無題 Name 名無し 18/08/12(日)08:44:43  No.1250425

1534031083941
今日のNHKニュースで呂号第五百潜水艦は終戦後、終戦に納得せず艦長が日の丸を消しソ連を攻撃する為ウラジオストックへ向かったと元乗組員の証言を報じていました。
(これはwikiにも書かれていません)

私は陸軍悪玉論を信じていましたが
この報道を観るかぎり天皇の権威を信じたのは国民だけ
軍部にとって天皇の存在は軽いもので陸軍だろうが海軍だろうが命令無視は当たり前って感じに受け取れます。
終戦時にまだ戦えるとの状況判断だった人は多かったのでしょうか?
終戦と帝国艦艇―わが海軍の終焉と艦艇の帰趨
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無題
Name 名無し 18/08/12(日)09:37:23  No.1250433
ちなみに8月15日以降もソ連との戦闘状態は続いてました。

無題
Name 名無し 18/08/12(日)10:44:08  No.1250446
>ちなみに8月15日以降もソ連との戦闘状態は続いてました。

あと坂井三郎らが偵察に飛来した米軍機を撃墜したりしてたよね
正式な停戦は9月だから別に戦犯とかに問われることもなかった

無題
Name 名無し 18/08/12(日)10:10:07  No.1250437
海軍だって兵学校を出た大佐が「日本は神の国だ、神の国が降伏なんて絶対納得できねぇ」と言い出して海軍大臣どころか、皇族が説得しても矛を納めず檄文をばら撒いて戦争継続を煽った事件があった

民間でも県庁を襲撃して知事を暗殺、放送局を占拠して戦争継続を訴えようとした松江騒擾事件がある

海軍だけじゃなく民間でもそういう輩は少数だけど居たんだろうね。

無題
Name 名無し 18/08/12(日)10:28:41  No.1250442
>(これはwikiにも書かれていません)
艦これのwikiにはきっちり書かれていたり・・・

無題
Name 名無し 18/08/12(日)13:10:37  No.1250453
>この報道を観るかぎり天皇の権威を信じたのは国民だけ
>軍部にとって天皇の存在は軽いもので
なんというかこの文章の方が情報の上辺しか読み取ってなくて軽い気がしてならない

無題
Name 名無し 18/08/12(日)14:01:01  No.1250455      
https://cgi.2chan.net/f/src/1534050061144.jpg
1985年7月16日、ソ連の日刊APSプレスニュースに「ウラジオストク特攻の秘話」と題する記事が掲載されたそうなんですが、内容は

「終戦の日から3日後の1945年8月18日のことだった。国籍不明の水上機がウラジオストク・アムール湾の石油基地上空かの密雲の中から、いきなり急降下してきた。停泊中のタンカー・タガンログ号には砲1門と高角機関砲6門が装備されており(略)応戦した」

「体当りは避けられないと思われたが(略)機関砲弾がパイロットを直撃したので(略)飛行機は燃え上がりながらブリッジの横すれすれのところを通過、翼でアンテナをこわし、船から30メートルほどの海中に突入した」

無題
Name 名無し 18/08/12(日)14:03:12  No.1250456      
「警戒厳重な戦時態勢下のアムール湾に、どうして敵機が侵入し得たのか?ブルミストロフ退役海軍中佐(※タガンログ号で応戦した方)は、ちょうどこの時間に味方のソ連機が湾上で演習をするという通告を受けていたし、その前日に日本の関東軍司令官からソ連軍参謀あて、『全軍に停戦と降伏を命令した』との電報が入っていたのだ、と説明している。」

「のち潜水夫がパイロットの遺体を引き揚げた。身につけていたメモから多くのことが分かった。この記事は有力紙イズベスチヤ紙からの引用である」

…というものだったんだそうで

この「国籍不明の水上機」の素性なんですが、戦史家の土井全二郎せンせいによると、1945年8月15日の「終戦の日」当時、朝鮮半島の鎮海海軍基地に展開していたIJNの第901空鎮海海軍航空隊に、塩塚良二さんという海軍中尉の搭乗員がおられたんだそうで

無題
Name 名無し 18/08/12(日)14:04:23  No.1250457      
https://cgi.2chan.net/f/src/1534050263693.jpg
当時23歳の塩塚さん、長崎・五島列島の出身で、兄は海軍兵学校、弟は航空士官学校に入学という「軍人一家」の出身だったそうなんですが、鎮海で同室だった浦野泰一中尉によれば、同じ学徒出身の塩塚中尉は「忠君愛国の精神にあふれた青年」ながら、「情味があり、よく人の心をくみ取ってくれる男」だったそうです

水上機部隊の鎮海海軍航空隊は関釜連絡航路の護衛・哨戒が任務で、塩塚さんは「強風」「二式水戦」搭乗の水戦乗りとして訓練に明け暮れていたものの、8月15日に終戦の報がもたらされた部隊内は意気消沈、夜には「これが、飲まずにおられよか」と搭乗員の皆さんはヤケ酒を煽りに町に繰り出したそうなんですが、塩塚さんは「書き物があるから」と自室に残られたんだそうで

それでも翌日、大半の搭乗員が二日酔いの頭を抱えている鎮海基地では、とりあえずルーチン通りというか予定通り空戦訓練が行われ、塩塚さんが「二式水戦」、浦野さんが目標役の水偵に搭乗して離水したんですとか

無題
Name 名無し 18/08/12(日)14:04:46  No.1250458      
1534050286372
ところが先に離水した浦野機がいくら待っても塩塚機が来ず、不審におもって下降してみると、

「隊の上空、超低空で横転逆転、華やかなアクロバット飛行を展開している。奴、なにをやっているのか」
「やがて北方へまっしぐら、全速で飛翔し去り、積雲の彼方に隠れてしまった」

…そうで、やがて地上から訓練中止、帰投せよと指示された浦野氏らが聞いたのは、塩塚機が

「われ、これよりウラジオ攻撃に向かう。天皇陛下万歳」

…と機上電話で知らせてきたのち、飛び去ったという知らせだったそうです

無題
Name 名無し 18/08/12(日)14:07:04  No.1250459      
1534050424662
思い当たる節があった浦野氏が自室に戻ると、そこには昨夜書かれた塩塚氏の遺書が残っており

「貴様には土浦入隊以来、永らく御世話になった。厚く礼を言う。おれがこの様な道を選んだことは貴様には分かると思う」
「光輝ある旧時代の日本軍人として我は死するなり 謹んで皇室の安泰を祈り奉る」

…とあったんですとか

鎮海からウラジオストク迄は直線距離で約千キロだそうで、突入したのが水上機であること等からも恐らく特攻機の正体が塩塚機であった可能性は高いと思われるんですが、先述のようにソ連側の記事では突入の日付が8月18日なのに対して、塩塚氏の「出撃」日付は終戦翌日の16日と若干のズレが有りましたり

無題
Name 名無し 18/08/12(日)14:08:00  No.1250460      
1534050480466
この辺、塩塚氏以外に同様のことを目論んだ搭乗員さんが18日にもいたのか、日本側の記憶又は記録の日付に間違いがあったのかは今ではもう定かではないんですが、当時、例えばソ連側では8月16日にモスクワの総司令部より極東ソ連軍へ

「8月14日の日本の天皇による日本の降伏にかんする通告は、無条件降伏の一般的声明にすぎない。日本軍にたいする戦争行為中止命令はまだ出されておらず(略)ソ連軍は極東で日本への攻撃作戦を継続するべし」

…なんて通達されておりまして、「戦争はまだ終わっていないんだ」というのはむしろソ連側の強く主張してる所だったりするんですとか

無題
Name 名無し 18/08/12(日)14:10:26  No.1250461      
従って「ウラジオストクの特攻機」も、そんなソ連がまだまだ我が軍は止まるつもりはないでスキー!とバリバリ進撃中だった16日に突入してきた!というのと、関東軍の山田総司令官が麾下の全部隊に停戦命令を下達し、ソ連軍に戦闘行動停止を申し入れてきた8月17日以降に突入してきた!というのでは、若干読者が受ける印象が変わると思うんですよね
(ただし、ソ連軍の回答は20日正午以降戦闘行動を停止し、投降するよう指示するもの)

無論、ソ連側が意図的に日付を改ざんした、という証拠があるわけではないので、あくまで自分個人の見解に過ぎないんですが、わざわざブルミストロフ=サンの談話として、「日本側からの停戦申し入れがあった『後』だった」と強調しているあたり、何となく言い訳めいた感があるというか、関係者のソンタクじみた物を感じる、というのは邪推でしょうかねえ…

無題
Name 名無し 18/08/12(日)15:37:41  No.1250466
戦闘停止や武装解除に応じた満州では民間人が逃げられず兵もシベリア送り。

命令を無視して戦ったモンゴルの日本軍は
ソ連軍を撃退して4万人の民間人を無事に逃がしつつ
部隊も撤退に成功し日本に帰国している。

状況にそぐわない誤った命令を無視することと
暴走は違うし、誤った命令に盲目的に従うことも違う。

ソ連の侵攻を少しでも遅らせるために
ウラジオストックで日本潜水艦の存在を誇示するのは良策だろう。

無題
Name 名無し 18/08/12(日)16:04:54  No.1250468
>状況にそぐわない誤った命令を無視することと
>暴走は違うし、誤った命令に盲目的に従うことも違う。
そうだね

>ソ連の侵攻を少しでも遅らせるために
>ウラジオストックで日本潜水艦の存在を誇示するのは
>良策だろう。
うーん?
いやこれは独断で動いた暴走でしょ

無題
Name 名無し 18/08/12(日)23:49:15  No.1250527
どこまでを暴走と捉えるかに明確な線引きはないでしょう。
陸続きだからセーフとか軍港だからアウトとか

当時のウラジオストックは日本への上陸作戦のために多数の艦艇が集結中だったのは確かだろうし

無題
Name 名無し 18/08/13(月)02:23:02  No.1250580
>どこまでを暴走と捉えるかに明確な線引きはないでしょう
>状況にそぐわない誤った命令を無視することと
誤った命令と誰が判断するんでしょうか?
例えば撤退時にしんがりを務めるよう命令された部隊があったとして部隊は全滅必至である承服できないと異を唱えるんですか?
自分は暴走しているの定義は、上位の指揮命令系統に従わなければ暴走と言ってよいと思いますが?
軍隊においては上位の存在は絶対で自分より広い視野で判断し間違えないという大前提で動くしかないと言っても、あの戦争は初っ端から関東軍の暴走から始まっているのでそんな当たり前も守れなくて当然なのかもしれません
(当人達は自分の見える範囲で判断し私欲でなく国の為にやったと言い張り周りもその純粋な心意気や良しと罪に問わない連鎖が国を破滅一歩手前まで追いやった)

無題
Name 名無し 18/08/13(月)16:39:22  No.1250629
暴走っていうのは利益の多いか少ないかという部分も大いに関わってくるんじゃないかな
良い暴走って言う表現は普通はしないマイナスのイメージの言葉だし

誰かを助ける行為に暴走というのは使いにくい
ある命令やルールがあったとしてそれを無視したときに誰かが助かり結果として良い方なら暴走と呼ぶかな

あとはその言葉を使う側の考え方次第で
ある命令やルールを無視して行動した者自体を理由や結果の如何を問わず責めたい場合には「お前は暴走した」と表現するだろう

結果を見て結果の良い悪いを判断したり行動そのものを責める気が無い場合は暴走とは呼ばないと思う
>上位の指揮命令系統に従わなければ暴走と言ってよいと思いますが?
俺はそうは思わないけどな
命令や支持を無視した事実は事実で変わらないとしても結果や行動理念によると思う
あとはその言葉を使う人の心1つ

無題
Name 名無し 18/08/13(月)20:58:09  No.1250639
元々日本軍て軍紀が緩くて命令無視への忌避感が薄い感じはするね
他国の軍人の独断専行とはなんか違う

無題
Name 名無し 18/08/14(火)09:57:39  No.1250679
[独断先行]
指揮系統から逸脱しても本来の目的を見失ってはいない

[暴走]
若手の参謀がよくやってた「私物命令」など

中国戦線で参謀が回ってきて「捕虜は皆殺せ」と言う中、現地指揮官は「そのような重要な事柄は連隊からの正式な文書に拠って再度命令されたい」と突っぱねた。
参謀は引き下がったが、後日連隊からの本件に関する命令は何も来る事は無かった。

陸軍の悪評の根はこういう部分にあるかと

無題
Name 名無し 18/08/14(火)18:11:49  No.1250714      
1534237909599
IJAの飛行第108戦隊(99双軽)で中隊長を務めていた菱沼俊雄さんという操縦者さんの手記に、終戦前後の隊内事情やご本人の心中も描かれているんですが、曰く

「あくまで祖国の勝利を信じて散った特攻隊をはじめ、わが将兵の英霊はわれわれ生き残りの屈服をどう思うことか…日本が敗けるなどそんなばかなことが…正義が力に屈する道理はゆるされるはずがない。うそだ、なにかのまちがいだ、われわれはまだ力をもっている。1万5千機の飛行機もあるのだ(略)たとえ日本全土が焦土と化し、日本民族が全滅してもよいではないか。鬼畜米英に祖国を蹂躙され、彼らの奴隷と化するよりは、どんなにか美しい最期であろう」

「もし、この日の勅語がまこと終戦の大詔であるとすれば、そのかげにはかならずや君側の奸の策動、あるいは米英の謀略があるに違いない。そうだ、いかなるときにも伝統ある皇軍に〈降伏〉の二字はありえないのだ」

無題
Name 名無し 18/08/14(火)18:13:17  No.1250715      
1534237997697
「私は隊長室でひとり、航空地図をひろげ、沖縄のあたりをにらみながら考えにふけっていた。
──もしも終戦が事実であったなら、われわれはおめおめ引き退ってよいものか。いやだ。よし、沖縄への殴りこみをやろう。敵の空母を血祭りにあげて死ぬのだ。そうすればハラのふらついた中枢部も決意をかためるにちがいない。死んだ山本中尉達にあの世で会っても申し訳が立つ──」

…という心境で、その後部下たちからも同様の申し入れが相次いだため、「みなの心が一つになった」隊内では出動可能な双軽全機に積めるだけの爆弾を積んでの出撃準備が行われたんだそうで

そして最後の盃のつもりで行われた宴の最中、菱沼氏は

「父母や妹たちはどうなっているかわからないが、祖国が亡びようとしているとき、家族や自分個人の運命などとるにたらない問題である。なにひとつ思い残すこともなければ、遺書を書く気にもなれなかった」

無題
Name 名無し 18/08/14(火)18:14:16  No.1250716      
1534238056257
…そうなんですが、

「たった一つ気がかりなことがあった。それは、こんどの攻撃が全くの独断によるものであり、もし天皇のご意思が終戦にあるとすれば、私たちの行為は明らかに大命にもとるということにあった。皇軍は天皇の統率したまう軍隊であり、軍人は大命のまにまに身をすてて任務をまっとうするのを伝統としてきた。もし終戦の大詔が真実、煥発されたのであるならば、たとえそれが君側の奸の手になったものであっても形式上は、明らかにわれわれの違勅であり、われわれの行為は不忠とみなされてもやむをえない仕儀であろう」

「その一事が私の心を重くし、私を安心立命の境地におかしめなかった(略)しかし、いまとなってはどうしようもないのだ。運命にしたがうまでである。われわれの行為が勝者米軍の感情を害することとなり、そのために皇室や国民、あるいは家族にまでわざわいがかかるおそれも考えられないではなかったが、われわれはまだ正式の命令をうけていないのだから、なにも知らずただ血気にはやってやったのだと弁明すれば、我々の死だけで充分つぐないうるであろう、とも考えられた」

無題
Name 名無し 18/08/14(火)18:21:29  No.1250717      
1534238489378
「いや、そうにでも解釈しなければ心のまとまりがつけにくかったのだ」

「翌日、目をさましたとき(略)当番兵が新聞をもって入ってきた。みれば、なんと『万国太平の基を開く』という大見出しで、冷厳たる終戦の事実をつたえているではないか。私は目をうたがった。夢ではないかと思った。いや、夢であれと願いもした。しかし、事実は無残にも私の望みを打ち砕いたようである」

「もはや、沖縄攻撃も機をうしなっていた。日は高く新聞という公報機関が、すべての国民に真実をさらしてしまったのである。ここにいたっては知らずにやった、という弁明はなり立たなくなってしまい、大義名分もたたなくなってしまった」

…ため、出撃取り止めとなってしまったんだそうで

無題
Name 名無し 18/08/14(火)18:23:30  No.1250718      
1534238610089
当時菱沼氏は若干23歳、昨日まで徹底抗戦の指導の下、文字通り我が身を肉弾に変えて戦友が散っていった中で,いきなり降伏・終戦といわれても納得できないというか、そんな命令は米英にたぶらかされたか「君側の奸」の策謀によるものだ!と思い込んだという心中は察せられるんですが、そんな菱沼さんでも一方では帝国軍人として、「大命」に背くのに大いに抵抗があり、また部下ともども背命の軍人とみなされるのは耐えがたかったみたいなんですな

状況に様々な差異こそあれ、当時敗戦という現実に直面した数百万の日本軍人さん達は同様の葛藤にどう対処するか迫られたわけですが、結果的に見れば自衛戦闘や数例の「無断出撃」を除いて、全般では終戦の大命に従っている事実そのものが、ある意味一般の日本軍または軍人さんにとっての天皇、もしくは大元帥の「大命」の重さを示しているんじゃあないでしょかね…?

無題
Name 名無し 18/08/15(水)20:40:04  No.1250864 
玉音放送と同時に軍に停戦命令がでていなかったんですね・・ 

引用元: https://cgi.2chan.net/f/res/1250425.htm

<管理人より>
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