三菱F-1戦闘機その3(空自の日本防空史31)

文:nona


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http://www.sjac.or.jp/common/pdf/toukei/50nennoayumi/4_3_nihonnokoukuki3-4.pdf
日本の航空宇宙工業50年の歩み 第3章 40年代:航空機工業基礎固めの時期

 
今回はF-1の防空活動について。

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F-1も24時間のアラート待機

 F-1の運用開始から4年が経過した1982年、ついに24時間のスクランブル発進体制が求められました。

 F-1は国産レーダーFCSのAWG-12を搭載しており、一応は全天候要撃も可能でしたが、BADGEデータリンク機材は搭載していません。

 そもそもF-1は練習機から発展した支援戦闘機(攻撃機)であり、要撃機としての任務は不適。パイロット達も夜間の出動を不安がったそうです。

 しかし、空自は運用できる戦闘機の数に限りがあるため、支援戦闘機であっても多用途に使わなければならず、平時および有事の初動においてF-1は欠かすことのできない貴重な戦力と捉えていました。

 折しも1980年代は緊急発進回数が激増した時代でしたから、F-1部隊もこれに対応する必要があったのです。

 80年代は平均して年間835回ほどの発進があり、昭和時代において最多年だった1984年には944回出動を記録しています。

 もっとも、状況に応じF-4EJやF-15を先に発進させ、後続が必要な場合にF-1を発進させるなど、優先順位はあったようです。

 また90年代においては、F-1部隊の夜間待機は5分待機のみとし、30分待機を実施しない場合もありました。


F-1に手を振るTu-16のパイロット

 この時期にF-1でスクランブル発進した窪田博氏は、ソ連軍Tu-16爆撃機との邂逅を経験しています。

 当時のTu-16は訓練用の対地ミサイルを搭載する場合があり、空自のレーダーサイトへ近づいては引き返す、といった模擬攻撃行動が観察されるなど、活発に活動していたようです。

 ただし、かつてのように機銃を指向してくるケースは珍しく、F-86世代のF-1パイロットである窪田博はその経験があったものの、80年代以降にこの任務に就いた高部充博氏は、86回の出動の中で機銃を向けられる経験はなかった、と語っています。

 ソ連のパイロットの中には、空自機に手を振る者まで現れたようですが、窪田氏はこの行為について「手を振るとは何事か」「軍の操縦者としての意識が欠けているのではないか」「お互いおプロでそれぞれの国を代表する立場に居るのである。恥ずかしいことはできない。」と、否定的にとらえています。


北海道の空をF-1が守る

 1986年9月4日、百里基地のF-15Jが地上で勝手にミサイルが発射する事故が発生。これはスクランブル発進の準備中に起きた事故だったようで、原因究明と対策までの期間、全てのF-15Jがアラート待機から外されてしまいます。

 そこで三沢基地のF-1部隊が臨時に千歳基地に展開し、F-15Jに変わって防空をこの任務を引き継ぐことになりました。

 事故当日の夜に三沢基地の第8飛行隊の飛行班長であった窪田氏らは6機のF-1と整備および武装員が乗るC-1輸送機で現地入りし、翌日からアラート待機を開始。特に最初の3日間は、複数のスクランブル発進があり、かなり忙しかったようです。

 千歳への派遣期間中、第8飛行隊の発足から1000回目のスクランブル発進の節目を迎えています。

 レーダーサイトから怪しい機影の報告が入るという状況でしたが、ささやかなセレモニーと記念撮影を行うと、すぐさま任務に戻り、直後にスクランブル発令で出動、ということもあったそうです。

 余談ですが、9年後の1995年11月、F-15Jはまたも誤射事故を引き起こしています。原因はパイロットの操作ミスだったようですが、当面の間ミサイル非搭載でのアラート待機措置がとられていました。


F-1の寿命

 F-1は3500時間の寿命で設計されており、航空機構造保全プログラムの適用後に4050時間に延長されました。さらに、当時の空自はオイルショックに伴う燃料費の増加、石油備蓄を維持する目的で年間飛行時間を減らしており、結果として当初の想定よりも長い20年強の寿命が見込めました。

 もっとも、F-4EJほどに寿命は伸ばすことはできず、大掛かりなアップデートも見送られます。F-2の導入が遅れていた1997年には、一部の機がバトンを渡せぬままリタイヤを余儀なくされています。

 また共通設計機のT-2を運用していた教導隊において、1988、1989年に空中分解と思しき事故で墜落事故が発生し、早期にF-15DJへ機種変更する、という出来事もありました。

 T-2およびF-1は設計段階において、エンジンパワーの不足を機体重量の軽減で補う目的で、かつてのゼロ戦のように各部分ごとの重量目標値を決め、厳しく管理していました。

 その一環として機体各部の安全率を一律とせず、性能要求に基づく強度試験の結果から安全率を落とし部品を軽く作る、ストレッチ・メソッドという手法が採用されています。

 ただし想定外の運用にはどうしても弱く、激しい空中機動を行う教導隊のT-2が墜落してしまったのも、厳しい軽量化の代償であった可能性は否定できません。

 幸いF-1が強度不足で空中分解した、という話は聞かないものの、延命の必要があったにもかかわらず、それが叶わなかったのは、そうした設計が影響していたのかもしれません。


ラストフライト

 空自がF-1を実戦配備した期間は30年に満たなかったたものの、この期間をほぼF-1と共に飛んだパイロットは少なくありません。最後のF-1飛行隊長であった高部氏もその一人で、F-1での飛行時間は累計3733時間に達していました。

 F-1の退役は2006年3月のことでしたが、高部氏によるとラストフライトに臨むF-1は整備員のはからいで定期整備直後のように磨き上げられ、美しく輝いていた、とのことです。

 少々辛気臭くなってしまったので(?)次回は某最強戦闘機の話でもしたいと思います。


参考資料

戦闘機パイロットの世界“元F-2テストパイロット”が語る戦闘機論(渡邉吉之 2017年9月10日)
自衛隊エリート・パイロット(菊池征男他 ISBN978-4-87149-982-8 2007年8月31日)
実録・戦闘機パイロットという人生(佐藤守 ISBN978-4-7926-0515-5 2015年2月24日)
世界の傑作機 No.117 三菱 F-1(ISBN978-4-89319-141-0 2006年10月5日)
日本の防衛戦力③航空自衛隊(読売新聞社編 ISBN4-643-87032-X 1987年5月14日)


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