空自の日本防空史50
民間機の撃墜を防ぐ術


文:nona


50
事件後の1985年に稚内に建立された慰霊碑「祈りの塔」
http://www.welcome.wakkanai.hokkaido.jp/archives/listings/inorinotou

事件後の民間機保護施策

 事件から16日後の1983年9月17日、カナダのモントリオールで国際民間航空機関(ICAO)特別理事会が開かれ、ソ連への非難声明がなされると共に、国際民間航空条約(シカゴ条約)の改定決議が採択されました。

 この改定は翌1984年から実施され、民間機が侵犯した場合であっても撃墜を禁止することが明示されます。

 また、9月16日に当時レーガン大統領は当時開発中のGPSを民間への開放を発表しています。
 ただしGPSの実用化はもうしばらく先のことでしたから、北太平洋の米軍用レーダーの民間航空管制用へ開放や、追加のレーダー施設の建設でレーダー管制範囲を拡大させる措置をとり、1986年には日米ソ共同の航空管制システムが創設されました。

ソ連軍も独自の事件対策として、迎撃機へ信号ロケット弾の搭載を開始しており、 いわく「緑色のロケット弾を発射するのを見たら退去せよ」「赤色のロケット弾では着陸せよ」といった通知がなされていたようですが、国際標準とはならなかったようです。

 KE007便が通過するだったソ連寄りの太平洋空路R20は事件直後に閉鎖されていましたが、飛行距離を短縮したい民間航空企業からの要望をうけ、わずか1カ月で閉鎖は撤回されました。

 なお、日米韓とその他の国々の被害者遺族は、ソ連から賠償どころか謝罪すら得られず、大韓航空もコース逸脱の原因が不明であるとして補償に応じなかったため、訴訟は長期化しています。


日航機によるコース逸脱

 大韓航空機撃墜事件の結末は民間航空会社に対し、コース逸脱が招く危険に警鐘を鳴らすものでしたが、だからといって同様のミスがなくなる、ということはありません。

 1985年10月31日には、モスクワ経由パリ行きの日本航空441便が、INS設定の戻し忘れが原因で進路が北にそれ、サハリンないし間宮海峡方面へ迷走する事件が発生しています。

 これは日航123便の墜落事故からそれほど月日の経っていない時期の出来事で、高木社長が日航社内の見直し点検を表明した直後のことでした。

 当初441便のコース逸脱をとらえた札幌管制所は警告無線を発しますが、同機は次のハバロフスク管制区域にチャンネルを合わせており、応答がありません。

 続いて空自の稚内サイトから国際緊急周波数による441便への呼びかけがなされますが、同機はハバロフスク管制との交信に傾注すべく緊急無線機の音量を故意に下げており、やはり警告に気付きませんでした。

 間もなく441便はソ連の防空識別圏に入り、稚内のサイトでは441便に迎撃機が差し向けられたことが確認されますが、既の所で乗員がコースの逸脱に気付き、規定のコースへ戻っていきました。(なお、機長は飛行停止処分の後、降格させられています。)

 原因はどうであれ、民間機のコース逸脱と無線連絡の途絶が同時に起こることがあり、こうなってしまったら、相手国が国際民間航空条約を守り、適切な対応をとってくれるよう祈る他にありません。


軽飛行機でソ連に挑戦

 1987年5月28日、西ドイツ出身の民間パイロット、マチアス・ルスト(19歳)がセスナ172B型の軽飛行機でモスクワ中央へ着陸する事件が発生しています。

 当初軽飛行機はフィンランドのヘルシンキ・マルミ空港を離陸、管制塔にストックホルムへ飛行すると嘘をつき、14時20分ごろ高度600mでソ連領エストニアに侵入。

 MiG-21とMiG-23戦闘機が発進し、後者のパイロットがセスナ172Bを「Yak-12によく似た白いスポーツ機」と報告しました。

 続いて撃墜の許可を求めたようですが、上記の国際民間航空条約は遵守され、撃墜は認められませんでした。

 代わりに強制着陸措置が指示されたものの、この手の軽飛行機に言うことを聞かせるのは撃墜よりもはるかに困難です。

 MiGは最低飛行速度の差から軽飛行機の追跡を途切れることなく継続できず、地上レーダーがノブゴロド州付近で一時失探したことで、追跡に失敗。

 程なくして隣接する管区で軽飛行機らしき機体が探知されたものの、この時はソ連籍の民間機と誤解されており、午後7時ごろ、軽飛行機はモスクワ中心部のボリショイ・モスクワレツキー橋に着陸しました。

 この軽飛行機は赤の広場まで自走した後、パイロットのルスト氏が機を降りて一般人と言葉を交わすなどした後、ついに逮捕されました。

 その後ルスト氏はゴルバチョフ書記長の介入で、2カ月ばかりの拘束で釈放。軽飛行機は押収されたものの、後に払い下げられて、一時は日本国内でも展示されていたそうです。

 ただし、ゴルバチョフ書記長書がルスト氏に温情を見せたのとは対照的に、自国軍に対しては対応の不手際を厳しく批判。

 ソコロフ国防相とアコルドゥノフ防空軍総司令官以下、約300名の軍関係者を解任しています。この一斉処分はゴルバチョフ政権と対立する軍関係者の一掃が目的でもありました。


減ることのない民間機の誤撃墜事件

 1983年の大韓航空機の撃墜以降、戦闘機による民間機の撃墜事故は2018年までは発生していない、とされています。

 しかし、民間機の誤撃墜がなくなる気配はありません。
 1988年にはペルシャ湾でアメリカ軍のイージス巡洋艦がイランの旅客機を、2001年には黒海でウクライナ軍の地対空ミサイル部隊がロシア機を、最近では2014年にウクライナ上空で新ロシア派とされる軍事組織がマレーシア機を撃墜しており、多数の民間人が犠牲となりました。

 誤射の原因は各々異なりますが、凶器はいずれも長射程の地対空ミサイルでした。
 これらの兵器は目視可能な距離よりも遠方の目標を攻撃できる一方、目標の識別はフライトプランの照合やIFF、もしくはATCトランスポンダへの質問など、電子的な方法に限られます。

 しかし、この電子的な識別法は技術の進歩にも拘わらず、依然として目標を取り違えるリスクを孕んでいます。

 一方、空自をはじめとする各国で領空侵犯対処にあたる戦闘機は、平時において目視外射程のミサイルを搭載せず、目標を視認できる距離まで接近し、敵か味方か民間機かを判断します。

 状況によっては(1991年の湾岸戦争中に発生した何件かの事例のように)戦時であっても目視による敵味方の識別が求められる場合があります。

 この目視による目標の識別はレシプロ戦闘機時代から続く古典的な手段ではありますが、現代においても民間機撃墜の悲劇を防ぐ、もっとも基本的で確実な識別法とされているようです。


参考

ボイスレコーダー撃墜の証言 大韓航空機事件15年目の真実(小山巌 ISBN978-4-06-209397-2 1998年10月15日)
航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
赤の広場にセスナ機着陸(RUSSIA BEYOND 2013年5月28日)
https://jp.rbth.com/arts/2013/05/28/43203

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