日本海軍、地中海を往く 第17回 「ビッグコンボイ」護衛作戦

文:nona

 1918年3月の西部戦線崩壊の危機をうけ、イギリスから急遽兵員輸送船7隻の護衛を依頼された第二特務艦隊。当初はカルソープ中将の依頼で、オトラント海峡の封鎖作戦に参加する予定でしたが、[1-1]これを取りやめて護送船団の実施に備えました。

 
なお第二特務艦隊内の3つの駆逐隊は海軍省令により、1918年4月1日から呼称が変更されています。[2-1]

第十駆逐隊→第二十二駆逐隊 桂、楓、楠、梅
第十一駆逐隊→第二十三駆逐隊 松、榊、杉、柏(臨時付属艦として橄欖、栴檀)
第十五駆逐隊→第二十四駆逐隊 樫、桃、檜、柳

 
第二特務艦隊にとって大規模な船団の護衛は初めてのことでしたが、マルタ会議などで護送船団の要領を確認していたため、手探りの状態からのスタートとならずに済んだようです。


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アジア歴史資料センター Ref.C10080075500 大正7年5月自26日至27日第23駆逐隊(松、榊、栴檀缺)、第22駆逐隊(梅缺)戦闘詳報
護送船団に用いられた陣形。

 上の陣形は護送船団で使用された陣形です。

 輸送船は逆三角あるいは逆台形の陣形を組んでいますが、これには側面からの攻撃の危険を減らし、さらに前方から発射された魚雷が後続艦に命中しづらくする効果がありました。[3-1]

 さらに各艦は距離1000-800ヤード(914 ~731m)を保ち、予め実施時間と確度を決めてジグザグ航行を実施が予定されています。[3-1]

 このジグザグ航行には潜水艦の照準を狂わせる目的のほかに、潜水艦に衝突のプレッシャーを与え、船団に割り込ませないようにする効果もありました。[1-1]


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平和の海より死の海へP375より
アレキサンドリアを出港する船団

 第1回の護送船団は4月12日14時に開始されました。起点はアレキサンドリア、目的地はマルセイユです。

 護衛を受けるのは7隻の輸送船(インダラ・オムラ・カイザーアイハインド・カレドニア・カンバラ・マルワ・リーソーカッスル)と、分乗した2万人[4-1]のイギリス陸軍将兵。

 これを護衛するのは第二特務艦隊の檜、樫、柳、桃、楠、梅と若干のイギリス艦です。[4-1]

 さらに出港直前には、アレキサンドリアの艦艇と航空機が総出で潜水艦の捜索にあたりました。しかしながら、完全な安全確保とはなりませんでした。当時の天候は、空は曇り、海には低い海練と霧がありました。視界は4海里ほど。[4-1]

 船団の出港にはかなりの時間を要し、最後の船がアレキサンドリアを出たのは16時40分でした。そのうえ、いくつかの参加艦船はまだ狭い掃海水道を単縦陣にて航行していました。

 これは潜水艦にとって最大の好機、船列の最後尾にあったカレドニアに2本の魚雷が迫ります。時刻は16時45分。[4-1]

 ここでカレドニアの危機に気づいた梅と柳、大急ぎで警告を発して魚雷を回避させると、さらに距離1300mにあった潜望鏡を発見。掃海水道を出て砲撃と爆雷で攻撃しています。[4-1]


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アジア歴史資料センターRef.C10080081500 大正7年4月11日第22駆逐隊第1小隊(楠、梅)戦闘詳報より
4月11日のアレキサンドリア沖の戦闘詳報の一部。

 この攻撃による撃沈戦果はなかったものの、後にドイツ水兵の遺体が浮上した、という記録も残されています。[1-2]

 4月14日に船団はマルタ沖へ到達するものの、マルタには入港せずそのままマルセイユへ直行しました。これは潜水艦の待ち伏せを回避するためです。
 [4-1]

 ただし駆逐艦の燃料の不足が懸念されたため、船団の駆逐艦6隻はマルタ沖で柏、橄欖、栴檀とイギリス駆逐艦3隻に護衛任務をバトンタッチしています。[4-1]

 4月17日に船団はマルセイユに到着。帰路は攻撃の可能性が低いとして、マルタに寄港したのち、4月27日には無事に起点のアレキサンドリアへ戻っています。[4-1]

 第1次の護衛作戦はおおむね成功と考えられますが、ただ唯一4月11日のアレキサンドリアの港外で待ち伏せをうけたことが問題視されました。

 そこで第二特務艦隊、以降の護送船団では防諜を徹底。出港日を厳重に秘匿し、出港に関わる無線電信は封止、出港日は輸送船長や航海長にさえ、直前まで知らせませんでした。[2-1]

 さらに樺型駆逐艦について、残燃料の値からアレキサンドリア・マルセイユ間1405海里(2602km)の直行が可能であると計算され、次回からはマルセイユまで直行することとして、第二次護送船団の実施に備えました。[2-1]

 なお第二特務艦隊では護送船団を平行し、従来どおりの小部隊からなる輸送船隊の護衛も継続。5月1日には桃型駆逐艦の桃と樫が輸送船バンクラスとメノミネを、マルセイユからマルタへ護衛しています。[4-2]


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JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080075400
大正7年3,4,5日第24駆逐隊第2小隊(樫、桃)戦闘詳報より
5月3日の4隻の陣形とジグザグ航行の間隔

 上の画像はこの航海で用いられた陣形です。

 護衛対象の輸送船を前面に出しているのが、なんとも奇妙な陣形です。しかし当時としてはとても画期的な陣形で、ドイツの潜水艦乗りの戦後の証言では「非常に攻撃しにくかった」としています。[1-1]

 当時の潜水艦は護衛艦を潜行してやりすごし、獲物の側面についてから雷撃を加える狙う戦法をとっていました。[1-1]

 そこで駆逐艦を輸送船の後方に配置することで、潜水艦が姿を現したタイミングを逃さずに、素早く迎え撃つことが可能になるのです。[1-1]

 しかし、潜水艦を完全に防ぐには至らなかったようです。

 5月3日20時34分、4隻がチュニジアとシチリア島の中間に差し掛かったところで、輸送船バンクラスが機関室を被弾、航行不能となります。[4-2]

 樫はバンクラスに乗船した軍人と船員87名を救助。桃は煤煙幕を張って援護するものの、夜間のためか潜水艦は発見されませんでした。[4-2]

 この後バンクラスは漂流していましたが、救助されたバンクラスの船長は船が沈む前に、海岸へ挫傷させると言い出します。

 すると樫の植松練磨(とうま)艦長、バンクラス船長の要求を早計と諌め、ポンプ付きの曳船を呼んで、排水と港までの曳航に努力するよう勧めています。[5-1]

 5月4日の朝と晩には近くに潜水艦が現れるものの、どちらも樫が追い払っています。[4-2]

 そして3昼夜に及ぶ復旧作業を経て、バンクラスはマルタへの帰還を果たしました。以来バンクラスの船員達は桃と樫に出会うたびに帽子を振り、感謝の気持ちを伝えた、といいます。[5-1]

 ちなみに、バンクラスを救った樫の植松艦長は、後に第二水雷戦隊司令、上海陸戦隊司令を歴任されています。さらに退役は衆議院議員に転じ、晩年は郷里の福島県南相馬で墳群発掘調査に参加されたとか。一風変わった経歴ですが、多才な人物だったのかもしれません。[6-1]


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http://www.gimu.fks.ed.jp/shidou/jiten/cgi-bin/index.cgi?sheet=detail&name=%A4%A6%A4%A8%A4%DE%A4%C4%A4%C8%A4%A6%A4%DE&area=%C6%EE%C1%EA%C7%CF%BB%D4&hen=jn
植松練磨

 次回は第五次までの護送船団中に発生した主な戦闘を解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征秘録(桜田久編 1997年11月11日)
[1-1]P34-36
[1-2]P104

日本海軍地中海遠征紀(紀脩一郎 1979年6月15日)
[2-1]P162-179

海軍護衛艦(コンボイ)物語 (雨倉孝之 2009年2月5日)
[3-1]P42-43

アジア歴史資料センター
[4-1]Ref.C10080081500 大正7年4月11日第22駆逐隊第1小隊(楠、梅)戦闘詳報
[4-2]Ref.C10080075400 大正7年3,4,5日第24駆逐隊第2小隊(樫、桃)戦闘詳報

平和の海より死の海へ(片岡覺太郎 1921年5月25日)
[4-1]P369-384

新装版 駆逐艦(堀元美 ISBN 4-562-01873-9 1987年6月25日)
[5-1]P137-138

うつくしま電子辞典
[6-1]植松練磨<http://www.gimu.fks.ed.jp/shidou/jiten/cgi-bin/index.cgi?sheet=detail&name=%A4%A6%A4%A8%A4%DE%A4%C4%A4%C8%A4%A6%A4%DE&area=%C6%EE%C1%EA%C7%CF%BB%D4&hen=jn>

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