空自の日本防空史47
Su-15、緊急発進


文:nona


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ソ連軍のSu-15戦闘機
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D1%83-15#/media/File:Su-15_Flagon.jpg

ソーコル基地のSu-15TM

 1983年9月1日未明、オシーポヴィチ中佐が搭乗したSu-15TMとは、マッハ2級の速力とレーダーFCS、中射程空対空ミサイルを搭載する双発単座の全天候迎撃機です。西側では「フラゴンE」とも呼ばれました。

 戦闘部隊への配備は1976年に完了しており、この時点で防空軍兵力の1/3に相当する29個飛行連隊に配備されていました。練習機型の生産が完了した1979年時点での総生産数は1290機とされます。

 ただし、大量生産されたMiG-21やMiG-23と比べれば目立たない存在で、1983年当時は旧式化の進行により、ソーコル基地の部隊でもMiG-23やMiG-31への機種転換訓練が進められていました。

 主な武装は2発のR-98(AA-3又はR-8M2とも呼ばれる)中射程AAMで、レーダー誘導のR-98Rと赤外線誘導のR-98Tの2種類が開発されており、同時に2発発射することで、誘導妨害の突破が期待されていました。

 これに加えTM型ではUPK-23-250機関砲ポッド2門の搭載も可能とし、R-60(AA-8)短射程AAM2発の搭載改修も1979年から実施されていました。

 ただし、機関砲ポッド搭載と引き換えに増槽が搭載できなくなり、行動半径は短く制限されました。

 またオシーポヴィチ中佐のSu-15は今回の事件でR-60を使用しておらず、搭載されていなかった可能性もあります。


Su-15の特殊機能

 Su-15TMはレーダーFCSにRP-26タイフーンMを搭載し、距離70kmでの目標探知と、45kmでの目標追尾を可能としていました。

 しかし、タイフーンMはルックダウン能力を欠いた旧型のレーダーでしたから、自機よりも低高度の目標を捜索する場合、対象の背景に地表が映らないよう、自機を低空で飛行させるテクニックが必要でした。

 そこでSu-15には電波高度計を用いる簡易的な地形追随機能が搭載されており、低空でレーダー操作を行う際の助けとしています。地形追随機能は必ずしも低空侵攻を行うための機能ではないようです。
 ただし、今回の目標は高高度を飛行する旅客機。この機能は使用されなかったかもしれません。


迎撃機部隊の発進

 一度はオホーツク海に消えたKE007便でしたが、サハリン東方で再び捕捉されたことをうけ、現地時刻4時42分、オシーポヴィチ中佐のSu-15は僚機を伴い離陸。

 同時にスミルヌフ(気屯)基地からMiG-23が2機、沿海州のパスタバーヤ基地とヴァニノ基地からはMiG-21bisも発進していますが、先行したのは中佐らのSu-15編隊でした。

 Su-15は高度8000mまで一気に上昇し、オホーツク海へ飛行。当初Su-15はKE007便を発見できないまま洋上ですれ違いますが、管制官の指示をうけつつ反転し追跡を再開、5時8分ごろ、雲の切れ目からKE007便の航行灯を発見しました。

 この時点でSu-15は反撃を警戒してKE007便との距離を維持したため、正確な目標識別をしていなかったようです。

 しかしソーコル基地で指揮をとる航空師団長のカルヌコーフ大佐は、KE007便が軍用機であると確信。迎撃管制官を通じ「国境を侵犯したら目標を撃墜せよ。武器使用の準備を」とオシーポヴィチ中佐へ指示を送ります。

 これと前後しHF無線へのモールス信号が発せられ、KE007便のボイスレコーダーに5時15分から約2分間にわたる電子音が記録されています。

 ところが、この信号はソ連軍向けの警告信号であり、KE007便の乗員が「無線の調子が悪い」とつぶやきいたように信号の意図を理解していませんでした。
 国際緊急周波数による音声警告については、Su-15とソーコル基地との交信途絶を避けるため、実施されていません。


なにが民間機なものですか?

 Su-15がKE007便を追跡していた午前5時13分ないし14分ごろ、サハリンのカルヌコーフ大佐と、ハバロフスクの極東軍管区空軍司令であるカメンスキー中将との間で以下のやりとりが記録されています。

 中将が「我々は確認しなければならない。ことによると、それは民間機かも......よくわからないが......」と答えると、 大佐は「なにが民間機なものですか。それはカムチャツカ上空を飛行してきました。識別信号を出すこともなく海を越えてきました。もし、それが国境をこえた場合には攻撃命令を出します。」と強気の姿勢を示します。

 さらに「いまやるのか、私が命令を下すのか......?」とためらう中将に、大佐は「そうです。その通りです」と畳み掛けていました。

 こうしたやり取りの直後となる5時16分、KE007便は領空を侵犯。オシーポヴィチ中佐へ「目標は領空を侵犯、目標を撃墜せよ。」と最初の命令が下ります。

 しかし、程なくして「撃墜中止」「目標を我々の飛行場に強制着陸させよ」「機関砲で警告射撃せよ」と命令は変更されており、地上の混乱がうかがえます。


効力のない警告射撃とKE007便の減速

 オシーポヴィチ中佐は、ミサイルのロックオンを解除し、KE007便に接近、4回にわけて機関砲を短く連射する警告射撃を実施しました。

 ところが、この時はなぜか曳光弾が装填されておらず、警告の効力もないものと思われました。同時に(Su-15の航行灯で)点滅信号も送ったのですが、やはりKE007便の乗員が気付くことはありませんでした。

 しかし中佐は「こっちに気付いていたことに疑問はない」と語ります。
 警告の直後、偶然にもKE007便が減速を開始、Su-15をオーバーシュート又は失速させようとしている、というのです。

 実はこのときKE007便の機体が燃料の消費に伴って軽くなったため、燃費効率のよい高度まで上昇を開始、これに伴い一時的に減速していました。中佐はこれを回避起動だと誤解したのです。

 KE007便の減速と、迎撃管制官の指示のミスにより、2機は横並びの状態になってしまします。
 このままではSu-15の失速は免れず、KE007便が領空外へ逃れる可能性が高まります。
 そして5時22分に強制着陸命令は撤回され、再度の撃墜命令が下りますが、中佐によると、この撃墜命令はカルヌコーフ大佐が独断で決定した、としています。


中佐は民間機と認めていたか?

 後にオシーポヴィチ中佐は、不明機に上下2列の窓と、そこから漏れる機内の明り、さらには機内の人の動きが認められた、と告白しています。

 恐らくはKE007便とSu-15と横並びになった時に気付いたものと思われます。これは旅客型ボーイング747の特徴を具体的に示すものですが、中佐はなぜか地上管制へ報告せず、撃墜命令に従いました。

 中佐は退役後に国内外複数メディアの取材に応じており、事件当時のことを率直に語っていますが、民間機と知ったうえで攻撃したのか、という問いには明言を避けており、「民間機を軍用への転用は容易」であるとして「撃墜したのはスパイ機」との主張に終始しています。


次回に続く


参考
ボイスレコーダー撃墜の証言 大韓航空機事件15年目の真実(小山巌 ISBN978-4-06-209397-2 1998年10月15日)
世界の傑作機 No.120 スホーイSu-15 フラゴン世界の傑作機 No.120 スホーイSu-15 フラゴン(ISBN978-4-89319-147-2 2007年3月5日)
大韓航空機撃墜九年目の真実(アンドレイ・イレーシュ,エレーナ・イレーシュ著,川合渙一役 ISBN4-16-345680-5 1991年10月15日)

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