航空自衛隊防空史2
自動化以前の迎撃管制システム

文:nona

 
今回は1950~60年代に航空自衛隊で使用された手動の迎撃管制システムを解説いたします。現代コンピュータが瞬時に処理できる作業を、隊員の神業的な職人芸で、というのがこの時代の迎撃管制でした。

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http://livelymorgue.tumblr.com/post/49512032968/may-25-1955-for-an-air-defense-command-story
Photo: Geore Tames/The New York Times
1955年5月25日に撮影されたバージニア州マナッサスの第647管制警戒隊のオペレーションルーム。この時代のアメリカ空軍や航空自衛隊では、レーダーが探知した目標の航跡を、プレキシガラスの航跡表示版(プロッティングボード)に要員が手書きで記入した。

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 不明機の発見

 
不明機対処の第1段階である「発見」は、当時アメリカに統治されていた沖縄を除く、日本各地24箇所の監視所(SS: Surveillance Station)と迎撃監視所 (ISS: Intercept Surveillance Station)、いわゆるレーダーサイトが担いました。

 
航空自衛隊へのサイト移管が開始された1958年当時のレーダーサイトでは、AN/FPS-20二次元捜索レーダーおよびAN/FPS-89測高レーダーへの換装が進行し、全天候対応の硬質レドームへ格納されています。

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http://radomes.org/museum/equip/fps-20.html
レドームに格納されたAN/FPS-20Aレーダーの透視図

 
このAN/FPS-20の最大探知距離は231海里(427.8km)と、スペック上は広大な防空識別圏をカバーできるものですが、探知目標の高度は計測できないため、別途AN/FPS-89測高レーダーが高度を測定しました。

 
これらレーダーから伝送される情報は、レーダーサイト施設内のオペレーションルームにて要員が監視しました。

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http://www.c-and-e-museum.org/Pinetreeline/metz/pm-56.html
http://www.c-and-e-museum.org/Pinetreeline/metz/photos/metz325.jpg
1956年春に撮影されたアメリカ空軍のオペレーションルーム。最前列にPPIスコープが設置された。

 
オペレーションルームは半地下化されたレーダーサイトの指揮所であり、最前面に航跡表示板(プロッティングボード)が設置され、4または5列にわたり各種コンソールが設置されていました。最後列はトップダイアスと称され、そのシフトの責任者が着席し、緊急時には警戒群司令もここで指揮を執ることになってたようです。

 
AN/FPS-20のPPIスコープは第1列に置かれ、これを常時2名の要員が監視しました。2名で監視するのは見落とし防止のためですが、それでも単調なスコープの映像で集中力が落ちるため、新人が監視する場合は1時間で交代させる、といった配慮も求められました。

 
第1列の監視員が何かしらの反射波を発見すると、インターホンでプロッターと第2列の敵味方識別の担当員へ通報します。

 
プロッターとは航跡表示版やミッションボードへの記入を担当する要員で、航跡表示版に不明機の航跡を逐次書き込みました。

 
ちなみに、プロッターは他の要員の視界の妨げにならないよう、航跡表示板の裏側から書き込む必要があり、文字を鏡文字で書く技能も求められたようです。

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http://ethw.org/The_Gilbert_and_Marshall_Islands_-_Chapter_10_of_Radar_and_the_Fighter_Directors
National Archives photo 80-G-326751
航跡を記入するアメリカ海軍のプロッター。


 不明機の識別

 
不明機の識別は、運輸省に提出された飛行計画書の照合や、二次レーダーからの質門波送信で実施しますが、当時の航空機は航法装置が未発達で、計画通りに飛行できない場合も多く、敵味方の識別には相当な時間を要したようです。

 
また、予定された帰投時刻を過ぎてから戻ってくる海自機や、めったに飛行計画を提出しないアメリカ海軍の空母艦載機など、味方軍用機であっても、情報共有の不十分で判断に悩むことありました。

 
敵味方識別が完了すると、味方機や民間機の場合は航跡を白色で、不明機のままであればオレンジ色を用います。(敵機は赤色ですが、平時には用いません)

 
このオレンジ色の航跡(敵味方不明機)が領空侵犯すると予測される場合、各基地で警戒待機中のF-86戦闘機へコクピットスタンバイやバトルステーションなど、緊急度に応じた発進準備を予告指示し、不明機が一定のラインを越えると離陸が指令されました。

 
ただし、急を要する場合は各基地への事前連絡はなく、即時発進(ホットスクランブル)を指令します。


 迎撃

 
発進指令をうけたF-86が離陸後、所属基地の管制区域を離れると、オペレーションルーム第4列の迎撃管制官(GCIOやコントローラとも呼ばれる)との交信が開始され、迎撃管制官はF-86へ音声無線でF-86へ進路を指示しました。

 
F-86が不明機から100マイル(約180km)まで接近すると、迎撃管制官はF-86へCAP(戦闘空中待機)かダイバード(指向)のどちらかを指令します。

 
CAPは不明機が領空を真っすぐ目指していな場合などに、無用な刺激を与えないために指示されました。

 
ダイバードの場合は、管制官はF-86へ不明機から1.2倍の速度、1000フィート高い高度を指示して速度・運動エネルギーを保たせてから、不明機の横80度で交差するように誘導します。

 
コース計算にあたり、不明機の位置に加え速度と高度が必要となるため、捜索レーダーが3回転する間の輝点の移動距離から速度を、測高レーダーで高度を求めました。

 
この諸元から迎撃管制官は「ハンディ・エイド」という迎撃コース計算用の定規(民間で使用される航法尺の類 )を用い、逐次エレメントへコースを指示します。

 
ただし、この方法は不明機側の微妙な変針への対応が困難で、迎撃管制官には「神業に近い芸術」が求められました。

 
このコース指示に誤りがあり、F-86が不明機を通り過ぎてしまった場合、遅れを取り戻すのは困難でした。

 
F-86Fの最高速度は980km(高度10670m)ですが、ソ連のTu-16で962km(高度10000m)、Tu-95で945km(高度不明)と速度の余裕がほとんどないのです。

 ソ連機もこれを知ってか、F-86の接近を察知するとジグザグ飛行を開始して、F-86を回避することもありました。

 首尾よくF-86が目視距離まで接近できれば、あとは目視で不明機を識別し、必要に応じて各種の警告行動を実施しました。有事であれば撃破です。


 手動迎撃管制の限界

 
上記の手動迎撃管制システムは、単独の目標あるいは密集した一つの編隊が、亜音速で接近してくる限りはどうにか対処できるものの、これが複数目標や超音速機となると処理が間に合わないのは明白でした。

 
こうした欠点に航空自衛隊は早くから気付いており、手動迎撃管制システム移管期の1959年の時点で自動迎撃管制システムを検討し、アメリカでは1961年からSAGEシステムの全国運用を開始しています。

 
ただし航空自衛隊の自動迎撃管制システムであるBADGEが完成し、運用が開始されるのは1969年。手動迎撃管制システムは長く使用され、BADGE運用開始後もしばらくはバックアップして残されることになりました。

 
次回はF-86FおよびD型について解説の予定です


 参考

航空警戒管制組織の形成と航空自衛隊への移管―同盟における相剋
http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j15-1_5.pdf


航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編集,防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P83,P158

航空自衛隊五十年史 資料編(航空自衛隊50年史編さん委員会編集,防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
255~257P

世界の傑作機 No.93 ノースアメリカンF-86セイバー
(文林堂 ISBN4-89319-092-X 2001年5月5日)
P91,P98-102


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(岩崎貴弘 ISBN4-06-210672-8 2001年11月20日)
P246,P328

自衛隊エリート・パイロット
(菊池征男他 ISBN978-4-87149-982-8 2007年8月31日)
P40

スクランブル 警告射撃を実施せよ
(田中石城 ISBN4-906124-26-7 1997年4月27日発行)
P36-46

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