無題 Name 名無し 18/01/05(金)17:28:53  No.1233425

タミヤ 1/700 ウォーターラインシリーズ No.501 日本海軍 1等・2等輸送艦 プラモデル 31501



https://cgi.2chan.net/f/src/1515140933202.jpg
復員船について
アメリカからリバティ船とかLSTとかの貸与があったそうですが
何十隻も外国製の船が急に増えても日本人がうまく運用できたものでしょうか
終戦の混乱で教育とかガタガタになってそうだし気になります
画像は日本版LST

無題
Name 名無し 18/01/05(金)23:33:06  No.1233452
外国製のフネでも基本的な艤装や操船方法は万国共通だから問題は無かったんじゃない?

無題
Name 名無し 18/01/06(土)15:44:31  No.1233506      
丸 月刊「丸」創刊50周年記念特大号 特集・戦艦「大和」の戦い 永遠の巨艦 1998年5月号 NO.625
あまり其の手の書籍は見たことが無いのですが雑誌「丸」1998年5月号と6月号の後半ページに加藤智弘氏と言う方が長編で「復員船Q031 望郷航路に宜候」(6月号は続編)と言うタイトルで供与されたLSTでの招集から米軍との引き継ぎ・船内生活(初期のホテルシップ含)まで色々書かれています(・w・

これは一例なんでしょうけど最初に船内で米軍士官等と打ち合わせ、装備品確認、各種設備の操作方法説明を受け、これが数日で後は説明書きの載ったインストラクションブック(解説書)を見ながら全ての操作を行うという方式だったらしいのですが
しかし機関・電気系の修理で悪戦苦闘する姿も・・・(・w・;
但し基本的に船というのは細かなことは別にしてもそれほど極端な差異は無かったようで
このかたは3等航海士ですが艦長が操作方法で騒いだ姿は書かれていません

また船内での窃盗も多かったみたいでLSTの燃料を盗む者や最初に供与された米軍のレーションが丸々ごっそり盗まれ代わりに旧軍の固いビスケットが支給されるなど非常に大変だったようです
非常に内容は面白いので古本屋さん等で探して読んでみる価値はありますよ

無題
Name 名無し 18/01/08(月)09:49:01  No.1233633      
戦中アメちゃんの捕虜になって、ハワイの捕虜収容所に居た方の手記に、終戦後日本に送還されることが決まって、ホノルルの桟橋で浦賀行きの「リバティ・シップ」の乗船待ちをしていた所、その場にいた米兵たちが

「いったいこの船の操舵は誰がやるんだい?」
「ジャップさ」
「しかし、こいつはおれたちの船だぜ」
「奴らだってモンキーじゃねえよ。日本は”シビライズド・カントリー”らしいぜ」

…なんて話してるのを聞いた、なんて場面が有りましたり

その失礼千万な会話を聞いた時、思わず涙があふれ出たそうなんですが、それは屈辱の故でなく、初めてこれから祖国へ帰るのだ、という実感を感じた為だった…との事

無題
Name 名無し 18/01/08(月)09:50:42  No.1233634      
1515372642783
因みにまだ日米開戦前の1940年7月、「帝国船舶株式会社」なる国策会社が大手海運会社9社の合同出資で設立されているんですが、その目的は当時逼迫していた船舶事情改善のための外国船の傭船または購入を一括して行う為であったんだそうで

従って設立早々から実際に外国船を購入しては、出資会社以外の海運会社に譲渡する、といった業務を行っているんですが、その後対米戦に突入後は抑留・徴用・鹵獲した外国船の管理も引き受けることになり、自沈したフネを引き上げたのも含めた鹵獲船だけでも155隻・34万8000総トンに達したそうなんですが、軍から「貸下船」として引き渡されたこれらの外国船は帝国船舶を介して、同社の出資会社のみならず、その他の海運会社等にも広く貸与されて運航されていたんですとか

この時の経験が戦後貸与米国船の運航に直接役立った…かは定かではないんですが、大量の外国製船舶を運用する(した)経験自体は日本商船界では割と直近にあった、って事みたいですねえ

無題
Name FMG 18/01/08(月)10:02:41  No.1233635
>155隻・34万8000総トン

凄い数ですが、ほとんど手動の船舶なのに当時の日本で乗員の手配をして、運行管理なんか自前でできたんですか?

無題
Name 名無し 18/01/08(月)10:42:05  No.1233636
開戦前からの日本の商船規模考えればぜんぜん余裕の数だと思うよ。
日本の復興に果たした商船隊の役割って物凄くデカいよね。
戦前から地味ながら順当に続けていた高速商船の研究と建造も終戦によって再開どころか需要と必要の問題で加速したし。

無題
Name 名無し 18/01/08(月)12:19:45  No.1233641      
https://cgi.2chan.net/f/src/1515381585382.jpg
>凄い数ですが、ほとんど手動の船舶なのに当時の日本で乗員の手配をして、運行管理

上記した加藤智弘氏の文面からは基本的には第二復員省から招集がかかり出向く感じで当たり前ですが終戦後すぐだからと言ってもお役所仕事はそれなりに稼働してたようです(・w・

また戦争時の商船・海運業の戦没者(約6万人、全乗組員の43%[資料によって差異有])は多かったものの、乗組員はまだまだ残っており人手不足や問題ははあったでしょうがそれなりに運用管理は行われていたようですよ

無題
Name 名無し 18/01/08(月)20:06:08  No.1233657      
1515409568528
「大東亜戦争」開戦時に日本が保有していた100総トン以上の商船が計639万トンだったそうなんですが、終戦直後、日本側の終戦処理機構(終戦処理会議)で算出していた稼動船腹は遠洋航海可能船約28万総トン、近海航海可能船が約14万総トンの計42万総トンだけであったんだそうで

(戦中の建造を計算に入れず)単純に考えて開戦時の15分の1、戦中の商船乗組員さん達の多大な犠牲と比較しても、数字上は船員さんよりフネの損失ペースの方が大きかったわけで、34万総トンの鹵獲船もむしろ焼け石に水程度の補充だったってことですな(棒)

因みにやはり当時の推定では、終戦時外地に残っていた軍人さんが363万人、居留民が461万人の計824万人と見積もられていたそうなんですが(実際は軍367万人・民321万人、計688万人程度)、コレだけの膨大な引揚者を前記の損耗した船舶で引き揚げるのは困難と思われ、一時は大真面目に民間人を現地定着させる方針が検討されていたんですとか

無題
Name 名無し 18/01/08(月)20:07:13  No.1233658      
尤も日本敗戦後に、在留現地で民間人が自活していくのは現実的ではなく、昭和20年9月5日の「終戦処理会議」で決定された「外征部隊及居留民帰還輸送に関する件」では

・現有稼動船腹の大部分を帰還輸送にあてる
・居留民の還送順序として朝鮮・支那方面を優先する
・連合国から船舶を借用する

…事とされ、7日の閣議で了承されているんだそうで
もっとも、その後連合軍側総司令部との折衝では日本側の要望はそのまま反映されず、9月18日の「終戦事務連絡委員会幹事会(終戦処理会議の下部機構)」の報告では

・帰還輸送用燃料を、月当たり6千トン、アメリカに要求(翌日了解)
・引揚順序は

①医療設備の無い地方

無題
Name 名無し 18/01/08(月)20:08:31  No.1233659      
②南方自給不可能地
③南方・ニューギニア
④中国。ソ連管轄下の北鮮・満州・千島の引揚は、許可があり次第配船

・アメリカ側は、配船の4割をフィリピンに向けるよう命令

…されたと有るんだそうなんですが、要はアメちゃん側の早い所日本軍を帰還させないと、自国の兵隊さん達も国に帰れない…という事情が優先されたようなんですな

ともあれ、9月19日には海軍省軍務局一課に「海軍省軍務局艦艇運航班」が設置され、引揚用日本船舶の管理にあたることになったんだそうで

また、この間9月1日から10日の間に、45隻(約9万総トン)のフネの修復が完了しているそうでして、配船に伴う混乱の中とはいえ、様々な準備が絶えることなく進行されてはいたわけですねえ

無題
Name 名無し 18/01/08(月)20:08:57  No.1233660      
10月2日には日本占領の連合軍総司令部も正式に発足しておりまして、日本側は

・引揚は地域ごとに病者・老若婦女子を優先する
・配船の順序は
①フィリピン・南方
②生活困難の地
③北鮮・満州・樺太・千島(ソ連の承認があるまでは、さしあたり南鮮・支那)
④病院船・医療施設がない地域
⑤仏印、タイ、マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、ラバウル、台湾の順としたい

…等申し込んでいたりするんですが、コレに対してして10月16日に総司令部が発した「被征服地域における日本人引揚に関する基本指令」では、「軍人の引揚を第一に、民間人を第ニにする」と日本側の提案を拒否していたりするんだそうで

無題
Name 名無し 18/01/08(月)20:10:31  No.1233661      
之も結局は、もう戦争は終わったんだからとっととうちの「アメリカン・ボーイズ」をお家に帰しんしゃい!という米国内の世論を無視できない米側の都合によるものだったわけなんですが、それだけに外地の日本人引揚実施自体には米側も協力的でして、早期から日本側の保有艦船だけでなく、米艦船による輸送も実施されているんだそうです

例えば、日本側の記録では10月6日には総司令部より仁川から2万人の引揚者を「LST船」で佐世保に運ぶ、との連絡があり、10月24日にはダバオからの「リバティー船」約10隻(約1万5千人)が2週間後に入港する、との連絡があったそうなんですが(何れもその通り実施)、12月末までには軍人約48万1500人、一般邦人48万4000人の計96万5500人が引揚を完了しておりまして、その大半がアメリカ軍管轄地域からの帰還であったそうです

引揚船はフィリピン及び太平洋地区では日本海軍艦艇、朝鮮や近海の島々では日本商船(運輸省所属船)が主だったそうなんですが、先述の通り、米側の艦船についても、使えるものは復員使用に回されてたのが、迅速な復員を可能にした一因だったみたいですなあ

無題
Name 名無し 18/01/08(月)23:55:23  No.1233670      
1515423323354
>要はアメちゃん側の早い所日本軍を帰還させないと、自国の兵隊さん達も国に帰れない


アメリカの復員輸送が「Operation Magic Carpet」
使ったのは輸送船は当然の事、戦艦・正規空母・巡洋艦から護衛空母まで、あらゆる艦を使ってる。

中身はこんな感じ
後方の3段ベッドなんかは結構きつそうではある
まぁ、勝って帰るんだから気分は楽だよね

無題
Name 名無し 18/01/09(火)19:19:47  No.1233704
>No.1233670
バスケのゴールがある!?

無題
Name 名無し 18/01/17(水)12:01:09  No.1234170
>バスケのゴールがある!?

遅くなりましたが

空母の格納庫を転用した居住区のようですね
搭載機を外に出した後でバスケットコートに利用してた名残でしょう
(レクリエーションの設備を無駄なく置くための配慮ですね)

無題
Name 名無し 18/01/17(水)23:45:44  No.1234207
>>バスケのゴールがある!?

>遅くなりましたが

>空母の格納庫を転用した居住区のようですね

カサブランカ級護衛空母 CVE-89 Salamaua(サラマウア)です

無題
Name 名無し 18/01/09(火)00:11:14  No.1233672      
1515424274042
>もう戦争は終わったんだからとっととうちの「アメリカン・ボーイズ」をお家に帰しんしゃい!


「ボク、頑張ったよ」って実際頑張ったのが CV-39 USS Lake Champlain
ジブラルタルからノーフォークまで4日と8時間51分・平均速力 32.048ノットで駆け抜けた
Wikipediaではこれは豪華客船 「United States」が記録を更新するまでの最速記録なんだってさ

無題
Name 名無し 18/01/09(火)01:28:25  No.1233675     
サイパンで捕虜になったある日本兵さんの手記に、復員船の船長さんに
「君たちの希望通り走らせる。船酔いが我慢できるなら4日間で帰れる」
…と言われて、全員で
「フルスピードだ!」
…と声を上げた、なんて話が載ってましたですなw

因みに、復員順序としてはアメちゃん側により「後回し」にされた形の中国なんですが、その後蒋介石=サンの国民党政権と毛沢東=サンの共産党勢力(&ソ連)の対立が急速に深まる状況下でその方針にも変化が現れるんだそうでして、例えば11月26日に海軍長官フォレスタル=サンと陸軍長官パターソン=サンが連名で国務長官宛に送ったメモランダムでは、「統一された中国がアメリカに友好であること、これが極東での戦争の勃発と混乱に対する最高の保障である」として、当時華北に駐留していた米海兵隊(約6万人)をそのまま駐屯させておくべし、なんて進言していたりするんだそうで

無題
Name 名無し 18/01/09(火)01:33:21  No.1233676      
1515429201940
また、蒋介石=サンがソ連軍が撤退した後の華北・満州に(共産勢力に入られる前に)国民党部隊が駐屯するのを援助して欲しい、と申し入れてきたこともあって、12月9日にアメちゃんの統合参謀会議はトルーマン大統領に「中国からの日本軍官民の輸送と中国軍への援助」という意見書を提出しているんですとか

曰く、アメリカ側は中国に対して、軍事物資および助言の形で援助を与えることとして、華北の米海兵隊は「日本軍官民の引揚を援助する」名目で留まりながら、中国中央政府が華北と満州地域の開放と行政権の統合を行うのを援助する為、中国軍の移送にも従事する、としておりまして、具体的な施策としては

・中国軍6個軍(20万人、補給品3万トン)を華北と満州に海上輸送し、それ以降当該地域の中国軍に一ヶ月あたり5万トンの補給物資を運ぶ
・満州・台湾・北緯16度以北の仏印を含む中国の港から、毎月50万人の日本人を帰還させる
・中国軍を運ぶのに60日間、アメリカ海軍によって運航されるLST75隻を使う

無題
Name 名無し 18/01/09(火)01:36:14  No.1233677      
1515429374523
・中国人船員によって運航される25隻のリバティー船は、中国軍への補給物資を運ぶ為に訓練(略)
・日本人の引揚の為、日本人の乗組員によって運航され、日本の日本商船運航管理機関の監督下におかれる100隻のリバティー船を用意する。これらの内25隻は、中国人乗組員が運航をひきつぐことができるようになるまで、中国軍への補給物資の輸送に使われる。船の第一陣は、21日で用意され、残りは60日で用意される
・日本人の引揚のため、日本人の乗組員によって運航され、日本の日本商船運航管理機関の監督下におかれる100隻のLSTをひきわたす。第一陣は18日で準備され、残りは60日で準備される

…等決められているんですが、要は対中国政策と関連した施策として、大量の米国製船舶が中国向けに回され、対中国支援と在留日本人の送還が密接にリンクして行われることが決められ、同時に日本側船員によって運航されるリバティーシップ及びLSTの大量貸与も決定された、ということみたいなんですな

無題
Name 名無し 18/01/09(火)01:38:06  No.1233678      
1515429486672
実際、コレを受けた昭和21年1月29日の総司令部発文書では、日本側に対して

・米乗組員によって運航されているLST船は46年2月1日から4月1日までの間に漸次減らしてゆく
・日本人乗組員によるLST船85隻とリバティー船100隻は、46年1月29日から同年3月30日の間にかけて、完全に日本側に貸与される予定である。たとえば、1月29日に4隻、2月3日に7隻、というようにひきわたし、3月30日の時点で合計がそれぞれ85隻と100隻になるようになされるはずである
・3月30日の時点では、1日の中国からの引揚総合人数が約2万8千100人に達するようにして、この率が維持できるようにする

…等通知しているんだそうで

無題
Name 名無し 18/01/09(火)01:38:50  No.1233679      
1515429530713
こうした米上層部の方針の実施は、実際には現場ではより早く実行に移されていたようでして、例えば当時日本陸軍支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将によると、中国での引揚対象は軍人105万人、民間人100万人の計205万人に上り、その帰還の手立てが心配されていたそうなんですが、45年11月5日には米軍側より「LST80隻、日本船7隻」により、半年で帰還を完了させるプランの提出を求められたそうでして、岡村大将の11月17日の日記には

「帰還輸送の船腹を心配していたが、米軍から上陸用舟艇母艦たる(ママ)LST多数を提供せられ(略)帰還することになり、本日第一船が塘沽から出発した」

…なんてあるそうです

無題
Name 名無し 18/01/09(火)01:40:13  No.1233680      
1515429613539
更に言えば、こうしたアメちゃんの方針に従って、中国側も国内の在留日本軍・民間人の迅速な帰還への協力を求められた結果、奥地から港湾部への輸送にも努力が払われて、46年5月までに中国から帰還できた日本軍・民間人は累計166万3860に達したそうです

無論、復員船上で戦後も懸命に業務に従事された元帝国海軍軍人および日本商船隊乗組員さん達の働きあっての数字でも有るんですが、アメちゃんの戦後の対中国政策、大きく見れば東西冷戦体制への施策が日本への大量の船舶貸与に繋がり、在外邦人の引揚期間を大幅に短縮する事になった、という話なんだそうで

日本側にしてみれば望外の幸運、って所なんですが、リバティ・シップやLSTの貸与一つにしてみても、その裏側には実に色々な国際情勢や国家の思惑の絡みがあった、って事みたいですなあ

無題
Name 名無し 18/01/09(火)05:02:27  No.1233683
もとを辿れば
戦中の米の通商破壊によって日本の海運が足腰立たないぐらいボコボコにされたのが原因だが

貸与以外にも、戦中のOperation Starvationによって
日本の主要の港には12239個の機雷が投下されて封鎖されていたのだから
復員するためには、並行してアメちゃんが掃海までしてくれてたわけだよね

無題
Name 名無し 18/01/09(火)05:48:03  No.1233684
>>平行してアメちゃんが掃海までしてくれた・・・

掃海は第二復員局が連合軍の命令にしたがって行われた訳で、勝ち組が危ない掃海なんてやる訳ないでしょ。

特に磁気機雷は米軍の掃海艇が鉄船なので不可、木造漁船を改造した日本船が担ったのです。

そして第二復員局は後の海上自衛隊の基となり、占領軍より旧軍の旭日旗を継承承認された訳です。

無題
Name 名無し 18/01/09(火)18:46:20  No.1233696      
https://cgi.2chan.net/f/src/1515491180540.jpg
昭和20年11月30日に、日本海軍省が解散して全ての現役海軍軍人さんが予備役編入、かくて栄光のIJNもその幕を下ろし…た筈なんですが、一方で

「掃海並びに特別輸送艦船乗員に付いてはとくに令状を用うることなく即日召集(現に召集中の者は召集のまま)を令せられ、現職を続行せしめるものとす」

…という海軍公報が出されておりまして、言わばこれらの業務に従事されていた方々は海軍の消滅後もそのままお仕事は続けてね!という事になってしまったんだそうで

逆に言えば、掃海と復員という二大業務だけはどうあろうと続けなければならなかったのが当時の状況だったわけなんですが、海軍省人事局員としてその双方に深く関わった福地誠夫さんによると、8月15日の終戦の日、徳山港湾警備隊司令が、次のような訓示を行っているんだそうで

無題
Name 名無し 18/01/09(火)18:48:37  No.1233697      
1515491317280
「諸子は今日まで内海に敷設された危険な機雷の掃海作業に、日夜、辛酸をなめたのであるが、終戦の日を迎えた今日、このときからさらに本格的な掃海隊員としての仕事がはじまることを覚悟しなければならない。これがわれわれに課せられた責務であり、国家同胞に報いる所以である」

福地氏によると、当時日本近海に残っていた機雷は米軍が敷設した感応機雷約6千5百個だけでなく日本自身が敷設した係維機雷が5万5千個以上に上り、日本再生の為に不可欠と分っていても、敵のみならず味方の機雷をも命がけで除去する掃海作業は「わりの合わない仕事」であったそうです

ただ一方で昭和20年9月2日の連合国最高司令官一般命令第1号(陸海軍武装解除降伏等に関する一般命令)及び9月3日の同指令第2号によって日本及び朝鮮水域にある機雷は、連合国最高司令官総司令部の指示の下に、日本政府が掃海作業を実施すること、と決められた結果、海軍省内に掃海部が設置され、10月までには艦船348隻、人員約1万名という掃海組織が整えられておるんですとか

無題
Name 名無し 18/01/09(火)18:49:13  No.1233698      
1515491353086
例えば終戦時横須賀防備隊付の海軍兵曹長だった橋本廣さんと言う方の回想によると、

「(終戦から)一ヵ月の日時が経過し、横須賀防備隊は、日本海軍が各要地海域に敷設した機雷および米空軍が(略)投下した磁気機雷の掃海作業等の戦後処理にあたるため残存することとなり、残留する隊員には充員召集令が発せられていた」

「浦賀港には各地の防備隊が閉鎖解散となり(略)木造で160トンぐらいの駆潜特務艇が7、8隻回航されてきて(略)進駐軍の命令でもあったものか、掃海作業に従事する掃海艇増強の為(略)使用可能の3隻を整備して、駿河湾、あるいは瀬戸内海方面の掃海作業に従事することに発令された」

「(駿河)湾内には約12隻ぐらいの僚艇と、約1千トンぐらいの米海軍の掃海艇が1隻、随伴して指導及び監視に従事していた」

無題
Name 名無し 18/01/09(火)18:49:48  No.1233699      
1515491388904
…そうです

この時、掃海用鋼索を用いて掃海したのは係維機雷、即ち日本側が敷設した機雷の方だったんですが、上手く繋維索を切断して浮上してきた機雷を38式小銃で射撃するも数十発撃っても爆発せず、見かねた米掃海艇の4連装12.7ミリ機銃の一連射であっさり爆発するのを見て、チェッ、早くやってくれればいいのに!なんて文句を言ったそうなんですがw
作業が主に旧日本海軍艦艇によって進められていた事が窺えるエピソードではありますですね

その後、今度は神戸港付近で、米軍投下の磁気機雷の掃海任務に就く事となり、掃海具も更新して現地に赴くんですが

「神戸港海域の習熟のため、現在行われている米軍掃海艇隊に対する、警戒艇任務を希望し、要求を容れられた」

無題
Name 名無し 18/01/09(火)18:50:34  No.1233700      
1515491434535
「米軍の掃海艇隊は、すでに所定海域の掃海作業に従事していた。本艇の任務は、これらの掃海隊の作業に対し、大阪湾内を運航する多数の機帆船が接近して妨害するのを排除することであった」

…んだそうで、どうもこちらでは掃海は米軍側との共同作業であったようですなあ
その後、

「12月も過ぎ、1月ともなると、駿河湾方面の掃海に従事していた僚艇も(略)合流して、段々にぎやかになった。明石海峡はもちろん、神戸港内、また大阪港と、掃海区域も拡げられていった」

…そうなんですが、「そろそろ親子三人で暮らすことがいちばん幸せと感じ」、昭和21年2月に復員希望を出し、これが容れられて2月25日に解員、即日帰郷されたそうです
半年にも満たない期間では有りますが、命がけの毎日は、おそらく当事者の方々には実際よりもっと長く感じられたんじゃあないでしょかねえ

無題
Name 名無し 18/01/09(火)19:58:44  No.1233705
戦後に機雷撤去をした記録を綴った「機雷」と言う本が少し前まで古本屋にはよくあったんだが
最近では古本屋そのものが少なくなってしまった

無題
Name 名無し 18/01/09(火)23:50:43  No.1233713
>、勝ち組が危ない掃海なんてやる訳ないでしょ。

1907年に締結された機雷に関する国際条約がありまして(日本もアメリカも参加)、それによれば
交戦国が他の交戦国の沿岸に敷設した機雷については敷設国の負う義務は戦争終了後に機雷の敷設位置を通告することだけです
機雷の処分はその水域を所管する国がやることになってます
 
したがって勝ち組かどうかに関係なく条約上アメリカには掃海を行う義務はありません

無題
Name 名無し 18/01/10(水)00:54:58  No.1233718
>条約上アメリカには掃海を行う義務はありません

ふむ自分がアメリカが掃海してんじゃないかと勘違いしてたのは
スプルーアンスのwikiに戦後は占領軍本隊の上陸支援、機雷の掃海、捕虜の帰国に従事した
と書いてあったからなんだけど

上記にも所々、米軍が掃海を支援するような場面があるのは義務はないけど、ばら撒き過ぎたから
国の再興のためには機雷の除去は早急に必要との判断から支援させたスプルーアンスは合理的でキング大将のいう頭がいいとの評は本当だったという解釈で良いのかな?

無題
Name 名無し 18/01/10(水)01:26:02  No.1233719
詳細はともかく主要港湾、軍港には連合国艦隊が進駐し、その後も利用することを考えれば少なくともそういった所は連合国自身で掃海を行ったでしょう。自国艦隊で掃海を確認しなければ危なくて船入れないかと。

無題
Name 名無し 18/01/10(水)02:37:10  No.1233724
>1907年に締結された機雷に関する国際条約

ということは
逆に日本が大戦中の占領地にばら撒いた機雷もまた日本が処分する義務を負わないということか。

終戦時まで日本占領地だったシンガポールなどの港湾の機雷はどうしてたんだろ。

無題
Name 名無し 18/01/11(木)00:08:07  No.1233786
> 終戦時まで日本占領地だったシンガポールなどの港湾の機雷はどうしてたんだろ

連合軍側で掃海したんでしょうね

アメリカが使った磁気や音響や水圧に反応するタイプに比べれば日本側の機雷は触発信管のものしかないからまだ対処しやすかったとは思いますが

無題
Name 名無し 18/01/10(水)12:08:15  No.1233737
ここまで流し読みしたが
世界大戦の事後処理って
桁が半端ないな…

無題
Name 名無し 18/01/11(木)17:46:39  No.1233808      
1515660399394
昭和20年9月2日、戦艦「ミズーリ」艦上で日本側使節が降伏文書にサインした日に東京湾内にいた米軍艦艇のリストを見てみますと、「高速掃海艇(High speed minesweeper)」7隻を含む掃海艇が24隻ほどあるんですが、高速掃海艇とは当時やや旧式となりつつあったグリーブス級駆逐艦(1600トン)の中から砲雷撃装備を撤去して、各種掃海装備を塔載、発電機を強化するなどして磁気・音響機雷等にも対応できるようにしたものだそうでして、調印式に先立ち、進入する米艦隊の先頭に立って浦賀水道の掃海を行っているそうです

その中の一隻だった”Macomb(DD-458)”なんかは沖縄戦にも参加しておりまして、5月3日には特攻機1機に命中され損傷、8月に修理を終えたばかりであったそうなんですが、式典の後もこれらの高速掃海艇は日本近海に留まっておりまして、12月頃まで掃海任務に従事していた艦もあったそうです

無題
Name 名無し 18/01/11(木)17:47:37  No.1233809      
1515660457610
また、 YMS-1級掃海艇の”Chatterer(AMS-40)”なんかは排水量わずか270トン、全長40m程の木製の小ブネながら、やはり沖縄戦に参加の後、東京湾で「ミズーリ」らと舳を並べた後は日本近海で掃海任務を続けていたんだそうで

また、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、戦闘地域に赴き北朝鮮軍の敷設したソ連製機雷の掃海を実施、その後1955年には発足したばかりの海上自衛隊に貸与されて掃海艇「ゆりしま」となり、1967年に米国に返還され翌年解体されるまで、日米両国で実に長く働いたフネだったんですとか…w

因みに、終戦時海防艦の乗組員だった高木義人さんという方の回想記空の引用になるんですが、当時宗谷海峡上で警戒に当たっていた乗艦は終戦後はまずソ連軍の侵攻を受け風雲急を告げる樺太からの緊急避難民の輸送に従事したそうです

無題
Name 名無し 18/01/11(木)17:48:37  No.1233810      
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その後10月に入ると外地の日本人の復員船となる事が決まって、既に復員してしまった欠員を舞鶴で充足、いったん佐世保に回航して米軍タンカーから燃料を塔載、「この時初めてアメリカ軍に接し」直ちにマニラへ向けて出港

続けて、マニラ・台湾・沖縄などの復員任務をこなすものの、乗艦の海防艦が機関故障により廃艦、ここで「機雷、掃海のマーク(特技)を持っている者は掃海部に転勤という事で」今度は掃海任務に就く事となり、ほどなく復員局からの呼び出しで下関掃海部にいき「即日駆潜特務艇に乗組を命ぜられ」関門地区の磁気機雷の掃海に従事することに

その後は所属先が日本海軍(復員省)→運輸省掃海部→海上保安庁に変わる中でも、「一日でも早く日本の航路の安全を願って」日夜掃海作業に従事されていたそうなんですが、昭和25年6月に朝鮮戦争が始まると、「日本特別掃海隊」の一員として朝鮮半島に派遣されたんだそうで

無題
Name 名無し 18/01/11(木)17:50:20  No.1233811      
https://cgi.2chan.net/f/src/1515660620937.jpg
従って、もしかしたら”Chatterer”…後の「ゆりしま」と行動を共にした事もあるかも知れないんですが、最前線の掃海作業は危険極まりないもので、元山湾での掃海時には

「米軍掃海艇が(略)掃海をすることとなり、日本の掃海艇は警戒艇となり、その後方を航行しているとき米軍掃海艇が触雷沈没(略)同時に北朝鮮軍陣地からの砲撃が始まり、救助に行く手立てもなく日本掃海艇は立ち往生、そこへ米軍艦載機が空から攻撃、米駆逐艦もわれわれのすぐ側まで進出して艦砲射撃が始ま」

る…という、真に鉄火場のど真ん中での任務だったみたいなんですが、その数日後に今度は日本の掃海艇隊が湾内の掃海に当たる事になり、高木氏乗艇のMS14号は僚艇MS06号とペアを組んで湾内に侵入したものの、運悪く触雷、沈没

烹炊係一名が亡くなられた他、米軍に救助された高木氏も負傷されておられたんですが、帰国して呉総合病院で治療を受けた後、今度は沈没時の僚艇MS06号の乗組員として再び朝鮮半島へ向かわれたんだとか

無題
Name 名無し 18/01/11(木)17:52:15  No.1233812      
https://cgi.2chan.net/f/src/1515660735973.jpg
ともあれ、こうした命がけの国際貢献が功を奏したものか、後にアメちゃんが日本の海軍再建案に好意的となり、その支援の下で海上警備隊が発足、今日の海上自衛隊に繋がる事になったのは周知の通りなんですけれども、昭和29年、いよいよ「海上自衛隊」となったちょうどその頃の状況を、先の福地誠夫氏の手記から引用させて頂くと

「米海軍から駆逐艦2隻が日本に貸与されることになり、受領の為第一回の回航隊員がチャールストン海軍基地で、特別訓練を受けていた」

「昭和29年10月19日、海軍基地岸壁で(略)我が海上自衛隊員によって(略)栄誉ある旧海軍の伝統を引き継ぐ旭日旗が、異境の地で燦然とひるがえったのである。そのころの隊員はほとんど旧海軍出身者であり、感慨ひとしおであったであろう」

無題
Name 名無し 18/01/11(木)17:53:35  No.1233813      
1515660815570
「それまでの(略)PF(沿岸哨戒艇、1400トン、16ノット)とLSSL(小揚陸艇、500トン、12ノット)を見慣れていたわれわれにとって、旧式駆逐艦ながら1600トン、30ノットで疾走する両艦の雄姿は頼もしい限りであった」

…そうなんですが、実はこの「駆逐艦(『あさかぜ』『はたかぜ』)」というのが、かつて日本降伏の際米艦隊の尖兵を務めた高速掃海艇”Ellyson”および先述の”Macomb”であったりするんですとか

考えてみればそれから10年も経っていなかったわけですが、敵味方に分かれて機雷戦に鎬を削りあった双方の艦艇が、後には共に同じ任務に協同で当たり、更にはかつての敵国に貸与されてその国の水兵さんに運用されるとか、ある意味ほんの短い期間に劇的に変動した日米関係そのものを象徴している話なような気もしますですな…w

無題
Name 名無し 18/01/11(木)23:07:24  No.1233824      
1515679644671
復員船葛城の乗組員の話ならば
https://togetter.com/li/972509

無題
Name 名無し 18/01/12(金)10:43:17  No.1233841
もう日本領土じゃなくなった朝鮮戦争の時にわざわざ日本の掃海艇呼んだのはなんでなんじゃろな
アメリカ艦のが装備品の質もよさげな気がするけど

無題
Name 名無し 18/01/13(土)12:34:52  No.1233906
危険極まりない仁川港内に派遣してのはGHQの要請ではなく
命令、占領されていたので仕方なく派遣しただけ。

炊事員が死亡したので怒った乗組員はスミス海兵少将の「帰るなら撃つぞ!!」の恫喝を無視して日本掃海艇隊は帰国。

「機雷」か児島穣の「朝鮮戦争1~3」に記載されていた。

無題
Name 名無し 18/01/13(土)20:46:43  No.1233940      
1515844003056
WW2中、米海軍が太平洋に展開していた各種掃海艇は約500隻にも及んだそうなんなんですが、終戦と国防予算の削減に伴い、朝鮮戦争開始時には僅か22隻にまで激減していた上、米軍自身の保有する保有する掃海艦艇の内、極東地域で直ちに使用できるものは10隻に満たない…
という状況だったんですとか

従って、この時期未だ現役で機雷掃海任務をバリバリ行っていた日本掃海部隊は米側にとって実に魅力的な存在だったという事みたいなんですが、他にも海上輸送の面で同じような問題が発生していたんだそうで

当時アメちゃんの有事における海上輸送は「軍事海上輸送部隊(MSTS:MilitarySeaTransportationService)」が担当することになっていたそうなんですが、西部太平洋地域を担当する「西部太平洋軍事海上輸送部隊(MSTSWESTPAC:MSTSWestPacific)」の司令部開設が1950年7月予定…と最高に間が悪かった上に、MSTSWESTPACの保有する船舶もわずか25隻でその内容も戦時向きでは無かったんだそうな

無題
Name 名無し 18/01/13(土)20:47:45  No.1233941     
1515844065904
一方、連合軍占領下の日本では艦船の運航等についてはGHQの「日本商船管理局(SCAJAP:NavalShippingControlAuthorityforJapaneseMerchant)」及びその隷下におかれた日本側組織である「船舶運営会」が管理することと定められておりまして、従って貸与されたリバティシップやLSTを含む復員船の運航もこれらの組織のお仕事だったわけなんですが、朝鮮戦争の勃発した1950年頃には復員事業も一段落、日本商船については大部分が元の船会社に返還され、米からの貸与船も順次減少していたものの、それでもSCAJAP及び「商船管理委員会」と名称を変更した船舶運営会の管理下には39隻のLST及び12隻の貨物船が未だ残されていたんだそうで

前述のような理由から、これらの輸送船(特にLST)の存在は米軍にとってまことに僥倖だったそうでして、開戦直後から日本国内の米軍部隊の緊急輸送に動員されることとなり、以降チャーターされた日本商船と共に戦争中の全期間、ほぼフル稼働で兵員・物資の輸送・揚陸に活躍したんですとか

無題
Name 名無し 18/01/13(土)20:48:37  No.1233942      
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当時の商船管理委員会理事長だった有吉義弥さんによると、

「朝鮮事変の全期間を通じて、商船管理委員会のLSTは終始大活躍でした。これはLSTが大型の軍需品の輸送や、僻地海岸の揚陸に適した船型だったこともありますが、日本の船長さんたちが朝鮮沿岸の地形に、米人よりよく精通していたからです(略)米軍の下部機構としての商船管理委員会の活躍ぶりは、各方面で十分評価されていたと思います。とくに朝鮮事変での貢献は大変な評判でした。本部や各船もそのつど感状をもらったり、おほめの手紙もきました」

…そうなんですが、一方米側のジョイ極東海軍司令官の海軍作戦部長宛に提出した報告書では

「LSTは、恐らく朝鮮戦争における国連軍の成功に最も大きな貢献をした。もしもLSTを十分保有していたならば、それ以上の努力が可能となり、早い段階で我々は勝利を勝ち得ていたと思われる。さらに、SCAJAP所属のLSTが日本になかったならば、我々は釜山を維持することができなかったかも知れません」

無題
Name 名無し 18/01/13(土)20:49:18  No.1233943      
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…と、日本人乗組のLSTの働きぶりを実に高く評価していたりするんだそうで

日本側へのLSTやリバティシップといった引揚用船舶の貸与(運用乗組員の訓練も含めて)は前述のようにその当時の米国内の様々な思惑あってのもので、日本掃海艇隊の存在と共にまさかその後の有事に思いがけなく役に立つ…なんてのは怪我の功名みたいな感じだったんでしょうけれどw

貸与から5年近く経って、LSTの運行にもすっかり慣熟していたであろう日本商船隊が、その後今度は米軍側の危機を救う事になるとか、引き渡しの時には日米双方の誰も予想していなかったんじゃあないでしょかねえ

無題
Name 名無し 18/01/15(月)04:11:55  No.1234022
貸与船の使い心地というか状態はどんなんだったんかね
リバティ船とか戦中相当酷使されてそうだけど・・・

無題
Name 名無し 18/01/15(月)10:55:23  No.1234030
戦時急造船ってことは逆に船齢は若いわけだし、案外新古品で良い状態だったかも

(溶接不良箇所から目を逸らしながら)

無題
Name 名無し 18/01/15(月)18:10:29  No.1234041      
終戦後、「リバティ・シップ」の乗組員として復員業務に当たられた平塚司郎さんという船員さんがおられるんですが、この方は戦中の昭和18年春、高等商船学校に入学するも、やがて海軍に召集され「戦争ごっこと防空壕掘りに明け暮れる」内に終戦そして帰郷して三ヵ月、「本業のことをトント忘れた頃」、「船舶運営会」より横浜の三菱ドックへ赴き、復員船に乗船するよう電報が届いたそうです

「『マ司令部の命令である』とも付け加えてあった(略)駅員にその電報を見せたら、その頃は容易に買えない長距離切符が簡単に手に入ったのは、やはり『マ司令部』の効用であった」

「暗くなって造船所に辿り着いたら、船舶運営会の小父さんがホテルシップに案内してくれた(略)アメリカのリバティ型で(略)数百人の船員が、乗船の船が決まるまで何日も何日もそこで雑魚寝待機をするところ」

無題
Name 名無し 18/01/15(月)18:13:01  No.1234042      
…であったそうなんですが、数週間待たされた後で

「明日出港する船の操舵手に欠員が出来た(略)リバティ型で、2人の操舵手が共謀し(略)シーツや毛布等を外に持ち出そうとしたが、悪いことは出来ない(略)即刻解雇された」

「操舵手の代人が一人もいないので、一航海だけ操舵手として乗船してくれたら、次の航海には航海士に格上げするがどうだというのである(略)これが本当の『渡りに船』と二つ返事で引き受けた」

…そうで、いざ乗り込むことになった「リバティ・シップ」の感想はと言うと

「この船は”SCAJAPナンバーV51”、船名を”ルイズウィル号”という。第二次大戦中、アメリカが大量に建造した7千トン級の戦時標準船である」

無題
Name 名無し 18/01/15(月)18:19:10  No.1234043      
https://cgi.2chan.net/f/src/1516007950069.jpg
「日本でも、6千トン級の改A型と、2千トン級の改D型、880トンの改E型等を主体に戦標船が建造されたが、これらは皆、省力化の為、船体はキャンバーもシャーもない極端な直線形で、性能は実にお粗末な代物である」

「それに比べてリバティ型は、同じ戦標船でも一応船らしい形や設備が整っている(略)ハッチカバーを一部開口して(略)頑丈な木製階段で上り下りするようにしてある。収容人数は4千人となっていた」

「人間を乗せると賄所と便所は絶対に欠かせない。便所は、船橋から前の、両舷の甲板上に一番艙から三番艙まで全長に亘って、馬小屋のような木製の小屋を並べてあり、排泄した物は(略)全通した木の樋の中を流れて、船橋の直前で舷外に落ちるようにしてある」

「ワッシュデッキポンプからの海水が、この樋の中をごうごうと流れる仕組みになっていて(略)トイレの中は正に清潔そのものであるが、風下の方ではたまったものでない」

無題
Name 名無し 18/01/15(月)18:21:45  No.1234044      
https://cgi.2chan.net/f/src/1516008105291.jpg
「後甲板は4千人を賄う炊事場になっている。両舷に最大級のライスボイラーがずらりと並び、缶場から蒸汽パイプを引いて飯を炊き、汁を煮た」

「この釜も船客がいないと全く遊んでいるから、その間を利用することを思い付いたコックさんがいた。釜に海水を溜めて蒸気のバルブを開くと直ぐに煮詰まって釜の底には塩だけが残る(略)釜は迷惑千万だ(略)だが良心より生活の方が大切な世の中であった」

「独り者(※筆者)にも割り当てがある(略)一度やってみたが、さてその製品はニガリと釜の錆が混じった黄色い結晶で、とてもお土産や商品になる品物ではなかったので、それ以後はせっかくの権利も放棄してしまった」

「乗組員の居住区は、日本の戦標船に比べると一段と上等に出来ていた」

無題
Name 名無し 18/01/15(月)18:22:50  No.1234045      
「消耗品的な船でも人間の住む場所には充分気を配っている。たとえば部屋のベーシンには必ず熱い湯が出るようになっているし、ベッドのマットレスも粗末な藁蒲団ではなく、柔らかいスプリングが使ってある」

「しかし、乗組の大便所には面食らってしまった。扉が無いので外から丸見えなのである(略)それぞれの間には一応仕切りの壁があるが(略)用便中の姿が丸見え。それに当時はまだ洋式便器に不慣れな人が多い(略)白い便器の上に登って、日本式にしゃがんでいる行列には
目のやり場がない」

「大工さんが、大急ぎで目隠し扉を造ってくれたので安心して用を足せるようになったが、この習慣の違いには大いに驚いた」

無題
Name 名無し 18/01/15(月)18:25:34  No.1234046      
「外地を離れて2、3日経つと、兵士たちも船の生活に慣れて(略)退屈でやり切れないから、やがて全部隊合同の演芸会が始まる」

「戦後10年程経った頃”南の島に雪が降る”という映画が上映された(略)そこに出てくる演芸会のシーンとそっくりだった」

「復員船の演芸会は、死の恐怖から解放され、妻子や肉親の待つ故郷が直ぐ手のとどく所まで来ているという歓喜と希望が溢れている」

「応召の兵士が4千人も集まると、大抵の職種の人がいるもので、役者もいれば、歌手もいる。仕立て屋さんから鬘屋さんまで揃っているから、まず何でも間に合わぬものはない」

無題
Name 名無し 18/01/15(月)18:31:14  No.1234047      
「どんな衣装でもドングロスを裁断して仕立てる。チョン髷もロープのヤーンをボイラーのフランで染めて結い上げる。ギターや三味線は、ブリキやベニヤ板の切れ端を利用するが、本物のようなでき映えに驚かされた」

「平和が来た、俺達の海が帰って来た喜びに浸りながら、にわか芝居を見物させて貰った」

…というものであったそうなんですが、米軍から借り受けた引揚船上の悲喜こもごものエピソードの数々を読んでいると、確かに当時の日本は色々な意味で”シビライズド・カントリー”であったのが感じられますですな…w

無題
Name 名無し 18/01/16(火)15:05:52  No.1234088
四千人の飯の支度と出すものの始末を航海中毎日・・・って考えたらそれだけでも大変だよね

んで日本人の引き揚げ者が600万人くらいとして一船四千人でものべ千五百隻

そしてそれぞれの船から太平洋上に航海の間は延々と茶色い航跡が(自粛

無題
Name FMG 18/01/16(火)18:05:52  No.1234095
D-デイ が史上最大の作戦ならば、引き上げは史上最大の作業と呼ばれてもいいんじゃない。

一船あたり平均何名くらいの乗組員なんだろう、もし概数が分かれば。

無題
Name 名無し 18/01/16(火)18:47:15  No.1234099
海防艦の復員船なんてめっちゃ狭いのに何人運べたんだろうね

無題
Name 名無し 18/01/17(水)13:35:22  No.1234173
「雪風」で一航海あたり850人強を運んでいるので、半分の排水量の海防艦だと400人ぐらいが限界か

無題
Name FMG 18/01/17(水)15:44:10  No.1234178
>海防艦だと400人ぐらいが限界か

トンです。
まぁ、乗組員の食料やらなにやらで結構な荷物だろうからね。

無題
Name 名無し 18/01/17(水)16:43:13  No.1234181     
1516174993343
丁型の八号海防艦(740t)で300人強を運んだので
1000t前後の艦なら400人いけるかなって感じ
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_392_1.pdf

無題
Name FMG 18/01/16(火)19:38:42  No.1234104
みんな一日でも早く帰りたかっただろうな。

会う人会う人に郷里を語っている人の姿が目に浮かぶ。

無題
Name 名無し 18/01/16(火)21:19:47  No.1234119
又 引揚船が帰って来たのに今度もあの子は帰らない。
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか。
港の名前は舞鶴なのになぜ飛んで来てはくれぬのじゃ…
帰れないなら大きな声で…

無題
Name 名無し 18/01/17(水)19:19:25  No.1234187      
1516184365451
>半分の排水量の海防艦だと400人ぐらいが限界か


アジ歴の公開資料に昭和20年10月7日から12月15日にかけて、浦賀港に到着した復員船の記録があるんですが、この画像では海防艦「占守(860トン)」が「第8次トラック(復員輸送)」で陸さん100名、海軍300名の計400名を運んだとあります

他の資料では大体これ以下の数字が多い感じですので、上限の数字としてはズバリ正解なんじゃないでしょか(驚)

この約70日間に浦賀に到着した復員船は累計77隻、復員人数は7万4千921名だったそうで、平均すると毎日1隻の復員船が1000名の人員を輸送して到着、というペースであったんですとか
因みにこれは余談なんですけれども、同画像には同じくトラック島から650名を乗せた駆逐艦「響」及び大東島・クサイ島から2千53名を乗せて帰国した病院船「氷川丸」の名前が見られるんですが、この両船、終戦直前に「響」の母港、舞鶴で舷を接したことがあったんだそうで

無題
Name 名無し 18/01/17(水)19:21:36  No.1234188      
1516184496060
戦艦「大和」以下の第2艦隊の沖縄突入直前、随伴する予定だった「響」が浮遊機雷により損傷、呉に回航されて結果的に生き残るのは有名なエピソードなんですが、その後修理を終え、舞鶴に入港した際の様子を、阿川弘之せンせいの著作から引用させて頂きますと

「そこへ、南方帰りの病院船『氷川丸』が入って来た。『響』航海士宮岡公夫少尉の眼に、まっ白な塗装の元客船『氷川丸』の姿は、まるで夢の中の船かお伽話の汽船のように見えたという」

「燃料の補給を受けるため『響』が接舷すると、『氷川丸』船長よりこちらのガンルーム士官一同に、夕食の招待が来た」

無題
Name 名無し 18/01/17(水)19:22:03  No.1234189      
「あつい湯のあふれるタイル張りの風呂に入れてもらい、食堂へ出てみれば、白いテーブルクロスの上にフルコースの洋食の用意がととのえてあった。これ亦、汗と油まみれの汚い駆逐艦暮しでは想像も出来ぬ夢の如き光景で、その上食後、南方土産のブランデーや外国煙草のもてなしまであり、『どこの会社の船ですか』、有難さのあまり訊ねると、パーサーが『日本郵船の船です』と答えた」

…んですとか

「氷川丸」は戦前1930年に日本郵船のシアトル航路用の貨客船として建造されたものの、日米開戦により海軍に徴傭されて病院船に改装されるんですが、運航を任された日本郵船側では「意地でコックやボーイを降ろしておらず」乗船した士官さんなんかは「帝国ホテルより上」と謳われた料理を堪能出来た他、病院船として巡る外地で買い込んだ砂糖や石鹸と言った内地で不足する品物を換金して予算の足しにする、なんて工夫?を凝らしていたんだそうで

無題
Name 名無し 18/01/17(水)19:23:34  No.1234190      
1516184614810
従って、「響」の宮岡航海士もその余禄に与れた、という訳だったみたいなんですが、その後敗戦後に生き残った貴重な大型船(しかも病院施設付き)ということで真先に引揚船に指名

マーシャル諸島ミレ島より餓死寸前の傷病兵2000余名を収容し、浦賀に寄港した最初の復員船となったのを皮切りに、東奔西走して2万8千名(4万5千名とも)の引揚者の輸送に従事した際にも、こうして入手した員数外の食料品は、医療スタッフの献身と共に多くの傷病者の命を救ったんですとか…w
一方、「響」の方は終戦後、既に多くの乗員は復員しつつあったんですが、同艦機関員だった宮川正さんの回想によると

「突然、電報がとどいた。内容は『フクイントリケス スグカエレ』とある」

「身のまわり品を持って舞鶴に向った(略)まだ百名ちかい者が残留していた(略)電報の事情もすぐに分かった(略)外地の残留者を一日も早く内地に輸送するため(略)輸送任務が開始されるとのことであった」

無題
Name 名無し 18/01/17(水)19:24:14  No.1234191      
1516184654248
…との事で、航行に支障ない乗組員138名を確保、やはり第一回復員船ということで新聞記者2名を同乗させた「響」は佐世保で米軍タンカーより給油を受け、こちらはヤップ島へ復員輸送に向い、

「帰着した浦賀では、第一回の復員船という事で家族はもちろん、報道陣が殺到し、桟橋には歓迎の幕が張られ、わが子を、わが夫をもとめ、声を張り上げて名を呼び、探し求めている。無事に帰れた喜びにたがいに抱き合い、涙で迎える姿に、私の目までうるんでくる」

…との事だったそうです

数少ない日本海軍の健在艦船として、真先に南方の飢餓に苦しむ将兵さん達の救出に送り出されて、以後も復員船として活動した両船はその後、「響」はソ連に引き渡され異国で余生を送り、「氷川丸」は一時期日米航路の貨客船に復帰した後、今は横浜港に繋留保存されているのは周知の通りで

無題
Name 名無し 18/01/17(水)19:28:08  No.1234192      
従って、「響」と「氷川丸」がその後合まみえる機会はその後二度と無かったと思われるんですが、一方終戦から45年後の1990年7月5日、「氷川丸」の繋留される横浜港より「クリスタル・ハーモニー号」なる、4万9千トンの巨大豪華客船が処女航海に出発しているんだそうで

日本郵船発注により、三菱造船所で建造されたこの巨船、当然当時の日本郵船会長ご夫妻も乗船されておられたそうなんですが、この会長さんと言うのが実は元「響」航海士の、宮岡公夫さんだったりしたんですとか

復員後、学徒士官だった宮岡氏は東大法学部に復学されているんですが、敗戦の夏に乗船した「氷川丸」の体験は強く心に残り、卒業後、かねてからの新聞社入りは止めにして、日本郵船の採用試験を受けた、との事

無題
Name 名無し 18/01/17(水)19:29:15  No.1234193      
「いつか、あれを上回るような美しい立派な客船を造って自分たちの手で世界の海へ送り出してみたい、それが(略)入社して以後、宮岡さんのひそかな夢になった」

「『こんな金食い虫』と言いつ言われつしながらも、宮岡社長の時『クリスタル・ハーモニー』の建造は軌道に乗った」

…とは、同船処女航海の際、船上で宮岡会長から直接話を聞いた阿川せンせいの文なんですが、戦中はそれぞれ決死の任務に奮闘して、戦後も共に復員船として活躍した両船の、ほんの一回の偶然の巡り合わせが、戦後日本の復興の象徴のような豪華客船の就航を生んだ…なんて書きますと、なんともマロンが感じられるような気がいたしますですな…w

無題
Name 名無し 18/01/20(土)01:46:44  No.1234350      
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先述の有吉義弥さんなんかも大正14年入社の日本郵船社員(後会長)だったりするんですが、戦前20隻以上あった郵船の豪華客船も「氷川丸」以外全て戦災で失われ、その復活を望む想いは(氏自身含め)社内でも根強かったみたいなんですが、昭和32年頃、そろそろ大分日本が復興して、オリンピックだの万博だのと景気の良い話が出て来た頃、「海国日本の象徴」としての太平洋航路(豪華客船)復活の話も動き出したんですとか

自民党内に田中角栄サンを委員長とする「太平洋客船建造委員会」なるものが設置され、かねてより日本郵船内で検討されていた資料を基に、2万6千トン・航海速力26ノット(最高32ノット)船客定員千200名以上という、かつての有名なNYK三姉妹船を上回る豪華客船を2隻(300億円)、政府の補助により建造・運航する…という具体案がまとまる所まで行ったそうなんですが、折悪しくと言うか昭和34年9月に伊勢湾台風が来襲、、計画の予算も急遽その大被害の救済復旧に回されることとなり、かくて日米航路の豪華客船復活も「風と共に去って」しまったんだそうで

無題
Name 名無し 18/01/20(土)01:49:20  No.1234351      
因みに有吉氏の回想録に、日本側担当者として、引揚専用の米リバティ船及びLST他の貸与を受けた際の体験も生々しく記されておられるんですが、曰く

「(米船が)着船すると真先きに、インベントリー班というのが乗り込む(略)在庫調査班である。この場合、艤装品(略)状態を調べ、燃料、清水、食糧その他補給品一切の在高を調べるのが役目である。英文でビッシリ打って(略)百ページ以上にもなる膨大な書類になる。これを一隻一隻、何通ずつも作るんだから大変な仕事である」

「武装の撤去が一仕事で(略)兵装弾薬の全部を陸揚げする」

「人員輸送が主な仕事なので、船倉、中甲板の前部にわたって、ボンクを作りつける。コンパニオン・ウェーといって船倉、中甲板への階段を作る(略)兵員輸送の場合と違って、老人、女子、子供の昇降も考えて、丈夫な広い梯子にしなくちゃならない」

無題
Name 名無し 18/01/20(土)01:50:30  No.1234352      
「輸送人員が多いから(最高一隻五千五百人の記録あり)、甲板に数か所の便所と洗面所を作る。厨房も相当大規模なものを仮設して、日本人には欠くことのできない、ライス・ボイラーをつける。これに相応した配管、排水、電気回りの工事をする(略)資源の少ない、労働意欲の喪失している時期に、突貫作業でやろうというのだから、大変骨が折れた」

「リバティーの艤装は横浜、長崎を専ら使い、それに新潟に回航して艤装した船も二、三隻あった。LSTは浦賀、浅野、横浜が艤装を受け持った。LSTもタンク・ホールドにボンクを幾重にも造りつけた事、リバティーと同じである」

「一番問題があり、最も心配したのが船員の配乗であった。船員の数は、名簿上全部の米船に配乗して余りある数字であったが(※終戦時日本の船員総数約6万6千名、船腹の減少により2万名以上が余剰になる見込みであったとのこと)短時日に集まって貰えるか、どうかという問題であった」

無題
Name 名無し 18/01/20(土)01:52:31  No.1234353      
「乗組員がドンドン横浜に集まって来ると、直ちに宿舎が問題になる。最初に着いた病院船(略)と、LST一隻をバラック・シップにして(略)収容し、また訓練の場所にも充てた(略)船を寄宿舎に流用した形であった。アメリカ一流のアイデアで、いまでこそ何でもないことのように思うが、油の容れ物がないといえば、タンカーを持って来て、ステーション・タンカーにする。水の補給が円滑でない―といえば―、水艀を持って来て繋ぐ―というような変通自在のやり方に、当時は大いに感心したものである」

「リバティー型は特別の船ではないが、LSTは(略)高速ディーゼルで、色々と船の型も変わっていて、新たな訓練が必要のようであった。この訓練と、配乗に段々と人がいるようになり(略)横浜事務所の人員も、ピークには一六〇人にもなる大世帯となった」

「受渡し、艤装、配乗がすむと一番厄介な補給を終わって出港ということになる」

無題
Name 名無し 18/01/20(土)01:54:32  No.1234354      
「燃料は米軍供給という事で、SCAJAP―SCAPから第一順位の優先指令で、JOSCOの油を無制限に貰えた(略)油の一滴は血の一滴である、といって一番苦労した油が、一番楽になったんだから皮肉である」

「毛布、シーツといった備品の類は復員局(元の陸海軍省)の軍需物資で抑えられているものの中から融通方の指令が出て、指定の場所へ貰いに行った。これも混乱時だから(略)員数が合わなかったり、指令があっても、現場元の軍人さん達が臍を曲げていて渡してくれなかったり、スムースに行った例の方が少ないぐらいであった」

「食糧ははじめから問題であったから、予め総司令部から日本政府へ、日本政府から地方庁へ、何度となく、くどいぐらいに指令を出して貰ってあったが、何といっても困難をきわめたのが、その食糧の蒐集であった」

無題
Name 名無し 18/01/20(土)01:55:59  No.1234355      
「司令部と政府のお墨付を持って、先ず知事さんのところへ行く。そこで管下の市町村に命令なり、紹介を貰って割当を貰いに行く。これが正攻法である。この場合もSCAJAPの士官に、一緒に行って貰うのが普通だった(略)闇屋でないという証明のためであった」

「気の利いた士官だと、煙草や罐詰やチョコレートなどを、ジープへ積み込んで行く(略)知事さん、市長さんでも罐詰なんかをゴッソリ出すと喜んで貰えたので、帰還輸送の重要性を、百万言を費やして演説するよりその方が効果があった」

「正攻法でも間に合わない時は、現金をもって足を棒にして買い出しをやる以外に手はなかった。先ずトラックを調達して油を米軍から貰う」

無題
Name 名無し 18/01/20(土)02:00:49  No.1234357      
「当時の金で百万円というような大金を、腹に捲いて遠方へ出かける。現ナマで頬を張る策戦が、結局は一番有効だった」

…との事なんですが、数百万人という大人数を動かす「大作戦」の円滑な実施には、準備や調整、補給といったロジスティックスのお仕事もやはり不可欠だったわけで、そうした後方支援の裏方を支えた方々の努力や奮闘あってこそ、多くの方が無事に故郷に帰りつき、ひいてはその後の日本そのものの復興に繋がったわけですから、ある意味戦時に勝るとも劣らない、「殊勲甲」の働きぶりだったとも言えるんじゃあないでしょか…w

無題
Name 名無し 18/01/20(土)05:12:30  No.1234359
日本人はやっぱお米がないとダメなんだな…

無題
Name 名無し 18/01/20(土)09:22:10  No.1234362
当時の日本人は米をやたらと食べた
今の感覚では分かりにくいね

無題
Name 名無し 18/01/20(土)15:43:21  No.1234377
ただ飢餓状態の人に白米出したもんで復員任務が開始された当初はそれで死者が出ている

無題
Name 名無し 18/01/20(土)22:22:08  No.1234404
エリザベス号でWW2のあとの大西洋航路での復員航路では一回に1万6千人乗せて、食事は朝晩2回で厨房は24時間フル回転だったそうな

引用元: https://cgi.2chan.net/f/res/1233425.htm

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