18/12/10(月)21:16:34  No.486263      
1544444194351
一方明治2年の所謂函館戦争の最中、函館へ向け進軍する官軍を旧幕府軍が迎え撃った際、内陸部での激戦地となった二股口では、元新選組の鬼の副長トシちゃん率いる旧幕府軍部隊約200名と、およそ600名の官軍の間で、延々16時間にも及ぶ射撃戦が展開されたそうなんですが、当時同戦争に従軍していた幕府海軍軍人小杉雅之進さんの見聞録に依ると、

「13日午後3時頃敵兵凡そ600人計り進来り互いに発砲 我兵険に拠り胸壁16箇所を構え壁に拠り乱発す 自他共に兵を繰替え翌14日朝第7字過迄16時の間の戦争、敵進む能わず終に引退く」

「此の役我兵の費す所の弾薬殆んど3万5千発に及び 彼兵は『スペンセル』『スナイドル』等の銃用いしと見え 銅銃包の殻数万地上に散布せしを見る 我軍敵を追う一里餘 分捕數多あり」

無題
Name 名無し 18/12/10(月)21:17:42  No.486264      
1544444262916
…との事で、地形を上手く利用して構築された防御陣地に籠っての射撃戦で、お互い数万発以上(官軍側は新式の薬莢式後装銃が主流)を応酬する激戦の末、遂に旧幕府軍側が官軍を撃退し、逃げる敵を追撃して鹵獲品多数を得た、なんて勝利の記録が残されているそうです

当時土方トッシーの部隊に配属されていた仏人下士官さんが、上司の仏士官さんに宛てた戦況報告には、大乱射戦の結果、火薬の煙で部隊総員がまるで黒人の様な顔色になった…なんて書かれているんだそうなんですが、官軍側の敗退は弾薬の欠乏によるもの…と分析しているんだそうでして、およそ3倍の兵力相手に、長時間の射撃戦を耐え抜いた土方隊の「粘り勝ち」であったことが窺えますですな

無題
Name 名無し 18/12/10(月)21:20:19  No.486265      
1544444419566
因みに、この長時間の射撃戦での彼我の死傷者数は今の感覚で見ると意外に少なく、官軍側が戦死2名・負傷者21名、土方勢は戦死1名・負傷2名のみであるんだそうで

優勢の敵との戦闘で敵方の約7分の1の被害で済んでいる、もしくは7倍の損害を与えて撃退した、というのは、旧幕府軍側の勇戦ぶりと、小銃射撃戦における胸墻陣地の有効性を示したものではあるるんですが、一方ではなまじ彼我の火力が均衡して、陣地施設を破壊できるような重火器も無いような戦場ですと、とにかくお互い撃ちまくって相手の疲弊を
待つ…という、不毛な消耗戦以外の選択肢が無くなる…って事なんでしょかねえ

無題
Name 名無し 18/12/11(火)08:11:49  No.486279
第一次世界大戦の塹壕戦みたいなものやね
迂闊に飛び出したら蜂の巣だから命中精度は低いと知っても
物陰に隠れてとりあえず敵陣めがけて撃てるだけ撃つという

無題
Name 名無し 18/12/11(火)13:25:43  No.486280
官軍は函館を正面だけから攻略するのは難しいと考え、これを包囲するため渡島半島の西岸へ上陸。これを察知した土方率いる幕府軍が有利な地形に防御陣地を築き待ち伏せ。函館からはかなり距離があるけど双方よく戦えたね。幕府側は官軍艦船の監視を継続的に行っていたのだろうね。

無題
Name 名無し 18/12/12(水)18:18:56  No.486316      
1544444419566
二股口では、明治2年4月13日から14日の戦闘の後、23日にも再度土方勢と官軍が激突しているんですが、これまた長時間の射撃戦になったんだそうで、浅田氏によると

「此戦争23日より25日朝迄の連戦にて 大隊有余の兵各千発に近き発砲故に 銃暖を生じ持つ能わず 之に由り各桶へ水を入れ込め貯え置き 3-5発にして筒を冷し代る代るに弾を籠め、此の如くなすこと2昼夜」

…という大激戦であったそうなんですが、やがて増援に来ていた元伝習隊長滝川充太郎さん率いる伝習2個小隊が

「壁を躍り超て敵陣に衝入」

遂に官軍側を潰走させているんですとか

無題
Name 名無し 18/12/12(水)18:24:06  No.486317      
https://may.2chan.net/39/src/1544606646032.jpg
射撃戦で相手を消耗させた所に白兵突撃で均衡を崩すという、当時としては理想的な展開だったようなんですが、勢いに乗って突出した土方勢は、官軍軍監駒井政五郎自ら前線に出ての思わぬ反撃を受け損害を出し、駒井=サンを討ち取ったものの、結局膠着状態で戦闘終了となったんだそうです
官軍の死傷者57名に対して、土方勢30人未満であったそうなんですが、こうした思わぬ苦戦の報を受け、青森に在った官軍総督府は急遽東京に対して、4月16日の時点で

・スペンサー銃用弾丸2万5千発
・スナイドル銃用同発
・ミニエー銃用50万発
・4斤半砲弾2千発
・11センチ半手臼砲弾2百発

…等の弾薬と、軍用金3万両の追加発送を要求しているんだそうで

無題
Name 名無し 18/12/12(水)18:25:13  No.486319      
https://may.2chan.net/39/src/1544606713255.jpg
要求弾薬の内訳から見ると、なんとなく当時北海道で官軍側が使用していた小銃の情況なんかも窺える気もしますがw
更に翌17日には、当時軍務菅判事だった大村益次郎さん宛に

「何分敵兵練磨、中々奥羽諸賊の比に御座なく、且地勢極めて険悪容易に進展すべき地に御座なく候。仍て急速成功の目途も相立ち申さず候間(略)右に付 精兵千人弾薬其外用具備え早々御出兵相成候様御願仕り候」

…と装備完備の「精兵千人」を援軍に欲しい、と要請もしているそうです

練度の優れた敵兵と、地形を利用した防御陣地の攻略に苦戦している情況が率直に語られているんですが、逆に旧幕府軍側が、函館占領に先立って明治元年、北海道守備の松前藩部隊を駆逐した戦闘について、またまた浅田氏の回想を引用させて頂くと

無題
Name 名無し 18/12/12(水)18:26:29  No.486320     
https://may.2chan.net/39/src/1544606789352.jpg
「松前兵毎戦利を失い我兵毎戦勝つ。何となれば彼兵は多く甲冑・弓・槍、ゲベール(※銃)もなく、我兵悉く二つ帯ミニエールを携えしのみ也。数度戦場を往来せし熟兵故に毎戦戦勝を得たり」

…なんてあったりします

要は装備の差と(「二つ帯」は短銃(騎銃?)仕様の意なんですとか)実戦経験の豊富さが勝敗を分けた要因であるとしているんですが、甲冑等を身に付けず、前装式のミニエー(含エンフィールド?)でも軽量のモデルのみを以て戦ったという旧幕府軍、おそらく山岳地隊での機動にもその軽装ぶりは利したはずですし、周到な防御陣地の構築ぶりも豊富な実戦経験の故だったのだとしたら、派遣された官軍先鋒が悲鳴を上げる奮戦ぶりを示したというのも、当然だったのかもしれないですなあ

無題
Name 名無し 18/12/13(木)12:54:54  No.486331
>・4斤半砲弾2千発
4斤山砲じゃなくて?

無題
Name 名無し 18/12/13(木)21:04:31  No.486344      
https://may.2chan.net/39/src/1544702671145.jpg
一説には庄内藩が400丁持っていたと言われてる最新式後装銃

無題
Name 名無し 18/12/14(金)07:10:28  No.486355     
Leonardo Da Vinci Débardeur: Pathfinders Wood Armored Car Construction Modèle Kit Âge 8plus
http://may.2chan.net/39/src/1544739028355.jpg
タイムスリップしたら
戦車の概念か毒ガスを伝授し相手を圧倒
ちやほやされたい

そも長州藩とか銃を買う金はどこから?
学校で江戸幕府に反乱出来ぬよう参勤交代で浪費させてたと習ったのに

江戸幕府のまま改革が完了する未来ってのはありえたのかねぇ

無題
Name 名無し 18/12/14(金)07:54:56  No.486357
何で見たか忘れたが製鉄、紡績、製糖などの成功で金はあるが米が無い薩摩に長州が米を売って購入代金を捻出したとか言うのをみた記憶がある。

無題
Name 名無し 18/12/14(金)09:27:07  No.486359
>そも長州藩とか銃を買う金はどこから?
関門海峡という交通の要衝を押さえているんだよ?
日本の海運の大半が通過するんだから、それだけでボロ儲けですわ

無題
Name 名無し 18/12/14(金)16:01:53  No.486363
>そも長州藩とか銃を買う金はどこから?

https://ncode.syosetu.com/n8624dd/16/
小説書いてる人の説明ページがあった

・赤間関(現在の下関市)は日本海と瀬戸内海、本州と九州とをつなぐ海運の要地で、藩は船宿の整備、蔵の拡充、積荷を売捌きたい者には蔵を貸し、商談が成立するまで保管料を徴収して商売の振興を支援した。
・撫育方ぶいくかたと呼ばれる投資資銀を確保した
・ 米、紙、塩と蝋燭の原料となるハゼの木を大量に栽培し、その実を絞った蝋を合わせ「防長四白」による売り上げ

・村田清風による改革

無題
Name 名無し 18/12/14(金)21:06:40  No.486377      
1544789200561
>4斤山砲じゃなくて?


「4斤半砲」は幕末から明治の戦場ではあちこちで見られたようで、例えば官軍による会津若松城攻略戦では、官軍の小田山の山上の砲兵陣地と、城中の会津軍の双方に4斤半砲が装備されていて、お互い目がけて撃ち合った、なんて記録があるそうです(同型砲だったかは不明)

また勝海舟せンせいの「陸軍歴史」によると、文久3年(1863年)から操業を開始した幕府の関口大砲製造所で作られた主な火砲として、フランス式4ポンド山砲、同旋条砲に並んで、同4・5ポンド旋条加農砲なんかも挙げられておりますそうで、「4ポンドハンホー」は「4ポンドサンポー」とはまた別種の砲であるみたいです…w

無題
Name 名無し 18/12/14(金)21:07:49  No.486378      
1544789269731
>そも長州藩とか銃を買う金はどこから?


諸外国艦隊との紛争(下関戦争)や幕府の第一次征長の役を経た長州藩では、慶応元年(1865年)ごろから討幕派が政権を握り、種々の藩政改革と軍事力の強化が急速に進められたそうなんですが、例えば同年8月から9月には桂小五郎=サンと高杉晋作=サンという、討幕派主流を代表するような2人が馬関の越荷方頭人に任命されているんだそうで

また中絶状態だった薩摩藩との貿易が再開されると共に、同年10月には馬関越荷方の権限が拡大されて、北国回漕の荷為替はじめ貿易に関する事務一切がこの機関の担当となたほか、翌慶応2年には萩、山口、三田尻に越荷方の会所が増設され、羅紗や呉呂服など唐反物の専売品をここで取り扱い、その運上金を軍事費に回しているんですとか

無題
Name 名無し 18/12/14(金)21:10:22  No.486379      
1544789422776
また撫育局を中心に製蠟、製紙、製油、製鉄、造船、染織などの新規事業が計画され、そうした「富国策」を礎に数々の「強兵策」が実施されていくことになるんですが、その第一に手掛けられたのが主力小銃の更新であったんだそうです

慶応元年5月の長州藩武器購入概算によると、「旋条銃1800挺」と「剣銃2000挺」の購入の為に計「4万6千400両」の支出が既に予定されているそうなんですが、実際の購入数量は更にコレより拡大して、同年7月に長崎に出張中の井上馨=サンと伊藤博文=サンが藩政府にあてた武器購入の概算報告によると、「ミネー・ゲベール短筒4100挺」と「ゲベール銃3000挺」で計「9万2400両」となっているんだそうで

坂本龍馬=サンの亀山社中の仲介で、薩摩藩名義でこれ等の銃を長州藩に売却したエゲレス人商人のトーマス・ブレーク・グラバー=サンは後年、

無題
Name 名無し 18/12/14(金)21:11:26  No.486380      
1544789486118
「徳川幕府の反逆人のなかでは、自分が最大の謀反人かもしれない」

…なんて語っているそうですw

因みに、下関戦争の際、上陸してきた英仏兵と交戦した山縣有朋=サンによると、

「銃砲の利鈍は大に勝敗の数に関することを明かにせり。此の戦我兵中ミニエール銃を携帯せるもの僅々数十挺のみ、余は皆ゲベール及び火縄筒なり。又只弓・槍を携うるものもあり。防戦の困難推して知るべきのみ」

…という状況であったそうなんですが、ともあれ4千挺以上の「ミニエール銃」の購入によって、少なくとも当時長州藩の戦力の中核であった藩士兵及び奇兵隊(各約2千名)にはライフル銃を支給することが出来、翌年から始まった幕府軍との2度目の戦いにも間に合った…ということみたいなんですが、改めてみると、タイミングとしては結構ギリギリだったような感じもしますですな、コレ

無題
Name 名無し 18/12/15(土)01:54:01  No.486395
以前海運の歴史を調べてみたら、江戸時代になっても瀬戸内海や日本海は密輸船だらけだったとか。
密輸で潤っていた島なんかも結構多かったらしいとのこと。

無題
Name 名無し 18/12/16(日)02:04:36  No.486425
>撫育局
山口県内にある御撫育用水路や溜め池が農業で使われてますね
瀬戸内海側はその時に開墾された干拓地だらけで塩田の跡地は車海老養殖場になってたりしてます

無題
Name 名無し 18/12/16(日)19:54:40  No.486478      
1544957680743
文久2年(1862年) に徳川幕府が初めて歩・騎・砲兵隊からなる近代陸軍の整備に取り組んだ際の事情を、幕府陸軍歩兵隊を母体として編成され、函館戦争まで官軍と戦った「衝鋒隊」の戦史から引用させて頂くと

「初め幕府は軍国多事の秋に当って率先新式操典に則り銃兵の訓練を奨励せし所、苟も士分の列に加わる者は銃を担て訓練に従うを潔とせず、頻に刀槍の術を研磨して上官の命令に服せざりければ、時の勘定奉行小栗上野介の計画を容れ(略)別に兵を募るの道を立てて専ら西洋組織の軍隊を訓練し、征長の役に際し試に派遣せるに勇敢にして善戦すること世々代々禄を食める与力・同心輩より遥に好成績を挙げ得たるを以て、以後は盛んに此の種の軍隊を養成するに努めたり」

…なんてありましたり
実際、全体として幕府軍の敗北で終わった(1866年)の第二次征長戦全体でも幕府(新)陸軍隊は局地的には長州軍の追撃を食い止めるなど奮闘して、征長総督徳川茂承によれば

無題
Name 名無し 18/12/16(日)19:55:05  No.486479      
1544957705999
「公辺三兵(※幕府陸軍の歩騎砲兵)計りは敵(※長州)も殊の外恐れ、味方も専ら依頼候儀に之れあり」

…という最も頼りになる戦力であったんだそうで、征長戦の失敗自体もそうした新軍の

「兵数不足故後続之れ無き故」

…である、としているそうです

当時、尾張藩の陪臣だった小寺玉晁さんの「丙寅連城漫筆」によると、征長戦の戦闘は

「防長の賊徒(※長州軍)はまことに西洋法に熟し、山坂険阻の場所の進退、実に普通の人物と思われぬように熟練致しおり候やの由にて、なかなか手強き(略)然るに寄せ手諸藩(※幕府軍)の面々はまずは旧法の軍法を以て、殊に火縄銃にて向い候につき、まず賊徒のほうに利これあり」

無題
Name 名無し 18/12/16(日)19:56:25  No.486480      
1544957785080
…とのことで、軽装と新式小銃で地形を利用しての機動戦を仕掛けてくる長州兵に苦戦した、というそうなんですが、こうした戦術に唯一対応できたのが幕府陸軍で

「官軍(※この場合は幕府軍)歩兵隊にていつも諸藩寄せ手の弱味を補い候」

…という使われ方であったとされておりましたり

ともあれ、この戦訓の結果として、戦力価値を実証した新陸軍の更なる強化を図るために行われたのが、エゲレスやフランスから教官を招いた伝習隊教育であったそうなんですが、仮に長州藩が下関戦争で自軍の装備・戦術のカイゼンに目覚めることなく、また幕府側が長州に先んじて新陸軍創設に取り組んだ時点で、最初から外国人教官の招請・部隊規模の拡大等を強力に推し進めていたなら、或は征長戦の勝者と敗者はその位置を逆にしていたかもしれないですなあ

無題
Name 名無し 18/12/16(日)19:56:48  No.486481      
1544957808658
因みに、先述の田島応親さんによると、フランス人教官による伝習歩兵隊の教育は

「士官が二人参っておりましたが、その二人は兵種がちがう。すなわち歩兵は歩兵でございますけれど(略)軽歩兵というのと(略)重歩兵とその当時名をつけておりましたが、これは服装もちがいますし、体格までもちがっておったのであります」

「もっぱら(略)軽歩兵というほうを伝習しました。軽歩兵というほうはひじょうに健脚なものを集めておいて、そして急場のところを彼方此方と防ぐに用いる。あとの重歩兵というほうは(略)大部隊を以て戦闘する場合の歩兵であった」

…そうで、田島氏は「軽歩兵」中心の伝習になった理由を、

「日本では(略)その当時はかかる大部隊を動かすようなことはありませぬ。せいぜい連隊ぐらいを動かすのが目的でありましたから、軽歩兵のほうについてもっぱら伝習をしました」

無題
Name 名無し 18/12/16(日)20:00:16  No.486482      
1544958016256
…と語っているんですが、或は征長戦において、山中の防御線で長州兵の「軽歩兵」的な機動防禦戦術に苦しんだ経験のある、幕府側からの要請なんかもあっての事だったのかも知れないですねえ

仏人教官からみれば未だ練度・装備とも不十分と見なされた幕府陸軍が、短期間とはいえその薫陶を受け、大政奉還後もその一部兵力が恭順をヨシとしない旧幕府勢力軍の戦力の中核となり、関東から北海道に到る各地で「官軍」相手に大いに奮戦した背景には、こういう幕府時代からの積み重ねがあったということみたいなんですが、北海道の山中で、かつて幕府軍相手に展開したのと同じ強固な防御戦術を、今度は自分らで受けて苦戦するハメになってしまった長州藩兵の方々の胸中、果していかがなモノであったんですかしら…

無題
Name 名無し 18/12/17(月)16:48:14  No.486515
そもそも佐幕派と倒幕派が同じ西洋の兵法書使っていたりする品

たしか元幕府隊同士で戦っている例とかもあったはず

無題
Name 名無し 18/12/18(火)22:40:22  No.486535
http://may.2chan.net/39/src/1545140422202.jpg
函館戦争では内陸部での戦闘では官軍の苦戦が続くんですが、一方で艦砲射撃の支援を受けられる海岸沿いの戦闘では官軍側が優位に立ち、徐々に後退を余儀なくされた旧幕府軍は函館湾西岸部のに陣地を築いて迎え撃つ体制をとるんですが、4月28日、この矢不来陣地攻略のため下された官軍側の作戦命令を見ると、各兵士の装備について

「兵粮二度分面々相携候事。人別の弾薬は胴乱入付の外50発用意の事、但し都合百発は兵士銘々用意の事。草鞋二足ずつ面々用意の事」

…なんて有りましたり

当時のヘイタイさんの個人での携行弾数やレーション定量のがなんとなく伝わってくる感があるんですが、こうしてみると一人当たり千発以上を撃ったという二股口の射撃量は、やはり特に甚大であったということなんですかしらん

無題
Name 名無し 18/12/18(火)22:43:38  No.486536
1545140618209
因みに矢不来陣地において旧幕府軍側は、26個の胸墻を築き、そこに彰義隊120名・神木隊30名・遊撃隊60名・伝習隊1小隊・衝鋒隊2小隊・額兵隊2小隊の4~500名の兵力と、砲4門を置いて邀撃体制をとったそうなんですが、やはり勝敗を決したのは制海権を握る官軍側海軍による艦砲射撃であったんだそうで、前述小杉雅之進さんによると

「彼(※官軍)軍艦近き横合より我側面に頻に砲発せしにより、我兵之が為に挫かれ退きて胸墻に拠りて戦わんとすれば、甲鉄艦より打出したる玉の為(英70斤)両度迄壁を打抜かれ、備え置きし大砲に中りて砲又用る能わず」

「天野新太郎(歩兵頭並)秋山茂松・太田直之進始め弾に当りて死する者数人、終に支る能わず(略)敗兵を纏め返し戦いしかども、敵船春日より(略)兵隊を上陸、又横合いより大に打立てられ大敗に及ぶ」

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Name 名無し 18/12/18(火)22:44:12  No.486537
http://may.2chan.net/39/src/1545140652139.jpg
…との事で、艦砲射撃により陣地設備と備砲を破壊され、指揮中枢の幹部を戦死させられた旧幕府軍側は退却を余儀なくされたんですとか

またコレに伴い、退路を失う危険に晒された二股口への旧幕府軍派遣隊にも引き揚げ命令が下されることとなり、結局官軍軍艦は海岸ルートでの直接支援のみならず、難関の内陸コースの啓開にも大きな戦功を挙げた…ということになるみたいなんですが、そもそも艦砲射撃で陣地や砲台を破壊された後、上陸してきた敵兵にトドメをさされるというのは長州藩自身がホンの数年前に下関戦争で外国軍隊相手に経験したモノなんですよね

相手から学び相手から学ばれ、学んだことをやってやられてまたやり返す…という終わりのない鼬ごっこは、古今東西軍事の常、って事なんでしょうかね

引用元: http://may.2chan.net/39/res/485410.htm

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