【軍事講座】戦艦扶桑の「常在戦場」

文:加賀谷康介(サークル:烈風天駆)



○「はぁ……、空はあんなに青いのに……」

 
なんだか空耳が聞こえてくる今日この頃ですが、本日は戦艦「扶桑」の話です。
 「扶桑」と言えば浮かぶ違法建築、海外でも何故だか大人気の日本戦艦ですが、スリガオ海峡で駆逐艦相手に瞬殺されたこともあり、武勲の面で評価されることはまずありません。何となく幸薄い艦、という印象は大多数の人に共通のものではないでしょうか。

 「武勲に恵まれなかったほうでしょうな」
 「扶桑」の元艦長(鶴岡信道・元海軍少将。昭和18年6月~19年2月まで艦長)もそう言っていますから、武勲がないのは否定のしようがありません。
 ですがこれは、「扶桑」の功績は武勲の有無だけで決まるもんじゃないよ、というお話です。

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○「柱島艦隊」という虚像

 
「太平洋戦争中は作戦行動に出撃する機会が少なく、特に戦艦で構成する第二戦隊は柱島に常時停泊しており「柱島艦隊」と揶揄された。」

 
Wikipediaによる「第一艦隊 (日本海軍)」の解説文の一部です。
 これによると第二戦隊は常時内地に停泊していたそうですが、時期や期間の明記がありません。Wikipediaによくあるアバウトな解説ですが、実際のところどんなものか検証してみましょう。
 今回取り上げるのは、戦艦による海戦が行われなかった昭和18年を中心に、昭和18年2月のガダルカナル島撤収から昭和19年5月、あ号作戦発動までの16か月としました。
 何となく恣意的な範囲指定ですが、俗な海戦記の空白を衝いてゆくスタンスの記事なので、そこのところはお許しください。


それでは、下のグラフをどうぞ。
1


 昭和18年2月以降、現存戦艦10隻の動向を一か月単位で色分けしました。
 大ざっぱに暖色系が内地、寒色系が南方と考えてもらえれば大体間違いありません。
 むっちゃ…「陸奥」が18年6月から灰色に塗ってあるのは…、つまりそういうことです。


 ご覧のとおり、Wikipediaが言うほど事実は単純ではありません。
 戦局の変化と艦の整備・修理改装のタイミングもあり、目まぐるしく入れ替わっているのがわかります。

グラフを補足しますと
・「伊勢」「日向」の長期入渠は航空戦艦への改装によるもの
・18年5月まで、南方組(第1・第3戦隊)と内地組(第2戦隊)に分けられる
・18年5月、米軍の北東方面反攻開始(アッツ島上陸)により南方組が内地に帰還
・18年7月、米軍の南東方面反攻開始(レンドバ島上陸)により第3・第1・第2戦隊の順で南方に復帰
・18年10月、「山城」「伊勢」の南方行きは丁三号輸送作戦による陸兵輸送(常駐ではない)
・19年前半、「大和」「武蔵」の入渠は潜水艦雷撃の損傷修理

 
内地滞在の一番長い「山城」ですが、実は18年2月から横須賀方面でもっぱら砲術練習艦として使用されており、実戦兵力には含まれていません。また「伊勢」「日向」は航空戦艦へ改装したものの飛行機隊の準備はこれからで、用法が未確定のため戦艦としておいそれとは使用できない状況でした。つまり、このグラフにおける「山城」「伊勢」「日向」は戦艦としてカウントできない存在なのです。
 18年8月以降、上記の3隻を除くと実戦即応状態で内地に待機していた戦艦はありません。「柱島艦隊」という存在がなかったわけではありませんが、それは米軍が南東方面で反攻に出る18年7月まで、まだ連合艦隊戦艦部隊が数的劣勢に陥る前の小春日和の出来事でした。

○「扶桑」前線出撃

 
前置きが長くなりましたが、いよいよ「扶桑」の行動について触れてゆきます。
 18年8月17日、「扶桑」は瀬戸内海を抜錨、トラック島に向け出撃します。同航するのは同じ第二戦隊の旗艦「長門」。そして入渠中、姉妹艦「武蔵」のトラック進出に置いてゆかれた「大和」です。
 最前線の中部ソロモンでは6月末から米軍が反攻作戦を開始、7月中には同方面の緊急輸送作戦中に夜戦が続発し(クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦)、ガダルカナル島以来の大規模水上戦闘の可能性が高まっていました。
 実際に米軍はこの反攻作戦に対し、戦艦5隻(TF.36.3「マサチューセッツ」「インディアナ」「ノースカロライナ」。TF.36.4「メリーランド」「コロラド」)を動員していました。新旧混成ですがいずれも16インチ砲装備の強敵です。連合艦隊司令部が既に進出済みの「武蔵」「金剛」「榛名」に加えて、「大和」「長門」「扶桑」をトラックに招集し、6隻態勢で対抗しようとしたのは全く正常な判断だったと思いますし、砲戦力の面では、これでようやく優位に立てるギリギリの状況でした(日:46糎×18門。41糎×8門。36糎×28門の合計54門。米:16吋×43門)。
 これで「扶桑」がいなければ日本軍は42門となり、米軍に1門ですが逆転を許します。大和型の優位は金剛型の劣位で相殺されてしまうので、勝敗はどちらに転ぶかわかりません。連合艦隊にとってこの時期の「扶桑」は、まさに勝敗を左右しかねない存在でした。

 
結局、中部~北部ソロモンの攻防は中小艦艇による戦闘のみで終始し、日米両軍ともに戦艦を前線に繰り出すことはありませんでしたが、次に米軍は中部太平洋方面に来ると判断した連合艦隊司令部は、トラック島に集結した第1・第2・第3艦隊をマーシャル諸島に前進させて邀撃を試みます。
 当然「扶桑」も第一艦隊第二戦隊の二番艦として参加、ミッドウェー海戦以来の遠方へ出動しました。
 10月17日から26日にかけて行われたこの出撃は空振りに終わり、俗に「連合艦隊の大散歩」と呼ばれる結果になりました。連合艦隊はトラック島に備蓄していた決戦用の燃料を浪費、11月に米軍がブーゲンビル、ギルバート両方面に相次いで侵攻した際、戦艦・空母といった大型艦の投入を控えざるを得なくなります。

 
ではもし、連合艦隊が「大散歩」で燃料を浪費せず、米軍のギルバート進攻作戦をタイムリーに邀撃していたらどうなったのでしょうか。
 その場合、「扶桑」と対戦の可能性があったのは次の戦艦群です。
TG.50.1「サウスダコタ」「ワシントン」
TG. 50.2「マサチューセッツ」「インディアナ」「ノースカロライナ」
TG.52.2「ニューメキシコ」「アイダホ」「ミシシッピー」「ペンシルヴァニア」
TG.53.4「テネシー」「メリーランド」「コロラド」

 
現実は過酷です。日本軍戦艦の兵力は8月と同じ6隻(第1戦隊「武蔵」「大和」、第2戦隊「長門」「扶桑」、第3戦隊「金剛」「榛名」)なのに対し、米軍は倍の12隻を投入していました。砲戦力の面では日本側54門に対し、米軍は121門(16吋×61門。14吋×60門)と倍以上の差があります。
 8月の時点では辛うじて拮抗ないし優位を占めていた日本軍でしたが、わずか3か月後にはもはやどうしようもないレベルの大差がついていました。この状況では「扶桑」の設計に多少の問題があろうがなかろうが関係なく、戦力としてカウントせざるを得ないのが連合艦隊の苦しい台所事情です。

 
畳み掛けるように翌19年1月下旬から、米軍はマーシャル方面に侵攻を開始します。
 連合艦隊は一航戦飛行機隊を11月、二航戦飛行機隊を1月からラバウル方面に投入して消耗しており、艦隊航空作戦の立ち行かない状況でしたから、艦隊による邀撃は始めから断念せざるを得ませんでした。

 
マーシャル方面に来襲した米軍侵攻部隊に含まれる戦艦群は次のとおりです。
TG.58.1「マサチューセッツ」「インディアナ」「ワシントン」
TG.58.2「サウスダコタ」「アラバマ」「ノースカロライナ」
TG.58.3「アイオワ」「ニュージャージー」
TG.52.8「アイダホ」「ニューメキシコ」「ミシシッピー」「ペンシルヴァニア」
TG.53.5「テネシー」「メリーランド」「コロラド」

 
合計15隻、既に米帝プレイ状態満開です。新型戦艦はノースカロライナ級とサウスダコタ級が全艦勢ぞろいしたのに加え、新鋭のアイオワ級が加わっています。旧型戦艦の顔ぶれに変化はありませんが、いずれも「扶桑」と同等以上の強敵であることに違いはありません。
 対する連合艦隊ですが、使用可能な戦艦は11月の6隻に比べ半減していました。「金剛」「榛名」は整備及び対空兵装強化のため内地に帰還しており、頼みの「大和」も昨年末(12月25日)に米潜水艦の雷撃で損傷、同じく1月から修理及び対空兵装強化のため内地に帰還していました。
 前線に残る戦艦は「武蔵」「長門」、そして「扶桑」の3隻のみ。砲戦力はわずか29門(46糎×9門。41糎×8門。36糎×12門)に過ぎません。米軍のそれは148門(16吋×88門。14吋×60門)に達しており、どうあがいても絶対対抗不可能な状況でした。連合艦隊司令長官の古賀大将はマーシャル方面が制圧された後、トラックから艦隊主力を後退させる決断を下していますが、単に航空兵力の不足だけがその理由ではないようです。
 2月1日、「扶桑」を含む第一艦隊(敷島部隊と呼称)はトラック島を出航、後方のパラオに後退しますが、わずか2週間後の16日に再び出航、今度ははるか西のスマトラ島リンガ泊地に移動しました。それまで一緒だった「武蔵」は別行動をとり、連合艦隊司令部を乗せて内地に帰還します。

 
はたせるかな米軍は機動部隊でトラック島を急襲、所在の航空部隊と在泊艦船に大打撃を与えます。
 この機動部隊には新型戦艦6隻(TG. 58.3「マサチューセッツ」「サウスダコタ」「アラバマ」「ノースカロライナ」。TG.50.9「アイオワ」「ニュージャージー」)が含まれていました。別にエニウェトク環礁占領部隊の護衛として「ペンシルヴァニア」「テネシー」「コロラド」が同方面を行動しています。
 仮に古賀長官がトラック死守を図ったとしても、日本戦艦3隻・29門に対し米戦艦6隻・54門(16吋×54門。機動部隊随伴艦のみ。エニウェトクの3隻を除く)の大差がありました。マーシャル方面来襲の全戦艦を相手にするより幾分マシかもしれませんが、そもそも航空兵力が一方的過ぎて、戦艦同士の戦力を比較することに意味があるのか疑問に思えてきます。
 少なくともトラック島からの後退は勝ち目のない戦いを回避する意味では賢明な判断だったと言えるでしょう。

○前線に留まる「扶桑」

 
さて、リンガ泊地に落ち延びた「扶桑」ですが、同航する戦艦は「長門」のみ。
 南方海域で作戦可能な戦艦がたった2隻のみに激減していた連合艦隊ですが、3月15日に内地から工事を終えた「金剛」「榛名」が合同し、とりあえず4隻態勢となりました。
 本来なら入れ替わりで、前線待機連続7か月目の「長門」と「扶桑」が内地に帰還し、整備や対空兵装の強化工事を受けるべきなのでしょうが、今の連合艦隊にそんな余裕は逆立ちしてもありません。リンガ泊地のすぐそば、シンガポールのセレター軍港には戦艦クラスでも充分入渠可能な大ドッグ(セレター第一船渠。通称キングジョージ6世ドック。全長約307m、幅約40m)があり、3月末から4月にかけて交代で艦底掃除のため入渠したのが、この間両艦が受けられたサポートのすべてでした。

 
しかし、マレー蘭印方面も安住の地とは限りません。前門の虎が米太平洋艦隊ならば、後門の狼が英東洋艦隊。4月19日に英東洋艦隊がスマトラ島北西端のサバンを空襲、その機動部隊には戦艦・巡洋戦艦4隻が含まれていました(英「クイーンエリザベス」「ヴァリアント」「レナウン」及びフランス戦艦「リシュリュー」)。
 幸い英東洋艦隊は日本艦隊がリンガ泊地にいることを察知しておらず、1日の空襲で引き揚げましたが、「扶桑」を含む在泊艦船には一応警戒配置が命じられています。両者の間には巨大なスマトラ島を隔てて約1,000キロの距離があり、直接交戦は考えられませんが、仮に比較すると戦艦数は日本4隻:英仏4隻で同数。砲戦力では日本36門(41糎×8門。36糎×28門)、英仏30門(15吋相当×30門)と、砲口径差を考慮するとほぼ拮抗している状況でした。

 
5月4日、内地で工事を終えた「大和」がリンガ泊地に到着し、これで5隻態勢となります。本来であればこれに加えて「武蔵」が合流し、18年10月以来半年ぶりの6隻集結が実現するところでしたが、同艦は米機動部隊のパラオ空襲から避退する途中の3月29日、米潜水艦の雷撃で損傷し、4月から修理及び対空兵装強化のため内地に帰還していました。
※ここらへんは「大和」のコピペくさい文章ですが、コピペです。

 
なにはともあれ、この時期にはリンガ泊地に各艦艇が集結をはじめ、ようやく活気が出てきました。
 5月11日、「扶桑」を含む第二艦隊(一日遅れて第一航空戦隊)はリンガ泊地を出航。「あ号」作戦の前進待機地点タウィタウィに14日到着します。続いて16日、内地から出航した「武蔵」(第二・第三航空戦隊に同航)がタウィタウィに到着。これでタウィタウィに空母9隻及び戦艦6隻(「大和」「武蔵」「長門」「扶桑」「金剛」「榛名」)が揃い、第一機動部隊全力が集結を終えました。

 
日本戦艦6隻の砲戦力は54門(46糎×18門。41糎×8門。36糎×28門)。この数字は昨年8月、「扶桑」がトラック島に進出した当時と全く同じ顔ぶれで、別に増加はしていません。それでも一時期(昭和19年1~2月ごろ)連合艦隊がほとんど離散していたころに比べると見事な復活ぶりでした。

 
一方米軍も、満を持して次の侵攻目標にマリアナ諸島サイパンを選択。
 次のような戦艦群を伴う侵攻部隊を同時期、エニウェトク環礁に集結させていました。

TG.58.7「ワシントン」「ノースカロライナ」「アイオワ」「ニュージャージー」「インディアナ」「サウスダコタ」「アラバマ」
TG.52.17「テネシー」「カリフォルニア」「メリーランド」「コロラド」
TG.52.10「ペンシルヴァニア」「アイダホ」「ニューメキシコ」

 
合計14隻。マーシャル方面進攻作戦の時と比較すると、「マサチューセッツ」「ミシシッピ」がオーバーホールのため後退し、代わりに「カリフォルニア」が新たに参加しています。総数では1隻減ですが、それでも砲戦力は139門(16吋×79門。14吋×60門)と日本戦艦の約2.5倍。圧倒的に強力であることに変わりはありません。
 「扶桑」「長門」を11か月連続で前線に張り付けている連合艦隊のブラック企業ぶりを考えると、オーバーホールの辺はなんというか、流石米帝。ホワイト企業ばりの余裕の運用ですね。

 
いずれにせよ舞台は整い、役者は全員揃いました。18年8月の南方進出以来はや10か月、緊張に耐え続け、待機に待機を重ねた「扶桑」にとってようやく僚艦と肩を並べて戦う機会が目前に迫ったわけですが…
 「え、ビアク島?『発動!渾作戦』ですか?提督、そのイベントは70年後です!」

 
どうも別の話に脱線しそうなので、この辺でまとめに入ろうと思います。

○「強力な連合艦隊」のハリボテを懸命に支えた「扶桑」

 
以上が、昭和18年8月から19年5月までの「扶桑」の足跡です。
「わしはなんにも戦争をしとらんのですよ」
 
これも「扶桑」の元艦長(鶴岡信道・元海軍少将。昭和18年6月~19年2月まで艦長)の言葉ですが、確かにこの間、扶桑は一度も実際の戦闘に参加していません。
 しかしご覧になったとおり、「扶桑」の戦争とは、単純に大砲をドンパチ撃ち合うのとは次元の違うものです。敵の兵力を見積り、それに対抗可能な(もしくは、脅威を与えるに足る)兵力を確保・維持することは軍事作戦の基礎ですが、その意味では「扶桑」は紛れもない連合艦隊の貴重な戦力でした。

 「扶桑」は昭和18年8月17日に内地を出撃して以来、マリアナ沖海戦後の19年7月15日に帰国するまで、実に連続11か月間、一度も内地に戻ることなく前線で待機生活を続けていました。これは他の戦艦と比べても異常に長い期間で、これを超える期間の日本戦艦は調べる限り他にありません(これは、この期間終始同一行動をとった「長門」も同じです)。
 おかげで「扶桑」は対空兵装の強化工事を受ける機会がなく、マリアナ沖海戦のころまで、南方進出直前に装備した21号電探と若干の機銃を除けば、開戦時そのままの姿でした。
 マリアナ沖海戦後の帰国入渠の際も、22号及び13号電探の装備及び機銃の強化だけで、再びリンガ泊地に向かっています。同じ事情の「長門」は、フィリピン沖海戦から帰国後にようやく高角砲2基を増設しましたが、「扶桑」には最期までその機会はありませんでした(別の問題として、新たに高角砲を置く余分なスペースが艦上にあったのかという疑問はありますが)。

 
また、「扶桑」が前線で待機を張り続けていた期間は、他の戦艦に修理・改装の必要があった時期と重なるのは見逃せません。
 18年8月に6隻が即応状態であった戦艦は、18年12月に「金剛」「榛名」が後退して「扶桑」を含む4隻となり、翌19年1月に「大和」が離脱した後は「扶桑」を含むわずか3隻となります。3月に「金剛」「榛名」が復帰しますが「武蔵」が離脱したため、4月には頼みの「大和」「武蔵」両方とも修理改装中という危機的状況を迎えました。
 この間、一貫して戦闘即応状態で南方に待機していた「扶桑」と「長門」は、連合艦隊にとって直ちに使用できる唯一の有力な水上部隊でした。
 結果的にそういう事態は発生しませんでしたが、米軍のホーランディア侵攻(東西ニューギニアの境界に近い北岸の港湾。絶対国防圏の外縁部に位置し、日本陸軍第4航空軍の重要拠点であった。19年4月22日米軍が奇襲的に上陸し、所在の非地上戦闘部隊およそ15,000が終戦までに戦没)に対し、連合艦隊に出動が命令された場合、「扶桑」と「長門」は大和型抜きでも戦う必要があったのです。

 
もし、「扶桑」が実用に耐えない欠陥戦艦であり、連合艦隊にとってなんら戦力となり得ない存在であれば、「金剛」「榛名」「大和」「武蔵」は改装や本格修理を見送ってでも前線に留まらざるを得なかったでしょう。そうした最悪の事態を回避し、無事4戦艦の戦列復帰まで前線にあり続けたこと、それ自体が偉大な中継ぎ、「扶桑」の誇られざる功績と評しては褒めすぎでしょうか。
 太平洋戦争中の「扶桑」について、皆さんで認識を深めてもらう一助になれば幸いです。

 閑話休題。
 そもそものきっかけになった、昭和18年8月「扶桑」の南方進出は本当に予定されていたことなのでしょうか。
 私には、「扶桑」の南方進出は「陸奥」の代替だったという気がしてなりません。
 本来であれば「長門」と「陸奥」の姉妹艦でトラックに進出するところ、生憎「陸奥」が謎の爆沈を遂げたため、同じ第二戦隊で「長門」の僚艦である「扶桑」がピンチヒッターとして引っ張り出されたような気がします。
 もし、「陸奥」が健在であれば、1・「長門」「陸奥」の2隻でトラックに進出。2・「長門」「陸奥」「扶桑」の3隻でトラックに進出。の二通りが考えられますが、私は2の可能性はなく、本当に「前線には出せない艦」として「山城」同様に練習艦として使用されたのではないでしょうか。
 あるいは3隻目の航空戦艦へ改造の道が開けたかもしれないと思います(時系列のグラフを見ると、もう1隻ぐらいなら昭和19年前半ぐらいに航空戦艦へ改造完了できそうな気がする)。
 その意味では、「扶桑」が瑞雲を手にする機会は「陸奥」の爆沈によって失われたのかもしれません。

 以上、余計な蛇足でした。


【参考文献】
阿川弘之『軍艦長門の生涯』新潮社 1982年
木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社 1983年
佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争』光人社 1993年
朝雲新聞社『戦史叢書』関係各巻
Jurgen Rohwer『Chronik des Seekrieges 1939-1945』(Web版)

<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』

URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx