航空自衛隊防空史8
空自の高射部隊その1 ナイキミサイル争奪戦編

文:nona

 今回は地対空誘導弾ナイキの誕生と、空自の導入までの陸自とのいざこざについて。

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航空自衛隊入間基地で展示される地対空誘導弾ナイキJ

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 地対空ミサイルの誕生

 
現代の防空兵器の主力であり、戦闘機の迎撃をすり抜けた敵機に対する、最後の砦である地対空ミサイルの起源は、第二次世界大戦中のドイツにありました。

 
当時のドイツでは遠隔操作による誘導兵器開発が盛んで、バイエルン自動車工場(BMW)に身を置きHs293の開発に携わったヘルベルト・ワグナー教授は、1941年に対空兵器として使用できる無線誘導の有翼ロケットの実験機を試作しました。

 
ただし、当時のドイツ空軍は誘導兵器は攻撃兵器に用いるべき、との方針があり、防御兵器であるワグナー教授の発明に関心を持ちませんでした。

 
彼の研究が日の目を見るのは1943年に入り、ドイツ国内への戦略爆撃が開始された後のことでした。高射砲部隊の強化に迫られたドイツ空軍はワグナー教授の研究にようやく価値を見出し、ヘンシェルと開発契約を結ばせます。


 
Hs117シュメッテルリング

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http://www.airmodel.de/shop_content.php?language=en&coID=506&
模型で再現されたHs117(とⅢ号戦車を改造した自走発射機)

 
こうして誕生したのがHs117シュメッテルリング(蝶あるいは蛾)でした。重量420kgの弾体に近接信管と発電タービンを備えた左右非対称の機首、短い後退翼、胴体上下の加速用ブースターが特徴的な対空誘導弾です。

 
発射直後は胴体上下に取り付けられた固体燃料ブースターで一気に加速上昇し、ブースターを切り離した後は炭化水素と硝酸をベースとする液体燃料ロケットで推進します。射程は16km以上、射高は10km、時速は850kmと推定され、大型機から空中発射した場合、射程はさらに延伸されました。

 
誘導はHs293と同じく手動指令照準線一致方式を採用し、地上の操作員は目標を照準器に捉えながらHs293が照準の中心に来るように遠隔操縦し、精度半径8mとされる近接信管で起爆しました。

 
試射においては59発中39発が失敗し、これは期待した性能を下回るものでしたが、連合軍の空襲が激しさを増しており、1945年2月の配備を目指し開発が進められます。ところが配備直前に部品工場が空襲を受けたことで、実戦配備には至りませんでした。

 
またドイツ軍はHs117以外に、ライントホターと呼ばれた音響信管付きの対空誘導兵器(Ⅲ型で射程10000mを計画)V-2ロケットから発展したヴァッセルファル(上昇限度20000m)、メッサーシュミット・エンツィアン(上昇限度14000m、弾頭450kg)モーヴェ(射程2000m)、など多数の対空誘導弾を開発しています。ただしアイディアを精査し開発数を絞る余裕がなかったのか、どれも実用化に至りませんでした。


 アメリカで完成を見た地対空ミサイルシステム

 
1945年のドイツ無条件降伏により、誘導兵器の開発に携わったドイツの技術者は米ソに渡り、両国でミサイル兵器の開発を再開、前述のワグナー教授はアメリカ海軍に協力しています。

 
このアメリカでは1946年から地対空ミサイルの試射を開始され、冷戦激化により開発速度は加速し。その後地対空ミサイル研究はウエスタン・エレクトリックカンパニーを主契約者として、ベルやダグラスが参画するナイキミサイル計画へ発展し、1951 年11月27日に標的の撃墜に成功します。

 
そして3000発の実射試験(数値は航空自衛隊史による)の末、1953年12月にメリーランド州フォートミードへ、アメリカ初の地対空ミサイルMIM-3ナイキ・エイジャックス中隊の配備されました。

 
このナイキ・エイジャックスは、大型のナイキ・ハーキュリーズへの更新や、SAGEシステムとのリンクをうけて強化されながら、最終的に130個中隊ものナイキ中隊が編制され、アメリカの大都市および主要軍事基地周辺に配備されました。


ナイキ・エイジャックス地対空ミサイルシステム

 
最初のナイキとなったMIM-3ナイキ・エイジャックスは固体燃料と液体燃料による2段式のミサイルで2段時の最大射程は80km、単段時で40kmでした。

 
誘導方式は自動指令照準非一致方式で、捜索レーダーが捉えた目標を目標追随レーダーTTRと目標測距レーダーTRRで追跡、さらにミサイル追随レーダーMTRが自システムから発射されたナイキを追跡し、地上の計算装置はミサイルと目標が交錯するよう誘導指令を送り続け、目標付近で近接信管、又は地上からの指令で起爆しました。


 陸上自衛隊とのナイキ争奪戦

 
アメリカがミサイル兵器全般の対外供与を1957年まで規制したことは、第5回の記事で解説したとおりですが、いざ供与が許されると、今度は陸上自衛隊と航空自衛隊でナイキの帰属を巡って対立を深めることになります。

 
1958年3月の日米会談では、陸自は野戦防空及びナイキ以下SAMを担当し、空自は有人機と無人戦闘機型SAMであるボマークを装備する、という、アメリカ陸空軍の住み分けに倣った目安が示されます。

 
しかし空自は、独自の高射部隊の創設を考え、旧軍の高射砲部隊出身者を採用するなど下準備を行っていましたから、ナイキを陸自に渡すつもりはありませんでした。

 
この時期になされた議論として、空自が「ナイキは戦闘機と連携してこそ力を発揮する」と主張すれば、陸自は「ナイキはホークシステムや高射火器と連携したほうが効果的」と主張。

 
逆に陸自が「ナイキはアメリカにおいては陸軍の装備であるから、平素から彼らと関係の深い陸自が取得すべき」、とすれば空自は「西ドイツのように空軍がナイキを保有する例も多い」と反論。

 
さらにはナイキはF-104と似ているので、同機を運用する空自のほうが有利、と主張することさえありました。


 
ナイキ導入でリードした陸上自衛隊

 
しかしリードしたのは陸上自衛隊。陸自には野戦防空用の90mm高射砲M1、75mm高射砲M51の運用経験があり、ナイキ導入の下準備が既にできている、との主張がありました。また90mm高射砲の射撃統制装置M33はナイキ器材に類似し、要員教育に役立った、としたのです。

 
こうした事情から、ナイキ導入の準備を目的に編制された第一ロケット実験訓練隊は、陸自の高射学校が設置された千葉の下志津駐屯地に設けられました。

 
さらに1962年にナイキミサイルが日本に到着した時には、陸自が運用することになり、4個中隊の中隊のうち3個は陸自の基地内に建設されました。

 
一方で1962年秋にアメリカで実施されたの射撃訓練では、航自隊員が陸自隊員へ一時転官という形で参加するなど、空自もナイキを諦めませんでした。

 
現場の部隊建設が進む一方で、防衛庁内では幕僚同士が争い、議論は平行線を辿っていました。


 
年の瀬の最終決定

 
この論争は1962年12月26日になり防衛庁長官がナイキの所管を「空自へ移す」という決定で、ようやく落ち着くきます。

 
この決定からしばらくは陸自が部隊建設に携わったものの、1964年3月31日を持って陸自でナイキ4個システムを運用した第101高射大隊と第301高射搬送通信隊が廃止され、翌4月1日には大隊長以下759名が航空自衛隊に転官、部隊は航空自衛隊第1高射群へ改編されました。

 
このときに空自の高射科は都市圏など広域防空、陸自の高射特科は部隊や基地の地域防空と住み分けが決定され、弾道ミサイル防衛が任務に加わった現代まで引き継がれています。

 
余談となりますが、この後も陸自はホーク地対空ミサイル、75mm、40mm、35mmといった多層の高射装備を保有した一方、空自の基地防空は1980年代まで12.7mm4連装対空機関銃だけ、という危うい状況が続きました。


 
次回は配備後のナイキミサイルについて解説いたします。


 
参考

誘導弾導入をめぐる日米の攻防(航空自衛隊幹部学校教育部戦略・戦史教官室 岡田志津枝 2009年3月)
P32

日本の防衛戦力③航空自衛隊(読売新聞社編 ISBN4-643-87032-X 1987年5月14日)
P92~96

対空戦(イアン・V・ホッグ著 陸上自衛隊高射学校訳 ISBN4-562-01246-3 1982年5月30日)
P151~163

世界のミサイル・ロケット兵器(坂本明 ISBN978-4-89319-198-4 2011年8月5日)
P112

航空ファン2005年3月号 航空自衛隊の50年を振り返って その15(久野正夫 文 文林堂 編  2005年3月)
P94

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P226~233

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