無題 Name 名無し 17/10/29(日)02:30:13  No.465680

ノモンハン戦車戦―ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い (独ソ戦車戦シリーズ)

旧日本陸軍はソ連を仮想敵国と見ていたが
もし全面戦争になったらどのような戦略、戦術をしていたと思う?
ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点
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無題
Name 名無し 17/10/29(日)03:42:51  No.465685
航空作戦においては、航続性能に優れた戦闘機と双発爆撃機により、ソ連の飛行場を襲撃して制空権を確保するつもりだったらしいが…。
しかし向こうも迎撃機を出して来るから、アウトレイジ…いや、アウトレンジ戦術はきっと上手く行かなかっただろうな…。
LagGG-3 6千機、La-5 1万機、La-7 5千機、Yak-1 8千機、Yak-3 5千機、Yak-7 6千機、Yak-9 1万6千機、Il-2 3万6千機、Il-10 5千機、Pe-2 1万1千機、Tu-2 2500機。
これだけの航空兵力とまともに当たったら、ひと溜まりもないよ。
地形障害の少ない満蒙国境で、ソ連空軍の絶対制空権化で闘ったら地獄だよ。

無題
Name 名無し 17/10/29(日)21:06:21  No.465770
>航空作戦においては、航続性能に優れた戦闘機と双発爆撃機により、ソ連の飛行場を襲撃して制空権を確保するつもりだったらしいが…。
まあ日本の爆撃機がどの線路を爆撃するか分からなければ極東への輸送も円滑にはいかんだろうし
かといって日本が本気で北方へ航空機を派遣した例も乏しいし
不確定要素が多いですなあ

無題
Name 名無し 17/10/29(日)03:43:13  No.465686
しかも地形障害が少ない満蒙は戦車の独壇場だから、日本陸軍の実力ではソ連陸軍に一方的にフルボッコにされるのが目に見えている。
しかし不可解なのは、ソ連を仮想的にしてた割には、日本が新型戦車を開発するペースが遅すぎるということ。
WW2の数年前まで戦車の開発を禁じられていたドイツでさえ、早いペースで強力な戦車を次々と開発していったのに、日本陸軍はなぜ努力を怠ったのか…。

無題
Name 名無し 17/10/29(日)05:19:01  No.465688
>ソ連を仮想的にしてた割には、日本が新型戦車を開発するペースが遅すぎる

仮想敵としていたのは、ノモンハン事件までだからね。
ノモンハンの後、日本は日ソ中立条約を終結して南進していった。

無題
Name 名無し 17/10/29(日)14:48:54  No.465736
>仮想敵としていたのは、ノモンハン事件までだからね。
>ノモンハンの後、日本は日ソ中立条約を終結して南進していった。

それは違いますね
日ソ中立条約を結んだその年に関特演で対ソ戦開始寸前まで行ってますから

無題
Name 名無し 17/10/29(日)06:13:07  No.465689 
>WW2の数年前まで戦車の開発を禁じられていたドイツでさえ、早いペースで強力な戦車を次々と開発していったのに、日本陸軍はなぜ努力を怠ったのか…。
ノモンハンだと火炎瓶で結構な数の戦車を屠ってたからな
日本の技術力じゃ戦車に注力するだけ無駄だと割り切ってたのかも

ノモンハンで本当に脅威だったのは戦車じゃなくて砲だよ
あんな見通しの良い場所だと威力と射程で劣る日本の砲は容易に撃ち負ける

無題
Name 名無し 17/10/29(日)06:47:21  No.465690 
>WW2の数年前まで戦車の開発を禁じられていたドイツでさえ、早いペースで強力な戦車を次々と開発していったのに、日本陸軍はなぜ努力を怠ったのか…。
幾つかの要素があるけど、一つは当時の日本は軽工業が主で自動車や戦車を作るための基本的な技術が大幅に遅れていた点にある
大きな戦車砲を載せるための駐退機は「砲塔に収めなきゃならない」という制約があって難易度が高いのよ
2つ目は貧乏だったこと。高価な戦車を必要数揃えるだけの予算の確保が困難だった
チハが採用されたのだってノモンハンでボコボコにされてようやくって話で、そうじゃなかったら数を揃えるためにローコスト低性能の戦車を採用する事になってた
3つめはインフラ。重たい戦車を船に積むガントリーが本土にないという
大陸そのものも路面状況が思わしくなく、重い戦車は使えないと思われていた点

そういう中でやれるだけのことはやっていたという印象なんだけどな自分は

無題
Name 名無し 17/10/30(月)22:53:23  No.465821 
>3つめはインフラ。重たい戦車を船に積むガントリーが本土にないという
>大陸そのものも路面状況が思わしくなく、重い戦車は使えないと思われていた点
この辺でもう戦車じゃなくて無反動砲やロケット砲に
それを積んだ軽装甲やソフトスキンで対応という手も有ったのに
終戦までにはそういうのは殆ど無かったっていう…

無題
Name 名無し 17/10/31(火)11:18:18  No.465835
>それを積んだ軽装甲やソフトスキンで対応という手も有ったのに
>終戦までにはそういうのは殆ど無かったっていう…

そういうのに回せるリソースがあればねぇ。開発にしろ生産にしろ既存の装備の刷新すら困難な状態に陥ってたしなぁ

無題
Name 名無し 17/10/29(日)07:55:45  No.465691 
>これだけの航空兵力とまともに当たったら、ひと溜まりもないよ。
だから緒戦で在地している間に敵機を撃破するために長距離偵察機の司偵や効率よく広範囲を破壊するためのクラスター弾を詰め込んだ高速の重爆、軽爆を整備してたんでしょ?
実際にそれがかなうかどうかは別として、日本軍の重爆の搭載量が今一なのは、ちょっとの数の大型爆弾よりも、飛行機を破壊できれば良いサイズの小型爆弾を沢山積んで容積当たりの効率が悪くなるから

>そういう中でやれるだけのことはやっていたという印象なんだけどな自分は
同意、第一試作開発レベルなら45年の時点で欧州戦線を経験したわけでもないのに長砲身75ミリ砲搭載戦車を作れてるんだし、数年遅れではあってもやれることはやってるんだよね
ただ、太平洋の対米戦が主だと、どうしても航空兵力の整備が優先されちゃうよね

無題
Name 名無し 17/10/29(日)08:21:05  No.465695      
>ノモンハンの後
元IJA参謀の加登川幸太郎陸軍中佐さんが、停戦後ただちに設置された同事件の研究員会にも列席されていたそうなんですが、当時の結論としては要は

「何から何までこのままの日本軍では駄目だ」

…ということだったんだそうで

ただ、他の方がレスされてます通り、戦車戦での劣勢は必ずしも最重要視されていなかったようで、氏曰く

「更迭された参謀本部作戦課長と関東軍の作戦課長の手記と(略)関東軍作戦課参謀の手記が残っている」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)08:21:39  No.465696      
「これをみると、彼らが最も痛感したのは、日本軍の火力装備の劣弱さ、とくに砲兵装備のよわいことで、戦車などは『わずかばかりのものは、あってもなくてもよい』といっている」

「研究委員会の結論の総論にこういうくだりがある。『この戦闘の特性は広漠地における運動戦で、ソ軍の得意とする機甲戦の威力を十二分に発揮したところにある。(主要正面と予定する)山地における築城地帯の攻防、大河の作戦とは趣きを異にする点あり」

「ソ軍の機械化部隊に痛めつけられながら、あれは敵の土俵の上だ、こっちはそんなところで戦さをするんではないんだ、ということである。研究委員会の検討にもこういうたががはめられている」

…という状況だったんだそうで

ただ逆に言えば、開けた草原地帯の戦闘で日本側に勝ち目はない、と認めてるわけですなあ

無題
Name 名無し 17/10/29(日)08:22:05  No.465697      
引用を続けさせて頂きますと

「しかし、日本軍の装備の悪さは骨身にこたえたようだ(略)研究員会の結論は、こうなっている。
『軍備充実の焦点たらしむべきもの左の如し

a 砲兵力、とくに長射程砲および大威力砲の充実
b 突破後の戦火拡大のため(略)装甲、機動兵団の新設
c 交通、通信、指揮連絡諸機関、工兵力の充実』

これでは『全軍にわたってやりなおせ』ということである。日本軍は歩兵の夜襲だけで、正攻法的攻撃威力を欠く。至急おぎなわなくてはならぬ、という判決である。これ以外にも航空部隊の戦訓研究の方から、空軍力の増強が要求されている」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)08:23:46  No.465698      
「だが、軍備充実計画は、すでに一つの枠ではじまっていた。陸軍の近代化のための軍備充実計画が昭和十二年度から開始された(略)が、その年に支那事変の勃発となり、このため実現困難になるもののある一方で(略)予算と物資との制約のもと、陸海戦備の競合という圧力下で、なんとか昭和十四年度の軍備充実計画にめどをつけたのが、この6月なのであった」

「地上戦時兵力65個師団、航空兵力164個中隊を基幹とする計画で、これで昭和十五年度の予算折衝に入ろうとしている、折も折なのであった」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)08:24:34  No.465699      
「この計画は、中国大陸にある兵力を減らし、その補給を減少し消耗を減らすことを前提として、新鋭兵器を装備する近代化部隊をつくろうとしていたもので、すでにわりこむ余地のないぎりぎりいっぱいのものであった。こうしたところに対ソ戦備の欠陥が、こうも大きいことが血を流して明らかになってきたのである」

…との事

要はまあ、軍の近代化に手を付け始めたところで支那事変勃発、改革未だしの所でノモンハン、更にノモンハンの教訓を活かして装備を充実させる間もなく大東亜戦争…って流れだったわけで、仮にどの段階で対ソ戦に踏み切ったとしても、結局経過も結果もノモンハンと似たようなモノになっちゃったんじゃないでしょかねえ

無題
Name 名無し 17/10/29(日)09:20:59  No.465702      
ソ連と米国、大国二つを相手にするのは得策ではない
ソ連とやりあうなら米の要求は聞かなきゃ
となると満州撤退でソ連と全面戦争が無くなり仮想は仮想のまま

今の北朝鮮だってやらない
国連で満州国を認めるかどうかの決議で認めない42ヵ国、認める1ヵ国(日本のみ)の結果から、やってられるか!バーンと国連脱退してくる頭の悪い政治家にしちゃ

日ソ中立条約は唯一の良策
というかソ連より日本の方が得る物が多かったろう

無題
Name 名無し 17/10/29(日)09:21:57  No.465703
>予算と物資との制約のもと、陸海戦備の競合という圧力下

常に競合していた訳ではなくて、海軍もノモンハンで大損害を受けた陸軍救済のために、多額の予算と大量の資源を陸軍に分配してます。
これで海軍の建艦計画や新型機の開発が大きく遅れる事になりました。

無題
Name 名無し 17/10/29(日)10:06:23  No.465705 
昔「丸」か何かの雑誌で見たのだが、デジタルデータが無くてますまいね。
陸軍省・海軍省・軍需省の予算配分と配分理由を年毎に載せていたよ。
ちなみに1940年と1941年は、7対3で分配して海軍力が落ちた要因になった。
デジタルデータが存在するのか、ちょっと探してみるは。

無題
Name 名無し 17/10/29(日)10:08:37  No.465706
>ちなみに1940年と1941年は、7対3で分配して海軍力が落ちた
書き忘れ
この配分理由は、ノモンハンで大損害を受けた陸軍救済

無題
Name 名無し 17/10/29(日)11:16:06  No.465712
私が以前読んだ雑誌ほど詳細か不明だが、図書館で「資料戦後二十年史 2 経済」を借りたら載ってると思う。
6冊か7冊あるから別の巻だったらスマンが。

http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000000869960.html

無題
Name 名無し 17/10/29(日)10:35:26  No.465708
満州から東側の沿海州地域で攻勢を行い、ウラジオやハバロフスクまで占領、この間、西側では国境付近の満州里は放棄し、要塞のあるハイラルで持久防御
沿海州方面の主力部隊が到着次第、反撃開始
こんな感じだったと思う

無題
Name 名無し 17/10/29(日)11:25:08  No.465713
まあどれだけソ連軍が強くても海軍が無い以上
沿岸部に近づけば艦砲射撃で吹き飛ばされたやろ

無題
Name 名無し 17/10/29(日)11:35:56  No.465716      
IJA参謀本部および関東軍が、具体的な対ソ作戦計画を作成するようになったのは1933年から(起案は32年夏)からだそうで、それによると戦場はあくまでソ連領内に留めることとして、

・満ソ国境東部(東安・牡丹江省方面)からソ連内に急速侵攻し、ウラジオストク周辺の地上戦力及び航空戦力を撃滅(第一期会戦)
・持久していた国境西部(大興安嶺・外蒙古方面)で攻勢に出る(第二期会戦)
・ソ連軍に決戦を強要、これを撃破して最終的にバイカル湖方面へ進撃する(第三期会戦)

の三段階で進行するものとされておりまして、この辺No.465708さんが既にほぼ述べられているわけなんですけれど、東正面での攻勢は動員開始(開戦決意)から約二ヶ月後に開始され、大体二ヶ月くらいで完了する予定であったそうで

この初動の短期決戦に成功するか否かが、爾後の作戦経過全てを決するわけですけれど、コレが1936年度の作戦計画まで引き継がれていたんですとか

無題
Name 名無し 17/10/29(日)11:37:40  No.465717      
因みに関東軍の1935年度の対ソ作戦計画では、開戦後は全力を挙げて東正面で航空撃滅戦を実施、制空権を確保したうえで10~11個師団の地上軍主力が国境を突破して所在のソ連軍を撃破、北正面(黒河方面)から4個師団程度で国境近くのシベリア鉄道を分断する支作戦を行い、東正面で勝利した後には、そこから6個師団程度を西正面に転用、新たに集中する増加兵力と合わせて約18個師団でソ連軍主力に決戦を挑み、コレを撃破してバイカル湖まで進撃するシナリオだったんだそうな

これが1937年度の計画になると、東西決戦の内東正面の戦力を転用して行う西正面決戦は断念することとされているそうでして、初動作戦ではあらかじめ国境地帯に展開させてある奇襲兵力で弱点部分を突破、ソ連軍を攪乱した上で15個師団基幹で主力攻勢に移ること、としているそうです

無題
Name 名無し 17/10/29(日)11:38:20  No.465718      
その後、兵力を西正面に転用するのは従来案と変わりないものの、日ソの兵力差からその後の西正面での決戦及びその後の更なる侵攻は取り止める、とされて、若干の変化はあるものの、1940年度までこの構想が引き継がれているんだそうな

また1937年までは、関東軍の師団以上の戦略兵団は主に都市周辺に展開していたものが、翌年以降は国境付近へ移動され、国境隣接地区に配備されていた師団数は37年の2個に対して38年には5個師団に増えているほか、ハイラル(西正面)、東寧・虎頭(東正面)、アイグン(北正面)等の8つの大規模国境要塞が完成して、師団とは別に約二万人の兵力が国境地帯に展開して、攻勢にしろ守勢にしろ、対ソ戦に備える体制を整えていたんだそうで

無題
Name 名無し 17/10/29(日)11:38:55  No.465719      
従って、突発的なノモンハン事件での大苦戦を、相手のホームゲームで負けただけだし…(震え声)というノモンハン戦での高級指揮官さん達の判断も由なしというわけではないというか、こういう対ソ戦略が背景にあったからだったみたいなんですが、その根底となる緒戦の東正面での短期勝利!って目論見が実現するかどうか、彼我装備の面でノモンハンで大いに怪しくなっちゃった、ってことなんですかね

因みに、1939年度の例では、東正面での対ソ航空作戦はIJA独力では困難として、海軍航空部隊の支援を受けること、と決められていまして、陸軍の54個中隊(498機)と海軍機192機の合計690機が投入されることとされていたんですとか

一方ソ連軍の極東航空兵力は40年末で2800機に達していたそうで(日本側もその半分程度にまで増強されていたそうですが)、仮に対ソ開戦の方向で進んでいたら、やはり相当やっかいな展開になっていそうですなあ

無題
Name 名無し 17/10/29(日)12:10:23  No.465720
何と言うか、このスレを見ているとソビエトもソビエトでよくもまぁここまで急速に軍備を拡張したもんだと思う。

人口と資源も恵まれていたとは言え、大陸国家ゆえのインフラ・制度構築困難による後進性&過酷な内戦と荒廃の果てに、わずか十数年足らずであの大軍備を備えちまったんだから大したもんだ。
     
当時の日本がこのキチガイ国家に勝利するには、やはり日露戦争と同じく、ロシア側の兵站がシベリア鉄道に完全に依存していることを踏まえて、シベリア鉄道による戦力補充ペース以上のペースで敵現地軍を撃破&我が方の戦力を補充するしかないんだろうな。事前備蓄物資を使い果たしたら、いくら数千機の航空機や戦車を揃えても、戦時における膨大な兵站を、鉄道線一本じゃ維持できんだろうし

無題
Name 名無し 17/10/29(日)12:59:18  No.465723      
陸軍省軍務局長などを務めた、佐藤賢了陸軍中将さんの回顧録からの引用なんですけれども

「ソ連は、1928年(昭和3年)から第一次五ヵ年計画を始め、一年繰り上げて1931年(昭和6年)にこれを完成、第二次五ヵ年計画を実施中であった」

「日本は資源が貧弱で、戦時重要資源の自給自足はとうていできない。陸軍はもっぱら対ソ戦だけに備えてきたが、それも太平洋からの補給路が開放されていなければ、戦争の遂行はできないのであった。戦時に自給自足できない国防ほど頼りないものはない」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)13:01:24  No.465724      
「私は大尉・少佐時代を陸軍省の整備局に前後5年勤務し、軍需動員(戦時の補給計画)の仕事をしていたが、その計画の根本であるところの造兵廠・兵器廠などに対する陸軍大臣の訓令には、『原料・材料・工作機械などは必要に際し、必要なる数量が入手できるのものとして計画せよ』というのであった」

「つまり、仮定の上の計画である。戦時の重要な補給計画が仮定の上に立てられるということは、計画そのものが砂上の楼閣であり(略)毎年繰り返していることは、ほんとうに戦時の責任を考えると心苦しいものである」

「日露戦争中、兵器局で弾薬補給の業務に従事した伊守中佐を訪ね、当時の模様を聞いたことが有る」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)13:02:18  No.465725      
「当時、寺内正毅陸軍大臣は陸軍省大臣室に泊まり込んでいたが、夜中にうなされたように飛びおき(略)
『今日の戦地からの弾薬請求の電報はどうしたか(※大臣)』
『ハイ、送る手配をいたしました(※伊守氏)』
すると、『アアそうか』といって、寝汗を拭いて寝られた。実際は送ってなんかいやしない。送る弾薬がないのだが、そういわないと大臣が寝ないから、うそをいって安心させた」

…そうで
佐藤氏もその後、大東亜戦争で「私もまた(略)もっとひどい地獄の苦しみを味あわされ」る事になるわけなんですが、ロシア時代からソ連(もしかしたら今も)まで、日本陸軍と言うか国防に従事する方たちの悩みの種は変わらなかったわけですなあ

無題
Name 名無し 17/10/29(日)13:47:46  No.465731 
>何と言うか、このスレを見ているとソビエトもソビエトでよくもまぁここまで急速に軍備を拡張したもんだと思う。
国家成立が1920年頃でこの時点ではほとんどの主要国から承認を受けられず、列強諸国から軍事干渉を受け、さらに国内でも白軍やウクライナ、フィンランドの独立勢力、さらには領土拡張を狙うポーランドの侵攻…それを全部跳ね除けて1930年前後には主要各国と国交樹立、その10年後には世界有数の軍事大国…しかも機械化では日本以上…
ロシアの底力どんだけって震え上がるものがある

無題
Name 名無し 17/10/29(日)14:23:26  No.465733
>ロシアの底力どんだけって震え上がるものがある
第一次五カ年計画の成功は、スターリンおぢさんの最大の功績で中央の指示で、達成のためには犠牲を省みず強引な改革と近代化をやったと、ここまで書いて、あれ?これどこかで聞いたなと思ったら・・・
まあソ連の五カ年計画はそんなもんより遥かに徹底してたらしいのですが

無題
Name 名無し 17/10/29(日)15:28:13  No.465741 
陸軍が対ソ戦に当たって最重要だとしていたのが、ハイラル北西・黒河北方・ハバロフスク南方でシベリア鉄道を三重に遮断する事。
ハイラル方面は重爆、ハバロフスク方面は砲兵が主力とされたが、一番困難だと予想されたのが黒河北方で、昭和15年から孫呉に永久駐屯が決まった第一師団は国境からシベリア鉄道までの湿地帯100キロを急速進軍する訓練を死ぬほど積んだと言う。
で、ソ連軍を分断した上で、補給補充のないウラジオストクを攻撃する。

無題
Name 名無し 17/10/29(日)16:34:51  No.465745
>国境からシベリア鉄道までの湿地帯100キロを急速進軍する訓練を死ぬほど積んだと言う。
>で、ソ連軍を分断した上で、補給補充のないウラジオストクを攻撃する。
急速進軍とといっても湿地帯を越える機材なんてないから徒歩でだよねこれ……

無題
Name 名無し 17/10/29(日)18:36:30  No.465754      
1509269790124
>湿地帯を越える機材


IJAの湿地帯突破器材について、福田外次郎陸軍大佐さんの語るところによると

「昭和10年ごろすなわち満州事変の直後から北満地方の地形が明らかになるにつれ北満のいたるところに湿地があり、北満作戦には湿地がつき物であるということになったのである」

「したがって、この湿地帯をいかにして征服するか、作戦的にいえばこの湿地帯を自由に乗り越えて有力な部隊を行動させることができたならば、思わざるところに兵をすすめるいわゆる奇襲作戦の効果を十二分に発揮できるのである」

「これらの湿地を何とかして通過する方法はないものかと研究、考案、苦心の結果生まれたのが、この湿地帯通過用諸機材である」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)18:37:46  No.465755      
1509269866216
「いろいろなものが考案されたが、いわゆる応用的というか、通過する部隊自身が現地の材料をもって考案製作したものもすくなくない」

「板はもちろん、満州の泥柳、南方の藤んどは応用材料として利用に適したものである。これらを編んですのことしあるいはカンジキとして前述の敷物とし、あるいは足に履いたものである。また、砲車などは臨時にスキー型のそりを作って車輪の下に敷いたこともある」

「(個人用器材として)浮嚢靴は水上スキーである。長さ1.5メートルぐらいのゴム浮嚢でできたスキー状の靴を履き、両手に水かきのついた杖を持って泥沼や水上を歩くのである。これは敵前などでは姿勢が高いので水上の姿勢を低く腹ばいにしたのが携帯浮嚢船である。これは一人用の小さなゴム製ボート」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)18:40:36  No.465756      
1509270036452
「(部隊通過用器材として)湿地橋というのがある。これは松材を主とした板をすのこ状に張りつけた橋床を湿地上に並べたもので、途中に水流があればゴム浮嚢を浮かべて橋脚としたもので全体がきわめて軽量で、しかも並べて行く敷設速度が早いようにすのこ相互のつなぎを早くしたものである。幅約2.5メートルで長さ15メートル分ぐらいを一台のトラックに積める程度の軽量なものである」

「(機械化器材として)北満東部の大湿地帯を機械力を使って一気に乗り切る方法はないか、できれば当時の主力戦車であった16トン級の中戦車を速やかに湿地を渡す方法はないものかと(略日夜研究をつづけたものである。湿地を自由に走る動物は何であろうか、前述の水鳥のほか蛙や蛇もいる」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)18:42:25  No.465757      
1509270145475
「これを機械化したものに湿地車というものがある。一方、主力戦車のほうは自重が16トンもあるので履帯の幅を広げたくらいでは追い付かず(略)機械力を使った敷設式を採用した。その結果できたのが湿地板敷設車である。その他そりに空中プロペラをつけて湿地上を滑走する案、あるいはねじ棒を回転して前進するねじ舟案などが考えられたが(略)実用化するにはいたらなかったようである」

「(湿地車第一号)前述した蛇の原則といおうか接地面全体が履帯で動くようになったそり舟である。当時、略称をつけてSB器と呼んでいたものである」

「鉄製の舟体の両側に水かき翼のついた側面履帯を有し(略)腹部にもゴム製の履帯を有し(略)水中を行く場合には舟のように浮かび、後方にあるプロペラによって前進する」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)18:45:50  No.465758      
1509270350570
「湿地車第一号はだいたい(略)その目的を達したが、何しろ総重量が重い(※約10トン)割合に積載量が少なく(※約1トン)しかも重い舟体であるため、ある程度湿地に沈むため行動が自由自在というわけには行かない場合がある」

「昭和12年の秋、支那事変のはじめに北支地方に大洪水があっていたるところに大湿地を生じたさい、本SB器が出動して補給の任務についたが、やや行動に無理があったため十分な成果をあげなかったことがある」

「本機は当時の三菱重工業東京機器の設計製作であった。本機制作の経験を活かして(略)新案を造ったのが次に述べる湿地車第二号である」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)19:01:59  No.465759      
1509271319443
「とにかく全体を軽くして接地面を大きくし、湿地の表面や水面をほとんど沈まずに前進せしめるという着想のもとに造ったものである(略)ゴム製の浮嚢を履帯にした舟で、これで浮かびながら湿地の表面を歩くのである」

「車体の設計はきわめて軽量にできているから、車体の上に一号機のように兵員や砲の積載はあまりできない。したがって、これら輸送の為に別にベニヤ板でできた折畳式そりを牽引させて(略)輸送するという着想である」

「通称FB器と名づけ(略)実戦に供する機会はなかったが、すでに数十両を製作し一部北満の実地実験にも供し、やがて数百両が大湿地帯に活躍して奇襲作戦の成果をあげる確信を持っていたのである」

無題
Name 名無し 17/10/29(日)19:02:55  No.465760      
1/35 AFVクラブ チャーチル Mk.3 カーペットレイヤーD型
「(湿地板敷設車)湿地車の自走式に対してこれはいわゆる敷設式である。幅2.5メートル、厚さ4センチぐらいの板を帆布で丈夫につなぎあわせたすだれのようなものを、長さ50メートルごとに一巻となし、これを装軌車両に積載して車両の前進と共に前の方からしだいに解けて敷かれていく物である(※画像はイメージです)」

「敷設した湿地板のうえには中戦車(16トン)が通過するようになるが(略)数台の敷設車を用いて同時に数本の湿地板を並べて敷設すれば(略)戦術上面白い使用法も考えられることと思う(略)試作研究の程度で実用までにいたらなかったが、日野ジーゼル工業の苦心設計の結果できあがったものである」

…んだそうで、一応対ソ戦に備えて、様々な機械器材の準備計画自体は進められてはいたようです
仮に本腰を入れて対ソ戦に移行していたら、或はこうした和製ゲテモノ車両の活躍ぶり?が見られたかも知れませんですなあ

無題
Name 名無し 17/10/29(日)19:19:59  No.465761
工兵機材?は揃ったとして、それで通過させる方の戦車とか大砲は十分揃ったんですかね(小声)

無題
Name 名無し 17/10/29(日)19:23:36  No.465762
>国境からシベリア鉄道までの湿地帯100キロを急速進軍する訓練を死ぬほど積んだと言う。

湿地帯が凍りつく冬季ならともかく、上で紹介されている程度の湿地突破装備じゃ
他の季節の兵站が雨季のインパールなみに崩壊しそう・・・

ソ連軍遺棄物資奪取不可避

無題
Name 名無し 17/10/30(月)21:17:25  No.465815      
1509365845812
>長さ1.5メートルぐらいのゴム浮嚢でできたスキー状の靴を履き、両手に水かきのついた杖を持って泥沼や水上を歩くのである。

山梨で生れ、東京湾横断のお披露目に見事失敗し、歩兵学校や工兵隊でお試しの後は、アジ歴で「その後はどうなったか不明」とまで言われた竹之内式水上スキーがまさか大陸で活用されていたとは……

無題
Name 名無し 17/10/30(月)23:07:15  No.465823
>その他そりに空中プロペラをつけて湿地上を滑走する案、
あるいはねじ棒を回転して前進するねじ舟案などが考えられたが(略)実用化するにはいたらなかったようである」
アエロサン(雪上だけど)やZIL-29061で実用化されるソ連…
日本だとZIL似の三井AST-001がガリンコ号まで進化する事に

無題
Name 名無し 17/10/31(火)01:44:55  No.465828 
ノモンハンでフルボッコにされた日本軍戦車部隊の名誉のために言わせてもらうと。
戦車同士の戦闘で撃破された戦車は少数で、大半はソ連軍の対戦車砲にやられたのよ。
しかも損失戦車の2/3は、ソ連軍陣地の前方に仕掛けられたピアノ線が履帯に絡まって、身動きができなくなった所を戦車砲に狙い撃ちされたもの。
それ以外の戦車は意外なほどよく健闘して、ソ連軍に少なくない損害を与えている。
また対戦車砲に痛撃されたのは日本戦車だけではなく、ソ連側の戦車や装甲車も多数が日本軍の対戦車砲によって撃破されている。
当時の戦車は日ソ両軍ともに装甲が薄く、37~45mm口径の対戦車砲でも容易に撃破できる程度の防御力しかなかったので、このような結果になってもおかしくはない。
だが戦闘結果を分析した日本陸軍が、戦車は高価な割には戦局を大きく左右させるほどの重要な兵器ではないと判断し、その後の日本戦車の性能の発展に悪影響を及ぼしたのなら、とても残念に思う。

無題
Name 名無し 17/10/31(火)02:13:07  No.465829      
前述加登川氏によると、IJA内での戦車軽視の流れが変わったきっかけとなったのはノモンハンよりむしろ同時期~その後のドイツ軍の電撃作戦における機械化軍団活躍の情報だったんだそうでして、

「この機械化軍のおどろくべき威力をまえにして『戦車おそるるにたらず。戦車などあってもなくてもよい』などという議論はふっとんでしまった」

「同期生の久保達夫氏は、ノモンハン事件のまえから昭和十五年まで、教育総監部の第四課(戦車兵種担当)に勤めていたが、こう語っている」

「『ノモンハン事件までは、まったく虐げられた年だった。それがノモンハン後となると手のひらを返したよう(略)いいだしてとおらぬことはないくらいだった(略)陸軍省でも、参謀本部でもそうだった』」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)02:14:13  No.465830      
「筆者は電撃戦衝撃の直後の昭和十五年夏、陸軍省軍事課課員を拝命した。機甲充実の風潮下とて戦車関係者だったからだ、とあとで聞かされた。資材班所属である。ここで日本軍兵器資材の実情を知ってびっくりした」

「大学校でたての若輩が、戦車学校で先輩の尻馬にのって突破装甲兵団を論じ、ノモンハン事件研究会で話をきいて、装甲機動兵団を建設すべし、そうだ、そうだとうなづいていたのだが、そんな話どころではない。基礎になる軍需工業界には、その前年やっと国防機械化協会などハッパをかけはじめたばかり(略)第一に戦車がつくれなかった」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)02:15:29  No.465831      
「昭和十四年四月から(略)一年、日本の戦車、装甲車の生産台数は次のようであった。

九五式軽戦車 115輌
八九式中戦車 20輌
九七式中戦車 202輌
九四式軽装甲車 5輌
九七式軽装甲車 217輌

つまり戦車は新旧合わせて、年産337輌、月間平均28輌。これがノモンハンで戦った戦車二個連隊の後方的実力なのであった。両連隊が、もし中、軽戦車を全部失ったとしたら、その補充には陸軍の2.5ヵ月分の生産量を要するわけである。もちろん十五年四月以降の生産はあがっていた。それでも九七式戦車で50%増程度の進展である」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)02:17:16  No.465832      
「戦車学校のいう陣内突破機動兵団はおろかなこと、ノモンハン戦訓委員会の装甲兵団新設の提言も、はるか先の目標にしか過ぎなかった。足場がかたまっていなかったのである」

「中央省部の『戦車研究委員会』は、昭和十四年十二月(略)『戦車整備促進の対策』を申し合わせている。

○車種改変の基準計画をさだめ(略)計画的に資料収集、研究、設計、審査を行う余裕をつくること○試作戦車の各種諸元にかんしては過度に限定を設けぬこと(略)
○審査は単に一、二台の研究、試作に止めず、一、二個中隊分をひきつづき製作し、製造部門、使用部隊の確実な意見を採用、図面の確定後多量整備にうつること」
○新戦車の試製を少くも二年毎には行うこととし、研究を促進すること
○造兵廠本部に強力な機能を有する戦車整備進行掛というようなものを設け(略)進行を促進(略)
○技術者の面の強化、能力の向上、優遇(略)」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)02:19:40  No.465833      
…と、一旦は一転して戦車重視の流れにはなっていたんだそうで

加登川氏はこうした施策が「せめて九四式や九五式が生れたころから強力にすすめられていたら」と、いかにも戦車畑の関係者さんらしく悔やんでおられるんですが、実際には昭和十六年頃の最も充実した時期にあっても、その増産の主力は95式軽戦車であって、しかも昭和17年暮にははやくも戦車関係にたいする物資の割当が減らされ、昭和17年度の計画で1550輌の整備計画であった戦車数は、翌昭和18年度には半分以下の730輌にまで減らされてしまい、それも以降は主として物資の不足により、まず計画通りの生産がなされることはなかったんだそうで

してみると、結局機甲戦力だけに限っても、日本陸軍が対ソ戦に必要としていた予定量を保有したことは開戦前から終戦まで終始なかったわけですから、戦前から予定の具体的な対ソ戦略戦術は内容の如何に関わらず、その通りに実施するのは難しかったんじゃあないでしょかねえ

無題
Name 名無し 17/10/31(火)07:02:23  No.465834
ノモンハン戦訓ってあったんだ
自殺を強要された将校がいたって話だからなにも学習できてないと思ってた
日本には戦わずに相手の戦力を分析する能力は無く
やっぱり戦って痛い目見ないとソ連の戦力、強さは理解出来ないのかねぇ

辻が日本にはちょうどいい参謀だったんだ
本人もやっと理解したのか北進から南進論者に変わってるし

装備の見直しが出来ても組織の見直しが出来ない自浄能力が無いって凄い

無題
Name 名無し 17/10/31(火)15:57:32  No.465842
>ノモンハン戦訓ってあったんだ
陸軍の戦闘機が逸早く防弾板積んでるのはノモンハンの戦訓。

無題
Name 名無し 17/10/31(火)19:27:44  No.465849      
IJA航空隊の戦備について、大本営航空編制・作戦班長だった松田正雄中佐さんが纏められているものからの引用になるんですけれども、

「(陸軍航空隊は)昭和9年から航空の本格的拡充を検討し始めた。その主眼は対ソ戦備の改善で航空軍備優先であった。ソ空軍は既に総兵力200コFc(※飛行中隊)強、うち極東使用可能は約100コFcに達し、5年後には総数400コFcとなり、その約半数が対日使用可能と判断された」

「陸軍は対ソのほか、対米、対支作戦を考えて総計270コFcの整備が必要と概観した。しかし9年頃の現兵力約50コFcを、約5年間に5倍とする可能性が問題であった。それは、国力の関係とともに陸軍の限られた予算、資材、要員等の処理における航空優先実現の困難を示すものであった」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)19:30:18  No.465850      
「本検討における航空軍備の規模は、たちまち削減され、10年9月に内定した目標は、約140コFcになった。満州方面における対ソ地上戦備との調和から航空の独走は許されなかった」

「満州方面作戦計画で、開戦初頭、東方に攻勢を採り南部沿海州を攻略する作戦方針が採用されたのは昭和8年度からである(略)ソ空軍超重爆部隊の基地を覆滅し、その対日本土空襲を防止することを重視したものであった」

「開戦初頭、ソ空軍を急襲(まず奇襲に努め、次いで強襲に転ずる主義)撃滅する戦法を採択したのは10年度の作戦計画からである。当時の満州方面彼我航空兵力は700機(うち超重爆100)対約200機であり、緒戦の奇襲が絶対必要であった」

「攻撃の方向は、まず東部正面、次いで西方及び北方正面に転移するのであり(略)陸軍航空の軍備は実に、この用法を前提とするものであった」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)19:33:48  No.465852      
「12年1月決定の飛行部隊は142コFcで、爆撃が71コFc-50%、戦闘が42コFc-約30%、偵察が29コFc-約20%であった」

「日本軍は元来、攻勢徹底、速戦即決を作戦方針とし居り、特に前記の対ソ航空撃滅戦における爆撃価値を重視したのである」

「昭和10年度の陸軍航空生産は約350機であった。陸軍は12年5月、産業5ヵ年計画を内定し、企画院にその意見を提出した。その方針は16年を期し、国防産業の振興を策し、日満支で重要資源の自給自足を図る趣旨であった」

「航空工業が重点となり、飛行機の生産能力を、陸海軍合計1万機(うち3千機は満州)に向上する案であった」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)19:36:39  No.465853      
「12年の航空生産は、1375(うち陸軍880)機であり、5年間に約7倍にするものであった」

「本案は陸海軍の航空生産配分その他に関し、両軍の意見が一致せず、正式の国家物動計画とはならなかった。陸海軍の航空軍需工場の争奪が問題であった(略)『陸海軍航空本部協調委員会』が設置されたが(略)成果は揚がらなかった」

「ノモンハン事件は、その後約半年、総合、情報、航空の3委員会で深刻に研究された。航空委員会では縦深戦力の強化、戦闘分科の重視、器材の戦訓改修、教育の刷新等が指摘された。総合委員会は、航空が優勢でも地上で負けては勝利は獲得できぬから、国軍は地上軍備を緊急改善すべきと結論したのである」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)19:39:17  No.465854      
「昭和13年夏~14年末、陸軍はⅡ号軍備を研究策定した。その規模はⅠ号計画の40コD(※師団・地上兵力)・142コFcを、65コD・162(内定は164)コFcに拡大したものであった」

「Ⅱ号軍備の主眼は、対ソ作戦における著しい兵力劣勢を、極力改善することであった。本軍備における空地戦力の比率は(略)地上の方が重くなっていた。Ⅰ号軍備決定当時は陸軍における空軍熱(航空優先思想)が最も盛り上がった時期であったが、支那事変、特にノモンハン事件の実戦経験では航空の充実よりも地上戦力の強化が、より緊急に感じられた」

「航空関係者は(略)航空軍備の緊急増強を叫び、陸軍主流もまた、それを認めるのではあるが、中国大陸奥深く展開している地上兵力の不足は切実であった。『航空優先、地上絶対』という奇妙なモットーが、陸軍部内に流行し始めた」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)19:40:36  No.465855      
「もっともⅡ号航空軍備の内容は、縦深戦力を増加していた。各戦隊には第一線定数の他1/3の予備機を装備し、FS(※野戦航空修理廠)に1/3の後方予備機をもたせた。また多数の教育部隊を編成した」

「162中隊の分科別は、偵30、戦54、軽爆36、重爆36、超重6であり、戦闘分科比率が、Ⅰ号計画の30%から34%に増えている。これはノモンハン事件の戦闘教訓の反映であった」

「Ⅱ号軍備は、航空編制当局者苦心の結晶であった。しかし、2年後に大東亜戦争に突入し、陸軍航空の主力が海洋離島作戦で苦闘するに至る等の情勢判断、所要の準備対策等は、ほとんど皆無であった」

無題
Name 名無し 17/10/31(火)19:41:18  No.465856      
「(昭和16年)7月上旬、陸軍は対ソ開戦に備える関東軍特殊演習(略称-関特演)を始めた。16コD、約80コFc、計約85万の戦略展開で、陸軍史上最大の規模であった」

「当時のソ軍は30コD、2千8百機と判断され、簡単に勝算を見出せなかった。北方攻勢には燃料問題に大きな不安があった。陸軍はソ軍が熟柿となって落ちるのを待つ主義である」

…というような様相だったそうなんですけれども、基本的には日本がとても及ばない国力を背景とするソ軍の強大な戦力への認識が日本陸軍には常にあって、それに対応する為の戦略も、時にノモンハンのような実戦での教訓も取り入れて、随時手を入れられていたようなんですな

ただまあ、その計画の実施にあたっては、さまざまな障害が生じて理想通りに実現することは常に困難だった、って事情もまた、良く伝わってくる気がしますですけれど…

無題
Name 名無し 17/10/31(火)23:52:37  No.465864
ソ連軍が自軍の損害を厳重に隠蔽したので地上戦でも日本より多い損害を受けながら察知されなかった
それで日本陸軍の上層部は判断を誤って機械化を躊躇した
戦車はもっと軽量でたくさん作れるようにしろと主張したがさすがに行き過ぎた案は実現しなかった

無題
Name 名無し 17/11/01(水)01:32:29  No.465874
1945年の対日戦ではソ連軍の損害は劇的に少なくなってますね

無題
Name 名無し 17/11/01(水)01:37:15  No.465875
空も陸も対抗手段まるでないですね
砲兵がアウトレンジされカチューシャの雨が降り注ぎ
動く物みんな空から23ミリで撃ちまくられ最後はT34とPPSH…
記録も残らないんで南方より玉砕話は少なかったかも 
ノモンハン後は装備が質量ともに劣るから別の方(南方)に目を向けて先制攻撃短期決戦で… あぁ歴史そのまんま

無題
Name 名無し 17/11/01(水)10:27:10  No.465882
昭和20年のソ連満洲侵攻の際、「関東軍は民間人を見捨てて真っ先に逃げ出した」
みたいなことが一部勢力のメディアで言われたりしているが
じっさいの所はどうだったのか?
主要な兵力がことごとく南方に引き抜かれていったというのは分かっているが

無題
Name 名無し 17/11/01(水)12:41:43  No.465887
うちの爺さんのトコは終戦を知らされるまでの10日弱だったけど頑張ったらしい。
投降した生き残りは全員シベリア送りで爺さんしか帰ってこなかった。

無題
Name 名無し 17/11/01(水)12:53:27  No.465888
>じっさいの所はどうだったのか?

要塞部隊のように、強固に防護された拠点の部隊は戦力が南方に引き抜かれて弱体化しながらも各所で抵抗・時間稼ぎをしたけど、そういった戦う拠り所のない後方部隊や司令部といった所は、ソ連軍に包囲されないよう総撤退。
ソ連軍に関してまともな警告もなく、交通手段も食糧も宿泊所も情報もなく戦火の真っ只中に放り込まれた現地邦人の横を、自隊のトラックや鉄道で撤退(当然満員なので、避難民の載るスペースはない)して行ったので、そう言われても仕方がないかと(避難民は前線を見れないので、そう言った我先に撤退する後方部隊しか目にしない。)

ただ、やっぱり事前警告が無かったのは痛いね。
本土の学童疎開のように、「万が一のソ連参戦に備えて、婦女子の一分を後方に送る」といったことを少しでもしていれば、結果は変わらんでもあそこまで非難されることはなかったと思う。

無題
Name 名無し 17/11/01(水)18:48:55  No.465897
>じっさいの所はどうだったのか?
引き抜かれまくって手持ちの戦力じゃマトモな防衛戦なんてできないから、国境の要塞部隊以外は、新京-図們-大連を結んだ三角形まで防衛線を後退させて、それを死守する方針だった。
なので、その外側にいた人達からすると「軍は真っ先に逃げた」になるし、奉天から引き上げてきたうちの婆ちゃんだと、「反対側を関東軍の兵隊さんを満載した列車が続々北上して行くのに泣きながら手を振った」になる。

無題
Name 名無し 17/11/01(水)19:26:14  No.465901      
伊藤正徳せンせいの「帝国陸軍の最後」でも、対ソ戦における関東軍各部隊の奮闘の挿話は数多いんですが、一部を引用させて頂きますと

「マリノフスキー元帥の西部戦線軍は、まさに破竹の進撃を敢行して、日本軍に反撃の余地をあたえなかったが、北部正面と東部国境とにおいては、日本の問屋が卸さなかった」

「(北部正面の)防衛は、ハルビンに本営を構えた第4軍(中将上村幹男)の統帥下にあり、関東軍本来の戦略方針では、その国境線に位する黒河、アイグン、孫呉の基地から、開戦と同時に黒龍江を渡り、一気にシベリア鉄道を遮断し、黒龍江省の戦略本拠ブラゴシチェンスクを抑え、ウラジオおよび沿海州のソ軍を孤立させる、という積極的攻勢任務を持っていた」

無題
Name 名無し 17/11/01(水)19:27:01  No.465902     
「戦略一変ののちは、兵団そのものも、転用後の補充師団である上に(略)わずかに第百二十三師が孫呉にあり、広大なる陣地は半分空き家となって寂寥の感を深くしていた」

「黒河は空になったが、アイグンには未転用の強兵第百三十五旅団が、少将浜田十之助の下に守りを固めていた」

「(八月九日)ソ軍は、六時三十分ごろアイグン陣地を爆撃す。旅団はソ軍侵攻と判断し、ただちに戦闘配備に着手、あたかも他に転用のため輸送準備中なりし十五榴二門、十榴六門、十加四門をアイグン駅より全力逆送(略)新市街にありし邦人および軍人家族を陣内に収容す」

「(八月十日)江岸アイグン付近に敵戦車十数両、自動車六十台、十センチ級火砲十八門を認む。旅団は十加をもって砲撃し、夜に入り挺身部隊をもってこれを攻撃す。江岸監視隊は任地にお
いて玉砕せり」

無題
Name 名無し 17/11/01(水)19:27:49  No.465903      
「(八月十一日)敵の一部(略)渡河し、夜十時、戦車をともなってわが主陣地北方より侵入を企てるも、肉薄攻撃によりて夜半これを撃退せり」

(※十二~十四日省略、毎日戦闘あり)

「(八月十五日)約一個師の敵(略)進出し来りたるも、主陣地の砲兵これを射撃し(略)撃退す。この日、通信隊は放送聴取中、断片的に重大放送を受信せるも意味不明確なり」

(※十六、十七日省略、激戦続く)

「(八月十八、十九日)旅団は主陣地を確保して士気旺盛、依然として砲戦を続行す」

「八月二十日)午後六時、第百二十三師団より(略)停戦に関する師団命令を伝う。旅団長は熟慮のうえ停戦に決す」

無題
Name 名無し 17/11/01(水)19:28:56  No.465905      
「剛将浜田十之助の指揮したアイグン陣地の将兵六千名は、十日間にわたる敵の有力部隊(モジューヒン中将の第ニ軍)の日夜連続の猛攻を、ことごとく撃退して意気衝天の勢いを示したのであった」

「ソ連兵の大半は(略)欧州の戦場から反転してきた歴戦の強兵であり、それを(略)浜田旅団が最後まで防ぎ得たのは奇跡に近いものと言えよう(略)このような勇戦の物語は、ひとり北境方面のみに限られたかと言えば決してそうではなかった」」

…とのことなんですが、前線将兵さん達の奮闘ぶりは勿論ですけれども、ある意味ではかつての対ソ戦略の重点拠点の遺産が、土壇場で最後に役に立った、って面もあるんでしょかねえ

無題
Name 名無し 17/11/01(水)22:33:33  No.465926      
「おれのところは、敵さん一人も通さんよ」―

In memoriam 陸軍少将 濵田十之助

https://junosukehamada.wixsite.com/inmemoriam

こんなページがあったんですねぇ。しかも去年開設って

無題
Name 名無し 17/11/02(木)02:01:50  No.465943
>じっさいの所はどうだったのか?

とある守備隊は、民間人を逃がすために駅を死守していたのだが、感動した民間人がお握りを作って差し入れするために戻ってきた。
って話を昔聞いた。

無題
Name 名無し 17/11/02(木)08:25:17  No.465964
>とある守備隊は、民間人を逃がすために駅を死守していたのだが、感動した民間人がお握りを作って差し入れするために戻ってきた。感動した民間人がお握りを作って差し入れするために戻ってきた。
>って話を昔聞いた

     
うろ覚えだが、駐蒙軍の引き揚げ戦じゃないか。
確かその兵隊さんたちは市街で戦って時間稼いで、所定の時間が来たら命令通り引き上げて駅から撤収の予定が、駅に来てみたら引き揚げ者を満載した列車がまだ多数残っていたのを見て「戻るか」って市街に戻って駅を死守するラインで戦ってた話。
その時、列車に乗ってた民間人から子供がおにぎり持ってきたと。

無題
Name 名無し 17/11/02(木)15:53:13  No.465977
>うろ覚えだが、駐蒙軍の引き揚げ戦じゃないか。

すみません。正確に覚えていないです。
私の聞いた話をもう少し詳しく話すと

民間人撤退まで、駅を死守せよ!と頑張ったのですが
交代要員のあるソ連軍と違って、少数なため殆ど飲まず食わず寝る事も出来ず。
一方のソ連側も少数部隊の思わぬ反撃に困惑して、大規模部隊の進軍を停止。

日本側は、民間人を乗せた最後の列車が発車した瞬間に緊張の糸が切れて、あとは玉砕だと覚悟をしていた所に、お茶とお握りの差し入れで民間人が戻ってきて、再び獅子奮迅の働きをした。と聞きました。

このような話は各地で起こったと思います。

無題
Name 名無し 17/11/02(木)16:20:29  No.465981
>一方のソ連側も少数部隊の思わぬ反撃に困惑して、大規模部隊の進軍を停止

ソ連軍の教本だと、強固な抵抗にあった場合は、その部隊と交戦中の部隊はそのまま敵を拘束し、後続の第二・第三挺団がそれを包囲or迂回し後方に進撃、線戦ごと崩壊させるはずだが、どういう状況だったんだろう?

進撃が速すぎて後方部隊が追い付いておらず自隊しかいなかったのか、あるいは上にあるように湿地帯や山岳などの地形障害によって迂回などの機動が困難だったのか・・・

無題
Name 名無し 17/11/02(木)16:28:54  No.465982
>どういう状況だったんだろう?

想像ですみませんが、その駅を抜くのがソ連軍的に最短距離だったかと。
抵抗されたが相手が少数と侮って、迂回しなかったのが原因と思います。

無題
Name 名無し 17/11/02(木)16:37:54  No.465983
追加すると既に戦線が完全崩壊して、一つの駅を守っていただけの補給も一切無い小部隊の敵に対して、包囲殲滅戦はしないかと。

無題
Name 名無し 17/11/02(木)11:24:46  No.465967
こういう人達が史実よりもっと充実した装備だったら、きっともっと多くの人が助かったんだろうな

まあ、仮にチヌとかチト装備の戦車師団があってもこの時期の満州には残ってないだろうけど…

無題
Name 名無し 17/11/03(金)03:36:47  No.466020      
>史実よりもっと充実した装備

またまた加登川さんの回想からなんですが、氏が陸大卒業後、戦車についてはほぼ素人同然で戦車学校研究部主事&教官を命じられた際、言わば戦車道の師匠格としてイロハを教わったのが、先任の研究部員だった角建之という中佐さんだったんだそうで

この方、かつてソ連戦車隊に隊付留学して同軍の戦車用法を学んで帰って来たというユニークな経歴の持ち主で、、

「その教えるところはソ連の縦深戦略であり、戦車の集団突破用法であった。機甲部隊の充実はもとより、全軍機械化の線に向って今こそ邁進すべきときである、と彼は強調した」

…という、戦車・砲兵・装軌装甲歩兵輸送車の共同による、機甲戦力の整備論者であったんですとか

無題
Name 名無し 17/11/03(金)03:38:08  No.466021      
もっとも、角中佐さんの所論については「現状無視の理論倒れ」「恐ソ病患者」と謗るものもあり、また

「堅陣突破の重機動兵団だなどといっても日本にそんな戦車があるか。新しいチハ車は現在(略)いろいろ実験もしているが、これが最新鋭のものではないか。部隊の持っているのは九五式軽戦車(略)”豆”の軽装甲車だけでないか。大風呂敷をひろげてみても、重戦車、BT中戦車、T26軽戦車と粒をそろえているソ連軍のようなわけにはいかないのである」

…という「現場組の声」もあって、戦車学校内でさえ全面的には支持されなかったそうなんですが、これが「ノモンハン事件」直前の頃の状況であったんだそうな

無題
Name 名無し 17/11/03(金)03:39:19  No.466022      
一方ノモンハン事件の後になりますと、事件前からの計画も含めて、まずノモンハンの戦場から帰還した戦車第四連隊および第五連隊から、人員機材が供出されて陸軍公主嶺学校の教導戦車隊、戦車第九連隊が昭和十四年八月に新設され、同年には中国戦線でも戦車第十三・十四連隊が編成されているんだそうで

更に翌年には満州で戦車第十・第十一連隊が編成され、十五年三月には各々三個戦車連隊からなる第一・第二戦車団が満州東部国境付近に配置され、臨戦態勢に入っています

また、戦車部隊の”台所”についても、陸軍士官学校で戦車兵科の教育が開始されると共に、少年戦車兵制度が設けられ、昭和十四年十二月、千葉の戦車学校で第一期生百五十名の教育が開始

十五年十二月には、満州公主嶺にも戦車学校が新設、同年六月一日には戦車・機甲関係を主とした相模造兵廠が設立されているんですとか

無題
Name 名無し 17/11/03(金)03:46:13  No.466023      
加登川氏の同期生久保達夫氏の言い分ではないですが、後から見ればノモンハン後から「大東亜戦争」開幕までのこのわずかな期間こそ、日本機甲部隊にとってはある意味もっとも優遇されたというか、空前の大拡充が推進された時期ではあったみたいなんですな

そしてそんな最中、先に述べたように独の電撃戦が欧州を席巻する有様に衝撃を受けた日本陸軍が、昭和十五年八月に欧州の軍事視察団派遣を決定して、同年十二月に山下泰文陸軍中将さんを団長とする視察団が出発しているんですが、このとき戦車関係者として同行したのが、日本戦車の父とも言われる原乙生少将さんと、先の角健之大佐(当時)の二名であったんだそうで

視察団は約6ヵ月、主に独伊で視察研究を続けるんですが、その報告書は今後の日本の戦備は

「陸軍航空の飛躍的拡充を図り(略)新たに機甲大兵団を建設して全地上軍の骨幹決戦戦力」

無題
Name 名無し 17/11/03(金)03:47:19  No.466024      
…とすること、と提言しているんだそうでして、加登川氏曰く

「航空と機甲の飛躍的拡充が絶対に必要である(略)軍備の充足のできるまでは戦争に巻き込まれるな。国力の判断を誤ってはならない」

…という結論に達しているんだそうで

ただ一方、同報告書を取りまとめた原乙生氏によれば、

「時局既に切迫し、満州においては関特演を発令せられ(略)太平洋の波高く、金玉の視察団の報告も当局の関心を引く余裕なく、放置されて大東亜戦争に突入するに至ったのは返す返すも遺憾である」

…という次第で、結局その後本格的な日本機甲部隊も創設されずじまいで終わるわけですが、ある意味機甲部隊云々より、もっと大事なことが聞き逃されてしまったんじゃ(

無題
Name 名無し 17/11/03(金)08:04:54  No.466029
> 後から見ればノモンハン後から「大東亜戦争」開幕までのこのわずかな期間こそ、日本機甲部隊にとってはある意味もっとも優遇されたというか、空前の大拡充が推進された時期ではあったみたいなんですな

先にも述べましたが、海軍が陸軍支援のため建艦計画を一年遅らせるレベルで、大規模な予算と資源を陸軍に譲渡した時期ですね。
末端では仲が悪くて有名だけど陸軍省・海軍省だとそこまで悪くない。

無題
Name 名無し 17/11/03(金)21:43:17  No.466071      
>末端では仲が悪くて有名だけど陸軍省・海軍省だとそこまで悪くない。

むしろ末端こそ仲がいいのが有名なんだが・・・
末端の仲まで悪かったら戦場やらでどうなるかわかるはず

無題
Name 名無し 17/11/03(金)12:10:36  No.466038      
ファインモールド 1/35 帝国陸軍九七式中戦車 新砲塔チハ 相模造兵廠 (限定生産)
>戦車・機甲関係を主とした相模造兵廠が設立されているんですとか

今でこそ戦車といえば大洗が有名になったけど相模原こそ戦車の里と言いたい。
陸上装研も工場も戦車道路もあるんだよ?。(by中央区矢部町民並感)

無題
Name 名無し 17/11/03(金)21:45:06  No.466072      
>>戦車・機甲関係を主とした相模造兵廠が設立されているんですとか
>
>今でこそ戦車といえば大洗が有名になったけど相模原こそ戦車の里と言いたい。
>陸上装研も工場も戦車道路もあるんだよ?。(by中央区矢部町民並感)
んだんだ。自分のバッチャが 尾根緑道を疾走する戦車を毎日みてたそうだ。疾走するのでとても怖かったと言ってた。

いまでも、基地のそばの路地に当時の引き込み線の一部がのこってるですよ。

無題
Name 名無し 17/11/03(金)16:57:13  No.466046     
先述の佐藤賢了サンが陸軍省軍務局軍務課長だった時の話だそうなんですが、昭和16年6月頃、海軍の石川信吾軍務課長が訪ねて来まして

「(石川)陸軍は北に向かう準備を始めるようだが(略)このまま対ソ戦にずるずる引きずり込むんじゃあるまいな」

「(佐藤)実はおれもそれを心配しているんだ。陸軍部内には(略)狂気じみた対ソ戦論者もいるから貴様のいうようにならぬとは保証できない」

「おいおい、冗談じゃないぜ。対ソ戦ではまたまた陸軍のひとり角力になるぞ」

「対ソ戦ともなれば満州事変や支那事変とは違う。日露戦争と同じだ。大いに海軍の協力、いな陸海軍の協同作戦が必要じゃないか」

無題
Name 名無し 17/11/03(金)17:01:36  No.466047      
「日露戦争とは情勢が違う。軍艦はシベリア鉄道を走れないし、海軍の飛行機はシベリアの荒野につかえないよ」

…なんて問答になったんですとか

因みに石川サンは当時からIJN内でも屈指の強硬な南進論者として知られていまして、佐藤サン曰く

「石川課長は南部仏印に飛行場や海軍基地を設定しなければ、いざシンガポールというとき、ニッチもサッチもいかないことを大いに主張した(略)私は少しひやかし気味で言った。

『すると貴様は南部仏印進駐を促進することにより、陸軍の足を引っぱろうというのだなあ』

石川はあえて否定しなかった」

無題
Name 名無し 17/11/03(金)17:02:28  No.466048      
「私はさらに言った。『そんなに心配するな(略)万が一、対ソ戦をやるにしても、かえって南部仏印進駐を急いで、フトコロを広くしなければならないんだ。つまり小東亜共栄圏を作らにゃならん」

『それでは南北いずれに向かうにしても南部仏印は必要なのだなあ。貴様を信頼するぞ。北進の勢いを食い止めて南部仏印進駐を頼むぞ』」

…とのやりとりがあったそうなんですが、陸海軍それぞれの軍務課長という高級官僚同士が、「おれ、貴様」の仲で、お互い腹を割った話し合いをしていた、というのはちょっと微笑ましいぐらいの感がしなくもないですな

ただ、その内容の方はその後の展開を知ってる今からみると、些か笑えないモノではありますケド…

無題
Name 名無し 17/11/03(金)21:36:40  No.466070
後のアレコレを見ていると「ノモンハンの悲劇を繰り返してはいけない」とか
あの辻参謀が言ったりしてるわけで血で贖った戦訓は重要視されてるよね
戦訓から色々な知見を得ても実行する国力面で無理があったところは辛いとこだけどさ

対戦車兵器をもっと配りたいが生産力的に難しいので火薬を配布するから
自分達で説明書を参考に対戦車兵器を制作するんだとかいう話を見た時は辛かった
ついでに味方航空隊と砲兵は頑張るだろうが当てにはするなって文もあって貧乏は辛いなって思った

無題
Name 名無し 17/11/04(土)00:50:53  No.466083
>昭和15年から孫呉に永久駐屯が決まった第一師団は
>国境からシベリア鉄道までの湿地帯100キロを急速進軍する訓練を死ぬほど積んだと言う。
第一師団がレイテに転用された時、進軍が迅速でリモン峠の上を取れたのって
この訓練のおかげなのかな?

無題
Name 名無し 17/11/05(日)04:56:11  No.466138
しかしながら、陸軍さんはこれだけ熱心に対ソ戦の研究をやっておきながら、いざソ連の満州侵攻が始まると呆気ないほど総崩れになってしまったね。
ソ連の対日戦準備に関する情報収集などは上手くやれていなかったのだろうか?
陸軍の諜報部門は世界水準から見ても中々優秀な実力を持ってたはずなんだが…。
もしも事前に開戦時期と投入兵力規模が判明していれば、本土からの援軍は無理でも、民間人を後送するための時間は作れただろうに。

無題
Name 名無し 17/11/05(日)13:49:10  No.466156      
>この訓練のおかげなのかな?

大岡昇平せンせいの「レイテ戦記」を読むと、第一師団のオルモック上陸~リモン峠以北の進出時には、片岡董師団長自らが主力に先発しているんですが、道中は殆ど輜重隊のトラックで移動していて、師団長よりさらに先行していた捜索第一聯隊と共に、悪路・渡河の描写はあるものの、一旦リモン峠を越えて北のカリガラ湾海岸で米軍部隊に遭遇するまで、ほぼ乗車で迅速に移動できていたようです

同師団はマニラ出発の際、トラック140輌を新たに配備されているんですが、オルモック上陸の際も幸運に恵まれコレを含む揚陸物資の9割以上が無事陸揚げされており、結果としてリモン峠まで主力を含めて迅速に移動できたのも、この機動力ゆえ、という面もあるんじゃないでしょか

無題
Name 名無し 17/11/05(日)13:51:39  No.466157      
>辻参謀

元皇族の閑院宮春仁王、陸軍少将で終戦時は戦車第四師団長だった方の回想なんですが、昭和9年、陸軍騎兵学校教官だった頃の思い出として、

「そのころ土井明夫少佐が、ソ連駐在から学校に転任してきた。赤軍の実力の軽視すべからざるをしきりに説いた」

「私たちは意気軒昂な時代であったから、土居さんに”恐ソ病患者”という失礼千万なニックネームを奉って、いささかこれを軽視した(略)土居氏の観察は正しく、所説もまた適切なのだが、いたずらに敵を過大評価するのは敗北主義に通ずるというような観念なのであった」

…なんて語られていたりします

無題
Name 名無し 17/11/05(日)13:52:03  No.466158      
この土井明夫さん、「ノモンハン事件」当時はモスクワの日本大使館で駐在武官を務めていたそうなんですが、ちょうど第一次ノモンハン事件終了後の昭和14年6月中旬に一時帰国していらっしゃいまして、その道中、シベリア鉄道の車窓からソ連軍が着々と東方に増援しつつあるのを認めて、いったん満州で新京に立ち寄った際、関東軍の植田軍司令官らに少なくとも狙撃二個師団、重砲八十門が増援に向いつつあり、ソ連の決意は並々ならぬものなので、内地に増援を求めるよう警告しておられるんだそうで

ところがコレに噛み付いたのが辻作戦参謀で、

「弱音を吐くと土居さんの命は危ない、若い者がいきり立って殺すかもしれません」
「ソ連兵は支那兵より弱い」
「われわれはソ連軍の戦車を新京に持ってきて、戦勝祝賀会をやる計画だ」

…と食ってかかって来たんですとか

無題
Name 名無し 17/11/05(日)13:53:52  No.466159     
土居氏も「このままやったら負けるに決まっているぞ!」と怒鳴り返し、また帰国後も省部主脳に来るべき危機の重要性を説いたものの、はかばかしい反応を得られないうちに、ソ連軍の大攻勢が始まってしまったんだそうで

因みにかつて陸軍参謀部ロシア課所属で、当時土居武官の下で補佐官としてモスクワ勤務だった林三郎陸軍大佐さんによると、ノモンハンでの情報面での問題として、

「関東軍作戦参謀とロシア課とでは、ソ連軍の動向をはかる物指しが、全く違っていたということです。関東軍作戦参謀は日本陸軍をもって物指しとし、ロシア課はソ連軍の実情に則した物指しを持っていたのです」

無題
Name 名無し 17/11/05(日)13:54:17  No.466160      
「関東軍参謀は、駄馬方式による陸路兵站の限度は200ないし250キロという、日本陸軍の兵站常識を盾に取り、鉄道末端駅から700キロ以上も遠く離れているノモンハンの前面に、ソ連軍が複数の師団を集結させるようなことはありえないと判断し、八月下旬ソ連軍から大反撃を受けるまでそのような判断を固持して」

…いた、なんて事があったんだそうな

「ロシア課は、シベリア鉄道によるトラックの集団輸送状況から推して、ソ連軍の輸送はトラック方式であるとして、ソ連軍の反撃勢力をほぼ正確に判断したのです」

…との事なんですが、終戦末期の対ソ戦とはまた情勢は異なりますが、部内で正確な情報を得ている人材がいて、その情報が伝えられていたことと、それがその後の有効な対策に繋がるかどうかは、また別問題であったってことなんですかねえ

無題
Name 名無し 17/11/05(日)20:29:54  No.466181
人間追い詰められると自分に都合の悪い知らせはそんなの聞きたくない!ってなるからね

そして好調な時にはそれに水を差す意見は耳に入らないものと決まっている

無題
Name 名無し 17/11/06(月)16:22:13  No.466232 
ノモンハンの時は確かソ連側の偽装情報工作とかもあったんだっけ
日ソが直接交戦してない時代でも、情報戦自体はずっと続いてたんだろうな

無題
Name 名無し 17/11/07(火)18:02:10  No.466292      
土居さんはノモンハンの翌年、ロシア課長を経て参謀本部作戦課長に就任されておるんですが、その在任中、作戦課の部下たちに命じた種々の作戦見積もりが軒並み一向に提出されない、という奇妙な事態が生じてしまったんだそうで

なにせエリート揃いの参謀本部作戦課で、仕事の能力に不足の人材などまずいない筈ですので、不審に思った土居氏が調査したところ、遅延の原因は土居氏の部下に当たる服部卓四郎作戦班長が後輩たちにサボタージュを命じていたことによるもの、と判明したんですとか

この抗争が生じた原因は、対米英開戦慎重派の土居氏と強硬論者の服部氏の意見の相違など複数あったようなんですが、その中の一つに、服部氏が「弟分」の辻正信氏の作戦課への転入を希望したところ、かつてノモンハン事件の際辻サンに脅された土居氏が即座にコレを却下した、なんて事も含まれていたんだそうな

無題
Name 名無し 17/11/07(火)18:03:34  No.466294      
ともあれ、対立が決定的になるに至って、遂に土居さん、上司の田中新一作戦部長に自分を取るか、服部サンを取るのか直訴に及ぶんですが、実際の所、田中部長以下の「作戦部門」の中あって、情報畑出身の土井氏は寧ろ異端の存在であって、部内に味方はほぼ皆無という状況下、結局田中部長の決定は土居氏の更迭と服部班長の課長昇格、という所に落ち着いたんですとか

そして土居さんの転出と入れ違いで早速辻サンが作戦課に復帰し(兵站班長)、後に作戦班長の要職に就くんですが、この田中作戦部長、服部作戦課長、辻作戦班長と言うIJA作戦畑の要職を占める三人はまた揃って陸軍対米強硬派の代表格でもありまして、日本の南進政策、及び対米英開戦に至る流れに大いに影響を与えているんだそうで、かつて辻氏の作戦部門復帰に反対した土居さんにしたらソレ見たことか、ってところかもしれませんですな

無題
Name 名無し 17/11/07(火)18:05:02  No.466295      
ただ、日本の敗戦時、中国に在った土居氏は蒋介石=サンの国民党政権に請われて国防部顧問に就任するんですが、その任務は「対ソ連グループ」の組織運営であったんだそうです

土居氏自身が上海に本部を設置して活動していた他、東京の中国国民党代表部にも「分家」を設置する為、かつて日本軍で対ソ連作戦に関わった陸軍軍人で、まだ大陸に残っていた人材を日本へ早期復員させていたりもするんですが、面白いのがその中に服部卓四郎サンも含まれていたんですとか

帰国後の服部サンはかつての対米英強硬派であることは十分知られていたものの、その対ソ知識や経験を買われて、GHQと協力しての対ソ戦の研究にも携わり、その後の日本再軍備の流れにも大きく関わっていく事になるわけでして

また一方の土居さんの方も、かつての対ソ情報専門家、という立場からソ連に目を付けられ、戦犯指定の要求が出されていた所を、米側の働きかけで免れているんですが、土居氏が帰国した後、国民党国防部で氏の後釜に坐ったのが辻サンだったりするんだそうな

無題
Name 名無し 17/11/07(火)18:06:02  No.466296      
ある意味芸は身を助けるというか、嘗ての対ソ戦エキスパートとしての経歴が、これらの方々が敗戦・IJAの解体を経ても新たな働き場所を得られる助けになり、その過程でかつての内紛相手とも同じパトロンの下で働くことになった、というわけみたいなんですが、辻サンなんかも対連合軍戦犯に指定される可能性は大であったにも関わらず、後に国民党軍支援、対共産のための工作活動に携わる為に帰国を許されているんですとか

ただ、コチラはやはり一筋縄で行かない人物というか、晴れて天下御免の身となった辻サンはその後米側と協力しての日本再軍備に活動する服部サンらとは距離を置き、むしろ1951年頃から自身の関東軍時代の対ソ戦研究をベースにしたと称して、ソ連の国力・軍事力の対米優越をとき、「(対ソ戦争での)米国必敗、(ソ連を背後とする)日本共産党との協調」を主張して、アメちゃん側を困惑させたり激怒させたりであったんだそうで

無題
Name 名無し 17/11/07(火)18:09:49  No.466297      
もっとも、辻サンも1955年に中国・ソ連の視察旅行に出た際、ソ連の内情を実際に見聞してみて、中ソの連携が強固でない事、ソ連国民に厭戦気分の強い事、農業事情その他の基礎国力に不安を抱えている事等を知ると

「ソ連が立ち直っていない今こそチャンスだ。日本はソ連より前に軍備を増強して、自衛中立の態勢を確立しておくべきだ」

…と主張し始めていたりするんだそうな

そして辻サンがこの視察結果を報告したの先というのが、米CIAとも協力関係にあった「大陸問題研究所」という民間組織なんですが、その所長が土居明夫さんだったりするんですよね

人間関係もその立ち位置も所属先の変転具合も複雑怪奇極まれり、という所なんですが、ある意味日本陸軍の長年の対ソ戦略というのは、IJA消失後でさえ形を変えて日本の政策に深く影響を与え続けてた、ってことなんですかねえ

引用元: https://may.2chan.net/39/res/465680.htm
 

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