航空自衛隊防空史3
F-86F「旭光」その1 緊急発進編

文・写真:nona

 
*今回からタイトルを変更しました。

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埼玉県入間基地で展示されるF-86F戦闘機

 F-86F「旭光」について

 
F-86Fは1952年3月19日に初飛行したF-86セイバーの発展型。「旭光」とは当時の航空自衛隊での公式愛称ですが、現場では専ら「ハチロク」と呼ばれました。アメリカ空軍では数多い派生型セイバーと区別するため、F型のイニシャルにちなんだ「Fox」という別称も用いています。

 航空自衛隊では1955年からアメリカから180機の供与をうけ、三菱重工で1961年までに300機が生産されています。供与と国内生産を合わせた調達数は480機ですが、供与機の一部は要員の不足から死蔵されており、1964年までに45機をアメリカへ返還されました。

 
初期に供与された28機の25/30仕様機は、多数派の40仕様機とは計器配置や飛行特性が異なり運用に支障が、ということでIRAN時に40仕様に改修され、さらにRF-86F偵察機やブルーインパルス専用機となったようです。

 
40仕様機に対しても全ての機体ではないものの、TACAN戦術航法装置、AIM-9Bサイドワインダー空対空ミサイルの運用能力、主翼補強などアップデートが実施されています。

 
航空自衛隊のF-86Fの運用期間は27年で、1982年にラストフライトを迎えました。退役機のうち、供与機を中心とする150機はアメリカへ送られ、QF-86無人標的機へ改造されました。アメリカで検分された退役機の状態は「ビューティフルコンディション」と評価されています。

 
悪口をほとんど聞かないF-86ですが、航空事故で75機のF-86FおよびRF-86Fが破壊され、1機が大破、46名が殉職しており、1971年には全日空機と空中衝突する事故が発生し民間人 162名が死亡(F-86Fのパイロットは脱出)する重大事故も発生しています。


 
F-86Fのデリケートなエンジン始動

 
F-86Fは航空自衛隊で初めて警戒待機任務に就いた機体でもありますが、5分以内が求められた緊急発進において、J47-GE-27ターボジェットエンジンの始動は少々厄介なものでした。

 
J47-GE-27は総合電子燃料管制方式が採用され、(おそらくは)自動スタートが可能ですが、機械がまだ信頼に足るものでなかったのか、現場では手動でエンジンを始動させていました。

 
特に燃料流量の調節は、流量が規定よりも少ないといつまでもタービン回転数が増えず、逆に多いとエンジンが火を吹いて壊れる、という具合でたいへんシビアなもの。始動にあたっては整備員がコクピットに身を乗り出し、回転数が安定するまでスロットル操作を担当しました。

 
余談ですが、アメリカ空軍ではF-86が電源設備を持たない場所へダイバートした際に、エンジンを再始動させるための手段として、アーティフィシャルリスピレーション(人工呼吸)なる荒業を編み出しています。

 これはエンジン停止状態のF-86の吸気口へ、他機のジェット排気を送り込みタービンを回転させる豪快なもので、実際に朝鮮戦争で使用されました。


 不足した上昇速度

 
上昇速度は迎撃機にとって重要な性能ですが、F-86Fの上昇速度はさして速いものではありません。F-86Fのマニュアルを元に想定した、F-86の40000フィート(約12000m)までの上昇時間は、概ね下記のとおりでした。

・機内燃料最小で約8分
・機内燃料最大で約16分
・機外に200ガロン増槽2個で約30分(航空自衛隊のF-86Fはこの状態で発進待機をとる)

 
ちなみにライバル機MiG-15Bisの場合、12000mまで最短5.5分(10000mまで5.3分とする資料もあり)と、差をつけられています。

 
F-86のJ47エンジンの推力は2680kg、一方のMiG-15のVK-1エンジンも2700kgとエンジン性能の差はないものの、F-86がMiG-15よりも1.5tも重いことが足かせとなっていました。

 
上昇速度が不足したF-86Fですが、それでもスクランブル発進時に編隊長がミリタリー出力(フルパワー)を用いることは基本的にありません。それでは僚機が追いつけないのです。

 
さらに平時には近隣住民への騒音の配慮が求められ、上昇旋回中に遠回りを強いられることがありました。松島基地の部隊では市街地への騒音を減らすため、その時ごとの最短の上昇ルートが使用できず、常に海側を旋回しながら上昇したのです。


 不明機への接近

 
F-86Fは捜索レーダーを搭載していないものの、目視により通常大型機で20マイル(37km)以上、F-86など小型機で15マイル(28km)の距離で発見できました。

 
低中高度を飛ぶ不明機はモヤや雲で視界が阻害され、発見が遅れる場合もありますが、逆に35000フィート以上であれば、たいていはコントレイル(飛行機雲)を引くため、より遠方から発見できることもありました。

 
もちろん目標を見つけたとして、F-86Fがそれをめがけまっすぐ飛ぶわけでない、ということは前回解説したとおり。不明機がジェット機である場合、F-86Fとの速度差がほとんどないために、むやに接近しても逆に引き離されてしまうのです。

 
仮に不明機の正面から迎撃する場合、ほんの一瞬ですれ違って、旋回して再び追いかけなくてはならず、後方から迎撃する場合は、まず追いつけません。

 
そこで迎撃管制官の指示する飛行コースに沿って、側面へ回り込むように接近するのが、もっとも適当な方法でした。

 
しかしこの場合も、不明機の変針によってコースをその都度手動で再計算する必要があり、コース変更が間に合わず、迎撃に失敗する恐れもありました。ソ連機もそれを知ってか、ジグザグ飛行でF-86Fをかわすこともあったようです。


 不明機の識別

 
F-86Fが不明機への接近に成功した場合、レーダーサイトへ不明機の機種や国籍を伝えます。もし不明機の正体がソ連の軍用機であり、領空へ接近し続ける場合は、国際緊急周波数を用い、パイロット自身が片言のロシア語で警告することになっていました。

 
同時に対象機の写真撮影も実施されます。撮影にあたって距離2000フィートまで接近し、操縦桿から手を離して両足で挟み、片手で一眼レフカメラを構え対象を撮影しました。カメラは単焦点200mm、固定絞り、フィルム自動巻きで、片手で操作できるよう調整されていました。


 砲口を向けるソ連爆撃機

 
写真撮影のために接近するF-86Fに対し、砲塔を持つソ連軍機は、砲口をF-86Fへ指向して威嚇する場合がありました。現在であれば外交問題に発展しかねないことですが、当時は割とよくあること。

 
当時日本周辺で見られたTu-16、Tu-95、M-4バイソンなどのソ連爆撃機は23mm連装機関砲NR-23 を据えた遠隔操作動力砲塔を3基有し、尾部に射撃管制レーダーも備えられました。Tu-16の場合は機首に固定機関砲も有しています。

 
当時の西側爆撃機は防御火器の縮小廃止傾向にありましたが、一方のソ連空軍は依然として防御火器を強く要望し、F-86Fにとっては深刻な脅威だったのです。

 
こうした威嚇をうけ、あるパイロット(田中石城氏)はその驚きから、とっさに自機を回避させてカメラも落としかけたそうで、別のパイロット(岩崎貴弘氏)は恐怖を覚えるよりも先に腹が立って仕方がなかった、と回想しています。


次回はF-86Fの空中戦について解説いたします。


 
参考

世界の傑作機 No.93 ノースアメリカンF-86セイバー (文林堂 ISBN4-89319-092-X 2001年5月5日)
P6,P32~34,P46,P64,P98~102

スクランブル 警告射撃を実施せよ(田中石城 ISBN4-906124-26-7 1997年4月27日)
P8~26,P69~77

T.O.1F-86F-1 Flight Manual F-86F (1960年5月27日)
http://www.avialogs.com/index.php/item/56117.html
ページA112,A117,A118

世界の傑作機 No.97 MiG-15 ファゴット MiG-17 フレスコ(文林堂 ISBN978-4-89319-097-0 2003年1月15日)
P32

オスプレイ軍用機シリーズ38 朝鮮戦争航空戦のエース(ロバート.F.ドア著 藤田俊夫 訳 ISBN4-499-22817-4 2003年10月10日)
P100

最強の戦闘機パイロット(岩崎貴弘 ISBN4-06-210672-8 2001年11月20日)
P183~186

航空自衛隊五十年史資料編
P256-260,P317-323