【軍事講座】阿賀野巡に瑞雲を
-軽巡洋艦搭載機小史Ⅱ-

文:加賀谷康介(サークル:烈風天駆)


 前篇-軽巡洋艦搭載機小史Ⅰ-では昭和18年半ば、中部ソロモンの攻防期までを解説しましたが、後篇はその後の展開を取り扱います。 

5.消えゆく軽巡洋艦搭載機

 昭和18年後半に入り、戦没艦の穴を埋める形で「能代」「矢矧」が相次いで就役します。

 ただし、「神通」から「長良」を経て二水戦旗艦を継承した「能代」が、定数表では始めから三座水偵(3SR×2)となっているのに対し、大破した「阿賀野」と重複する形で第一〇戦隊に編入された「矢矧」はしばらく搭載機定数なし(0)となっています。

 定数表で「矢矧」が三座水偵(3SR×2)とされるのは、「阿賀野」戦没後の19/4/1表においてようやくの事でした。

 この辺の事情は、単純に当時の飛行機不足とか搭乗員問題もあったとは思いますが、搭載艦の定数とは、個艦単位でどうこうと言うより、艦隊全体で割り当てられていた分をどの艦にどのように割り振るかという、当時の艦隊航空兵力全体に共通する課題の一例であったように思います。

 さて、機動部隊作戦の主力である二水戦、第一〇戦隊の旗艦が阿賀野型に更新される一方、それ以前の軽巡はどうだったでしょうか。

 第二一戦隊の「多摩」は、どの艦より早く17/6/1から8/1の間に搭載機の定数を削除されました。
一水戦の「阿武隈」は18/9/15付で削除。
第一六戦隊の「鬼怒」「球磨」も同日付で搭載機定数を削除されています。
(同戦隊「名取」は、大修理で編制から除かれた18/7/1付で搭載機定数を削除か)
三水戦の「川内」は18/11/2に戦没し、旗艦を継承した「夕張」には射出機がありませんでした。
第一四戦隊の「那珂」「五十鈴」及び第四艦隊直轄の「長良」はいずれも三座水偵(3SR×1)ですが、18/12/15に一括して搭載機定数を削除されています。

 搭載機定数を削除された艦は、対空兵装の強化工事の際に順次射出機を撤去しており、例えば18/9/15付で搭載機定数を削除された「球磨」では、「10月23日よりシンガポールの第101工作部で改装工事を行い、5番(14cm)主砲、射出機とデリックを撤去、~」となっています。

ウィキペディア「球磨 (軽巡洋艦)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

 いずれにせよ、飛行機搭載軽巡洋艦という存在が急速に減少しており、海軍の航空機運用の主体が艦船から陸地の航空基地に移りつつあること、そしてそれは水上偵察機と言えど例外ではなかったことを雄弁に物語っています。

 昭和19年に入ると、19/3/1時点の連合艦隊所属軽巡洋艦14隻のうち、固有の搭載機定数を有する軽巡は、二水戦「能代」(3SR×2)、第一〇戦隊「矢矧」(3SR×2)、それに連合艦隊旗艦「大淀」(3SR×2)の3隻だけとなりました。

 さらに19/5/1付で第一六戦隊「鬼怒」に三座水偵(3SR×1)が復活します。
定数表の19/8/1表と19/10/1表では二座水偵(2SR×1)となっていますが、当時の状況を勘案するとこれも三座水偵(3SR×1)の誤りのようです。

 なお、ウィキペディアの「鬼怒」の記事では、1944年に「射出機の撤去と跡に25mm三連装機銃の装備~」が行われたとありますが、定数表の上では「鬼怒」が沈没した19/10/26の直前である10/1表まで搭載機定数を有していることになっています。

ウィキペディア「鬼怒 (軽巡洋艦)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B7%80_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

 この頃になると軽巡洋艦が新たに水雷戦隊旗艦となっても、搭載機定数が付くことはなくなります。

第一一水雷戦隊「長良」(「龍田」沈没後)→「多摩」(「長良」沈没後)
第三水雷戦隊「名取」(「夕張」沈没後)
いずれも定数表では搭載機定数なし(0)となっています。

 艦によってはすでに射出機を撤去され、飛行機搭載艦としての能力を失っていたものもありました。


6.軽巡洋艦搭載機、最後の出撃

 マリアナ沖海戦後の軽巡洋艦搭載機については、多くを語ることがありません。

 フィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)では、この時点で搭載機定数を有する軽巡洋艦に限って言うと、二水戦の「能代」と第一六戦隊の「鬼怒」が沈没。

 海戦後、第一〇戦隊の解隊に伴い二水戦に編入された「矢矧」(3SR×2)。
第二艦隊附属、第五戦隊、第四航空戦隊と所属戦隊を転々とした「大淀」(3SR×2)。
この2隻が搭載機定数を有したまま昭和20年を迎えますが、20/3/10になって、北号作戦後呉鎮守府・呉練習戦隊所属となっていた「大淀」から搭載機定数が削除されました。

 また、この間に阿賀野型4番艦にして日本海軍最後の巡洋艦となる「酒匂」が就役しますが、射出機を装備して完成した同艦にも搭載機定数が付けられることはありませんでした。

 酒匂」は就役後第一一水雷戦隊の旗艦を継承しますが、戦時日誌などの記録を見る限り、同艦は公試などの機会を除いて、部隊配備後に搭載機を運用したことはないのではないかと思います

 最後の水偵搭載軽巡洋艦となった「矢矧」ですが、昭和20年に入ってひと波乱ありました
20/2/10、「矢矧」の搭載機定数が削除。
同日付で、「矢矧」の属する第二艦隊から「大和」「長門」「榛名」の第一戦隊が解隊。
それに伴い、最後まで固有の搭載機を残されていた「大和」からも搭載機定数が削除されました。

 最後の戦艦と最後の軽巡、搭載水上機の取り上げは第二艦隊全体に対する共通の決定であったようです。

 しかし、どういう理由によるものか「矢矧」のみ、20/3/10に三座水偵(3SR×2)が復活します。

 これについて、ウィキペディアの「大淀」の記事に「3月、大淀水上機搭乗員および整備員は阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧(当時第二水雷戦隊旗艦)に配属される」という引用があり、公文書上も「大淀」の搭載機定数削除と「矢矧」の搭載機定数復活の日付が一致するので、上記の引用文は裏付けの取れた証言ということになります。

ウィキペディア「大淀 (軽巡洋艦)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B7%80_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

 この期に及んで急遽「矢矧」の飛行機定数が復活した理由は謎ですが、2月の時点で今後の艦隊作戦が全く未定であった状況から、米軍の沖縄侵攻が切迫し、それに対する出撃が予期されるに及んで、艦隊運用の所要上、どうしても搭載水偵が必要という意見があったものと想像されます。

 それが第二艦隊司令部か、第二水雷戦隊司令部か、もしくは命令者である連合艦隊/軍令部側の思惑かによって解釈の分かれるところですが、20/4/7の「矢矧」沈没当日、空襲直前に零式水偵1機が射出発艦したことは事実で、これが日本軽巡洋艦として確認できる最後の搭載機運用記録となりました。



7.顧客が本当に必要だったもの(軽巡洋艦編)

 長くなりましたが、日本軽巡の搭載機とは水雷襲撃時の触接及び敵勢観測、吊光弾投下をはじめとする夜戦補助任務に長時間就くことが可能な夜間偵察機、もしくは夜間飛行能力を有する水上偵察機を意味していました。
また、偵察員(責任上、准士官以上の士官搭乗員であることが望ましい)の責任が極めて重大なため、偵察員が任務に専念することができるよう、三座以上の機体が望ましいと日本海軍では考えていたようです。

 その点で瑞雲は、夜間飛行能力については史実の活躍が証明しているものの、偵察員が電信員や後方射手を兼務するため、偵察能力の面では三座水偵に一歩劣り、また飛行時間の面でも三座水偵に及びませんでした。
これは瑞雲が二座水偵の系譜から誕生した以上覆ることはない部分ですが、軽巡洋艦の搭載機としては任務との適合性が三座水偵より劣ることは確かです。

 そういう意味では、瑞雲は軽巡洋艦=水雷戦隊旗艦の搭載機として、決して好ましい存在ではありませんでした。


8.(瑞雲積めと)心が叫びたがってるんだ

 ただし瑞雲は零式水偵より小型のため、広いとは言えない阿賀野型の飛行甲板にも2機搭載できる可能性があります(タミヤのWL1/700阿賀野を弄った感想)。

 飛行甲板の隅にあって邪魔な高射指揮装置や、飛行甲板上に仮設された補助翼倉庫などを除いたクリーンな飛行甲板なら、主翼を折りたたんだ状態の瑞雲2機を互い違いに配置することは可能かもしれません(主翼折畳状態の瑞雲全幅6.5メートルに対し、阿賀野船体最大幅は約15メートル。飛行甲板幅員もほぼ同大と推定)。

 主翼の折畳機能は零式水偵にも瑞雲にも共通の特徴ですが、実際の阿賀野型では飛行甲板に1機,
射出機上に1機が定位置のため、艦上でこの折畳機能が活用されたことはあまりないのではないかと思います。

 しかし、何らかの理由で1機でも搭載機が欲しいと要求された場合には、この折畳機能を最大限発揮することで1隻あたり3機(飛行甲板に2機、射出機に1機)搭載することは、絶対に不可能とまでは言えないのではないでしょうか。

 もちろんその場合、飛行甲板上の軌条や回転台の配置、それに射出機へのスライド位置などを変更することが必要でしょう。

 また、瑞雲を攻撃任務に使用したい場合、爆装して燃料満載の瑞雲を射出するとなると、射出能力の問題から「伊勢」「日向」と同じ一式二号一一型射出機を装備する必要があります。射出機そのものは「阿賀野」が実際に装備していましたから、同型艦への装備自体に困難な部分はないと思いますが、問題はその長さです。
一式二号一一型射出機の全長は25.5m、「能代」「矢矧」「酒匂」が装備した呉式二号五型の19.4mに比べて6m以上長く、旋回させると射出機先端が飛行甲板に差し掛かります。つまり先ほどの2機搭載の駐機スペースが足りない恐れがあるのです。

 この点、図面と模型でもっと詳細に詰めてくださる方を募集しています(他力本願)。


9.再認識させられる航空戦艦の能力

 阿賀野型が瑞雲を搭載するシチュエーションとして現実的なのは、阿賀野型が水雷戦隊旗艦として1隻ずつ配備されるのではなく、4隻1個戦隊として集中運用される場合です。
その場合、4隻8機または12機のスケールメリットを生かして、一部を決戦補助兵力として代用艦爆的に使用することは不可能ではないかもしれません。

 事実、前進部隊(第二艦隊)に集中された重巡洋艦はそうした用法を想定して二座水偵と三座水偵を混載していた時期があり(概ね昭和18年末まで)、瑞雲の水上爆撃機的要素がそういう用法に基づいて生まれたものであることを考えれば、前進部隊の一翼を担う阿賀野型に瑞雲を搭載するというフィクションにも一応の説得力が生じます。

 ただし、これだけ工夫しても阿賀野型軽巡4隻で攻撃任務に使用できる瑞雲の数は8機か、12機が最大。
それに比べて「伊勢」「日向」は2隻で44機。同じ数を阿賀野型で搭載しようとなると、3機搭載でも15隻、2機搭載なら22隻!もの同型艦が必要で、いかにこの2隻が航空機搭載水上艦艇として優れているかわかります。
中途半端な改装と批判されることも多い両艦ですが、普通の水上艦艇と比較すると、水上艦艇としての戦闘能力を一定水準保ったうえで、いかに効率よく飛行機を搭載できるよう工夫された艦か改めて認識されますね。

 阿賀野型について始めた記事をなぜか伊勢型の話で〆ることになりましたが、あの御仁も満足してくれたと思うので、これでお開きにしたいと思います。
長文を最後までご覧になっていただいた皆様、加賀谷の与太話にお付き合いくださりどうもありがとうございました。


【参考文献】
海上自衛隊『太平洋戦争日本海軍戦史』第18巻(「太平洋戦争中に於ける日本海軍飛行機搭載艦編制及飛行機定数表」収録)
加賀谷康介『編制と定数で見る日本海軍偵察機隊』(拙著)
そのほか、軽巡洋艦・射出機・水上機に関する各種書籍・同人誌を参考としました。

<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』

URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx