空自の日本防空史46
大韓航空007便撃墜事件


文:nona


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撃墜された大韓航空機007便と同型の旅客機ボーイング747
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Boeing_747-2B5B,_Korean_Air_Lines_AN0600191.jpg#mediaviewer/File:Boeing_747-2B5B,_Korean_Air_Lines_AN0600191.jpg

ボイスレコーダー撃墜の証言―大韓航空機事件15年目の真実
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大韓航空007便

 1983年8月31日の夜、大韓航空007便(以下KE007 便)はアラスカのアンカレッジを離陸し、韓国の金浦国際空港への飛行を開始しました。

 乗客240名、乗員はデッドヘットクルーを含む29名。乗客の中には28名もの日本人が含まれました。当時は大韓航空の運賃が日本の航空会社よりも格安であるとして、金浦空港を経由して日本とアメリカを往来するルートが存在したのです。

 KE007便のフライトは、R20という北太平洋上の空路を使用するはずでしたが、慣性航法装置の設定ミスが原因と推測されるコース逸脱により、現地時刻1時30分ごろ、カムチャッカ半島付近でソ連の領空を侵犯しました。

 乗組員はコースの逸脱と領空侵犯に全く気が付いていなかったようです。


侵犯機を許ぬソ連軍

 冷戦期のソ連が領空侵犯機に厳しい措置をとることは有名で、1978年には同じく大韓航空のボーイング707型機がソ連領へ迷い込み、攻撃をうけています。

 夜間ということもありソ連防空軍は対象を正しく識別できなかったものの、Su-15戦闘機にミサイル攻撃を命じており、弾頭の破片が客室を貫通したことで日本人を含む2人の乗客が死亡しました。

 このような事件もあり、アメリカ連邦航空局(FAA)は民間航空各社に、許可なくソ連領へ入らないよう勧告していたのです。


迎撃に失敗したカムチャツカのソ連軍

 今回、KE007便が侵入したカムチャツカ半島においては空軍のMiG-23戦闘機が発進していますが、最初の2機のMiG-23は接近する前に燃料切れで帰投、第二陣のMiG-23は発進した時には、KE007便が防空軍のレーダー網の死角に入って失探、見当違いの方向に誘導され接近に失敗します。

 再び地上レーダーが目標を探知したのは13分後のことで、第三陣の戦闘機が発進したときには、すでにレーダー網の外へ飛び去ろうとしました。

 KE007便がカムチャツカ半島を横切った際には軍港ペトロパブロフスクの北方を横切りますが、地対空ミサイル部隊はカムチャツカの火山群に射線を遮られ、有効に機能しなかったようです。

 迎撃の失敗の理由に関しては現地のソ連空軍及び防空軍部隊の不手際が指摘されており、

・長距離レーダーがアメリカの弾道ミサイル訓練用に備え捜索方向を変えていたため、航空機捜索に使用できなかった

・その他のレーダーサイトも燃料の不足により稼働率が低下していた

・戦闘機パイロットの亡命を阻止するため反転空域での帰投が厳命されていた(あるいは反転空域で強制的に帰投させるよう意図的に燃料が減らされていた)

 ちなみに事件の一昨年である1981年までにソ連の防空組織が改変され、これまで国土防空軍に所属していた航空戦力は空軍へ移管、防空軍の戦力を地上部隊のみとする、住み分けが実施されていました。
 もっとも、この編成には批判もあり、1986年に元の形へ戻されたようです。


緊張高まるソ連軍

 先のカムチャツカ半島での領空侵犯をうけ、南サハリン(樺太)のソーコル基地では飛行連隊(空自の飛行隊に相当)副隊長のゲンナージイ・オシーポヴィチ中佐に、Su-15TM機上での待機命令が下りました。

 しかし中佐自身には事の詳細を知らされておらず、突然の待機命令を奇妙に思ったそうです。
 そもそも、第1出撃態勢についているはずの若手パイロットを差し置き、第3出撃態勢の中佐に命令が下ったことが不自然であり、米軍機が夜明け前にやってくることも極めて稀、というのです。
 こうした事情もあり、中佐は当直態勢を試すための訓練なのだ、とすら思っていました。

 ただし、中佐は極東地域で10年の勤務経験があり1000回以上の迎撃発進をこなしたベテランでしたから、重大な局面に対応できると判断し、現地の司令部が中佐を指名したのもしれません。

 ちなみにソーコルにはいくつかの航空連隊を束ねていたであろう航空師司令部が置かれ、ここでは後にロシア空軍総司令官となるアナトリー・カルヌコーフ大佐が指揮をとっていました。彼はパイロット出身であり、中佐とも面識のある人物でした。


アメリカの侵犯機

 1983年当時は米軍機によるソ連領空付近での飛行が日常となっており、KE007便が飛来する前日も、RC-135電子偵察機が該当地域で偵察飛行を実施していました。

 RC-135の電子偵察は本来は領空を侵犯しなくとも任務を遂行しうるのですが、ソ連軍を挑発して警戒の度合いを挙げたほうが、より多くの防空設備が稼働し、得られる情報も増加します。

 よって、米軍機はあえてソ連の領空に接近して空中で「8」の字を描くように飛行し、時として領空侵犯に及ぶことがありました。

 オシーポヴィチ中佐ら現地のソ連軍部隊は米軍の情報収集能力を脅威に感じたようで、地上基地間の無線通信や戦闘機との音声通信は筒抜けになっていた、としています。

 ある時、休暇帰りで久方ぶりに迎撃任務についたパイロットに対し、米軍機から「ニコラーエフ、休暇はどこで過ごしてきた?」などと呼びかけがあった、という出来事すらあったのだそうです。


領空侵犯を許したソ連軍

 今回の事件と同年である1983年の4月、機種不明のアメリカ機が海霧に隠れ、歯舞群島のゼリョーヌイ島( 志発島 )で15分にわたり領空を侵犯する事件が発生しています。

 これを軍委員会が叱責したこともあり、ソーコル基地の緊張を高めることになりました。

 当初数週間の臨戦態勢が続いた後、6月まで連日の厳しい飛行訓練が課されており、この影響でオーシポヴィチ中佐も視力が低下、軍医に退役を促されたほどでした。

 夏になるとこの緊張も落ち着きはじめ、休暇を消化する余裕もあったようですが、この一件で現場部隊を好戦的な方向へ傾かせ、今事件での対応にも影響を与えた可能性があります。


次回に続く


参考

ボイスレコーダー撃墜の証言 大韓航空機事件15年目の真実(小山巌 ISBN978-4-06-209397-2 1998年10月15日)
世界の傑作機 No.120 スホーイSu-15 フラゴン世界の傑作機 No.120 スホーイSu-15 フラゴン(ISBN978-4-89319-147-2 2007年3月5日)
大韓航空機撃墜九年目の真実(アンドレイ・イレーシュ,エレーナ・イレーシュ著,川合渙一役 ISBN4-16-345680-5 1991年10月15日)


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