日本海軍、地中海を往く 第21回 帰港は天覧の舞台

文:nona

 7隻の戦利潜水艦がポートランドとポーツマスで修理の途中に遭った1918年2月3日、この機会に第二特務艦隊司令部はダンケルク港へ上陸し、自動車にてフランスとベルギーの戦場跡を視察、大戦の傷跡を目撃しています。

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日本海軍地中海遠征秘録 P82
ベルギー・イープル戦場後を視察する佐藤司令と第二特務艦隊司令部


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 また2月5日には安達峰一郎公使から歓迎を受けています。安達公使は後に国際司法裁判所判事や、国際連盟総会の日本代表となって1920年代の国際協調の時代に活躍された外交官です。ただ、フランス人の婦人との間に生まれた子息が、「砲弾ショック」を患っていたことには司令一同も同情を示し、回復を祈りました。[1-1]

 
この後ベルギーに入った一行は、国王アルベール1世の招きをうけて、佐藤司令らは勲章を授かり、さらに国王の要望をうけ第二特務艦隊の任務や作戦の過程を解説しています。[1-1]

 
この後に司令一行は2月9日にポートランドへ戻った後、14日にはロンドンへ向かいます。15日にはバッキンガム宮殿にて国王ジョージ5世の謁見をうけ、佐藤司令は感謝の言葉を賜りました。[1-1]

 
また第二特務艦隊の総員2535名を、数十の組に分けてロンドンへ送り、同地を見学させたほか、[3-1]サウザンプトン港、ポーツマス軍港、オスボン兵学校に保存されている帆船ビクトリーも視察しています。[1-1]

 
このイギリス視察にあたっては、日本から派遣された技官も参加し、イギリスの港湾防御、機雷、水中聴音器を研究しています。

 
これらは機密とされるものですが、佐藤司令が現地の司令官との面会で見学を要望するだけで、すぐさま手配してくれるなど、大変な親切を受けた、といいます。[2-1]

 
佐藤司令も「外国人と交際して情報を得ようと思ったら、あまり遠慮しないで、ある程度まで突っ込んで話してみることが良いと思う。」と語っています。[2-1]

 
3月に第二特務艦隊は、戦利潜水艦に付き添ってマルタへ帰投。4月3日には神武天皇祭を記念して運動会をマルタで開催。イギリスの将兵やマルタの市民など2000名以上が参加し、イギリスの軍楽隊の参加もあってか、会場は大いに盛り上がりました。[1-1]

 
この直後に出雲と第二十四駆逐隊以外の艦は日本へ帰国。残った5隻はイタリア訪問へ向かいました。

 
司令一行はローマにて国王エマヌエーレ3世の謁見をうけ、さらに将兵はイタリアを巡り各地の名所を訪れています。

 
4月27日には再びフランスを訪問。司令一行はマルセイユから列車でパリへ入りました。この時にはクレマンソー大統領や、ヴェルサイユ会議に出席する西園寺公望、牧野伸顕に面会しています。[1-1]

 
このヴェルサイユ会議にて、日本は1914年秋にドイツから獲得したサイパン、トラック、パラオなど、南洋群島を委任統治領とすることを承認されますが、当然ながら第二特務艦隊の活躍と、イギリスの口添えがあってのことでした。

 
さらに司令一行はフランス陸軍の計らいで、エッフェル塔への登頂も許可されています。当時のエッフェル塔は未だ戦時の装いを解かれておらず、一般公開もまだ先のことでした。

 
また司令一行はパリやフランス国内を視察していますが、5月1日のゼネストでホテルですら食事ができなかった事を除けば、他国と同様に大歓迎を受けたといいます。[1-1]

 
またマルセイユにて留守番をしていた乗組員達も、市民の歓迎をうけ運動回に招かれ、さらに士官がオペラの招待をうけることもありました。[1-1]

 
司令一行が視察から帰艦すると、各艦もマルタへ帰投します。しかし、5月15日の出港によって第二特務艦隊は2年間を過ごしたマルタを離れることになりました。[1-1]

 
この後、五隻は5月17日にギリシャ・アテネ近郊のピレウス港を訪問。新国王アレクサンドロス1世も出雲を訪れ、艦上で催された各種日本武道協議会を楽しまれています。[1-1]

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日本海軍地中海遠征秘録 P81
出雲の後甲板にて柔道相撲を見学する国王。

 この後に第二特務艦隊は、5月20日にピレウスを出港。5月22日にスエズ、ポートサイドに到着すると、ここでも視察のため上陸し、イギリス委任統治領パレスチナにて、古代の史跡や死海を見学しています。[1-1]

 
5月27日にはポートサイドを出港し、スエズを通過。

 
しかし夏季に近づいたこともあり、紅海は酷熱の海となり、熱射病で倒れる機関部員が続出。さらにインド洋はモンスーンで大荒れ。最後まで気の抜けない航海です。[1-1]

 
それでも6月10日にセイロン、18日にはシンガポール沖、23日に香港と順調に航海を続け、時には久々の「スコール浴び方」を楽しむこともありました。[1-1]

 
そして7月2日、2年半に及ぶ派遣期間を終え、ついに横須賀への帰還を果たします。[1-1]

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日本海軍地中海遠征秘録 P86
横須賀沖の凱旋艦隊御観閲式の模様

 7月9日には先に帰還していた艦と潜水艦7隻が揃い、凱旋艦隊御観閲式が開催されました。[1-1]

 
出雲が御召艦となり、加藤友三郎海軍大臣、島村速雄軍令部長、名和又八郎横須賀鎮守府司令長官らも出席し、第二特務艦隊の帰還は盛大に祝われました。

 
ただ欧洲派遣のきっかけと作った一人である秋山真之は、前年に亡くなられており、観閲式にその姿はありませんでした。

 
これを終えて各艦は元の母港、多くは佐世保港へ帰還。ここでも観閲式を行った後、7月20日に第二特務艦隊は任務を解かれ、ついに解散しました。[1-1]

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日本海軍地中海遠征秘録 P86
7月19日に佐世保沖に帰還する駆逐艦

 なお戦利潜水艦は第二特務艦隊以上にもてはやされています。

 
七隻は7月11日から2組の巡業隊に振り分けられて、日本全国の港で一般公開を実施しました。[4-1]

第1巡航隊、母船夕霧丸(旧駆逐艦夕霧)○三, ○五, ○七号潜水艦、北回り
第2巡航隊、母船叢雲丸(旧駆逐艦叢雲)○二潜, ○四潜, ○六潜、南回り
(○一号潜水艦は試験のため横須賀に残された)

 
巡業は11月17日まで続き、36の港を訪問しました。東京や大阪など大都市はもちろん、遠くは沖縄の那覇や、朝鮮の釜山、鎮海まで訪問しています。

 
潜水艦はどの港でも盛況で、特に名古屋や神戸では30万人が潜水艦を観覧し、さらに神戸では5000名が艦内を見学した、といいます。[4-1]

 
現代ではとても考えられない広報手段です。

 
一方、一足早く解散した第二特務艦隊でしたが、ただマルタに残してきた戦友の墓が心残りでした。

 
この墓は1918年中に駆逐艦榊の戦死者と他艦の戦病死者、行方不明者を祀るためにマルタのイギリス海軍墓地の一角に建立されたものですが、平時とはいえ、容易に墓参りができる場所ではありません。

 しばらくすると忘れさられてしまうのでは、という危惧がありました。


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日本海軍地中海遠征秘録 P100
7月19日に佐世保沖における第二特務艦隊戦死者招魂祭

 しかし、多くの人々の尽力によって地中海の戦いと戦没者の記録は現代まで伝えられ、第一次世界大戦以来、多くの日本人がマルタの墓所を尋ねています。

 
その先駆となったのが当時の皇太子、後の昭和天皇でした。

 
次回はマルタに残る第二特務艦隊の碑について解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征紀(紀脩一郎 1979年6月15日)
[1-1]P238-268
[1-2]P225

日本海軍地中海遠征秘録(桜田久編 1997年11月11日)
[2-1]P38

アジア歴史資料センター
[3-1]Ref.C10081043900 倫敦見学関係書類綴 柳2号兵員倫敦見学要領

艦艇学入門 潜水艦(石橋孝夫 2003年8月14日)
[4-1]P157-159

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