第68回 連載「フォークランド紛争小咄」パート26
外郭防衛線の決戦・中編(ロングドン山)

文:nona

 外郭防衛線北端のロングドン山をめぐる戦いでは、同地の特異な地形のために第3空挺大隊は大苦戦。岩石が屹立する山頂はまさに自然の要害で、犠牲なしの前進は困難に思われました。

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(引用元)http://www.naval-history.net/FxDBMissiles.htm

フォークランド戦争―“鉄の女”の誤算
サンデー・タイムズ特報部 宮崎正雄
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 ロングドン山は標高180mの外郭防衛線の北端に位置する高地でした。周囲との高さは90m程度ですが、山頂は複雑な岩山地帯のために攻略は非常に困難。6月11日夜の外郭防衛線の戦いでは一番の激戦地となっています。[1-1][2-1]

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(引用元)http://www.greatmilitarybattles.com/html/battle_of_the_falkland_islands.html
ロングドン山の山頂。

 このロングドン山を防衛していたのは、アルゼンチン陸軍第7歩兵連隊隷下の1個中隊の工兵小隊と、海兵隊の分遣隊の220名。さらに戦闘開始後に増援もなされ、最大で約280名が配置されました。[1-1][2-1]

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(引用元)http://www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1239
岩山に築かれたアルゼンチン軍の陣地。防御力と秘匿性に優れ、105mm榴弾砲の破片や第33空挺大隊からの銃撃に抗堪した。

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(引用元)www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1131
ロングドン山の一部の兵士に配備されていたAN/PVS-5暗視装置。第3空挺大隊に装備面のアドバンテージはさほどなかった。

 このロングドン山の攻略を試みるのが、パイク中佐率いるイギリス陸軍第3空挺大隊。5月21日に誤射騒ぎを起こした部隊でもあります。

 大隊はA,B,C中隊450名と輸送部隊(民間人のモリソン夫人らのトラクターやランドローバーなどの徴発車両部隊と、人力の輸送部隊)で編成され、装備は81mm迫撃砲6門、7.62mm汎用機関銃6門と多数のブレン軽機関銃、さらにミラン対戦車ミサイル発射機6門(各3発のミサイルを準備)を保有していました。[1-1]

第3空挺大隊の作戦は、

①A中隊がロングドン山の北460mにあるウィング・フォワードの丘に布陣し陽動をかける。
②B中隊がロングドン山を西の尾根から山頂を目指す。

というもの。

C中隊は予備部隊として待機することになりましたが、これは山の地形が狭く複雑であったために、同時に登頂できる部隊は1個中隊がせいぜい、と想定されたためでした。[1-1]

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(引用元)http://www.naval-history.net/F54-3_Para_Battle_for_Mount_Longdon.htm
第二空挺大隊の行動ルート。

 第3空挺大隊の前進は、他の2個大隊と同じく11日の日没に開始。10日夜にはロングドン山のRASIT対地レーダーがイギリス軍の接近を探知していたものの、アルゼンチン軍の中隊長サルバドレス少佐は逆探知を恐れ、レーダーを停止させていました。こうして第三空挺大隊は隠密のうちにロングドン山へ迫り、B中隊は9時ごろには最初の塹壕陣地から640mの距離に到達していました。[1-1]

 しかし21時10ないし30分に、B中隊員のミルン伍長が地雷で片足を吹き飛ばされ、爆発音でアルゼンチン軍は戦闘態勢に突入。ウィング・フォワードの丘に布陣していたA中隊は、21時28分からロングドン山頂へ陽動攻撃を開始します。ところが、この場所はロングドン山から容易に見降ろされる場所にあったために猛烈な反撃をうけ、A中隊は後退を余儀なくされました。[1-1][2-1]


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(引用元)http://media.photobucket.com/images/battle%20of%20mount%20longdon
アルゼンチン軍の火力(赤線)がA中隊に向いている間にロングドン山に登るB中隊(白矢印)

 ここでパイク少佐は砲撃支援を要請し、火力支援の受けられなないB中隊の支援を試みたものの、爆風が山頂の切り立つ岩に遮られてしまい、さほど効果は得られませんでした。

 支援火力が不十分なまま前進を強いられることになったB中隊のうち、第5小隊は第4小隊と協力し、交互に援護射撃と前進を開始。対するアルゼンチン兵は斜面の上から手榴弾を投擲。手榴弾は斜面を転がり、隊員達を襲います。この坂は後に「Granade Alley(手榴弾回廊)」と呼ばれました。[1-1]

 この手榴弾攻撃を回避した2つの小隊は「フライハーフ」と呼ばれる、ロングドン山の西の頂の機関銃陣群の数十メートルに肉薄。[1-1]

 しかし直後に第4小隊長のヒッカーダイク中尉ら6名が、アルゼンチン狙撃兵の射撃によって足を負傷。代わって29歳のマッケイ三等軍曹が、小隊の指揮を執ることに。[1-1][2-1][3-1]

 マッケイ軍曹は第5小隊のベイリー伍長と協力し、両小隊から5名の突撃班を編成。突撃班は3丁の機関銃の支援のもと、35mほどの開豁地を突撃し、機関銃陣地への接近を試みました。[1-1][2-1]

 しかし開豁地に出てすぐ、部下2名が重機関銃をうけて戦死。1名は物陰から動けなくなりました。それでもマッケイ軍曹とベイリー伍長は突撃を継続。2つの機関銃陣地のう一つを手榴弾で粉砕しています。[1-1][2-1]


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(引用元)https://en.wikipedia.org/wiki/Ian_McKay
マッケイ軍曹

 ところが、ベイリー伍長の2発を被弾し転倒。残るマッケイ軍曹はたったひとりで機関銃の背後へ回り込んだものの、手榴弾を投げ込むと同時に撃ち倒されてしまいます。手榴弾は爆発し機関銃陣地は沈黙。しかし、マッケイ軍曹も戦死し、壕の中にはアルゼンチン兵の遺体共に、マッケイ軍曹の遺体も残されていました。[1-1][3-1]

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(引用元)http://www.panoramio.com/photo/34441410
マッケイ軍曹が倒れた場所に建てられた墓碑。軍曹はグースグリーンで戦死したジョーンズ大隊長に次いで、フォークランド紛争で二人目のビクトリア十字章受賞者となった。


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(引用元)http://www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1235
アルゼンチン軍の7,62mm機関銃の陣地

 マッケイ軍曹らが突撃を仕掛けていた頃、第6小隊では無反動砲、ロケットランチャー、グレネードランチャーでアルゼンチン軍を圧倒し、さらに敵陣へ銃剣突撃を仕掛けていました。この攻撃でアルゼンチン兵3名を「刺殺」し、1個分隊ほどのアルゼンチン部隊を壊滅させ、さらに相手側の小隊長と副長を負傷させています。[1-1]

 ところが第6小隊は前進の際に、背後のアルゼンチン兵が隠れる塹壕陣地を見逃してしまいます。そして、ここからの不意打ちを受けて、第6小隊の4名が戦死し、8名が負傷。[1-1][2-1]

 B中隊は戦闘開始から6時間で、フライハーフ(ロングドン山の西の頂)は保持していたものの、前進は不可能なほどに疲弊していました。B中隊の死傷者は早朝までに50%を超えていたのです。[1-1][1-1]

 こそでパイク中佐は、A中隊に前進を指示。A中隊のコレット少佐は「前進するイギリス兵に危害を与えるような人間を一人も残さない」という方針のもと、自部隊の機関銃火力を、最大限に活用する戦法を多用しました。[1-1]


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(引用元)http://media.photobucket.com/images/battle%20of%20mount%20longdon
A中隊のフライハーフ(西の頂)からフルバック(東の頂)までの前進ルート。

 例えば、アルゼンチン軍の陣地を攻撃するときは、隊員一名が岩陰に隠れながらそこへ近寄り、懐中電灯か「タバコの火」で自身の位置を示しつつ、味方の機関銃手に弾道修正を叫んで指示。さらに泥炭の盛土がされた陣地は、機関銃で盛土を粉砕し、二人一組の隊員を這い寄らせて、開いた隙間へ手榴弾を投げ込んで破壊しました。[1-1]

 さらにA中隊が前進を始めた時期には、アルゼンチン側にも撤退の動きがあり、その結果A中隊は45分で800mもの前進に成功。その間の負傷者はわずか1名でした。

 そして朝5時から6時にかけて、第3空挺大隊は夜明け前にロングドン山奪取に成功。このとき第3空挺大隊はB中隊を中心に戦死者18名、負傷者40名の損害を被っていました。[1-1][2-1]

 ただアルゼンチン側はそれ以上の損害をうけ、31名が戦死、50名が捕虜となり、120名が負傷しています。無事に撤退できたのは78名のみでした。[1-1]


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(引用元)ロングドン山に残る慰霊碑と墓碑。
http://www.bbc.com/news/uk-17588596

 今回のロングドン山と、ツーシスターズ山、ハリエット山の戦いを合計すると、アルゼンチン側では50名が戦死し、420名が負傷あるいは降伏。アルゼンチン軍は投入兵力の50%以上を喪失しました。一方のイギリス軍の戦死者24名、負傷者65名。第三空挺大隊の死者18名、負傷者40名が際立つ数字ではありますが、全体としては比較的軽微な損害に収まったようです。[1-1]

 ただしアルゼンチン軍には、未だ内郭防衛線が残されていました。夜明け以降には、内郭防衛線上のタンブルダウン山から砲撃観測や銃撃が行われ、外郭防衛線山頂のイギリス軍部隊が死傷しています。第3空挺大隊では4名が戦死しています。アルゼンチン軍は、こうした武力によって、未だ抵抗の意志がある、ということを示し続けたのです。[1-1][2-1]


出典
[1-1]フォークランド戦争史 P305~311
[1-2]同P317
[2-1]RAF Battles of the Falklands Conflictより11/12 June 1982 - Mount Longdon
[3-1]フォークランド戦争 鉄の女の誤算P228~232


参考
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
フォークランド戦争 鉄の女の誤算(サンデー・タイムズ特報部 ISBN-562-01374-5 1983年10月20日)
海戦フォークランド―現代の海洋戦 (堀元美 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
平成25年度戦争史研究国際フォーラム報告書(防衛省防衛研究所 2015年11月18日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
thinkdefence.co.ukよりタグfalkland