日本海軍、地中海を往く 第12回 新たな9隻と、マルタ委員会

文:nona

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「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080612100、大正6年 第2特務艦隊 告示綴(防衛省防衛研究所)」
イギリスから貸与された駆逐艦ネメシス

 6月11日の戦闘でうけた傷のために10ヶ月間もの修理を余儀なくされた榊でしたが、第二特務艦隊では榊離脱の穴埋めと、さらなる戦力強化のために、大小8隻の艦船を編入と帰艦の入れ替えを実施しています。


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日本海軍地中海遠征秘録P59
特務船東京と西京

 手始めとしてイギリスから借り受けた船が武装トローラーの「トーキョー」と「ミニングスバイ」。排水量は約200トン、速力は9ノット。武装は57mm砲1門、前方用爆雷投射基(爆雷砲)2門、艦尾投下軌1式、機関銃を備えています。

 6月11日の命名式ではそれぞれ特務船「東京」、特務船「西京」に改名されました。[3-1]

 ただ実戦に供する船ですから艦隊司令部からは「情けないからトローラーとは呼ばないように」という通達がなされたとか。[3-1]

 2隻の運用は旗艦明石からの志願者が3ヶ月交代で従事しました。明石は4月以来港外に出る機会がなく、人員には余裕があったのです。[2-1]

 ところが最初の組が意気揚々と乗り込んだ所、艦内に大量の南京虫(トコジラミ )が湧いていることが判明。[1-2]兵員は見ない体中を刺咬され、戦闘どころではありませんでした。[2-1]

 害虫を船内に残したまま引き渡したイギリスの神経を疑いたいところですが、艦隊軍医長の発案で「毒ガス」を散布[1-2]することになり(除虫菊を焚いただけかもしれませんが)漸く騒ぎも落ち着いた、ということです。[2-1]

 実戦における2隻の活躍は見た目とは裏腹に勇猛果敢でした。7月22日の戦闘では、敵潜水艦に距離50mまで肉薄し砲撃で潜望鏡をへし折り、動きをとめた潜水艦を爆雷攻撃で打撃を与えるなど、駆逐艦顔負けの大活躍をしています。[1-2][3-1]

 次いで1917年8月10日。第二特務艦隊は旗艦を巡洋艦出雲へ移しています。[2-2]

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日本海軍地中海遠征秘録P59
巡洋艦出雲。左上は当初艦長を務めた小林健三大佐と、1918年から艦長を務めた増田幸一大佐。

 出雲は排水量9906t、速力20.8ノットの一等巡洋艦。武装は8インチ連装砲2基、6インチ砲14門、小口径砲12門、魚雷発射管4門。[2-4]

 就役年こそ1899年と、明石の1898年とさほど変わりませんが、排水量と乗員数で3倍近くの差があり、艦内スペースにも余裕がありました。[2-4]


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日本海軍地中海遠征秘録P59
出雲総員の集合写真


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日本海軍地中海遠征秘録P59
明石総員の集合写真(右上は将校)。

 さらに8月18日までに佐世保鎮守府から第十五駆逐隊の桃・樫・檜・柳の4隻がマルタへ派遣されます。[2-4]

 4隻はともに桃型駆逐艦に属し、全長85.85m、公試排水量853トン、基準排水量755トン。樺型よりも若干大型化し、対潜作戦では無用の品ではありますが、魚雷発射管が3連装式に強化されています。[4-1]

 機関は戦時量産型の樺型が旧式のレシプロ機関を採用したのとは対照的に、桃型では初の国内設計による蒸気タービン採用。出力は樺型比で6割増しの16700大馬力の誇り、速力は32.5ノットとなりました。[4-1]

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日本海軍地中海遠征秘録P75
マルタ島で撮影された。桃型駆逐艦(手前の3隻)後方の3本煙突の軍艦は旗艦出雲。

 最後に10月12日にイギリスからエイコーン 級駆逐艦(H級駆逐艦とも)のネメシスとミンストレルが貸与されています。[2-3]以前から地中海に配備されていた駆逐艦で、第二特務艦隊の駆逐艦とも頻繁に顔を合わせていました。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Acorn-class_destroyer
エイコーン級駆逐艦。写真は6番艦フューリー。

 第二特務艦隊では二等駆逐艦の命名基準に則り、ネメシスを橄欖(かんらん、オリーブに似た常葉樹)ミンストレルを栴檀(せんだん、薬草として知られる落葉樹)と、樹木の名前にちなんで改名しています。[2-4]

 2隻の排水量は780トン、速力30ノット。樺型や桃型と大差ありませんが、イギリス艦らしく居住設備は優れており、他艦からは憧れの的であったとか。[4-2]

 (なお一方ではゴキブリ発生の噂もあるそうで[5-1]、出典資料を手配中です。)

 1917年の夏から秋にかけて新たに9隻の艦船が編入されたことで、第二特務艦隊は16隻体制となりました。以降は榊の復帰を除けば艦艇数の増減はなく、全艦が1918年の停戦を迎えています。

 また、第二回特務艦隊の増勢と時を同じくして、コルフ会議での約束であったマルタ委員会が始まっています。第1回会議は8月下旬に開催されました。[3-2]

 当初のメンバーはイギリスのカルソープ中将を委員長に、イタリア・フランスの代表1名と、佐藤司令が正委員となり、この他通訳等の数名の同行者が参加しました。

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日本海軍地中海遠征秘録P75
マルタ島の連合国およびイギリスの指揮官

 第1回の会合では、連合国の間に存在した障壁の撤廃が叫ばれ、これが満場一致で決定されています。[3-2]

 次いでイギリスが「輸送船舶に積み荷の重要度別の等級を与え、護衛の優先順位を明確にして護衛効率を高めるべき」と提案。これにより、ツループシップ(兵員輸送船)を第1級、一般客船を第6級とすることが決定されます。[3-2]

 また第二回会議で佐藤司令、冒頭で起立し「日本の駆逐艦は2隻のトローラー以外は、駆逐艦をもって成り立っているから、高速力の汽船、すなわちツループシップを護衛するのに適している。」「すなわち日本艦隊はツループシップの護衛に当てたいと」と宣言。[3-2]

 これは意思疎通が難しい外国語会議において、会議がたけなわになる頃よりも、最初に意見を述べたほうが、主張が通りやすいはず、という佐藤司令の考えでした。[3-2]

 さらに第一級の護衛対象である兵員輸送船の護衛任務を買って出たのは「万里遠征ここまで来た以上、いかに骨が折れてもつまらない仕事はしたくない」と働きがいの有る仕事を部下にさせたかったのが第一。[3-2]

 第二は日本海軍の活躍を連合各国に認知させるためでもあります。

 連合国では政治家、学者、著述家、実業家など著名人が多数従軍していましたから、彼らが乗り込む兵員輸送船を護衛すれば、日本の活動を好意的に宣伝してもらえる可能性がありました。逆に弾薬および物資の輸送船を護衛しても、ほとんど宣伝にならないのです。[3-2]

 この佐藤司令の主張は全会一致で認められるものの、実際の兵員輸送船護衛は大変困難なものでした。

 秋から冬にかけての地中海は、想像以上に時化が多く、第二特務艦隊は猛威を振るう自然とも戦わなくてはなりません。乾舷が高く速力も早い客船改装の兵員輸送船に対し、荒波に翻弄されやすい小さな二等駆逐艦で荒波をかきわけ、さらにジグザグ航行をするのは至難の技でした。

 その上、小型駆逐艦2隻で1000名から3000名の命を預かるというのですから、その責任は並大抵のものではありません。各駆逐艦と乗組員たちが、連日の荒波と緊張で次第に消耗していくことは避けられませんでした。

 そこで次回からは第二特務艦隊の過酷な日常と、束の間の休日のエピソードを紹介いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記-若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著、阿川弘之序文、C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P162~163

日本海軍地中海遠征記録
(紀脩一郎 1974年6月15日)
[2-1]P84~86
[2-2]P99~101
[2-3]P112
[2-4]P111
[2-5]P119~120

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス,桜田久編,1997年11月11日)
[3-1]P101~110
[3-2]P30~32

新装版 駆逐艦
(堀元美 ISBN 4-562-01873-9 1987年6月25日)
[4-1]P129~132
[4-2]P135、138

ja.wikipedia橄欖型駆逐艦
[5-1]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%84%E6%AC%96%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6

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