無題 Name 名無し 17/01/15(日)14:04:57  No.1201536

歴史雑学BOOK 図解 武器・甲冑全史 日本編 (ローレンスムック 歴史雑学BOOK)

古墳時代の兵士
日本列島の戦争と初期国家形成
松木 武彦
東京大学出版会
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無題
Name 名無し 17/01/16(月)08:17:49  No.1201646
革の鎧だったんかな

無題
Name 名無し 17/01/16(月)09:16:17  No.1201650
律令軍団が成立して半島でもブイブイいわせてた頃は革製から鉄製へどんどん更新していった。
これは鏃や槍先の鉄製化、半島や大陸勢力の先進的軍勢との戦いに対応してたからと思われる。
これが半島から倭の勢力が引き上げた後になると、足踏みしてほとんど保管と整備だけの状態がメインとなる。
これは東北でアテルイらとの戦いに大軍が動員される時期まで続き、いざ大軍を編成する際に倉庫から引っ張り出した鉄鎧の殆どが錆び付いて使えず、朝廷は生産容易で長持ちする革鎧を今後は補充することに決定。
といっても、この東北での対蝦夷戦以降は全国的に中央と地方の乖離が進んで武士の台頭が進んでゆくので、軍団制も健児性に移行し、地方独力の武力整備(武士化)と曖昧になってゆき、軍団制は時代の推移の中であやふやな形で消滅する。

だからむしろ古墳時代最盛期は鉄鎧メインで、その後に上記の理由で革鎧に切り替えられた経緯がある。

無題
Name 名無し 17/01/16(月)20:01:10  No.1201698
>いざ大軍を編成する際に倉庫から引っ張り出した鉄鎧の殆どが錆び付いて使えず
兵器ってのは調達だけでなく日頃の整備維持が大事なのは何時の時代も同じなんだなぁ

無題
Name 名無し 17/01/16(月)09:24:46  No.1201651
出土品からは漆などを塗らず白磨きが主流だったっぽいことが分かるとか
平時に倉庫に放り込んだままだったら錆びるよなぁ

無題
Name 名無し 17/01/16(月)12:43:36  No.1201660
古墳時代はよく解らんところが多いなぁ
それ故に面白そうだけど

無題
Name 名無し 17/01/16(月)18:34:51  No.1201687
まさかこんな時代まで語れるとは
軍板舐めてた

無題
Name 名無し 17/01/16(月)20:15:29  No.1201700
まあアテルイの時代だと古墳時代とはいえないほど下ってるんだけど、軍団制を維持してた末期にあたる。
それでもスレ画の鎧と比べて大きくは進歩してなかったのも事実らしい。
日本は矢戦メインでずっと来てるので、鏃が鉄製になってから以降は防御力の方が追いつかない時代のまま進んじゃったらしい(手に持つ盾より設置型の矢盾が発達した理由でもある)。
日本的な大鎧が登場するのは平将門の乱前後で、将門が矢を受けても死なないので不死身だとの風説が流れたのは当時最新の大鎧を身に着けてたからじゃないかなんて説もある。
んで、同時代に討伐側だった朝廷側に任命された都の貴族は律令軍団の名残で官製の鎧を借りる形で用いていたんだけど、どうもこのころまでまだ前述の革鎧を使ってた節がある。
結局武士の台頭で戦闘の頻度が増えることで一気に鎧も発達していったらしんだなこれが。

無題
Name 名無し 17/01/16(月)21:00:49  No.1201710      
https://cgi.2chan.net/f/src/1484568049826.jpg
鉄製鎧は結構出土してるよね。

無題
Name 名無し 17/01/16(月)21:13:21  No.1201713
弓なんかは日頃からちゃんと手入れしとかないと
肝心な時にプツっと切れて使えなくなるし
時代は変わっても現代のミサイルの整備も同じようなもんか

無題
Name 名無し 17/01/17(火)01:58:04  No.1201749
和弓のメンテは大変ですよ
竹弓は湿気に弱くて歪みやすく、新しいうちは特に
歪みやくて手入れを欠かせない でもやはりグラスファイバーのとは違って使いよい
中仕掛け作りやら弦輪の作り方やら弓掛の手入れやら握りのカスタマイズやらやったなあ

無題
Name 名無し 17/01/17(火)13:38:58  No.1201765
>和弓のメンテは大変ですよ
>竹弓は湿気に弱くて歪みやすく、

メンテナンスさえちゃんとしてれば、百年たっても大丈夫だって
現代の接着剤を使うと経年劣化で剥がれるので、百年はムリだって。

無題
Name 名無し 17/01/17(火)12:22:14  No.1201760
魏志に既に倭の弓について「木弓下短くして上長くす」とあるので、和弓はスレ画の兵装時には既に基本形が出来上がっていた。
鏃の強化と相俟って日本では矢戦主流となったのも頷けるよね。

無題
Name 名無し 17/01/17(火)12:28:27  No.1201761     
https://cgi.2chan.net/f/src/1484623707799.jpg
銅鐸に描かれた和弓
国宝 銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀

無題
Name 名無し 17/01/17(火)12:30:28  No.1201762
あまり古くから下が短く上長い形式なんで、そもそもそのように発達した理由がいまだに曖昧なんだっけ?

無題
Name 名無し 17/01/17(火)13:22:25  No.1201764
伝来した銅や鉄剣を純粋な武器として使った時期はそう長くなかったと聞いたからその頃から既に弓で遠距離から撃つほうが絶対いいだろとされて弓の技術が研磨されてて上長下短みたいな工夫も確立されてたのかな
やっぱり剣同士の打ち合いをする戦闘なんてそうそうなかったのかもしれない

無題
Name 名無し 17/01/17(火)13:44:22  No.1201766
昔は何で接着してたんだろう
膠?

無題
Name 名無し 17/01/17(火)13:50:17  No.1201767
膠だね

無題
Name 名無し 17/01/17(火)19:42:16  No.1201775
膠と麻糸巻いて、漆塗って、籐巻いて

無題
Name 名無し 17/01/17(火)19:56:56  No.1201776
倭の五王時代を語ろうぜ

無題
Name 名無し 17/01/18(水)07:51:38  No.1201797
五王時代だと鉄の鏃以前の石鏃や骨鏃時代かね。
弓の威力向上前なので、まだ手に持つ木盾に銅矛、後に鉄鉾を備えて接近戦も多めに戦ってた頃。
鉄は貴重なんで大量に必要な鏃には使えず、かといってまだ精錬技術が大陸や半島程じゃないので剣にするにも短い物しか作れない(長い物は大陸からの高級な輸入品)。
いきおい主装備は鉾に重点が置かれたと出土品からは類推されている。

無題
Name 名無し 17/01/18(水)12:38:21  No.1201806
さきたま古墳群の出土品見た事あるけど、出土品に鎧は無かったな
木製か革製だったらしく、繋ぎの金具だけ残ってた
剣だけ鉄製、馬具や防具は接続部だけが金属製だった

あの金銘剣には「自分は雄略天皇の護衛隊長を勤めていた」と書いてあるんだけど、それだけ高位の武人でも鉄製の武具は限定的にしか持てなかった

榛名山の火砕流に呑まれて死んだ武人の骨は鉄鎧を着ていたので鉄鎧の普及は西暦500年前後なんだろね

無題
Name 名無し 17/01/18(水)21:04:42  No.1201825
上長下短になっているのは屋を放ったときの持ち手の振動を抑えるため。
上下が同じ長さの弓の場合は中心である持ち手部分で振幅が最大となるが、上長下短の和弓では握り部分が振動の節となってブレを生じさせない。

無題
Name 名無し 17/01/19(木)08:47:26  No.1201852
>>上長下短の和弓では握り部分が振動の節となってブレを生じさせない。

弓返りまで考慮してってことかな。
貫通力に差が出るらしいからね。

無題
Name 名無し 17/01/19(木)15:54:41  No.1201874
古墳時代の甲冑には日本固有の短甲(みじかよろい)と大陸伝来の挂甲(けいこう)があるけど身分によって使い分けてたのかな

無題
Name 名無し 17/01/19(木)17:44:17  No.1201881
正月の和風総本家で京弓職人がとりあげられてた
鹿の生革煮詰めて作った接着剤使ってた
ニベと言うらしい

無題
Name 名無し 17/01/19(木)17:48:44  No.1201883
ニベって、その名前の魚の内臓を煮込んだ液体を接着剤に使ってたらしい。
今は入手しやすい鹿の皮を使うんだって。

無題
Name 名無し 17/01/20(金)10:24:12  No.1201957
>上長下短になっているのは屋を放ったときの持ち手の振動を抑えるため。
馬上運用の際に下側が馬につっかえて邪魔にならなくするため短くしてるんだと思ってた。目から鱗だわ。

無題
Name 名無し 17/01/20(金)10:41:41  No.1201959
身の丈を超える大弓を使いやすいように持つ位置をズラす→どの辺が具合が良いかな…→振動の節に収まる

て感じじゃね

無題
Name 名無し 17/01/20(金)11:19:09  No.1201961
>>馬上運用の際に下側が馬につっかえて邪魔にならなくするため

そういう説もあったけど、日本だと馬に乗り始める前の時代に既に上長下短だったので、違うだろうとなった。
実際、日本の弓は南洋系と大陸系の融合した結果らしい。
矢のつがえや扱い方は大陸寄りっぽいところもあるが、南洋系の影響もかなりあるとか。

無題
Name 名無し 17/01/20(金)21:44:47  No.1201995
>矢のつがえや扱い方は大陸寄りっぽいところもあるが、南洋系の影響もかなりあるとか。
もともと南洋系の親指と人差し指で弦をつまむピンチ式だったところに、強弓を引くのに向いたモンゴル式が導入されたんだって。
馬を大陸から導入したときについてきた飼育指導のモンゴル人から伝わったらしく、信濃追分はモンゴルの民謡に旋律がそっくりだとか。

無題
Name 名無し 17/01/20(金)11:22:58  No.1201962
個人的には狩猟時代に起伏や茂みを利用する地形特性も影響してる気がするが、他の国となぜそこまで違ってきたのかはやはり分からん。
合理的であるなら他もやってそうなもんだが、大ぶりな弓に拘り続けたのは、遠射での命中や威力にも気を払わねばならない機会が多かったのかね・・・?

無題
Name 名無し 17/01/20(金)12:15:29  No.1201964
>遠射での命中や威力にも気を払わねばならない機会が多かったのかね・・・?
現代戦だって遠方からの投射が基本じゃん
その思考を早めに持ち合わせたってことは?

Name 名無し 17/01/20(金)12:32:45  No.1201966
2m近い丸木の棒を弓にしたとき根元と先で弾性が違うからちょうど釣り合うところを持ち手にすると上が長くなるとも聞いた

無題
Name 名無し 17/01/20(金)14:00:39  No.1201971
>>現代戦だって遠方からの投射が基本じゃん
>>その思考を早めに持ち合わせたってことは?

基本に沿うならもっと世界的にそういう例があってもなあ、という疑問だよ。
むしろ日本の地形だと射程は短くても狩猟は出来るのだから、短い弓が発達しても良いわけで。

まるで尾根から尾根へ、あるいは森林や尾根越しに撃つような・・・。
案外その辺が答えだったりして。

無題
Name 名無し 17/01/20(金)15:50:30  No.1201972
>まるで尾根から尾根へ、あるいは森林や尾根越しに撃つような・・・。
ICBMの基礎理論が

無題
Name 名無し 17/01/20(金)18:27:57  No.1201980      
https://cgi.2chan.net/f/src/1484904477587.jpg
以前読んだ日本の戦術の歴史本で、No.1201760さんも例に出されてますけど、クイーン・ヒミコ=サンの時代に当るこの時代の倭の国の兵装は魏志によれば

「兵、矛・盾・木弓を用う、(木弓形状の説明は前出)竹箭或は鉄鏃或は骨鏃」

…とあるのが、イヨ=サンの時代になると(晋書)

「刀・盾・弓箭あり、鉄を以て鏃となす」

…となってるのを引いて、弓矢が主兵装なのは変わらないとしても、戦術として射撃戦で勝負が付かず近接戦に移行した際に、カタナの有用性が認められた証では?
と推測してるモノがあって、この辺ある意味後代の鎧武者の時代の戦法の先取りみたいでちょっと面白いなとおもったんですけれど…実際どうだったんでしょかね?

無題
Name 名無し 17/01/20(金)21:51:26  No.1201997
アマモで最初にこのイラスト見た時はモビルスーツ臭がし過ぎると思って笑ったが
直後に ああ、DNAに刻まれるとはこういう事かと納得したな
>鹿の生革煮詰めて作った接着剤使ってた
>ニベと言うらしい
弓掛とか握りの皮とか鹿さんと縁が深い

無題
Name 名無し 17/01/21(土)19:00:57  No.1202150
和弓って矢が重いから遠射には向かないけど、貫通力は高いんだってな

無題
Name 名無し 17/01/21(土)21:59:40  No.1202193      
https://cgi.2chan.net/f/src/1485003580152.jpg
>貫通力は高いんだってな


雄略天皇の御代(5世紀後半)の朝日郎征討戦で、朝日郎=サンの強弓が二重の鎧も貫通するので官軍は近づけず、二日一夜戦線が膠着した所で官軍側の副将さんが、部下の一人に二重に鎧を着せた上で大盾を持たせて、その後ろに隠れて朝日郎=サンに向ったそうなんですが、朝日郎=サンの矢は盾と二重の鎧を貫通して部下さんの身体に一寸も突き通ったんだそうな

それでも堪えたエライ部下さんの影から突進した副将さんの太刀が朝日郎=サンを斬って、乱は決着したそうなんですが、強弓のツワモノが攻囲軍を圧倒する情景は、ある意味古墳時代からあった武勇伝だってことなんですかねえ…w

無題
Name 名無し 17/01/21(土)19:08:16  No.1202153
まぁ日本は昔から食料が豊富だったので綿花栽培も盛んで
薄っぺらな木綿を着てるだけってことも無かったから鏃も相応に重くした方が都合よかったのかもね
矢竹も豊富にあるから弓矢の生産にも困らんし

無題
Name 名無し 17/01/21(土)19:32:20  No.1202157
>まぁ日本は昔から食料が豊富だったので綿花栽培も盛んで
>薄っぺらな木綿を着てるだけってことも無かったから
続日本紀にでてくる「綿」「棉」はコットンではなく絹製品の一種
繭を茹でて引き伸ばした繊維の塊を綿・棉(共に読みは「わた」)と言った
真綿は元はこの絹製品を指した
国内におけるコットンの本格的な栽培は江戸時代から

無題
Name 名無し 17/01/22(日)06:02:43  No.1202234
>国内におけるコットンの本格的な栽培は江戸時代から
まわた と わた ってまぎらわしいよね
本ナニナニとか

無題
Name 名無し 17/01/24(火)06:49:33  No.1202515
強力な英国のロングボウはイチイの木から作られてたそうだけど、日本にもイチイの木は入ってきていたのに、これを弓に使わなかったのは残念。
始めに形ありきで、それに合わせて材質が竹を用いたコンポジットボウに進化していったのかな

無題
Name 名無し 17/01/24(火)12:37:18  No.1202527
>日本にもイチイの木は入ってきていたのに、これを弓に使わなかったのは残念。
北海道のアイヌは弓に使ったらしいけど
竹に比べれば少ないから量産に向かなかったんじゃないかな

無題
Name 名無し 17/01/24(火)18:47:13  No.1202547
>>強力な英国のロングボウはイチイの木から作られてたそうだけど

射程と威力に関しては和弓と英のロングボウはほぼ互角っていう実験を英国のなんかの番組でやってたような記憶がある。
それぞれのお国柄もあろうが、英も日本も長い時間の中で手に入る材料や技術から最善を選んでいった結果であろうしね。

無題
Name 名無し 17/01/24(火)20:11:12  No.1202549
>射程と威力に関しては和弓と英のロングボウはほぼ互角っていう実験を英国のなんかの番組でやってたような記憶がある。

いや、素材の差でロングボウの方がドローウェイトが重いんだ。
単純に威力の指針として見ればドローウェイトは重要で、ほぼ互角という検証の番組は和弓とロングボウのドローウェイトを同じに合わせて検証したものなんだ

無題
Name 名無し 17/01/28(土)01:44:01  No.1202778      
>いや、素材の差でロングボウの方がドローウェイトが重いんだ
弓道の弓と戦闘用の弓はちゃうで

無題
Name 名無し 17/01/24(火)20:32:27  No.1202551
矢の都合で日本の方が遠くに飛ぶけど威力は弱いとかの話をを聞いた事がある。

無題
Name 名無し 17/01/24(火)22:56:23  No.1202571
日本には石弓がない…残念

無題
Name 名無し 17/01/24(火)23:26:45  No.1202573
>日本には石弓がない…残念
クレシーの戦いみたいな事が起きて単に淘汰されちゃっただけだと思う
連射速度も違うし、射線からあまり目を離さずに射てるってのは相手の攻撃に備える意味でも大事なんじゃないかな

無題
Name 名無し 17/01/27(金)21:32:56  No.1202756 
中国の弩はいつ生まれてどのように運用されてきたのか?
けっこう使い勝手悪い兵器だと思うが

無題
Name 名無し 17/01/28(土)02:58:55  No.1202780      
>中国の弩はいつ生まれてどのように運用されてきたのか?
>けっこう使い勝手悪い兵器だと思うが
中国の弩は東南アジア生まれかもしれないと聞いたような
運用としては弩兵部隊による一斉射撃が多いな。これは数をたくさん揃えるほど有効
そして遅い発射速度を補うために矢を持つ係、セットする係、撃つ係と役割分担をしていたからかなりの大人数になったとか
他にも罠(耕戈)として使っていたり大型化(床弩)して攻城戦に使用していたりした
製造に高い技術を必要とする弩だけど軍役で集められる大量の素人を戦力化するためには、弓と比べて訓練が簡単な弩は結構有能。当時騎馬民族の脅威に常にさらされていた中国では飛び道具の数を揃えるのは結構重要なんだよね

無題
Name 名無し 17/01/28(土)11:05:59  No.1202815
>製造に高い技術を必要とする弩だけど軍役で集められる大量の素人を戦力化するためには、弓と比べて訓練が簡単な弩は結構有能。当時騎馬民族の脅威に常にさらされていた中国では飛び道具の数を揃えるのは結構重要なんだよね


火縄銃の伝来があと数十年遅れていたら、鉄砲隊の代わりに石弓隊とかがもっと広く普及していたかもな。
鉄砲のメリットも「単価は高いが、とにかく簡単な訓練で兵隊を揃えられる(+敵を威圧する轟音」だし

無題
Name おっぱい鑑定士 17/01/28(土)08:30:21  No.1202797      
ロングボウは引きしろが右目の下まで引くが、和弓は耳の後ろまであるので、当然矢自体が長く当然質量が違う。
弓の張力はロングボウだろうがショウトボウだろうが、人間の引く力には限界があるので大体似たようなものである。
滑車を使う最近のコンパウンドボウは例外として、弓の弾性のみで矢を解き放つ方式では力もスピードも両者そう変わらないので、当然ロングボウは初速が早く、近距離での威力に優れるが、遠距離では威力の減衰が大きいのに対し、和弓は初速こそ遅いものの、遠距離でも貫通を維持し続けるってこったな。
ま、わずかな差なので、現代の小口径高速弾のアサルトライフルと30口径のバトルライフルほどの差ではないけど。

無題
Name 名無し 17/01/28(土)09:59:20  No.1202806
>No.1202780
質問にお答えくださりありがとうございます。
まさに日本の戦国時代における火縄銃にあたる兵器だったってことですね。

無題
Name 名無し 17/01/29(日)20:52:27  No.1202990
>まさに日本の戦国時代における火縄銃にあたる兵器だったってことですね。
実際、明の時代にも弩は運用されていて、鉄砲との混成部隊もあったらしい
基本的には弩の担っていた立ち位置への上位互換として受け入れられていったかたち

無題
Name 名無し 17/01/29(日)22:07:07  No.1202997
銃は音の効果も大きいから
クロスボウと比べるのもちょっと違うと思う

無題
Name 名無し 17/01/28(土)10:29:55  No.1202808
遠距離での減衰力の差は、どこの違いからうまれるもんなんでしょ?

無題
Name 名無し 17/01/28(土)18:07:51  No.1202858
>>No.1202780
気心の知れた隣人同士で、バランス・オブ・パワーやってる状況だと、お互い訓練を積んだ武人に平時の防衛を任せ、領民を生産活動に回したほうが有利なので、弓の様な要高練度の武器が進化する。
何らかの理由で軍事バランスが崩壊した状況だと、総動員が可能な兵器体系に移行せざるを得ない。
(あるいは、移行しうる新技術によりバランスが崩壊する。)
っつうところなんすかね。
最近だと、封建制から近代への移行期、コチコチの武人を皆兵にミックスを出来る勢力が一番強そうなんて話は差し置いて、人類は永久にこれを繰り返すのかもなあ。

>>遠距離で貫通力
質量があると、初速は与えられませんが、運動エネルギーが大きい。
和洋とも、飛翔中に受ける空気抵抗はほぼ同一。
あと、和弓のほうが矢が重いけど、弦が運動エネルギーを与える時間が長い。(重い分、弦のしなり速度でも安定してエネルギーを与えやすい?)などでは。
洋弓の方が精度が高そうなイメージがあるけど、速度のせいですかね。

無題
Name 名無し 17/01/28(土)18:52:06  No.1202865 
>遠距離での減衰力の差は、どこの違いからうまれるもんなんでしょ?

軍板だけに、そのままAPFSDSとかL/D比の話になりそう。

無題
Name 名無し 17/01/29(日)12:23:23  No.1202933
ここで話題にしてる「和弓」って現代の弓道用のものなの?
少なくとも中世の頃なら日本甲冑の兜の形状的に吹返に弦が当たるまでしか引くことができないんだから弓道用のものより弓も矢も短くてロングボウと大差ないサイズでしょ。
昔の和弓が現代の物と同じ様に弦が耳や押手に当たらないように体から離れるように迂回しながら矢を押出す「返り」のあるものなら真っ直ぐ矢を押出す洋弓より制御が難しくなるから精度も洋弓の方が良いんじゃない?

無題
Name 名無し 17/01/29(日)12:33:50  No.1202934      
どうなんだろ。
確かに現代の和弓は江戸時代の大弓から発展してるから、和弓のなかでも大型なんだろう。
でも、鎌倉時代でも洋弓より大きいように見えるし、元寇でも和弓は元軍の弓の射程外から射れてたようだけどね。

無題
Name 名無し 17/01/29(日)12:39:23  No.1202935
石弓は日本では律令軍団時代にはあってもおかしくなかったんだけど、定着しなかった。
数を揃えるには手間がかかること、弓の威力が十分あったことと、射程、地形の問題で、日本だと弓や投石を超えるほどの利便性も無かったようだ。
武士の出現経緯やその後の集団戦法発達に照らしても、大量使用する条件は鉄砲同様戦国末期まで整わないので、石弓は鉄砲伝来が無くても主流にはなりにくかったんじゃないだっろうか。
一方で大型の床弩は少なくとも八百年代中期~九百年代に入るころに海岸防備用に運用されてた記録はあるが、これも新羅の海賊対策に「復活」させているので、その前に石弓や床弩の使用は日本ではとっくに無くなっていたらしい。
導入したけどすぐ廃れたぐらい早いので、諸々の条件込みで日本人にはよほど向いてなかったんじゃなかと。

無題
Name 名無し 17/01/29(日)15:14:17  No.1202958      
古墳時代前期に、切り裂くような受傷効果を狙った幅広い矛状の鏃が、中~後期になると茎の長い槍の穂先状のより貫通力に優れた形状に変わってるんだそうなんですが、これは一つには当時朝鮮半島での戦闘で対峙した高句麗の装甲(挂甲)騎兵対策の戦訓に依るモノなんだそうで

…要は97式中戦車の57ミリ短砲身が47ミリ長砲身に換装された、みたいな話なんでしょかw

因みに古墳時代後の奈良時代、718年頃の兵制によると、徴兵の兵士さん一人当たり弓一・副弦二・征箭五十・太刀一・小刀一を個人負担とする事とされてる他、1000人からなる軍団直轄の弩を選抜兵士で運用するんだそうなんですが、弩及び矛を平時に個人所有することは禁じられていたんだとか

字面通りに読めば、さしづめ弓が小銃ならカタナが拳銃、矛が軽機で弩は重機若しくは砲みたいな位置づけだったんでしょかね…?

無題
Name 名無し 17/01/29(日)15:17:27  No.1202959      
更に平安時代に入った837年、陸奥の国からの上申書には

「弓馬の戦闘は夷狄の得意とする所なので、徒歩の者が十人当っても夷狄一人に敵はないが、弩一箭で一万人の賊に対抗できるので狄を威すのに最もよい」

…なんてある他、894年に対馬に新羅の海賊団が来襲した際、日本側が海岸に隠蔽した守備隊の弩の一斉射撃でこれを撃退した記録も有るんだとかで、この辺後世の近現代の戦争でも兵器
こそ違え似たようなシチュエーションがあるのが個人的には面白く感じられたんですけれどw
912年に公卿で学者の三善清行さんが後醍醐天皇に提出した政治意見書の中に、「弩」の威力が既に忘れられている事を危惧する指摘が含まれてるんだそうで

弓に比べて、専門家のメンテナンスが不可欠な弩は、やっぱり維持がメンドくさいんですかねえ

無題
Name 名無し 17/01/29(日)16:45:04  No.1202964
弩に関してはイチイの木などの弓に適した木材の少なさが原因かと
竹を使ったのはイチイと違って大量に何処でも手に入るからでしょうし
威力でない素材をわざわざ選定し大型化して反そりの形状にして威力を出す努力をするくらいですから
素材が手に入りやすく大量生産できるのならこんな無駄な努力はしないですし

無題
Name 名無し 17/01/29(日)16:57:16  No.1202965
ゲーム「アサシン・クリード」のエルサレム近くに古墳時代そっくりの軍装をしたモブキャラが出てくるんだけど、日本人の一部が中東系っていう説と繋がって興味深い
単純にゲームスタッフが時代の近い世界中の軍装を参考にしてデザインしただけかもしれないけど

無題
Name 名無し 17/01/29(日)19:53:38  No.1202981 
>中東系っていう説と繋がって興味深い
まぁイスラエル10支族の末裔ですし

無題
Name 名無し 17/01/29(日)20:45:49  No.1202986
中国の弩は、部品ごとに異なる工房で大量生産され、中央に集められて組み立てられ、ロットナンバーと製造責任者の名前が刻まれ...という風に、現代の工業そこのけの体制で製造管理していた。
西洋のクロスボウは、様々なギルドやツンフトが集まる都市国家で、それらの協力体制のもとで製造されていた。

「意味のある数だけ弩を揃える」というのはこういう社会体制を必要とするから、律令体制の崩壊した後の日本では難しいし
少数のプロ同士だけで戦争するなら「使い慣れた弓でいいや」ってなるよね

無題
Name 名無し 17/01/30(月)09:08:09  No.1203034
中央(朝廷)が揃えてた軍備が地方(武士)の自前に移行していった流れが日本の武器の変遷にも繋がっていて、知れば知るほど面白い。

無題
Name 名無し 17/01/31(火)07:20:32  No.1203137
薩摩隼人が儀式に用いたと言われる蛇行剣とかが有力者の古墳からよく出土するけど、あのへんも南方系なのかね

無題
Name 名無し 17/01/31(火)07:57:42  No.1203140
暖かいと、密度の高い堅い木が育ちづらいんじゃないの? 弾力が足りないから伸ばすしかない。

無題
Name 名無し 17/01/31(火)08:11:56  No.1203142
日本はそこへ到達した諸々の民族の文化の総和なので、南方も大陸も混ざってる(地勢的に人類移動の袋小路あるいは吹き溜まりなので)。
弓が南方系の形状に大陸系の指使いなのも一例。
縄文文化と弥生文化も強い方が圧倒した訳でも無く、ゆっくりと混ざり合って同化していったらしいし。
既にあるものをおいそれと総入れ替えせずに組み合わせたり取り込んだりしてゆく傾向の文化かな。
半島から撤退した後や鎖国時代など、入ってくるものが減ると、内懐での独自進化が進むが、同時に停滞も生む。
結果、他では変化したものが残ってたりすると、それが現代では日本の独自性になったり。

無題
Name 名無し 17/01/31(火)10:41:11  No.1203147
 防人(さきもり)がよく分からないんだよな
古墳時代あたりから武蔵相模の兵こそ日本最強の評判で九州の地元の兵士じゃ頼りにならないからわざわざ東国から連れて来たという
 日本最強の東国者をはるか九州までどうやって連行できたんだか分からない
素直に従ったのか、反逆とかなかったのか
 日本では野生の馬がいなかったのに西船東馬なのは
その防人のときに半島から仕入れてきたのかどうかも分からない
 俘囚だとか蝦夷だとか言われてるツングース系「東国」歴史の理解としては
蛮族→服属・防人→反逆と服従を繰り返す→軍団解体→健児(こんでい)→東国武士
これでいいのかね

無題
Name 名無し 17/01/31(火)12:17:29  No.1203152
蝦夷が蛮族だったという認識が違うのではとも言われている。
既に西からの移住者と混住していて、異民族討伐よりは地方反乱が実際だったのではと。
とはいえ厄介な連中でもあり、朝廷はアテルイ処刑に見られるように警戒感が強かった。
服属したが警戒が必要な人々は割と村や集落単位で西へ西へと遠方に移住させてたり、その移住先での定住化、地域化を結構こまめに面倒見てるらしい記録もある。
こうした人々も屈強な兵士と期待されていたかもしれない。
実際、蝦夷鎮圧の戦いの後半は服属した俘囚が主力扱いだったし。
防人は屈強な兵士を送ると同時に、服属した者の家族・集落を人質に取った形の服属同化政策だった可能性も・・・というのは知った範囲での個人の感想だけど。

無題
Name 名無し 17/01/31(火)15:34:21  No.1203154
東国、というか蝦夷ってどの程度のレベルでの異民族だったの?
アイヌ的な半ば人種的に隔たりのある集団だったのか、単に文化的に異なる集団だったのか

無題
Name 名無し 17/01/31(火)20:13:07  No.1203185
>>東国、というか蝦夷ってどの程度のレベルでの異民族だったの?

奥州の蝦夷はアイヌではなく、日本人と言って差し支えなかったらしい。
ただ、言葉の壁はあったようで、東征の際も通訳が協力的な俘囚の部族から出されたりしてる。
その言葉の際が方言レベルだったのか、それ以上だったかは分からないが。
中央からの文化の浸透がやや遅かった人々、じゃないかな。

無題
Name 名無し 17/01/31(火)20:55:18  No.1203201
>奥州の蝦夷はアイヌではなく、日本人と言って差し支えなかったらしい。
>ただ、言葉の壁はあったようで(後略)
先住民族(縄文人系)の国に渡来人(弥生人系)が入り込んで行く過程では武力で征服する一方で懐柔した勢力とは混血が行われていったから純然たるアイヌと比べれば大和人に近くはなっているけど、民族の誇りとして習慣は捨てなかったという事じゃないかと。

無題
Name 名無し 17/01/31(火)21:36:57  No.1203213
>その言葉の際が方言レベルだったのか
今でも東北や沖縄のお年寄りが地の言葉でしゃべられたら本気で通訳がいる。
でも、地元の若い人は理解しきれてないという…

無題
Name 名無し 17/01/31(火)20:48:10  No.1203199
>防人(さきもり)がよく分からないんだよな
職業軍人でしょ

無題
Name 名無し 17/02/01(水)01:14:28  No.1203247
No.1203199
>職業軍人でしょ
自虐史観的には無理矢理召集されたらしいぞ
防人が職業軍人なら給料いくらだよw

無題
Name 名無し 17/02/01(水)08:18:27  No.1203256
租税の代わりに兵役負担って話もあるし、時代的には朝廷から各地方国へ負担の内容や数量を命じる形だから、地方を預かる領主の意向とも考えられる。
地元で直接の統治者から命じられるなら、そうそう断るのも難しかろう。

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Name 名無し 17/02/01(水)10:04:04  No.1203257
武装も任地への旅費も自弁ってよく逃げなかったな

無題
Name 名無し 17/02/01(水)15:22:55  No.1203263
>>自弁
そこは遠方だと人数とか手段とか、色々調整されてるんじゃなかったっけ。
ただ、地方の役所や行政府がgdgdになって来たり、経済状況や社会情勢の変化についていけなかったりで、
結果的に末端に負担が集中>崩壊ってのはあり得ると思う。
この辺は今昔変わってないでしょ。
どう制度を作ろうが、結局、人の問題だからなあ。

無題
Name 名無し 17/02/01(水)11:01:30  No.1203258
村に「何人防人出せ」とお達しが来て、「じゃあ今年は田吾作ンとこのせがれに行ってもらうっぺえ」と村の自治会で決まって、「しゃあねえちょっと行ってくるが」といった感じに決まる。
村という共同体ありきで、個人の権利なんてない時代だから、いやだなんて言ったら生きていけない。
現代の感覚的にはひどい話だげ、当時としてはまあこんなもんじゃねえのという普通の感覚。
これでも英海軍の強制徴募隊に比べればまだ民主的というのがなんとも。

無題
Name 名無し 17/02/01(水)11:04:00  No.1203259
逃げたところでどうするよって話ではある
「とりあえず死ぬまで暴れてやるわ!」なんて破滅思想でも抱かない限り「ここで逃げても死ぬだけだしな……」で終わるのではないか

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Name 名無し 17/02/01(水)11:31:45  No.1203260
「しょうがない精神」の発露

無題
Name 名無し 17/02/01(水)19:13:19  No.1203269      
>そこは遠方だと人数とか手段とか、色々調整されてるんじゃなかったっけ

文武天皇の代に制定された軍防令ですと

・防人が防に向かう時は私糧を持って行く、津を発した日からは公糧を給する
・交替によって帰る防人には道中公糧を給する
・防人が防への行き来の途中で患った場合には近くの国郡で糧を給し、薬を与え救護する
・防人が防にいる時は、近くに土地を与えて農耕で自給自足させる

…ことが定められてるんだそうで

因みに平時の各兵士の備蓄物資の義務が食糧で各自糒6斗、食塩2升だそうなんですが、まさかコレだけの量を背負って勤務先まで歩いていくわけにも行かないでしょうし、なんらかの道中給与というか軍用物資の融通のシステムはあったと思うんですが…実際どうだったんでしょかね

無題
Name 名無し 17/02/01(水)19:16:26  No.1203270     
>東国、というか蝦夷ってどの程度のレベルでの異民族だったの?
既に書き込まれてる方とカブっちゃうんですが、蝦夷征伐でだんだん朝廷側が優勢になると捕虜の数も次第に増加して、それらの方々は蝦夷地から西送されるんですけれど、各諸国に分散された後、2代の間は衣食が支給され、その費用はそれぞれの国司が税でまかなったんだそうで

798年に桓武天皇が出した詔勅に曰く、

「相模武蔵常陸上野下野出雲等国 帰降蝦夷俘 徳沢是憑宜毎加撫恤令 無帰望時禄物毎年給之其粮馨絶事須 優恤及節饗賜等類宜命 国司且行且申自余所須先申後行」

…とあるそうで、蝦夷の捕虜さん達に意外なほど気を使ってる様が読み取れるんだとか

無題
Name 名無し 17/02/01(水)19:17:08  No.1203271     
もっとも今の時代の感覚でいえば、戦争の結果の強制移住だとか、民族同化とか懐柔策に過ぎないとかの見方も出ちゃうんでしょうけれど、更に後の嵯峨天皇の時代になった813年の詔勅では、蝦夷の捕虜さん(夷俘)を、役人も百姓も彼の姓名をいわず、「夷俘」といっているが、既に同化しているのだから「夷俘」と呼ぶことは禁ずる、これより後は官位のあるものはその官位を、官位のないものは姓名を呼べ、と命じているんだそうな

ある意味では官主導で蝦夷の移民というかもっと積極的な同化が進められていて、その手法も比較的穏やかだった事が見て取れるんですが、この辺単なる懐柔策の一環だったのか、それとも蝦夷の住人に何か取り入れるべき資質を見出しての事だったのかは自分の浅薄な知識だと分からないんですけれども、少なくとも当時蝦夷を全く異質の相手だと認識してたとすると、逆にこういう動きも起きないんじゃないか…と思うんですけどねえ

無題
Name 名無し 17/01/31(火)16:58:43  No.1203159
大鎧って世界的にも特異な鎧だよね

無題
Name 名無し 17/02/01(水)12:58:17  No.1203262
>>大鎧って世界的にも特異な鎧だよね

矢戦での防御に特に意を払ってるよね。
その上で矢戦のあとの接近戦に支障が無いように動きやすさも考慮してる。
それでも挂甲時代の面影は何となく残ってて、色々と必要な要素・機能を付け足していった末にああなった感じはする。

引用元: https://cgi.2chan.net/f/res/1201536.htm

日本の歴史(1) 日本のはじまり 旧石器~縄文・弥生~古墳時代<日本の歴史> (角川まんが学習シリーズ)