日本海軍、地中海を往く 第20回 最後の大仕事

文:nona

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艦艇学入門 潜水艦P203
ドイツ海軍潜水艦UB125改め、日本海軍第○六号潜水艦。

 潜水艦の回航は、第二特務艦隊にとっては本来の仕事ではありませんが、幸いなことに潜水艇の搭乗経験のある士官がいたことで、彼らを臨時に潜水艦の指揮官として、回航にあたらせることになりました。


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 ただし、中には12月の定期異動にて帰朝の途上にあった者もありましたから、急いで連絡船の春日丸に辞令を送り、該当者をスエズで下船させ、マルタへ呼び戻しています。[1-1]

 この引き返し組には、後に潜水校長となる浮田英彦(第○七号潜水艦指揮官)や、ミッドウェー海戦の指揮官として知られる山口多聞(駆逐艦樫の航海長で、第○四号潜水艦指揮官)らが含まれます。[1-1]

 
また水兵と下士官は出雲から、人員に余裕のあった弾薬員や鑵部員が配員されました。[1-1]

 
ただ潜水艦各揮官達としては、せめて水雷科の教育を受けた水兵と、機械類に精通する兵員が欲しいところでした。[1-1]

 
そして、ハーリッジにて引き渡された潜水艦は以下の7隻。

U125→○一号潜水艦

(1918年夏就役、水上排水量1450トン、水中排水量1800トン、水上速力12ノット、水中速力7ノット、魚雷発射管4門、魚雷16本、機雷敷設軌条2基、機雷42個、15cm砲1門、水上航続距離10000海里)

U46 →○二号潜水艦

(1916年夏就役、水上排水量750トン、水中排水量1000トン、水上速力14.5ノット、水中速力9ノット、魚雷発射管6門、魚雷6本、10.5cm砲1門、水上航続距離5000海里)

U55→〇三号潜水艦

(1916年夏就役、水上排水量750トン、水中排水量1000トン、水上速力15ノット、水中速力9ノット、魚雷発射管6門、魚雷6本、10.5cm砲1門、8.8cm砲1門、水上航続距離5000海里)

UC90機雷敷設潜水艦→○四号潜水艦

(1918年夏就役、水上排水量700トン、水中排水量840トン、水上速力12ノット、水中速力7ノット、魚雷発射管3門、魚雷4本、機雷敷設管6門、機雷14個、10.5cm砲1門、水上航続距離8000海里)

UC99機雷敷設潜水艦→○五号潜水艦

1918年夏就役、水上排水量700トン、水中排水量840トン、水上速力12ノット、水中速力7ノット、魚雷発射管3門、魚雷4本、機雷敷設管6門、機雷14個、10.5cm砲1門、水上航続距離8000海里)

UB125→○六号潜水艦

(1918年春就役、水上排水量502トン、水中排水量723トン、水上速力13.4ノット、水中速力7.8ノット、魚雷発射管5門、魚雷10本、10.5cm砲1門、水上航続距離4000海里)

UB143→○七号潜水艦

(1918年春就役、水上排水量502トン、水中排水量723トン、水上速力13.4ノット、水中速力7.8ノット、魚雷発射管5門、魚雷10本、10.5cm砲1門、水上航続距離4000海里)

*各艦の水上航続距離は9ノットで巡航した場合の値。

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艦艇学入門 潜水艦P203
U125潜水艦改第○一号潜水艦(上)、UC90改め、第○五号潜水艦(下)

 艦番号にゼロ(本文では○としています)を加えたのは日本海軍としては珍しいものの、イギリス海軍の小型艦艇では一般的な用法で、日本側も国内の潜水艇との区別に役立ったようです。[1-1]

 
ところが、要員がハーリッジに着いてみると、ドイツの保安要員は送還済みで、艦内の配置図面もなく、操船方法すらわかりませんでした。[1-1]

 
しかし艦内は几帳面なドイツらしく、よく整頓され、装置にはネームカードがありました。そこで各艦長は英独辞書を片手に、艦内構造の把握に努めました。[1-1]

 
こうした努力の甲斐あって、浮田艦長の○七号潜水艦の場合、モーター、バッテリー、操舵装置、艦内通信装置が使用可能になりました。[1-1]

 
ただし、〇一号潜水艦を除き、どの艦もディーゼルエンジンの復活には到りませんでした。[1-1]

 
そこで、第二特務艦隊の水上艦艇が潜水艦を曳航索で引っ張ってハーリッジを離れ、潜水艦の受け入れと修理ができるイギリス南部のポートランド港230海里(425km)まで回航、同地でディーゼルエンジンやその他の箇所を修理して、日本まで自力航行ができる状態に復元することになりました。[1-1]

 
さらに、曳航索が切れた場合にモーターで航行できるようバッテリーも充電。このため出港に先立ちイギリス潜水艦から、電力の共有を受けています。[1-1]

 
ただし、バッテリー容量を確認する余裕がなかったため、どこまで航行できるかは未知数でした。[1-1]

 
最初の曳航は12月28日に開始されました。○二号潜水艦(U46号)が出雲に曳かれてハーリッジを出港し、無事にポートランドへ到着しています。[1-1]

 
ところが新年早々1月1日には、檜の乗員1名が激浪で行方不明に。戦争が終わったとはいえ、曳航作業はまさに命がけでした。[2-1]

 
さらに、最後にハーリッジを離れた○七号潜水艦(UB143)はポートランドまで100kmに迫ったところで、セント・オルババンス岬の逆潮により、橄欖との曳航索が切断されてしまいます。[1-1]

 
取り残された○七号潜水艦は、浮田艦長の指揮のもと発行信号で橄欖へ危機を伝え(無線が繋がらなかった)、モーター推進で付近のプール港への避難を開始。途中浅瀬に座礁するものの、幸い船底にダメージがなかったため、橄欖と桃の協力で浅瀬から脱出に成功します。

 
ただし、直後に暴風警報が発令されたことで、結局プール港に退避し、嵐が去ってから曳航を再開しました。全ての潜水艦がポートランドに到着したのは1月18日のことでした。[1-1]

 
またイギリスから貸与されていた駆逐艦橄欖と栴檀は、1月17日にプリマスでイギリス海軍に返還されました。[1-1]

 
ポートランドに到着した潜水艦のうち、○一号潜水艦以外の6隻の機関がポートランド造船所およびポーツマスの海軍工廠の協力で修理整備され、○二号潜水艦のみポーツマスで修理されています。[1-1]

 
ポーツマスの司令長官はとても親切で紳士的な方で、潜水艦の故障部品を自身の所有していた潜水艦から交換するという措置までとったといいます。[3-1]

 
ただしこの時期に、運悪くイギリスの流行性感冒(スペイン風邪)の時期と重なり、何割かの将兵が床に伏しています。特にポーツマスで修理を受ける○二号潜水艦の乗員40名のうち、過半数が罹患し9名がイギリス軍病院に入院しました。[2-1]

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日本海軍地中海遠征秘録 P85
ポーツマスにて入渠した潜水艦(○二号潜水艦?)

 そして、2月19日には、準備の整った○一号、○三号、○四号、○六号潜水艦が、日進以下7隻の駆逐艦の護衛をうけてポートランドを出港。 [1-1]

 
最初の航海では大事をとって、僅かに進んだだけで、フランスのブレスト港へ入港していますが、たった1日の航海で機関故障や浸水などトラブルが続いたため、23日まで仮泊することになりました。

 
そして、26日にはスペインのエルフェーロール、3月2日にイギリス領ジブラルタルを経て、3月10日にマルタへ到着しています。[1-1]

 
残る○五,○七号は3月5日、○二号は3月10日に出港し、3月25、27日にマルタへ到着しました。[1-1]

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Japanese_Cruiser_Nishin_with_U-boats,_Malta_Art.IWMART3114.jpg
潜水艦と日進

 これをうけイギリス海軍当局の関係者は第二特務艦隊を称賛。彼らは半数だけでも曳航できれば成功と噂していただけに、大変驚いたといいます。[1-1]

 
なお、マルタから日本までの航海は、日本から派遣された特務艦関東および専門の回航員が担当することになり、一足先に日本へ向かっています。[1-1]

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日本海軍地中海遠征秘録 P77
特務船東海に横付けした戦利潜水艦

 続いて巡洋艦日進と、第二十二、二十三駆逐隊も、4月6日から9日にかけてマルタを出港。6月18日には先に出発した特務艦関東と7隻の潜水艦と合流し、横須賀港へ帰還しています。[1-1]

 
一方、第二十四駆逐隊と旗艦出雲は各国の親善訪問のため、5月まで地中海に残りました。

 
次回は第二特務艦隊による欧州各地の親善訪問と、凱旋帰国の模様を解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征紀(紀脩一郎 1979年6月15日)
[1-1]P225-236
[1-2]P225

アジア歴史資料センター
[2-1]Ref.C10080487200 二等機関兵長瀬長市激浪ニ浚レ行衛不明
[2-2]Ref.C10081114600 没収獨潜水艇回航醫事報告

日本海軍地中海遠征秘録(桜田久編 1997年11月11日)
[3-1]P38

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