日本海軍、地中海を往く 第18回 死の海を渡る

文:nona

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アジア歴史資料センターRef.C10080695000
大正7年5月12日第22,23駆逐隊 戦闘詳報より
第二回護送船団の往路の陣形。図に書き込まれていないものの、駆逐艦桂が前進して船団の進路を警備している。

 第二次護送船団は5月1日にアレキサンドリアを出港。今回は防諜に万全を期し、出港直後の潜水艦による待ち伏せもなく、無事に地中海へ出ています。[1-1]

 
5月5日朝には潜水艦に出くわすものの、これを回避。5月6日の深夜1時15分には松と梅が衝突し軽微な損傷をうけるものの、5月7日に恙無くマルセイユへ到着しています。[1-1]


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 ところが、復路となる5月12日の朝5時20分、船団はサルディーニャ島の南方で潜水艦の攻撃をうけ、船団第二線列のオムラが被弾。[1-1]

 
被弾の衝撃に巻き込まれたとされる給炭員1名を除く、乗員269名が桂に救出されました。[1-1]

 
オムラを襲ったのはUB3型潜水艦のUB-52で、艦長はオットー・ラウエンベルグ。大戦中に39隻10万4144 トンの艦船を沈めた後のUボートエースです。[3-1]

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https://en.wikipedia.org/wiki/SS_Omrah

撃沈されたオムラ。全長139.6m排水量8291トンの客船から転用された兵員輸送船。

 なおUB-52の雷跡は船団の左舷で認められたものの、不思議なことにオムラの生存者は右舷を被弾した、と証言しています。一方で付近の艦船によると、オムラの右舷に雷跡は見えなかったとしています。[1-1]

 
このためオムラの被弾は魚雷ではなく、機雷によるものではないか、とも考えられたほどです。

 
第三次護送船団は5月26日にアレキサンドリアを出港。しかし最初の晩に潜水艦に発見され、船団のリーソーカッスルが潜水艦の攻撃を被弾します。[4-1]

 
日付と時刻は5月27日の午前0時半、地点はリビア沖の北緯31度48分、東経27度56分でした。[5-1]

 
なお上記の日付と経度を元に当時の月の満ち欠けを調べてみますと、この日はまさに満月。潜水艦にとってはまたとない攻撃のチャンスでした。[6-1]

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http://uboat.net/wwi/ships_hit/3541.html

リーソーキャッスル。9737トン。

 潜水艦はUB3型のUB 51。艦長はヨハネス・ローズ。1918年8月に戦死するまでに77隻15万665トンの艦船をUボートエースでした。[3-2]

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アジア歴史資料センター Ref.C10080075500 大正7年5月自26日至27日第23駆逐隊(松、榊、栴檀缺)、第22駆逐隊(梅缺)戦闘詳報
5月27日正子の船団の位置。攻撃をうけた時にはリビア沿岸を航行中だった。

 この攻撃をうけ杉が煤煙幕を張ってリーソーカッスルを隠し、イギリス艦のリリーが横付けして生存者を救助します。

 
2954名の将兵と208名の船員の多数は救助されたものの、救助の途中でリーソーカッスルは沈没。101名が船と運命を共にしていました。[1-1] [5-1]

 
続く第四次護送船団は6月12日、14日、21日に潜水艦と交戦するものの、駆逐艦がこれを追い払い、無事に往復しています。第五次護送船団も往路での被害はありませんでした。[5-1]

 
しかし、第五次護送船団の復路となる7月19日の夕方。チュニジアのボン岬に差し掛かったところで、輸送船ポルペロ、にフランスの輸送船オーストラリアンがほぼ同時に被弾しました。[1-2]

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大正7年7月19日20日第23駆逐隊(柏、杉、松)第24駆逐隊(栁)戦闘詳報
アジア歴史資料センター Ref.C1008007720
7月19日の戦闘の状況を報告する図解資料


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http://uboat.net/wwi/ships_hit/566.html

撃沈されたオーストラリアン。6377トン

 この2隻を襲ったのは潜水艦UB57、艦長はオットー・ロイク。記録に残る彼の戦歴は1918年7月以降のもので、新人艦長と推測されます。[3-3]

 
対する第二特務艦隊の駆逐艦は3隻がUB57の射点に殺到。杉が曳航した爆弾付きパラベーンが爆発し、直後に海上に重油が浮かび上がります。[1-2] [5-1]

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平和の海より死の海へP405より。
駆逐艦に設置されたパラベーン。

 UB57の撃沈には至らなかったものの、この日与えた損傷によるものか、以降UB57の戦果記録は2ヶ月ほどストップしています。[5-1]

 
一方で被弾した2隻のうち、ポルペロは曳航が可能な状態にありましたが、一オーストラリアンは搭載弾薬の誘爆で炎上。曳航も不能となっていました。

 
そこで既に救助されていたオーストラリアン船長の要求をうけ、柳の砲撃で撃沈処分することになりました。[4-2]

 
ただ19日夜の砲撃ではオーストラリアンは沈まず、翌朝に松が2発砲撃したところで、ようやく沈没。[1-2]

 
この時にはオーストラリアンの老船長も青ざめた顔をついにハンカチで抑えてしまったといいます。[2-2]

 
ただフランス政府はオーストラリアンの撃沈処分に納得がいかなかったのか、日本に抗議しています。[7-1]

 
以上、第二特務艦隊は4月上旬から7月下旬までの五度に渡る船団の護衛を実施。オムラ、リーソーカッスル、オーストラリアンの3隻を護送中に喪失。護衛戦の難しさを印象づける結果となりました。

 
しかしリーソーカッスルで亡くなった将兵90名[5-1]を除いて、ほとんどのイギリス陸兵を無事にフランスへ護送しています。

 
護送された兵員の総数はつかめませんでしたが、第1回時の輸送数が2万名と記録されているので約10万名の将兵を護送したものと思われます。

 
数百の師団が睨み合っていた西部戦線においては雀の涙の戦力ではあるものの、イギリス陸軍の立て直しに貢献できたのは間違いありません。

 
そして1918年8月8日、アミアンの戦いにて連合国軍はドイツ軍に快勝。[8-1]ドイツの野望はここで完全に挫かれてしまい、余力を失ったドイツは守勢に回り、厭戦気分は同盟各国に伝染していきました。

 
9月のメギドの戦いでシリア地方のオスマン軍は連敗を喫し、10月30日についに降伏。[8-1]

 
オーストリアもヴィットリオ・ヴェネトの戦いで戦力を分断されたことで、ついに継戦困難として、11月4日に停戦を受け入れます。[8-1]

 
ドイツ軍は地中海における潜水艦基地を失い、1915年9月に始まった[9-1]地中海における潜水艦戦も終焉を迎えました。

 
本連載もいよいよ大詰め。次回より第一次世界大戦の休戦以降の第二特務艦隊を解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征紀(紀脩一郎 1979年6月15日)
[1-1]P180-196
[1-2]P202-210

平和の海より死の海へ(片岡覺太郎 1921年5月25日)
[2-1]P379-390
[2-2]P404-408

uboat.netよりWWI U-boat commanders
[3-1]Otto Launburg
<
http://uboat.net/wwi/men/commanders/172.html>
[3-2]Johannes Lohs
<
http://uboat.net/wwi/men/commanders/182.html>
[3-3]Otto Loycke
<
http://uboat.net/wwi/men/commanders/186.html>

アジア歴史資料センター
[4-1]Ref.C10080891200、大正7年 第2特務艦隊 雑輯綴
[4-2]Ref.C10080082200、自6年6月至7年12月第2特務艦隊戦闘詳報

日本海軍地中海遠征秘録(桜田久編 1997年11月11日)
[5-1]P104-106

暦のページ
[6-1]月齢カレンダー <
http://koyomi8.com/moonage.htm?cmd=19180501110

第一次世界大戦と日本海軍―外交と軍事との連接 (平間洋一  1998年4月20日)
[7-1]P218-219

第一次世界大戦 下(リデル・ハート著 上村達夫訳 2001年1月10日)
[8-1]P142-143,P194-224,

Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史(デヴィット・ミラー著、岩重多四郎訳 2001年9月1日)
[9-1]P8

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