Name 名無し 16/08/01(月)07:38:37  No.1182416

1470004717362
今日は日清両国が互いに宣戦を布告した日、ということで日清戦争スレ

日清戦争 (中公新書)
日清戦争 (中公新書)
posted with amazlet at 16.08.11
大谷 正
中央公論新社
売り上げランキング: 254,409

無題
Name 名無し 16/08/01(月)21:50:00  No.1182493
1470055800627
Battle of the Yalu River(鴨緑江海戦)
日本だと黄海海戦

英語サイトの説明読んでると日本側の表記と当然のように異なる名称が出てくるのが興味深い。
統一した名称の方が少ないなぁ

無題
Name 名無し 16/08/01(月)23:33:13  No.1182508 
1470061993052
日清戦争頃の中国兵の装備ってどんな感じだったんだろ
義和団事件の頃には近代的な装備をもった部隊もあったみたいだけど

無題
Name 名無し 16/08/01(月)23:36:54  No.1182510
日本側視点の書籍はたくさんあるが清側視点の資料が無くて良く分からん戦争

北方では清の騎兵隊が日本軍に対して善戦したなんて与太話を見たことがあるが主戦場以外で日本側じゃない情報を載せた書籍が見つからない

無題
Name 名無し 16/08/02(火)19:51:18  No.1182559 
1470135078049
>日清戦争頃の中国兵の装備ってどんな感じだったんだろ


佐山ジローせンせいの本とかから孫引きさせてもらいますと、小銃はオーストリア製1866年式ウエンドル歩兵銃、仏製1874年式歩兵銃、独製1871年式歩兵銃、同猟兵銃、同騎銃等が配備されてたそうでして、大砲は主にドイツクルップ社製の野砲・山砲・重砲・要塞砲等が各種
日本側で主用された単発村田銃(13年・18年式)及び青銅製75ミリ山砲に比して、性能的にはそれ程遜色ないというか一部では勝るものでもあったようで

また当時日本側には殆ど配備されていなかったガトリング・ローウェル・ノルデンフェルド・ホチキス式の機関砲多数を擁していたのも清国軍側の強みだったんだとか

無題
Name 名無し 16/08/02(火)19:53:16  No.1182560 
1470135196132
1894年9月からの平壌攻防戦では、清軍の兵力約1万5000、山砲28門、野砲4門、機関砲6門に対し攻撃側の日本が兵力約1万2000、山砲44門とほぼ互角の戦力での戦いであったそうなんですが、この時清国軍の堡塁攻撃に当った日本の混成第9旅団は「機関砲及び連発銃」の射撃で前進を阻まれ、山砲で反撃を試みるもトーチカの破壊はならず、逆に清国砲兵隊に側面から猛射を受け損害を出し、次第に物資も不足し一部の中隊は将校全員を失い戦闘力を無くす苦戦に陥るにいたって、遂に退却を余儀なくされるという敗北を喫してしまったんだそうな

この時の旅団の損害は攻撃参加人員の一割に当たる戦死130名、負傷者290名だったそうなんですが
これは平壌攻防戦全体でのトータルの戦死者180名、負傷者506名の過半を占めるモノでして、要はこれらの兵器がその威力を発揮した場合には、日本側もそれなりの苦戦を強いられた、って事みたいですなあ

無題
Name 名無し 16/08/02(火)20:04:13  No.1182561 
1470135853662
連弩も使われてたとか聞くけど実際の被害はどの程度あったんだろう

無題
Name 名無し 16/08/02(火)20:53:34  No.1182565
清朝の本軍である八旗はこの時期まったく役に立たなくなってたので、実質的に日本と戦ってたのは李鴻章の北洋軍だけ。

無題
Name 名無し 16/08/02(火)21:25:26  No.1182569 
日露戦争物語 全12巻完結セット(PHP文庫) [マーケットプレイス コミックセット] 
>1894年9月からの平壌攻防戦

江川達也の日露戦争物語で詳しくやってたなぁ。
詳しく書きすぎて日清戦争の途中で打ち切りになったのが残念。
打ち切って少ししたらNHKの坂の上の雲が大ヒットしたんだよなぁ・・・

無題
Name 名無し 16/08/02(火)23:39:46  No.1182576 
1470148786811
>1866年式ウエンドル歩兵銃、仏製1874年式歩兵銃、独製1871年式歩兵銃、
同猟兵銃、同騎銃等が配備されてたそうでして
当時としては結構良い装備だなぁ
清国軍と言えば装備が旧式で日本や欧米列強に負けたってイメージが強かったけど
実際は装備よりも組織とか訓練の問題だったのかも

無題
Name 名無し 16/08/03(水)01:17:16  No.1182591
>実際は装備よりも組織とか訓練の問題だったのかも
清国海軍がそうだったのは世界の常識なので陸もそうだった可能性は極めて高い

無題
Name 名無し 16/08/03(水)21:58:45  No.1182683 
1470229125937
>実際は装備よりも組織とか訓練の問題だったのかも


司馬遼太郎サンなんかは「坂の上の雲」では清軍が守備する旅順要塞があっさり半日で陥ちた事例にふれて

「この頃の中国人が、その国家の為に死ぬという観念を、殆ど持っていなかった」

…のが日本の勝因、もしくは清国の敗因だったとしてるんですが、日清戦争の当時、まだ存命だった元幕臣の勝海舟さんが、もうちっと詳しく当時の清国人の気風等について語ってる所がちょっと面白くって

「全体、シナを日本と同じように見るのが大違いだ。日本は立派な国家だけれども、シナは国家ではない。あれはただの人民の社会だ。政治などはどうなってもかまわない。自分さえ利益を得れば、それでシナ人は満足するのだ」

無題
Name 名無し 16/08/03(水)22:01:20  No.1182685 
1470229280147
「シナ人は、一体気分が大きい。日本では(日清)戦争に勝ったといって、大騒ぎをやったけれども、シナ人は、天子が代わろうが、戦争に負けようが、ほとんど馬耳東風で、はあ天子が代わったのか、はあ日本が勝ったのか、などいって平気でいる」
「それもそのはずさ。一つの帝室が滅んで、他の皇室に代わろうが、国が滅んで、他国の領分になろうが、一体の社会は依然として旧態を存しているのだからのう。社会というモノは、国家の興亡には少しも関係しないよ」
「ともあれ、日本人はあまり戦争に勝ったなどと威張っていると、あとで大変な目にあうよ。剣や鉄砲の戦争には勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるよ」

無題
Name 名無し 16/08/03(水)22:03:52  No.1182686 
1470229432224
「この経済上の戦争にかけては、日本人は、とてもシナ人には及ばないだろうと思うと、おれはひそかに心配するよ」
「シナ人は、また一国の天子を、差配人同様に見ているよ。地主にさえ損害が無ければ、差配人は幾ら代わっても、少しもかまわないのだ。それだから、開国以来、十何度も天子の系統が代わったのさ。こんな国体だによって、戦争をするには極めて不便な国だ」
「それだから日本人も、こないだの戦争に大勝利を得たのよ。しかし戦争に負けたのは、ただ差配人ばかりで、地主は依然として少しも変わらない、ということを忘れてはいけないよ」

…との事なんですが、明治の御代の元お侍さんの江戸っ子の中国&日本観、その後の歴史の展開を知ってる私らからすると、なかなか慧眼モノな気もしますですな…w

無題
Name 名無し 16/08/03(水)23:48:52  No.1182709
>清国軍と言えば装備が旧式で日本や欧米列強に負けたってイメージが強かったけど

社会化の教師が当時の清は火縄銃を使っていたなんて言っていたがやはりあれはうそだったのか。

無題
Name 名無し 16/08/03(水)23:50:06  No.1182710
佐山センセの本では、日本軍の榴散弾が猛威を振るったということで、日本側の砲撃精度も合わせて、清側が遮蔽してない場合は、日本側が優位に立っていたってことですかねぇ。

無題
Name 名無し 16/08/04(木)21:08:16  No.1182800
朝鮮独立戦争という本質

無題
Name 名無し 16/08/04(木)21:39:57  No.1182802
日「朝鮮が清の属国だってんならきちんとロシアから守れよ。ロシアに朝鮮取られると超困るんだよ。守れないんなら独立させろよ、自衛させるから」
その後独立させてもごたごたして自衛どころじゃなく諸外国の干渉も続いて日露戦争→日本の保護国化→日韓併合という流れ
立場によって解釈の違いはあるだろうけどこんな認識

日清戦争の頃の歩兵ってどんな戦術で戦ってたんだろう?
もう密集隊形で行進とかは自殺行為になってたろうし、かといってまだ塹壕掘ってにらみ合ってたってわけでもないみたいだし
ライフルを持った歩兵が戦場での殺しのメインだった時期だとは思うんだけど

無題
Name 名無し 16/08/05(金)01:59:42  No.1182824
>朝鮮独立戦争という本質
本質でも何でも無い
日清両国で「朝鮮で動乱が起こったら、両国で対応しましょうね」という条約を結んでいて
実際にそれが起こり、両国が条約に基づいて対応
動乱が収まったその後、清が撤兵をごねたのが発端

無題
Name 名無し 16/08/04(木)22:44:35  No.1182803
>この経済上の戦争にかけては、日本人は、とてもシナ人には及ばないだろう
経済上の戦争ってのがどういう物かよくわからないけど
ただ現在の中国の急速な軍事力の拡大を見ると確かに経済的な力は相当な物という気はするな
>日清戦争の頃の歩兵ってどんな戦術で戦ってたんだろう?
いわゆる散兵が主体だったんじゃないかね
調べたら日清戦争の10年前くらいにドイツからクレメンス・W・J・メッケルって教官を招いて
兵制をそれまでのフランス式からドイツ式に変えてたみたい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB

無題
Name 名無し 16/08/05(金)01:17:30  No.1182819
>この経済上の戦争にかけては、日本人は、とてもシナ人には及ばないだろう

清は金(銀だけど)はいっぱい持ってたから

当時の清軍の近代化は軍閥が自分で自分の軍隊に金にあかせて新式の武器を持たせて勝手にやってるという状況。
国として近代化を始めるのは日清戦争に負けてから。
それで日本をはじめとした国に留学生派遣するけど革命思想まで持ち込んじゃって辛亥革命が起きる。

無題
Name 名無し 16/08/05(金)02:02:29  No.1182825
>>経済上の戦争
個人は色々居るのだろうが、それは別の話として。
契約の軽視と誠意の欠片もない口約束で、相手から全てをむしり取る手腕の事をして、戦争と言ったのだろうね。
最近、国家が自ら拡げた大風呂敷で盗った超大型インフラ契約が、世界各地で破綻してるってニュースになってるね。
彼らがまとまって出来上がった組織は、未だに昔からやってる事が変わらない。
外部の評価を蔑ろに出来る組織が国家を運営していて、それが大き過ぎて指導層が巨大すぎるから、テクノクラートの存在感が相対的に低く、どうしても人治に優れた奴で溢れかえってしまう。
「ちゃんとやる」奴は評価されず、次第に狡く立ちまわる奴が多く出世する宿命を相変わらず背負ってる。
世界経済で上手く立ち回れた時期に自制出来ず、契約と信頼を切り売りし、責任を外部に押し付けて「戦勝」し続けてしまう。
結果として、より内部が退廃し、世界から侮蔑を買うようになって、自分たちの可能性はおろか、彼らの社会そのものすら失って行く構図は、今回も変わってないんだと思う。

無題
Name 名無し 16/08/05(金)06:19:20  No.1182844
>>彼らの社会そのものすら失って行く構図は、今回も変わってないんだと思う。

勝海舟の言ってる「人民の社会」も共産中国になってから相当自分たちで破壊しまくってるしな。
文化大革命なんてその典型でしょ。
受け継がれた伝統と知識を破壊し、放逐し、有為の人材を殺し、追放し、果ては暴れまわった紅衛兵の連中も辺境の農地へ厄介払い。
根本から国を作り直す意味では成功したのかもね。
しかしそこまでやってもあんな国・・・。
百年の時を経ても福沢諭吉の嘆きもまた然り、の現状。

無題
Name 名無し 16/08/07(日)08:09:32  No.1183395 
1470524972371
>ライフルを持った歩兵が戦場での殺しのメインだった時期だとは思うんだけど


日清戦争以前で日本帝国陸軍が経験した一番直近の大規模な戦争と言うと1877年からの西南戦争になるんですが、西郷ドン率いる薩軍相手の約7ヶ月間の戦闘で明治陸軍(官軍)の消費した弾薬量は一説では砲弾7万3千700発、小銃弾3千489万発に及んだそうでして、小銃弾量で比較すると同期間中薩軍に補給された約300万発の10倍以上にもなるんですが、単純な数量では約27年後の日露戦争で、11ヶ月の間に消費した小銃弾約1億発の3分の1を超える量にも当たるんですとか

因みに西南戦争での薩軍の死傷者は1万5千名から2万名と言われてますんで、言わば当時の明治陸軍の戦法と言うのは、チェストー!とトンボの構えで突貫してくるSATUMAのおサムライさん一人当たりに、小銃弾だけでも約2000発を集中して粉砕したという、ある意味トムクルーズ=サンもびっくり!な超(小銃)火力偏重とも言えるモノだったんだそうで

無題
Name 名無し 16/08/07(日)08:10:54  No.1183396 
1470525054959
官軍側の死傷者は1万5千801人と実は薩軍と大差なく、逆に言えば官軍の十分の一以下の火力で同等の損害を与えた薩軍の精強さ、若しくは官軍兵の脆弱さを示してるわけなんですが、一方で薩軍は田原坂の戦闘時に

「(コワイものは)一雨、二赤帽(近衛兵)、三大砲」

…と評したそうでして、要は薩軍での旧式の先込め銃の使用率が官軍より高く雨天時に影響を受けやすい事、士族中心の近衛兵の精強さ、そして大砲による榴散弾射撃をこそ脅威としてたそうなんですが、実際の所官軍側は小銃はともかく大砲の運用戦術についてはまだまだ稚拙で、その数も前線兵力約5万人に対して野戦砲が54門、約1000人に1門と、西南戦争の7年前の普仏戦争での普仏両軍の割合(1000人に3門)なんかに比しても低かったんだそうなんですな

従って戦後の戦訓としては薩軍の練度の前に大被害を出した徴兵中心の官軍の鍛え直しと、火力中心戦法・戦術のより効果的な運用、といった所が重視されたんだそうで

無題
Name 名無し 16/08/07(日)08:13:54  No.1183398 
1470525234614
前者については明治11年に「軍人訓戒」同15年には「軍人勅諭」が発布されるなどして「なんで戦場で命がけで戦わなければいけないのか」という事に対する精神教育が徹底されると共に、後者については既に書き込まれてる方の御指摘通り、普仏戦争の勝者だった独軍より招いたメッケル少佐の指導の下に、各種操典の改正から鎮台の師団化(野戦軍化)まで独式の近代軍隊化を目指した様々な沿革がなされたそうなんですな

またハードウェアの面から見ても、戊辰戦争以来の前装式大砲は順次イタリアに倣った青銅製の後装式7センチ野/山砲に更新されて、日清戦争の直前には全砲兵連隊がコレを装備しその配備数も1000人当たり2門にまで倍増されまして
また開戦後は日本砲兵史上初の友軍超過射撃を行い、新たに採用された複働信管を付けた榴散弾が清軍に「天弾」と呼ばれ畏れられるなど、大砲の性能にも運用術についても約14年前の西南戦争時より大幅な改善を見まして、結果的にこれらの諸処の改革が日清戦争の勝利に繋がったわけなんだとか

無題
Name 名無し 16/08/07(日)08:15:16  No.1183399 
1470525316652
例えば日清両軍の陸軍部隊同士が最初に大規模に激突した1894年7月の成歓の戦いにおいては、両軍の戦力は共に3千名、砲8門と同数での戦闘だったそうなんですが、日本側の混成第9旅団が消費した7センチ砲弾は254発、小銃弾は6万7千801発
死傷者は82名(内22人は迂回行動中に河川で溺死)に及んだそうなんですが、コレによる清側の死傷者は500名以上と言われ、単純にまた弾薬消費量から言えば、清国兵にとって日本陸軍兵士は西南戦時のSATUMA兵より更に恐ろしい存在だったりするわけなんですなw
ともあれ、日清戦争終結時においても、こうした独式の火力重視戦法こそが勝利のカギだった、と言うのは正しく認識されまして、日清戦後の日本陸軍の「歩兵操典」においても

「戦闘の勝敗は火戦によって決し、(白兵)突撃は敵兵既に退却したる後か、またはわずかに陣地に拠って抵抗するものに対して行われるにすぎない」

…と教えてるんだそうで
言わば砲火力が戦闘の優位を決するという近代戦術の原則が実戦で試され、その正しさを実感した戦い、というのが日本軍にとっての日清戦争だった、ってことになるんでしょかね、コレ

無題
Name 名無し 16/08/07(日)12:37:18  No.1183438 
1470541038742
(映画『二百三高地』)

>言わば砲火力が戦闘の優位を決するという近代戦術の原則が実戦で試され、その正しさを実感した戦い


え? 先に教えてよ・・・

無題
Name 名無し 16/08/07(日)16:09:37  No.1183471 
1470553777503
>え? 先に教えてよ・・・

乃木さんも旅団長として参加した日清戦争時の旅順攻防戦では
騎兵第一大隊長だった秋山好古少佐さんの
・守備側の砲は意外に小口径砲が多く、命中率も粗末
・高台の砲台の占領が勝敗を決する
…という観察・考察を元に攻撃計画が纏められ、各種砲弾千773発を消費した支援射撃の下でごく短時間の内に決着が付いたんですが
およそ10年後に、乃木さんの第三軍が最初の総攻撃を掛けた際の支援砲撃の消費弾数は、三日間で12万発に達したんだとか

またそもそも日露開戦に当って、日本陸軍はその歩兵の実兵力は極東地域でロシア軍が動員できる兵力の66%程度の劣勢であると見積もってたそうなんですが(実際には95%)、一方で火砲数では132%の優勢(実際は160%)と見ておりまして、むしろこの火砲における優越こそが当時の日本陸軍には頼りだったんだそうで

無題
Name 名無し 16/08/07(日)16:12:31  No.1183473 
1470553951635
因みに余談ですが「成歓の戦い」で戦死した中隊長松崎直臣大尉さん他数十名の中に、「死んでもラッパを口から」で有名になった白神源次郎&木口小平さんらがおられまして、言わばこの方々が日清戦争における戦死者第一号、ってことになるわけなんですが、実際には成歓の戦いの数日前に、松崎大尉さんの上官にあたる歩兵第21聯隊第3大隊長の正綱という少佐さんが亡くなられておるんだそうで

当時混成第9旅団は小規模ながら歩兵・騎兵・砲兵を備えたミニ師団並みの編成ではあったんですが、急な出兵で兵站組織の追従が追い付かず、やむを得ず現地住民及び牛馬を徴発して輸送の任に当てる事としたそうなんですが、この徴発人夫がわて危ない前線に荷物運びなんてまっぴらごめんや!
とばかりに深夜牛馬もろともに次々逃亡、歩第三大隊に至っては所属人夫と牛馬全てに積荷の食糧弾薬もろとも逃げられ、旅団自体の進撃にも支障を来したというので、責任を感じた古志少佐さんは自決しちゃったそうなんですな

無題
Name 名無し 16/08/07(日)16:13:34  No.1183474 
1470554014247
ある意味では死ぬまでラッパを離さなかったラッパ手さんの話と共に、当時の日本の兵隊さんの責任感の強さを示すエピソードではあるんですが、ただ気の毒と言いますか何というか、木口小平二等卒さんらは同日戦死した戦友さんとともに、明治28年12月の例大祭で靖国神社に合祀されてるんですが、木口さんの二日前に死亡した古志少佐サンの場合は、合祀も叙勲も何故か見送られてしまってるんだそうで

ともあれ、遠い異国の地で兵隊さん達に如何に飯を食わせるか、テッポーの弾を届けるか、ってのは
日清の戦以降も昭和の敗戦で消滅するまで、日本帝国陸軍軍人さん達の苦労の元で有り続けるわけで、さしずめ気の毒な古志少佐さんは、その最初の犠牲者って事になるんでしょかねえ

無題
Name 名無し 16/08/07(日)18:13:04  No.1183499
1470561184636
>「成歓の戦い」


ラッパ手の木口小平や白神源次郎の話はもちろん、自決した古志正綱少佐の話も日露戦争物語で扱ってたなぁと思っていたらこんな画像が。
これはやりすぎではなかろうか・・・

無題
Name 名無し 16/08/07(日)19:28:44  No.1183528
>No.1183499

地元にも征清記念碑があるし、明治維新後に日本全土で名前が喧伝されたことは、数十年たとうが集落の英雄なんだな

無題
Name 名無し 16/08/07(日)19:58:54  No.1183546
「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち、電信柱に花が咲く」って兵站軽視の現われってよく言われるけど、「輸卒」って「輜重兵」(騎乗して小銃も携行)とは全然別の存在でどちらかというと人夫に近く(要らないからか信用しきってないからか…)武器も支給されなかったんでそこを戯れ歌にしたんだとか
「兵」(一人で任務がこなせる)と「輸卒」(常に率いられる)が身分から訓練体系・期間からぜんぜん違うってのは「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」で初めて知った

無題
Name 名無し 16/08/07(日)21:24:56  No.1183589 
1470572696484
兵站に纏わる問題は結局日清戦争全期を通じて日本陸軍の悩みの種でして、例えば第9旅団の後詰めとして朝鮮に上陸した第五師団では、総勢1万5千名近くなる大所帯に対して、輜重輸卒が定員の半分以下の963名しか動員されず、軍馬も質量ともに不十分と有ってやはり上陸した朝鮮で現地人人夫を雇おうと試みるんですが、今度は対価に支払うべき現地通貨が不足気味と有って第五師団長野津道貫中将の陣中日記には

「兵隊の疲労を減らす為背嚢を後方に送り返す(1894年8月9日)」
「人夫逃亡するに依り前進する能わず(11日)」
「目下韓銭並びに糧食の不足に依り前進する能わず(13日)」

…と連日のように物資不足に関わる悩みが記載されてるんだそーで

無題
Name 名無し 16/08/07(日)21:25:23  No.1183590
1470572723514
また8月5日に朝鮮元山に上陸した第22連隊第2大隊は翌6日、兵員900名、日本人軍夫(雇用された民間人)400名、牛400頭という陣容で約200キロメートル先の京城を目指して行軍を開始するんですが、折からの猛暑に二日目にして400頭の内300余頭が倒れ、軍夫も本来二人で米4斗(56キロ)を背負う規定の所、疲労に依り二人で二斗が限界となり
やむなく現地人を雇うもやはり逃亡者が続出、遂には大隊長命令で輸送可能量以上の余剰物資を廃棄して行軍も夜間のみに留め、中尉さん一人が指揮する軍曹一名、兵一名、通弁(通訳)一名、軍夫一人からなる徴発隊を先行させて糧食の現地確保を目指すんですが、行く先々の集落ではどこでも凶作を理由に徴発は拒否され、わずかに米数表と瓜、カボチャ等が購入できただけという始末

かくしてフラフラになった大隊は8月15日、ようやく目的地の京城に到着したんだそうですが
ここでは幸いにしてというか、現地居留の日本人により酒食の供応が用意されてたそうなんですな

無題
Name 名無し 16/08/07(日)21:26:46  No.1183591 
1470572806964
ところが喜んでこの酒保に飛びついたのは良いものの、弱り切った身体と胃腸にいきなりの牛飲馬食はあまりにも過負荷にすぎまして、たちまち胃病患者が大発生、赤痢患者まで出るに至って、遂には9月15日からの平壌攻略戦の攻撃部隊からも外されてしまったんだそうな

結果的には平壌攻略戦は実質一日で終わり、鹵獲した糧食米2千900石により第五師団の食糧事情も大幅に改善されるんですが、それだけの備蓄を持っていた清軍に対して攻囲側の日本軍の糧食は実質2日分に過ぎず、もし清軍がそれ以上に粘っていたなら撤退を余儀なくされていたわけで、その意味では非常に薄氷上の勝利だったわけですが、この時清軍陣地内に突入した第10旅団長の立見尚文少将が、陣内にあった清軍糧食の「センベイ(焼餅?)」を掴みあげて

「聊か諸士の労に酬ふるものなり。請ふ、一喫して更に進軍せよ」

と叫びながら、周囲を通る将兵にその「センベイ」を投げ与えて士気を鼓舞した、なんて話もあったそうで…w

無題
Name 名無し 16/08/07(日)21:54:47  No.1183605
日本の軍隊(含明治以前)がなんで煎餅を携行糧食として取り入れなかったのかな?と思ってたらお菓子としての煎餅が兵糧から生まれてるそうで
明治以降はなんで採用しないでハードタックに入ったんだろ?
重さの割に容積を食うからかな?

無題
Name 名無し 16/08/07(日)22:39:56  No.1183631
いやいや普通に煎餅ってしけるでしょ

無題
Name 名無し 16/08/08(月)04:26:28  No.1183679
煎餅って膨れすぎで空気が多いよね
少ないと本当に固くなるし
やはり小麦系の焼き物の方が容積を取らないと思う

無題
Name 名無し 16/08/09(火)23:08:45  No.1183874 
1470751725649
日清戦争から10年後の日露戦争直後の明治39年ごろの事だそーなんですが
当時既に軍用非常食として採用されていた乾麺麭(ビスケット)の改良に関する会議が行われまして、

「日本人には外国式のビスケットが口に合わない。しかるにかき餅や塩せんべいなどには馴染みが有る。今までビスケット製造時の原料は小麦粉だけで作っていたが、その中にもち米を入れる」

…という提案がなされ、実行されたんだとか
ただし実際餅米をいれた乾麺麭の出来上がりは、恐ろしく固く焼き締まってしまいまして、歯や顎の悪い人にはとてもそのまま食べられない代物になってしまったんだとか(但し戦場で食事の楽しみを長引かせる効果をねらった、とする意見も残ってるんだそうな)

無題
Name 名無し 16/08/09(火)23:13:45  No.1183875 
1470752025404
ともあれ、結局米菓子の採用というよりは、寧ろビスケットの和風化の方に糧食改良の主流は進んだみたいなんですが、それでも昭和の初期に再び煎餅を糧食に取り入れる試みがなされてたりするんだとか

といってもこの時のセンベイは米粉原料のものではなく、小麦粉を重曹を使って焼き上げる所謂「南部せんべい」の類のものなんですが、これはいざ大戦争となった際、乾パン等の製造が追いつかなくなった際、国内に多数存在する煎餅屋さんを動員して生産に当らせる目論見によるものでして、栄養価を考慮して乾燥肉・野菜・ゴマ等を練り込んだ数種類が用意され、試験結果もなかなか良好だったものの、あくまで乾パン等の補助食品で有った事、同時期にすでに膨張玄米を主食にする圧搾口糧が制式化されつつあったこともあってか、結局大々的には使用されずに終わったんだそうな

無題
Name 名無し 16/08/09(火)23:16:44  No.1183876 
1470752204837
余談ですが日清戦争に於いては、主に朝鮮を経由して戦った山県有朋大将指揮の第一軍、清国に海路上陸して大山巌大将指揮の第ニ軍が日本陸軍の主力だったんですが、第一軍では先に挙げた混成第9旅団、第5師団の例の様に補給の不備から現地調達を余儀なくされ、主食は精白しない朝鮮米を徴発して粟、小豆などをまじえたものを辛うじて兵に供給できただけで、副食物は殆ど与えられぬという悲惨なものだったんだそうで

これに対し後発の形となった第ニ軍では、第一軍の教訓も伝わっていたのか、日本国内での大々的な民間人人夫(軍夫)を募集して輸送部隊を編成し、また海軍の勝利による制海権の確保もあって比較的十分な補給を受けられまして、三度の食事にはほぼ白米が支給され、副食物もまずまずと、言わば二つの軍の間に食生活上の格差が生じる事になってしまったんだそうな

無題
Name 名無し 16/08/09(火)23:17:00  No.1183877 
ところが好事魔多しというか、言わば銀シャリのご飯を腹一杯食べていた第二軍においては反って多数の脚気患者が多発する事態が発生、戦役中の脚気による病死者は千565名に及びまして、皮肉にもといいますか、これは補給に恵まれず現地調達の雑穀飯を主食としていた第一軍の脚気死者142名の10倍以上に達しちゃったわけなんですな

因みに日清戦争全体での戦闘による戦死者は977名、戦傷死者293名ほどだそうなんですが、これに対して脚気患者の総数は3万4千783名、内死亡したのは3千944名に上り、死者の数だけで比較するなら日本兵にとって脚気は清国軍の3倍以上危険な相手だったわけですけれど
当時の現地軍では脚気対策として麦飯、若しくはビスケットの支給を求める悲痛な声も上がっていたそうな

してみると、仮に小麦粉にゴマとビタミンB豊富な食材で作った南部せんべいが糧食として支給出来てたら、或は多くの人命を救う切り札になり得てたかもしれませんですな、コレ

無題
Name 名無し 16/08/10(水)00:35:44  No.1183880
日本軍の兵食改良て将兵にいかに白米以外のモノ食わすか悪戦苦闘する歴史だからな
白米以外の食い物を支給しようものなら猛烈な反発があって下手すりゃ食べられずそのまま捨てられることすらあった
兵食改良がなかなか進展しないのには日本人の白米信仰もあったんだろうな

無題
Name 名無し 16/08/10(水)03:32:37  No.1183892 
お煎餅方向に話が膨らむとは
脚気には麦が効果があるっぽいことは陸・海軍ともに日清戦争前から察しはついていたけど当時はまだ科学的説明が見つかってなかったためと白米嗜好もあって陸軍では導入が遅れたようですね
まあ、現代の我々も「~~は健康に良い/悪い」には散々踊らされているのでなかなか難しかったんでしょうね
戦地で生きるか死ぬかも分からない兵士にいいものを食べさせたいという思いもあったんだとか
白米嗜好といえば1950年代初期生まれで実家が農家の自分の母親ですら小さいころは普段は麦を食べていて白米はハレの日にしか食べない貴重品だったと
米は換金性が高かったので自家消費することを避けていたとのことです
ちなみに自分も普段は麦飯です(栄養上の理由、というより単なる趣味ですね。まあ、今の押し麦は戦前戦中の割り麦とはぜんぜん違う美味しさのようですが)

無題
Name 名無し 16/08/10(水)06:08:21  No.1183897
自分の親は戦中戦後も普通に白米をたらふく食べていたと言っていたので、やはり、地域によりかなりの差があったんでしょうね
当時はともかく流通が未発達でしたからね

無題
Name 名無し 16/08/10(水)14:14:10  No.1183924
日露でも脚気で大量の死者出してるのに、日清の時点で現地軍が脚気対策に麦飯要求するような知識ってあったのかね?
みんな某作家先生が悪いのか?

無題
Name 名無し 16/08/10(水)15:01:18  No.1183925
>http://melma.com/backnumber_174026_4535375/
を見ると体験的には麦飯が効果があることは知られていたし1984(明治17)年に出された『精米ニ雑穀混用ノ達』というので陸軍でも脚気は激減してたとか
ただ当時きらめく存在だった「科学」に基づく説明がまだ無かったのと麦は粗末な食べ物という認識(あと実際白米より相当不味かったんだろうと想像)のため戦時に入ったら止めちゃって(あと副食の供給も困難になって)脚気が復活したという話らしい

無題
Name 名無し 16/08/10(水)20:32:09  No.1183957
>みんな某作家先生が悪いのか?
まあ原因が分かった晩年は辛かったんじゃないかと思うよ

無題
Name 名無し 16/08/11(木)04:16:49  No.1184014
1470856609909
木口小平さんなんかは岡山の山村出身で、小学校を中退して鉱山人夫として働いていた所を徴兵されて入隊されてるんですけれど、当時故郷にこんな手紙を送られてるんだそうで

「被服、襦袢、靴の類は定期支給を相受け候。次に食事に候えども、粟などの混入なき正真正銘の麦めしにて、副食としてたびたび牛肉を賜り居り候」

「いまは甚だ美味に成相候。そのほか三度三度都会の分限者並の御馳走にて、有り難きことに存じ候」

…とまあ、いじらしいぐらい待遇に感激してるのが微笑ましいんですけれどw
No.1183925さんが紹介されてますように、実際には日清戦争前の時点で、既に陸軍でも脚気予防の為に麦飯を支給と言うのは常態化してたようなんですな

無題
Name 名無し 16/08/11(木)04:18:41  No.1184015
1470856721373
従ってまあ理屈はともかく、とにかく平時にしてた食事と同じ内容にすれば脚気は予防できるんだからそっちに戻してえな!っていう意見は日清日露両方で現場から上がってまして、それが無視されちゃった、若しくは却下されちゃったってのが悲しい結果を産んじゃった、という事のようですのう

因みに日清戦争では結局、脚気患者を含めて2万159名という、戦死・戦傷死者を遥かに上回る戦病死者が出てるんですけれども、実は日清戦争以前は戦病死者と言うのはある意味自己責任の範疇と見做され、靖国神社への合祀が認められない場合が多かったそうでして、日清戦争でも当初は戦闘による死者のみが合祀されたんですが、後に流石に色々不味いと判断されたのか、基準の改定により一年ほど間をおいて一万人以上の戦病死者さんたちが追加で合祀される、という経過を辿っておるんだそうで

コレも日清戦争の「戦訓」による改革の一つではあるんでしょかねえ

無題
Name 名無し 16/08/11(木)07:17:58  No.1184018 
アメリカ南北戦争でも60万人以上の死者の3分の2くらいは戦病死
屋根も無く新鮮な食物・きれいな水が不足し不衛生な環境に置かれて適切な医療を欠く戦場という環境にいるだけで多くの犠牲者を出すのは第1次大戦くらいまではどこの軍隊も同じだったようで

それに心を痛めたガトリング氏は「ひとつの銃でばら撒ける弾の数を増やせば戦場に送られる兵士の数を減らせて不要の病死者も減らせるはず!」と発想
ガトリング砲開発の動機はそんな優しい理由だったんだとか…
引用元: http://cgi.2chan.net/f/res/1182416.htm

軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へ (中公新書)
猪木 正道
中央公論社
売り上げランキング: 223,637