第62回 館山航空基地の今昔
戦争遺構と旧海軍編

文:nona

 今回は千葉県館山市にある旧海軍時代の戦争遺構、そして海上自衛隊館山航空基地にお邪魔しました。

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 今回お邪魔したのは千葉県の館山市。房総半島の南端にあり、関東地方とは思えないほど温暖です。サンゴの生息まで確認されているほど。

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 この館山が軍事的に利用されるきっかけは、なんと1793年のラクスマン来航事件。この一件で江戸湾防衛の必要を感じた幕府が館山の洲ノ崎に備場 (台場)を置いたのが始まり、とのことです。[1]

 さらに、現在の海上自衛隊も使用している館山航空基地が置かれたのは1930年。こちらの開設のきっかけは1923年の関東大震災でした。地震の影響で海岸が隆起したそうで、海軍はこの空き地を完全に埋め立て整地。海軍航空隊館山基地としたのです。[1]

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 館山港には水上機滑走台も残されています。(ガイドさんの案内で見学できましたが、個人でも見学できるかは不明)。館山港は「鏡ヶ浦」と呼ばれるほど海面が穏やかなため、水上機の運用にうってつけでした。[1]

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(引用)館山市の生涯学習課 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡11 「昭和20年9月3日 米陸軍第112騎兵連隊 館山上陸」 より

 さらに1945年9月3日には、滑走台からアメリカ陸軍第112騎兵連隊による上陸がなされています。ただし米軍の先遣隊は8月末の時点で上陸済みで、この写真も宣伝用に撮影されたものでした。[2]

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(背景の地形にそって2つの写真を合成してみました)

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 さらに館山基地隣接する神社の水盤に飛行機のマークが残っています。旧海軍時代には基地近くの弁天神社を移転し、新たに海軍神社を祀っていました。ところが敗戦を迎えると、海軍神社は水盤を残し撤去。現在は弁天神社に戻されています。

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 館山航空基地の近くには掩体壕も残されています。終戦時には6つの掩体壕があったものの、農地に戻すために爆破解体されてしまいました。一つだけ残った理由は地権者が館山を離れ東京で暮らしていたため、とのこと。

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 現在は民間団体の方が中心となって、草刈りなど環境整備がなされています。

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 掩体壕の工法はとても単純。かまぼこ型の盛土を鉄筋コンクリートで覆うことで作ることができます。そのため、建設には勤労動員された中学生が従事させられました。

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 資材節約のために、荒い砂利を使用するなど作りには粗さも見られます。

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 こちらは洲ノ崎海軍航空隊の射撃場跡。洲ノ崎海軍航空隊とは、館山海軍航空隊とは別に1943年に新設された、操縦以外の航空機技術を学ぶ航空課員の養成機関です。最盛期には一万数千名が館山に集められていました。[2]

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 この射撃場では、航空機に搭載する機銃や機関砲の動作テストがなされました。実際の弾痕が残されており、写真中央の鉄塊もその一つと言われます。

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 ここからは地下に潜入。館山基地の裏山である赤山には、総延長1.6kmもの地下壕が残されています。現在は250mほどの区間が見学コースになっています。

 なお、地下壕に関する資料は終戦時に焼却されたため、詳しいことは一切不明。戦時中に地下壕と関わりがあった方々の証言を中心に研究がなされた、とのことです。

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 この地下壕には館山基地の機能をそっくり移すことを目的に、発電所、病院、通信設備、司令部が置かれ、空襲が激化してからは、実際に基地として使用されました。給与計算まで地下壕で行った、という証言まであります。

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 地下壕の深部。基本的に落盤対策で通路同士が連結しています。ただし、壕と壕の間が5~10mと狭く(一般的な壕は10~20mとのこと)で、計画的に彫られたとは考えにくい、館山市教育委員会では推測しています。

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 地下壕の表面にはツルハシで掘られた後が残っています。赤山地下壕の地盤では爆薬が使えず、ほとんど手作業で掘り進められました。作業には掩体壕と同様に、勤労動員された中学生も従事させられています。さらに、防諜のためにわざと遠方の学校の生徒を汽車で連れてきたそうです。

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 司令室と思しき部屋。ただし本当に司令室だったのかすら定かではないようです。

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 壕内のくぼみには電話機が設置され、番兵も配置されていました。職務中は離れられないため、トイレ代わりの桶まで置かれたとか。

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 断層。館山はフィリピン海プレートと太平洋プレートの影響で、多くの境界地震が発生しています。現在の活断層は赤山地下壕から数キロ北にそれているので、とりあえず落盤の心配はない、とは思います。

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 断層のほか褶曲の跡もあります。地層がぐにゃぐにゃ。

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 なお赤山地下壕は戦後にはキノコ栽培所としても活用されました。ガイドさん曰く、栽培業者は元731部隊員だった、とのことです。菌つながりですね。(もし本当だとしても笑えない話ですが)

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 ここからは海上自衛隊館山基地のレポートです。館山基地では事前予約をすることで、通常の業務中に見学することができます。大変ありがたいものですが、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

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 館山航空基地の敷地こそ海軍時代のものを引き継いでいますが、古い施設は少しずつ建て替えられ、戦前戦中の建物はほとんど残っていないそうです。地震多発地域なので仕方がない、とは思いますが。

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 ただし、この建物(資料館)は戦前のままとのこと。館内には海軍時代の資料も点在されています。

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 10式艦上戦闘機のプロペラ。1921年に制式化された日本海軍初の艦上戦闘機です。

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 なおキャプションは盛大に遊んでいます\(^o^)/

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 軍刀と海軍空挺部隊用の二小式銃(テラ銃)。二小式銃は九九式短小銃をベースにしたボルトアクション式小銃で、2つに分解しコンパクトにすることで、空挺降下時に携帯できるようになっていました。

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(この写真は習志野駐屯地空挺館で展示されている分離状態の二式小銃です。)

 旧海軍では太平洋戦争の直前に独自の空挺部隊創設を目論んでおり、41年9月には海軍陸戦隊の精鋭1500名を館山に集め、訓練を行っています。[2]

 ただ館山基地は降下訓練を行うにはどう考えても狭すぎ、さらに死亡事故も頻発する過酷な訓練となりました。[2]

 館山で訓練を終えた海軍空挺部隊は太平洋戦争緒戦の1942年1月11日、インドネシア(旧オランダ領)のセレベス島メナドへ降下。陸軍のパレンバン降下作戦に先駆けてのことでした。[2]

 なお展示のテラ銃はメナド戦以降に配備されたものになります。[2]

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 銃剣の鉄鞘。大戦期間中の乱造の痕跡が。

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 海軍の記章。戦艦金剛のペンネントもありますね。ただ太平洋戦争中期に特定の部隊や軍艦、学校名が記されたものは廃止されています。以降は「大日本帝国海軍」とだけ書かれたペンネントを着用しました。

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 海軍で使用された食器類。『写真で見る海軍食糧史』(藤田昌雄 ISBN978-4-7698-1341-5)では実際の用法が紹介されていました。

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 ある機関兵の履歴書。大正9年から13年までの記録があり、関東大震災では乗艦の金剛と共に震災地の救援にあたっています。

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 戦後引き揚げられた戦艦陸奥の主砲装甲の一部。いわゆる「陸奥鉄」です。

 この陸奥の鋼板や砲身は製法上放射性物質が含有されておらず、十分な厚みがあることから、放射線測定装置の遮蔽用に再利用されています。[3]

 なお測定装置の所有者である東京都市大学は、「陸奥鉄」用いた理由を「戦後の鉄材は高炉の耐火煉瓦の消耗を測定するため、人工の放射性コバルトが使用され、その一部が鉄材に混入し、バックグラウンドを上げ、微量な放射能測定には適さない」と解説していますが、Wikipediaでは放射線源を「核爆弾の大気圏内実験に由来する」と書いてあります。どちらが正しいんでしょう?[4]

 原子力船「むつ」の件もありますし、陸奥には核がらみの因縁があるようです。


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 資料館では艦艇や航空機の模型も多数展示してあります。一部は寄贈品もありますが、多くは模型部の作...とのことです。

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 確かにサブカル臭が模型部らしい...かな。


後編に続く


出展・参考資料(WEBサイトは2016年4月10日に閲覧)
[1]たてやまGENKIナビ なぜ館山に自衛隊があるの?
[2]千葉県の戦争遺跡を歩くP217~230(千葉県歴史教育者協議会 2004年8月25日 ISBN4-336-04648-4)
[3]東京都市大学「むつ鉄を使用した低バックグラウンド大型遮蔽体による放射化分析用γ線測定装置」装置概要
[4]Wikipedia 陸奥 (戦艦)