空自の日本防空史35
幻の国産早期警戒機


文:nona

35-1
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1978/w1978_03003.html
1978年防衛白書第3部第1章 第10図 早期警戒機(AEW機)による警戒監視を示す図

ドイツレベル 1/144 E-2C ホークアイ 早期警戒機 プラモデル 03945
ドイツレベル(Revell) (2016-08-27)
売り上げランキング: 179,028

懸念されたレーダー網の死角

 航空自衛隊は1958年にレーダーサイトを米軍より移管され、独自に領空と防空識別圏の警戒監視を続けていました。

 各地のレーダーサイトは海岸の高台や山頂部に設けられ(佐渡島のサイトは1000m以上の標高に設置)、ある程度は遠方を見渡せたものの、それでも広大な防空識別圏のすべての高度は監視できず、多数の死角が存在しました。

 こうした事情をうけ1967年に開始された第三次防衛力整備計画で早期警戒機(当時は「レーダー搭載警戒機」と呼称)の導入が検討されています。

 当時、防衛庁および空自が候補とした早期警戒機は

 ・アメリカのE-2早期警戒機(A型もしくはB型)
 ・国産のXC-1輸送機を母機とするAEW
 ・同じく国産のPX-S(後のPS-1哨戒飛行艇)を母機とするAEW

の3案。また非公式にYS-11を母機とする案も挙がったようです。

 この時点では、アメリカはまだ日本へのE-2提供を認めておらず、国産自主開発の機運を高めたのですが、国産機を母機として使用する場合、機体に大がかりな改造が必要でした。

 XC-1輸送機(およびYS-11)は航続距離が短いため、燃料タンクの増設を図る必要がありますし、PX-Sの場合は高高度への上昇を可能とするための機内与圧が必要でした。


早期警戒機は国産で

 
国産早期警戒機の実用化のために越えるべき技術的ハードルは少なくなかったのですが、1968年に技術研究本部は防衛庁へ「国産は可能」とする報告をしています。

 すると同年の秋、アメリカはE-2の提供を認める方針に転換。これにより国内でもE-2の導入を求める声もあがったようですが、

 1971年4月1日に防衛庁は早期警戒機の国産開発を発表し、外国機は「信頼度が不確か」として導入を見送ろうとしました。

 この決定の前年、防衛庁はアメリカとイギリスに早期警戒機の調査団を派遣していますが、候補とされたE-2はまだ発展途上で頻繁な仕様変更の最中にあり、決定版とされるC型は実用化されていませんでした。

 加えてイギリスの場合も新型機の登場が遅れていましたから、防衛庁はそのあたりを「信頼度が不確か」としたようです。

 もっとも、信頼度の問題は国産案にも同様のことが言えるはずですが、国産推進派の中曾根防衛庁長官は、ならば日本の航空産業のためになる方を、との理由で国産案を選択した、と国会で語っています。


理想的な折衷案

 
防衛庁は国産早期警戒機の開発期間と費用を「約六カ年、百二十億程度」と想定し、実用化の時期を1978年としたようです。

 ただし、日本にとって早期警戒機の開発は初めてのことですから、開発の難航も想像に難しくありません。上記の見積もりはかなり楽観的なものと言えます。

 こうしたリードタイムの長さ懸念した空幕は、当初E-2Cを7機導入し、次々期防(1982~86年の想定)で国産機に調達を切り替える、という折衷案を防衛庁へ上申しています。


政権代わり計画は白紙

 1972年10月9日、突然早期警戒機の導入計画に「待った」がかかります。

 その理由は、早期警戒機(と同時期に導入予定の国産対潜哨戒機)は(議論の多い案件であるため)専門家会議で慎重に検討する必要がある、と国防会議が判断した為ですが、

 実のところ、田中首相個人の意向によるものではないか、と言われることがあります。(防衛庁は否定していますが)

 早期警戒機の導入計画は佐藤首相と中曾根防衛庁長官の体制下で始まったものの、諸事情あって第四次防衛力整備計画の決定が遅れており、この最終決定を下せる立場にあったのは1972年7月に成立した田中首相の時代になってからでした。

 この田中首相は1972年9月のニクソン大統領との会談で、対日貿易赤字の是正を目的にアメリカ機の導入を迫られており、これに応じる形で国産早期警戒機(と哨戒機)の開発を中止させた、というのです。

 前述の専門家会議は19回の会議と7回の分科会を重ねたのですが、最終的に「現段階では、国産化を前提とする研究開発に着手することは見送ることとするのが適当であると考える。」と発表し、1974年12月27日をもって国産機計画は完全に白紙還元されました。

 そうなると、空幕が望んでいたE-2Cが導入されて然るべきですが、田中首相が「金脈問題」で辞任したためか、あるいはオイルショックによる経済危機の影響か、E-2の導入も見送られています。


MiG-25事件

 1976年9月6日、ソ連の亡命パイロットが搭乗したMiG-25が領空を侵犯。空自は同機をレーダーで探知しF-4EJをスクランブル発進させたものの、同機が雲を避けるため低空飛行に入ったため失探、函館空港への着陸を許す、という大事件が発生します。

 この時は何の予兆もなくMiG-25が現れたため、仮に早期警戒機があったとしても有効な役割を果たせたかは...微妙なところですが、低空域を捜索できる早期警戒機の重要性が広く認識されたのは事実です。

 1976年10月29日に発表された防衛計画の大綱では警戒飛行隊1個の保有が明記され、早期警戒機の導入事業が再開されました。

 ただし、国産早期警戒機の開発を再開する時間はなく、国産機が候補に挙がることはありませんでした。


自衛隊最初の早期警戒機

 ところで、1950年代の一時期、海自も早期警戒機を保有していた時期がありました。アメリカから供与されたTBM-3Wがそれです。

 TBM-3WはTBFアヴェンジャー雷撃機の派生であるTBMの胴体下に、AN/APS-20レーダーを搭載する改造が施された機体で、太平洋戦争末の1945年3月から運用がなされ、日本軍機に対する早期警戒を担当しています。

 海自には1954年ごろ供与さたものの、海自の任務の性格や、老朽化などの関係で早期警戒機としての運用はされず、訓練用哨戒機として短期間使用されるにとどまったようです。

 マイナーな兵器ではありますが、特徴的な見た目に惹かれるファンも多く、過去に複数のメーカーからプラモデルが販売されています。

35-2
防衛庁五十年史 (防衛庁編 2005年3月)
海上自衛隊のTBM-3W


次回に続く


参考

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
自衛隊史(日本防衛調査協会発行,草地貞吾,坂口義弘編 1980年8月7日)
防衛庁五十年史 CD-ROM版(防衛庁編 2005年3月)
1971年5月7日 第65回国会 内閣委員会 第20号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/065/0020/06505070020020a.html
1976年2月6日 第077回国会 予算委員会 第9号http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/077/0380/07702060380009a.html 
1977年 防衛白書 第4章 ミグ25事件
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1977/w1977_04.html 
Detect and Direct
The Navy’s newest Hawkeye gets closer to the fight.
(Smithonian Air & Space Magazine Preston Lerner 2008年7月 )
https://www.airspacemag.com/military-aviation/detect-and-direct-45435437/ 
1977年防衛白書 第3相

ソード 1/72 TBM-3W グッピー プラモデル SWD72114
Sword (2018-06-13)
売り上げランキング: 76,412