【軍事講座】戦艦扶桑の「渾作戦」-囮理論とその後の周辺-

文:加賀谷康介(サークル:烈風天駆)


 昭和19年(1944年)5月27日、米第6軍がニューギニア西部のビアク島に上陸作戦を行いました。

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http://www.sekaichizu.jp/のフリー素材を筆者加工)

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○渾作戦は渾身の一撃にあらず

 連合軍のビアク島上陸にすぐ反応を示したのは、当然ですが現地の陸海軍部隊でした。
 上陸当日の5月27日から、南西方面艦隊各所より連合艦隊司令部あての意見具申が相次ぎます。

 27日1658 第四南遣艦隊司令長官(山縣正郷中将)発電
 「(前略)此の際敵運送船団のみは万難を排し之を捕捉撃滅せられんことを切望す」

 28日1210 第一六戦隊司令官(左近允尚正少将)発電
 「(前略)有力なる水上部隊を以て(中略)敵水上部隊を撃滅し然る後敵上陸部隊を殲滅せざるべからず」

 28日2310 南西方面艦隊参謀長(西尾秀彦少将)名で発電
 「(前略)速やかに「ビアク」地区に増勢当方面の敵殲滅を致し度重ねて協議(上申)す」

 これらの電文のうち、連合艦隊司令部の心を強く動かしたのは左近允少将の意見具申でした。
 左近允少将の意見具申には続いて、次のような文言が並んでいます。

 「(前略)本作戦は敵主力を誘出し之を捕捉殲滅する機会を作為する算多し・・・」

 
左近允少将の主張は、ビアク島に対する作戦が『あ号作戦』のきっかけになり得るというものでした。
 確かに連合軍のビアク島上陸部隊を強襲すれば、掩護する米機動部隊をこの方面に誘致できる可能性は高まります。少なくとも、効果があるんだかないんだか見当もつかない「扶桑」のパラオ進出よりは、よほど効果があるのは間違いありません。
 決め手に欠ける『あ号作戦』に焦慮していた連合艦隊司令部は、表向き南西方面艦隊(と、連名で上申を行った南方軍)の意見具申に応える形で、ビアク島に対する増援作戦の実施と、水上艦艇の派遣。それにマリアナ方面からの航空兵力転用を決定します。

 
それが、タウィタウィで「扶桑」が受信した連合艦隊電令作第102号の意味するところでした。

 
同電で発令のあった『渾作戦』参加艦艇は次のとおりです。

輸送隊(指揮官・左近允尚正第一六戦隊司令官)
第一六戦隊「青葉」「鬼怒」「浦波」「敷波」(他の輸送艦艇は省略)
警戒隊(指揮官・橋本信太郎第五戦隊司令官)
第五戦隊「妙高」「羽黒」、駆逐艦4隻(のち第二七駆逐隊「春雨」「時雨」「五月雨」「白露」と指定)
間接護衛隊(指揮官・阪匡身「扶桑」艦長)
「扶桑」、駆逐艦2隻(のち第一〇駆逐隊「風雲」「朝雲」と指定)

 うち警戒隊、間接護衛隊の9隻が第一機動艦隊からの増援でした。

 この編成は南西方面艦隊所属の第一六戦隊に、第一機動艦隊からの増援9隻を加えたものですが、この増援分というのが前述の『あ号作戦要領』で内示のあった「牽制部隊」にあたりました。
 具体的に比較すると
『あ号作戦要領』内の「牽制部隊」・・・「(第)五戦隊、扶桑、駆逐艦2を標準とす」
発令された渾部隊(輸送隊を除く)・・・第五戦隊、扶桑、駆逐艦6

 
このように、第五戦隊(「妙高」「羽黒」)と「扶桑」は完全に一致していますが、駆逐艦は原計画の2隻に比べ4隻多い6隻となっています。
 また「扶桑」と共に牽制任務にあたる第五戦隊の重巡2隻ですが、実はこの種の陽動作戦は初めてではなく、悪夢のミッドウェー海戦から帰投中、ウェーク島沖を遊弋して(追尾してくるかもしれない)米機動部隊の誘き寄せを担当したことがあります。この目論見は成功しませんでしたが、第五戦隊が「扶桑」と牽制部隊に入れられたのは、こうした実績(?)が反映されてのことかもしれません。
 とにかく『渾作戦』を『あ号作戦』本戦の導入として活用しよう、という連合艦隊司令部の魂胆が透けて見えるような編成です。

 
しかし、現地軍はこの牽制部隊に毛が生えた程度の増援には満足しませんでした。
 ビアク支隊が上陸当日報告した敵戦力は「戦艦3、巡洋艦2、駆逐艦14」。
 それに対し南西方面艦隊参謀長が28日2310電で要求したのは「戦艦2隻」。
 「扶桑」1隻では明らかに不足です。
 『渾作戦』発令翌日の30日、左近允少将は更に戦艦1、巡洋艦2隻の増強を意見具申。31日には陸軍(南方軍)が左近允少将の意見を支持する旨連合艦隊に伝えていますが、連合艦隊司令部は応じませんでした。
 孤軍奮闘するビアク支隊救援のため、必要な戦力をもぎ取って何とか成功させたい現地軍(南西方面艦隊と南方軍)と、あくまで『あ号作戦』の前座扱いで決戦兵力に損耗を生じたくない中央(連合艦隊司令部と第一機動艦隊司令部)の、『渾作戦』に対する見解の相違が露呈したのです。


○大山鳴動して「扶桑」一隻

 5月30日、「扶桑」など増援の9隻はタウィタウィを出撃。
 翌5月31日、「扶桑」らはダバオに入港。先着していた「青葉」ら第一六戦隊と合流します。
 翌6月1日、ダバオ湾内の「青葉」艦上で陸海軍合同の作戦会議開催。
 打ち合わせの結果、「扶桑」ら間接護衛隊の任務は次のように決定されました。

 「2日午後ダバオ出港、ニューギニア西部海面Z点(緯度経度省略)付近に進出。渾部隊の行動を間接に掩護し敵出現したならば撃滅」

 しかし、ビアク支隊の報告による敵戦力は「戦艦3、巡洋艦2、駆逐艦14」。
 明らかに「扶桑」ら渾部隊が劣勢です。
 実際の連合軍ビアク上陸部隊に戦艦は含まれていませんでしたが、そうとは知らない「扶桑」は最悪1対3の戦闘を覚悟して『渾作戦』準備を整えました。
 この時の「扶桑」について、同航する重巡「羽黒」乗り組み士官の回想が残されています。
『大正六年竣工(正しくは大正4年)のこの旧式戦艦が、その特色のある前のめりの前檣楼を高々と聳えさせて、南海の前線に参加している孤影には何か哀感があった』
(福田幸弘『連合艦隊サイパン・レイテ海戦記』。Wikipediaの「扶桑」記事にも引用の箇所)

 
のちに大蔵省の要職を歴任。国税庁長官、参議院議員を経験する福田氏ですが、当時まだ19歳の主計士官。
 その目に映る「扶桑」には、威風堂々の中にも悲壮感を漂わせていたようです。

 
6月2日、「扶桑」を含む渾部隊はダバオを出撃。一路ビアク島に向かいます。
 輸送隊のビアク到着予定は4日2200。約2日の航海です。

 
しかし翌6月3日1100、渾部隊はB-24に発見されました。
 日中いっぱい進撃を続けた渾部隊でしたが、日没後2025、突如作戦中止の電文を受信します。

 連合艦隊電令作第105号(6月3日2025)
 「渾作戦を一時中止す。各隊左に依り行動せよ。
一 五戦隊及び間接護衛隊は原隊に復帰せよ
二 輸送隊(二七駆逐隊を加ふ)は「ソロン」に入泊。機を見て渾作戦を再興せよ」

 
出撃わずか1日で作戦中止。余りに早すぎる方針転換に関係者は衝撃を隠せませんでした。

 「(前略)出発時は敵飛行機を「扶桑」に吸収して突入することのなりしに意外千万(中略)煮湯を呑まされし感あり」
 
ビアク島を含む西部ニューギニア・豪北方面全体の防衛を担任する第二方面軍では、方面軍司令官・阿南惟幾大将が3日の日誌に不満を爆発させています。
 方面軍司令官という陸軍最上級位に近い陸軍大将が、艦名まで出して戦艦一隻の用法に言及しているのは意外であり驚きですが、「扶桑は弾除け」と実に率直な見方を述べており、「扶桑」に対する周囲の認識を一番ストレートに表現しています。

 
ちなみに連合艦隊司令部は3日の飛行機による発見を作戦中止の理由としましたが、実際にはそれ以前から「扶桑」の行動は米軍に察知されていました。
 5月30日、米潜水艦「カブリラ」と「ブルーフィッシュ」が「扶桑」のタウィタウィ出撃を目撃。
 翌5月31日、同じく「ガーナード」と「レイ」が「扶桑」のダバオ入港を確認しています。
 さらに6月2日、渾部隊がダバオを出撃する様子も米軍偵察機に発見され、「戦艦2(本当は1隻)、巡洋艦5(本当は4隻)、駆逐艦10(本当は8隻)」であること、陸兵が乗船中であること、西部ニューギニア方面に向かう様子などかなり詳細な報告をされています。

 
「扶桑」の動きはしょっぱなから米軍にバレバレだったわけです。

 
そして「扶桑」ら渾部隊の行動を知った米軍は、ビアク島上陸支援の第7艦隊(第74・第75任務部隊の米豪混成艦隊。指揮官は豪海軍のクラッチレー少将)が迎撃配置に就いたものの、サイパン島上陸支援の第5艦隊はマリアナ攻略の予定を変更することはありませんでした。
 つまり、連合艦隊司令部が期待したような米機動部隊の誘致はできなかったのです。これは『あ号作戦』原計画のとおり「扶桑」がパラオ方面で牽制行動をしても同じことだったでしょう。

 
ちなみに「扶桑」を目撃した米潜水艦は2日間で4隻に上ります。
 「海の地雷原」とも言うべき海域を、そうとは知らず航行していたのですが、これは非常に危険な行動でした。
 なにしろ「扶桑」の艦橋はレーダーにとって格好の反射体、肉眼でもこれ以上目立つことこの上ない目標です。この時期には米軍潜水艦によって日本駆逐艦が立て続けに撃沈されており、それより低速で鈍重な「扶桑」が2日間に4隻もの米潜水艦に捕捉されながら、魚雷を撃たれずに済んだことは幸運の一言に尽きます。
 少なくとも、英戦艦「バーラム」のような目に「扶桑」が遭うことは避けられたのです。


○あのー…提督?聞こえないのかしら……。扶桑、ここに待機しています。

 
6月5日、「扶桑」と第五戦隊・第一〇駆逐隊はダバオに帰還。
 連合艦隊司令部は同日発の電文で、『渾作戦』を戦艦・巡洋艦を含む強行突入(第一次作戦)から、駆逐艦による隠密輸送(第二次作戦)に転換する方針を示し、早くも「扶桑」はお役御免となります。
 原隊復帰の命じられた「扶桑」と第五戦隊・第一〇駆逐隊は、タウィタウィの第一機動艦隊本隊に合流するのが筋ですが、事態はそう簡単には収まりませんでした。

 
3日に一時中止を命じたのちも、連合艦隊司令部の『渾作戦』方針は二転三転します。
 7日、第五戦隊・第一〇駆逐隊を渾部隊に再び編入。
 8日から9日かけての夜間、第二次作戦中の渾部隊が米豪混成艦隊に遭遇し、陸兵揚陸を断念して退却(ビアク島沖海戦)。その一報を受けた連合艦隊司令部は第一機動艦隊本隊から第一戦隊(「大和」「武蔵」)・第二水雷戦隊の一部を抽出。渾部隊に編入し、再び強行突入(第三次作戦)に方針を転換しました(連合艦隊電令作第127号。10日0113発令)。
 まさに泥縄、兵力の逐次投入の悪い見本のような展開です。

 
第二次作戦で多勢に無勢(18対5)、米豪混成艦隊に4時間近く追いかけ回され九死に一生を得た左近允少将あたりは正直キレてもいいようも思いますが、ようやくこの段階に来ての主力投入には、『渾作戦』の牽制効果になおも期待する連合艦隊司令部の思惑がありました。

 
『渾作戦』への主力投入を推したのは、意外にもタウィタウィの第一機動艦隊司令部です。

 
「機動艦隊としては(中略)速やかに第二航空戦隊を春亀地区(ビアク島周辺のこと)に展開、積極的に航空戦を敢行するを適当と認めあり」(6月7日2359。第一機動艦隊司令長官発電)

 
『渾作戦』を強化すれば第一機動艦隊の決戦用兵力を割くことになりますが、この時点の小澤長官はあえてその方法を進言しています。
 その対象とされた第二航空戦隊ですが、既定の『第一機動艦隊戦策』において「敵機動兵力の誘出攻撃」を担当することがあり得る、とされていました(『第一機動艦隊戦策』第5戦法及び『機動部隊あ号作戦計画』第5軍隊区分に基づく)。
 特にその飛行機隊は『あ号作戦』までの錬成期間が第1・第3航空戦隊と比べて短く、母艦運用の面でも様々な問題がありましたから、陸上運用であればその不安も少ない、という背景も併せてあったのではないかと思われます。
 小澤長官の二航戦ビアク派遣の進言は一見意外なようですが、第一機動艦隊かねての戦策を応用したものと考えれば、必ずしも唐突なものとは言い切れません。

 
ところが、連合艦隊司令部が派遣を命じたのは第二航空戦隊ではなく、一度もそうした候補に検討されたことのない第一戦隊だったのです。
 『渾作戦』関係者でも当惑したこの決定ですが、もう一つ奇妙な点がありました。
 戦艦・巡洋艦を含む強行突入に再び方針を転換したにも関わらず、第一次作戦で派遣された「扶桑」が第三次作戦の戦列には加えられなかったのです。
 当時、「扶桑」はダバオに在泊中。
 第三次作戦参加艦艇の集結地点であるハルマヘラ島付近のバチャン泊地まで約1日の距離で、命令があれば合同は十分に可能なところにいましたが、そうした点は考慮されなかったようです。

 
その理由を、『戦史叢書』を始めとする戦史書や、各部隊の戦闘詳報は何も説明していません。
 したがって、ここからは状況証拠による推測となります。

【理由その1】南西方面艦隊が要求していた戦艦の数が2隻だったから

 
ビアク島攻防戦の開始直後、南西方面艦隊が増援として要求したのは「戦艦2隻」。
 それに対し、第一次作戦では「扶桑」1隻しか派遣されなかったことはすでに述べました。
 そして第三次作戦にあたり派遣されたのは「大和」「武蔵」の2隻。
 「大和」「武蔵」の所属する第一戦隊にはもう1隻、「長門」もいましたが、これは候補になかったらしく検討段階からその名前は出てきません。
 つまり、戦艦2隻という数ありきの増援であって、「大和」「武蔵」「長門」という第一戦隊固有の3隻や、「大和」「武蔵」に先発の「扶桑」を加えた3隻という組み合わせになることは、『渾作戦』に関する限りあり得なかったという解釈です。

【理由その2】低速戦艦を戦列から除外した

 
これもあり得そうな話です。
 『機動部隊あ号作戦計画』で常用とされた第一軍隊区分では、「扶桑」は低速の改造空母からなる第二航空戦隊の護衛として乙部隊の配属となっています。一方「大和」「武蔵」はより高速艦ばかりの前衛部隊に配属となっています。
 既に敵制空・制海権下にあるビアク島を急襲するのに、低速の「扶桑」は望ましくないと考えられた可能性です。この説明は第一戦隊から「長門」が除外された理由にも流用できます。ちなみにすでに述べたとおり、第一軍隊区分では「長門」も「扶桑」と同じ乙部隊の配属です。
 つまり『渾作戦』で必要な「戦艦2隻」とは、「扶桑」「長門」ではなかったのです。強力な「大和」「武蔵」か高速の「金剛」「榛名」の組み合わせしかあり得ず、そして連合艦隊司令部はより強力な(そして『渾作戦』で多少の損傷があっても、戦闘力を維持して『あ号作戦』本戦に加われる可能性の高い)方を選択したという解釈です。

【理由その3】護衛の駆逐艦がいない

 
最後に、「扶桑」回航に必要な駆逐艦が不足していた、という可能性です。
 ダバオ周辺に複数の米軍潜水艦がいたことはすでに述べましたが、日本軍もそのあたりは十分認識していました(第一戦隊司令官・宇垣中将の日誌『戦藻録』6月3日分)。
 第一次作戦のような僥倖に恵まれない限り、「扶桑」のバチャン泊地回航には駆逐艦による護衛が不可欠です。しかし6月10日の第三次作戦発令当時、ダバオで確実に「扶桑」を護衛できそうな駆逐艦がどうも見当たりません。

 
第一次作戦で同航した第一〇駆逐隊は第五戦隊と共にバチャン泊地に先行(その際「風雲」沈没)。
 第一次作戦で同航した第二七駆逐隊は第一機動艦隊本隊に復帰を命じられ、バチャン泊地からダバオに移動中。つまり「扶桑」と出発地と目的地も真逆です。
 補給部隊の「響」「浜風」「秋霜」はダバオ方面となっていますが、第一軍隊区分で補給部隊護衛艦に指定されているため、出先で簡単に変更はききません。
 同じく補給部隊の「初霜」「栂」は6月11日ダバオ着が判明していますが、給油艦「速吸」の護衛であり、しかも第一機動艦隊の命令系統にも属していない「外野」の駆逐艦です。
 第三水雷戦隊の軽巡「名取」も6月11日ダバオ着の一隻ですが、司令部はサイパン島にあり、単艦扱いで補給部隊の護衛に加えられてしまいます。
 他に「夕凪」が補給部隊の護衛とされていますが、この艦は特に詳細な動向が不明です。

 
残る方法としては、「大和」「武蔵」ら第一機動艦隊派遣艦艇にダバオを経由してもらい、「扶桑」を連れてバチャン泊地に向かう手段が考えられますが、実際には10日タウィタウィから集結地点のバチャン泊地に直行。回り道となるダバオは経由しませんでした。

 
12日中に「大和」「武蔵」ら第三次作戦参加艦艇はバチャン泊地に集結を終えますが、前日の11日マリアナ方面に米機動部隊が出現して空襲を開始。13日にはサイパン島に艦砲射撃を加え、掃海を実施するなど上陸の気配濃厚となります。
 連合艦隊は13日1727、「あ号作戦決戦用意」を発令。続いて1732「大和」「武蔵」ら第一機動艦隊から派遣中の艦艇に原隊復帰を命じ、水上艦艇による『渾作戦』を事実上放棄します。

 
『あ号作戦』が、事前の想定と異なるマリアナ方面で発動された以上、米機動部隊の誘出を目的とした牽制作戦=『渾作戦』をこれ以上継続する意味は失われたのです。
 そしてそれは、牽制作戦の主役であった「扶桑」にとって、出番の終わりを意味しました。


○俺たちに重油はない

 
タウィタウィの第一機動艦隊本隊は6月13日朝、訓練及び燃料補給の事情からタウィタウィを出航。フィリピン内海のギラマス泊地に回航して補給のうえ、15日マリアナ方面に向け出撃します。
 一方、バチャン泊地の『渾作戦』派遣艦艇は13日夜同地を出航。北東に向かい15日第一補給部隊と合流、16日第一機動艦隊本隊との合同を果たしました。
 その後第一機動艦隊は東方に進撃、18日から世紀の機動部隊決戦「マリアナ沖海戦」を戦うのですが、残念ながら結果は皆さんご承知ですので、ここでは割愛します。

 
この間、「扶桑」はただ一隻、ダバオに停泊を続けたままでした。
 機動部隊に属して、「長門」と共に乙部隊の一員として空母を守ることも、「大和」「武蔵」と並んで敵陣に進撃することもなく、マリアナ沖の敗報を遠くダバオで傍聴するばかりでした。
 やはりその理由を『戦史叢書』を始めとする戦史書や、各部隊の戦闘詳報は何も説明していません。

 
では「扶桑」には、機動部隊と合同するチャンスがなかったのでしょうか?
 もしくは、護衛艦艇がなく合同させることができなかったのでしょうか?

 
結論から言えば、ありました。「扶桑」は補給部隊と一緒なら合同は可能だったのです。
 10日までに機動部隊の燃料補給を担当する第一補給部隊(タンカー「日栄丸」「清洋丸」「国洋丸」及び駆逐艦「響」「浜風」「秋霜」)がダバオに集結を完了。
 11日に速吸船団(給油艦「速吸」及び駆逐艦「初霜」「栂」)が入港。同日中には内地から第三水雷戦隊の旗艦となるべく軽巡「名取」も到着しました。
 12日には『渾作戦』からいち早く原隊復帰が命じられた「白露」「時雨」も入港しています。
 これら補給部隊は14日未明にダバオを出港、第一機動艦隊との合流点に向かいました。

 
以上、「扶桑」を除くダバオ集結の艦艇は駆逐艦7隻と軽巡1隻。
 タンカーと一緒に「扶桑」を護衛する戦力としては十分です。
 「扶桑」は確かに機動部隊の中で最も低速でしたが、それでもタンカーよりは高速であり、補給部隊に同航して本隊に合同することは可能なはずでした。
 「扶桑」の存在が補給部隊にとってマイナスとなる理由は表向きありません。

 
唯一、そのあたりの事情を類推することのできる文章がありました。
 第一機動艦隊司令部がマリアナ沖海戦から帰還後に作成した戦闘詳報に、次のような一文があります。


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「13日(中略)1245補給部隊に30分間待機を下令し又「扶桑」に対し手持燃料を1TB(第一補給部隊のこと)に移載を命じたり」

 
補給部隊に出航準備を命じるとともに、「扶桑」にはタンク内の手持ち燃料をタンカーに給油せよ、と命じているのです。
 「扶桑」がタンカーから給油を受けるのであればわかりますが、これはその逆です。わけがわからないよ、と誰か言ったかどうかはわかりませんが、極めて異常な事態と言えるでしょう。
 とにかく「扶桑」のマリアナ沖海戦不参加は、事実上この電文によって決定されたと言えます。

 戦艦一隻の参加よりタンカーの重油満載を優先する、この発想の根底には、同じ第一機動艦隊の戦闘詳報で「機動部隊の作戦指導上考慮すべき事項」とされている次の部分があるようです。

 
「機動部隊行動能力特に燃料関係上時日の大なる遷延は許されず」

 
燃料関係上・・・、戦闘艦艇と給油船舶の隻数比や給油能力の限界から、第一機動艦隊の行動には『あ号作戦』立案当初から厳しい制約が課せられていました。しかも降って沸いた『渾作戦』により、「大和」「武蔵」ら派遣艦艇がよけいに燃料を消費しています。
 この際、機動部隊に追随できるか際どいレベルの(不可能ではないが、低速を受忍して同行させても役に立つ保証はない)「扶桑」1隻を加えるより、その分のタンカーの補給能力を他の艦艇に充てるという発想は、消極的ながら理解できないものでありません。

 
マリアナ沖海戦に「扶桑」出撃せず。
 その理由が補給・燃料事情というのは我ながら苦しい解釈ですが、単に低速であることや戦艦として力不足であるという安直な理由が、実は『第一機動艦隊戦策』や『機動部隊あ号作戦計画』によって否定されてしまう以上、他に事情らしい事情がないのは事実です。

 
そして「扶桑」は連合艦隊にとって無用の長物ではなく、その価値や期待される役割は目まぐるしく変わりはしましたが、ギリギリ最後の瞬間まで、第一機動艦隊の一員として戦力の一翼を担っていました。
 「扶桑」は、確かにそこにいたのです。


【参考文献】
朝雲新聞社『戦史叢書』関係各巻
木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社 1983年
木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社 1986年
木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社 1989年
福田幸弘『連合艦隊 - サイパン・レイテ海戦記』1982年

<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』

URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx