日本海軍、地中海を往く 第19回 休戦成る

文:nona

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http://www.bbc.co.uk/schools/0/ww1/25403869

戦争の終結を告げるイギリスのデイリー・ミラー紙

 第二特務艦隊の36回目にして最後の戦闘は、1918年11月2日午前10時に発生しました。[1-1]


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 このとき駆逐艦柏、杉、松は、イギリス艦2隻と共に5隻の輸送船をギリシャのサロニカへ護衛する途上、駆逐艦松が潜水艦を発見したことで戦闘が開始。このとき複数の艦が爆雷を投下するものの、特に松の爆雷は「極めて的確にして効果確実と認む」と記録されるものでしたが、これまでと同じく撃沈には至りませんでした。[1-1]

 また、10月5日には若きカール・デーニッツ艦長も、マルタ沖でイギリス軍に投降し、自身の戦いに終止符を打っていました。[2-1]

 この日デーニッツ艦長の潜水艦UB68は、マルタの南西400kmの[3-1]海域にて、護送船団を攻撃していました。ところが、2度目の待ち伏せ攻撃のため潜行した際、UB68は制御不能となり、過剰潜行で圧壊の危機に陥ります。

 やむなくデーニッツ艦長は緊急浮上を指示するものの、浮上したのは船団のど真ん中。すぐさま集中砲撃をうけ航行不能となり、艦の放棄と投降を余儀なくされたのです。[2-1]

 デーニッツ艦長は1914年に軽巡洋艦ブレスラウの乗組員として地中海へ入り、後に潜水艦乗りに転じて地中海で戦っていました。[2-1] 彼と第二特務艦隊側との交戦記録は見つからなかったものの、潜望鏡を通して日本の軍艦旗を目撃することもあったかもしれません。

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http://uboat.net/wwi/men/commanders/55.html
第一次世界大戦時代のデーニッツ。

 さらに、1918年秋にはドイツ本国においても、新首相のマックス・フォン・バーデンが、アメリカのウィルソン大統領らと、水面下の停戦交渉にあたっていました。[4-1]

 
しかし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世や軍が停戦を認めなかったために、交渉は停滞。今停戦すれば、皇帝や軍には苛烈な制裁が課されることになるからです。

 
1918年10月28日には、ドイツ大海艦隊司令長官のヒッパー大将が大海艦隊へ、出撃を命令。[5-1]

 
すでに敗戦色は濃いものの、連合国軍に対して一矢報いれば、多少は有利な条件で講和できる、と考えたのかもしれません。

 
しかし第三艦隊の水兵は出撃に反対し、ボイラーの火を落とします。今度の出撃は停戦交渉を台無しにするばかりか、生きて帰れる見込みもなかったのです。

 
これにより大海艦隊出動が見送られたものの、海軍当局は抗命した水兵約1000名を逮捕。[5-1]

 
すると残った水兵たちが逮捕者達の釈放を求めて集結し、11月3日には労働者達を巻き込んで軍拘置所に突入。警備隊の発砲により9名が死亡しました。[5-1]

 
これをうけて水兵達は武装蜂起、艦隊司令部とキール軍港司令部は放棄され、キール市内にはレーテ(兵士評議会)がおこり、反乱はドイツ国内中に飛び火しました。

 
そして11月9日、ヴィルヘルム2世は退位し、中立国オランダに亡命。[5-1]

 
継戦派の勢力が弱まったことで停戦交渉は加速し、11月11日にパリのコンピエーニュの森に運ばれた客車において、連合国とドイツ間の休戦条約が調印されました。[4-1]

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https://en.wikipedia.org/wiki/Forest_of_Compi%C3%A8gne#/media/File:Armisticetrain.jpg
客車にて撮影されたフランスのフォッシュ大統領(前列右から2人目)

 こうして第一次世界大戦は終息するものの、同盟国陣営には無傷の兵器が大量に残されており、停戦監視と武装解除が必要となりました。第二特務艦隊もこれを担うことになり、11月末からイギリス、オーストリア、トルコに艦艇を派遣します。11月25日にマルタへ到着して間もなかった巡洋艦日進もこれに加わりました。

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日本海軍地中海遠征秘録P60
巡洋艦日進と長澤艦長


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アジア歴史資料センター Ref.C10080879100
同盟国陣営に対する停戦監視と動員解除のため、1917年末にかけて欧州各地の港に派遣された第二特務艦隊

 一方で武装トローラーの特務船東京と西京は原状回復の上、11月21日いち早くイギリスへ返還されました。[4-2]

 供与を受けたときには船室にトコシラミが繁殖し、散々な目に合わされた乗員達でしたが、返還の際には、皆涙を流して別れを惜しんだ、といいます。[4-2]


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日本海軍地中海遠征秘録P59
特務船東京と西京。

 2隻の返還の後、第二特務艦隊は欧州各地に展開。旧オーストリア・ハンガリー領内には6隻が派遣されていますが、領域が分割解体されることもあり、地域ごとに情勢は大きく異なっていました。

 
セベニコ(シベニク)港のように、ユーゴスラビアの成立を祝う土地もあれば、ザラ(ザダル)港のようにイタリア系とユーゴスラビア系の住民がいがみ合う地域もありました。[6-1](同地は後にイタリアに割譲されています。)

 
そしてオーストリア・ハンガリー帝国最大級の軍港であったポーラ(プーラ)もイタリアへの編入が決定されたものの、市民が非常に困窮する様子が伝えられています。

 
毎朝4時には食糧配給の列ができ、レストランやホテルは休業、銀行は外貨に交換しようとする人で溢れ、午後1時に閉鎖されていました。[6-1]

 
またイタリア海軍は旧オーストリアの将校らの編入を認めたものの、元将校らはポーラを離れたようで、同地の豪華な士官クラブには、イタリア士官がいるのみでした。[6-1]

 
ポーラで停戦監視が行われる中、巡洋艦日進は柏、楠、梅、桃、樫を連れ、12月6日にコンスタンティノープルへ向かいました。11日には橄欖と栴檀も加わっています。[4-2]

 
すでにコンスタンティノープルには他の同盟国艦艇が入港していましたが、未だ予断を許さない状況ということで乗員の四直配置が継続され、いつでも砲撃できるよう維持しました。

 
しかし、トルコの軍人と一般市民は、日本の将兵に対し非常に好意をもって歓迎。支払いを円貨で受け取ってくれたと、という話まで残っています。他方のイギリスとフランス兵は全く歓迎されませんでした。[4-2] 

 
そしてイギリスに派遣されていた柳と檜は、12月4日にドイツ大海艦隊が係留されるスカパ・フロー泊地に向かいます。同地は北緯56度に位置し、午後3時には暗くなり、寒さも大変厳しいものでした。[4-2]

 
当時ここには戦艦及び巡洋艦10隻、軽巡洋艦、7ないし8、駆逐艦50隻が投錨しておりましたが、大型艦で4,50名、小型艦で5,6名の若干の保安要員が残るばかり。しかも、ドイツ海軍の乗組員の規律は乱れ、士官の多くは階級章を外していました。[5-1]

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https://en.wikipedia.org/wiki/File:Germans_fishing.jpg
釣りをするドイツ人乗組員

 第二特務艦隊の将校もドイツ艦と様子を「汚れた舷、いぶせきマストには敗戦の色は一際濃く、日本男児もただ同情を禁じ得ないものがあった。」と記録しています。[4-3]

 
ただ、同地に残っていたドイツ海軍のロイター少将らは、連合国軍に対する最後の抵抗として「自分たちがとり得る唯一の攻撃的手段」を計画し、1919年6月21日の10時21分にスカパ・フローのドイツ艦を一斉に自沈させてしまいます。[5-2]

 
イギリス海軍は腹いせに、ロイター少将を艦船覆没罪で起訴を試みるものの、ドイツ艦艇はイギリスの国有財産でないとして、結局起訴されなかった[5-2]といいます。

 
なお、潜水艦はスカパ・フローではなく、ロンドンの北西100kmにあるハーリッジ泊地に集められていました。

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日本海軍地中海遠征秘録P83より
ハーリッジに集められたドイツ潜水艦


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日本海軍地中海遠征秘録P83より
潜水艦ドイッチェラント(U-151)艦上の日本海軍士官とイギリス士官。
同艦は大戦中期に中立国アメリカとの連絡用としてもいられ、暗号帳や戦略資源を輸送。大戦後期には巡洋潜水艦に改められ実戦に投入された。

 終戦時ドイツ海軍に就役していた潜水艦は176隻、建造中149隻を数え、ハーリッジに大西洋側にあった潜水艦を隙間なく並べていました。[2-2]

 ところがイギリス海軍、各地から帰国するイギリス艦のためにハーリッジをクリアにしたいとして、1918年末に、各国に戦利潜水艦を速やかに引き取るよう、強く要請しています。[4-3]

 一方日本海軍は潜水艦の回航要員を12月中旬に出発させたものの、到着にはかなりの時間がかかります。

 そこでマルタの第二特務艦隊が潜水艦を曳航して、受け入れの余裕があるポートランド港まで回航させることになりました。

 次回は戦利潜水艦の回航について解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征秘録(桜田久編 1997年11月11日)
[1-1]P107

Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史(デヴィット・ミラー著、岩重多四郎訳 2001年9月1日)
[2-1]P140
[2-2]P10-11

uboat.net
[3-1]
WWI U-boats UB68<http://uboat.net/wwi/boats/index.html?boat=UB+68>
WWI U-boat commanders Karl Dönitz<http://uboat.net/wwi/men/commanders/55.html>

日本海軍地中海遠征紀(紀脩一郎 1979年6月15日)
[4-1]P211
[4-2]P215-218
[4-3]P221
[4-4]P226

死闘の海―第一次世界大戦海戦史(三野正洋、古清水政夫2004年7月12日)
[5-1]P228-230
[5-2]P228-236

アジア歴史資料センター
[6-1]Ref.C10080638800,C10080638900 第二十二駆逐隊第二正体(梅・楠)アドリアチック東部沿岸巡航記録

日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
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