日本海軍、地中海を往く 最終回 再び地中海へ

文:nona

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http://www.mod.go.jp/msdf/formal/operation/enyo2016.html

2016年8月26日、海上自衛隊の遠洋練習艦隊による第2特務艦隊に対する、シチリア島沖洋上慰霊祭の様子

 1919年7月に帰還を果たした第二特務艦隊。「日本海軍地中海遠征記」では彼らの作戦成果を以下のように示しています。[1-1]

護送艦船数(うち4分の3が兵員輸送船)
イギリス海軍艦艇12隻
イギリス運送船767隻
フランス運送船100隻
イタリア運送船18隻
その他の26隻

連合国艦と共同で護衛した様々な国籍の輸送船
(推定)500隻以上

護送した各国軍隊及び非戦闘員
75万名以上

特筆すべき戦闘および救護回数
36回

第二特務艦隊の戦没者
78名(うち遺体がマルタに埋葬されたもの73名)


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 また「日本海軍地中海遠征秘録」では護衛下で戦没した輸送船を、1917年5月4日トランスシルバニア、12月10日バーシャー、12月31日オスマニエ、1918年5月12日オムラ、5月26日リーソーキャッスル、7月11日にバッキャス、7月19日にオーストラリアン、9月9日と22日に船名不詳の運送船2隻と、9隻が記録されています。[2-1]

 
沈没に至らなかった輸送船については、1917年7月26日ムールタン、1918年3月31日ラロァール(擱座)、5月3日にバンクラス、7月19日にポルペロ4隻の被弾が記録されています。[2-1]

 
さすがに被害ゼロとはいきませんでしたが、上記の護衛回数(単独護衛回数927隻、共同護衛数安500隻)を考慮すれば、第二特務艦隊は不十分な対潜装備の中、十二分に使命を果たせたと言えるでしょう。

 
さらに輸送船が被弾した時も第二特務艦隊の艦艇は生存者を見捨てることはなく、自艦を危険にさらしてでも救助に努めました。特にトランスシルバニア沈没時に乗船者約3200名のうち、3000名を救助したことは最大の功績です。[1-1]

 
こうして第二特務艦隊の活躍はイギリスをはじめとして各国から高く称賛されました。

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平和の海より死の海へ口絵より
駆逐艦松

 しかしながら、第二特務艦隊が得た戦訓や、イギリスによる通商保護戦略は、残念ながら日本海軍全体では顧みることがありませんでした。

 
「海軍護衛艦(コンボイ)物語」では、地中海が異国の地の戦いであるとして「全海軍をドスンと揺さぶるインパクト」でなかったことが、当時の日本海軍が関心を示さなかった要因の一つ、としています。[3-1]

 
また駆逐艦松の主計官の片岡中尉(地中海派遣中大尉に昇進、最終階級は主計中将)は、自著にて地中海の戦いを「沈黙の奮闘」とし、第二特務艦隊各員についても「縁の下の力持ち」としています。[4-1]

 
第二特務艦隊の活動はスポットライトを当てにくいものであったのかもしれません。

 
また第二特務艦隊の戦没者78名についても寂しいことに、墓標がマルタ島にある故に、詣でる者もなく、早くも忘れ去られようとしていました。

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平和の海より死の海へ口絵より
1918年6月11日に駆逐艦榊の被弾一周年に合わせ、マルタにて執り行われた第二特務艦隊戦没者骨式の模様

 そんな1921年の春、欧洲巡遊中の皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)がマルタを訪問されたことで、第二特務艦隊と戦没者の墓標は再び脚光を浴びることになりました。[1-2]

 
このマルタ訪問は同年2月に発表された皇太子殿下の欧洲周遊の一環でしたが、実施にあたっては国内では反対の声も上がっていました。当時は大正天皇の病状が芳しくなく、また訪問先で殿下が危険に遭われることも懸念された為でした。 [1-2] 大津事件やサラエボ事件のように。

 
さらに宮内省東宮大夫の濱尾新(東京大学の元総長)は御召艦から火薬を下ろしてほしい、と加藤海軍大臣へ申し入れます。これは皇太子殿下の母君、貞明皇后の意向を汲んだものであった、ともいわれます。[5-1]

 
この時期の日本海軍では、1917年に巡洋艦筑波、1918年に戦艦河内が、相次いで火薬庫が爆発する重大事故が発生していたのです。[5-1]

 
しかし加藤友三郎大臣、濱尾東宮大夫の意見を「武器のないようなものは軍艦ではない」と一蹴。対する濱尾大夫は「それでは商船で参ることにしよう」と啖呵を切るものの、職務権限場上の立場に有る加藤大臣、無理に押し通してしまいます。[1-2]

 
ただし加藤大臣は事故対策として、巡遊中に火薬庫の気温湿度を逐次記録し、さらに国内でも同一環境で火薬の耐久試験を実施し、異常が見られた際は日本から通報を発し火薬を海上投棄させる、という手順を示し、これを貞明皇后へ説明申し上げた、といいます。[1-2]

 
そして御召艦には戦艦香取、共奉艦には戦艦鹿島が選ばれました。2隻共にイギリスで建造された艦艇ということで、主要訪問国のイギリスに敬意を示す意味合いがあるようです。

 
こうして3月3日に横浜から日本を出発した一行は、順調に航海を続け、1921年4月24日にバレッタ港へ入港。港外ではイギリス空軍機と駆逐艦の先導をうけるなどして、盛大な歓迎をうけたようです。[1-2]

 
この翌日にイギリス軍墓地の片隅にある第二特務艦隊戦没者の墓を参拝

 
この時の皇太子殿下について、マルタの新聞は以下のように報じています。

 
「殿下は脱帽、頭を垂れて恭しく礼拝されたが、さらに進んで石段昇せられ、墓標をうち仰がれて、再び礼拝された。誠に長い礼拝だった。やがて殿下は墓標に面せられたまま後ろ向きに石段を降りられて、三たび礼拝の後、着帽された」[1-2]

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大阪毎日新聞社 皇太子殿下御渡欧記念写真帖. 第4巻(1921年)より
マルタ島に於ける第二と組む艦隊戦没者の墓碑にご参拝の
左より東宮殿下(皇太子裕仁親王殿下)、閑院宮戴仁殿下、イギリス地中海艦隊司令長官ロベック大将


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墓前にて花を手向けられる殿下。

 皇太子殿下によるマルタ訪問をうけ、第二特務艦隊司令であった佐藤少将は「感涙に耐えない」と語っています。[2-2]

 
これ以来、日本海軍が欧洲を訪問する時には事情の許す限りマルタを訪問し、その度に慰霊行事がなされました。[1-2]

 
しかし皇太子殿下の帰国直後から、日本とイギリスとの関係は次第に疎遠になります。

 
同年の日英同盟の更新停止決定をそのきっかけとして [6-1]、直後に始まったシンガポール要塞の強化、かねてからの植民地における排日政策、日本によるインド人革命家の受け入れなどの問題、1930年代にはブロック経済や日本の大陸進出で両国はいっそう摩擦を強めました。

 
もっとも、暫くの間はイギリスと日本の表面上の交流は続いていたようです。1937年のジョージ6世の戴冠記念観艦式には日本も巡洋艦足柄を派遣し、この航海で足柄はマルタも訪問しています。[7-1]

 
ただし記念観艦式の後に足柄はドイツを訪問。日本海軍としては1907年以来、30年ぶりの訪独でした。しかもイギリスに対しては直前まで伏せています。日本はイギリスとドイツを天秤にかける姿勢を見せたのです。[7-1]

 
これより2年後には第二次世界大戦が勃発し、1941年末には日本はイギリスへ宣戦を布告、両国は袂を分かち、戦争は日本の敗北という形で終りを迎えました。

 
そして時は流れること1968年、日本海軍地中海遠征紀の著者である紀脩一郎氏が一念発起し、新聞投書によって4年がかりで募った各方面の協力者と共に、悲願のマルタでの慰霊事業を実現します。[1-3]

 
そこで紀氏が驚いたのは、第二特務艦隊の慰霊碑が奇麗に清掃されていたことでした。参詣する人は途絶え、一時は敵国となっても、ずっと墓を守ってくれたイギリスの騎士道精神は称賛すべきものでした。[1-3]

 
しかしながら、慰霊碑は先の大戦での空襲によって、破損していました。[1-3]

 
そこで紀氏は資金を募り、慰霊碑の修復を計画します。もし募金が集まらなければ、私財を投じる覚悟であったそうです。[1-3]

 
すると、紀氏の事業を聞き付けた防衛庁、国費での修繕を申し出ます。これを紀氏に手紙にて伝えたのは当時の防衛庁長官にして後に総理大臣に就任される中曽根康弘氏でした。[1-3]

 
中曽根氏は戦中に主計士官として出生され、戦後政治家に転じてからは、中曽根航路帯・シーレーンと日本の海上交通路の安全確保に尽力されたことで知られています。きっと第二特務艦隊の活動も、その意義もご存知であったのでしょう。

 
こうして防衛庁による慰霊碑の修理は1974年11月18日の除幕式をもって完了し、翌年には海上自衛隊の遠洋練習艦隊がマルタを訪問。[1-3]海上自衛隊による慰霊は現在まで続いています。

 
またマルタにおいても近年になって戦争博物館にて日本海軍の展示も始められる[8-1]など、第二特務艦隊の慰霊と闘いの記録の継承は(他の戦史と比べれば細々とした形ではありますが)現代も続いています。

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http://www.mod.go.jp/msdf/formal/operation/enyo2016.html
2016年8月30日、マルタ島バレッタを出港する海上自衛隊の練習艦かしま。港の風景は100年前とほとんど変わらない

 最後になりますが、本連載では第二特務艦隊の戦史のごく一部を紹介した過ぎず、にも関わらず誤記が多々ありましたことをお詫び申し上げます。一方では第二特務艦隊の常に誇らしく、時に微笑ましい活躍を知ることができ、さらに読者の皆様とも交流できたことを嬉しく思います。

 
最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征紀(紀脩一郎 1979年6月15日)
[1-1]P267-269
[1-2]P269-277
[1-3]P281-291

日本海軍地中海遠征秘録(産経新聞ニュースサービス発行、桜田久編 1997年11月11日)
[2-1]P101-107
[2-2]P37

海軍護衛艦(コンボイ)物語 (雨倉孝之 ISBN978-4-7698-1417-7 2009年2月5日)
[3-1]P61

平和の海より死の海へ(片岡覺太郎 1921年5月25日)
[4-1]P412

軍艦爆沈事故と海軍当局の対応-査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察-
(防衛研究所戦史部所員 山本政雄)
http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200603/6.pdf
[5-1]P85

日英同盟 同盟の選択と国家の盛衰(平間洋一 ISBN 978-4-04-409223-8 2015年8月25日)
[6-1]P178-181

軍艦「足柄」の英国観艦式派遣及びドイツ訪問について 川井裕
2009年3月 戦史研究年報(12)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282495
[7-1]P42-63

[8-1]【鼓動「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年
(産経ニュース 1-3ページ)
http://www.sankei.com/world/news/140803/wor1408030035-n1.html

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