第57回 連載「フォークランド紛争小咄」パート22
泥炭の荒野を踏破せよ 後編

文:nona

 SASがケント山を奪取し、第3空挺大隊と海兵コマンド大隊がアルゼンチン軍に迫る中、グースグリーンを制圧したばかりの第2空挺大隊もスタンレー攻略に加わるべく「ブラボーノベンバー」で東を目指しました。

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(引用元)http://www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1196

 グースグリーンの激戦から一夜明けた5月29日、臨時大隊長のキーブル少佐は次なる作戦を立案していました。グースグリーンから24km東、スワン・インレット・ハウスに対するヘリボーンです。[1-1]

 この作戦案はウィルソン陸軍准将へボトムアップされたものの、准将はウスボーン山への攻撃を計画していたために、実行を許さずにいました。しかし6月2日に准将が第2空挺大隊の言い分を認めると、大隊は海兵隊からウェストランド・スカウト小型ヘリコプター5機を借りうけ、少人数でスワン・インレット・ハウスを襲撃しています。[1-1]

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(引用元)http://www.aviafora.com/forums/forum/helicopter-fora/nostalgia/359-the-westland-scout
ウェストランド・スカウトヘリコプター。4人乗りの小型多用途機。


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(引用元)http://www.aviafora.com/forums/forum/helicopter-fora/nostalgia/359-the-westland-scout
対戦車ミサイル操作用のペリスコープ

5機のスカウトのうち、SS-11対戦車ミサイルを武装していた2機は、スワン・インレット・ハウスの距離800mからこれを民家に向けて発射、続いて空挺隊員を乗せた3機のスカウトが地上に降下。隊長のクロスランド少佐ら12名が入植地に突入しますが、アルゼンチン軍の姿は確認されませんでした。[1-1][2-1]

民家に入ったクロスランド少佐は破壊を免れた電話を回し、約50km南のフィッツロイ入植地の住民との通話に成功。付近にアルゼンチン軍が展開していないことを確認しました。[1-1][2-1]


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(引用元)https://en.wikipedia.org/wiki/File:Falkland_Islands_topographic_map-en.svg
グースグリーンとフィッツロイ・ブラフコーブの位置関係

 この住民の証言から、キーブル大隊長はウィルソン准将にフィッツロイへのヘリボーンを進言。これが許可されると、大隊は斥候のスカウト・ヘリコプター2機を先行させ、捕虜の輸送のためにグースグリーンを訪れていたチヌーク(ブラボーノベンバー)を「乗っ取り」、大隊員の輸送に用いました。[1-1][2-1][3-1]

 なおチヌークに完全武装の空挺兵81人を乗せるため、座席は折り畳まれてしまい、隊員は掴まるものもなく直立したままで輸送されました。急を要していたため、定員数は無視されました。[1-1[3-1]


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(引用元)http://www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1196
乗っ取られたブラボーノベンバー。現地部隊では飛行計画を無視してヘリコプターを使用する「ハイジャック」が横行していた。

 このヘリボーンは翌日の6月3日も継続されたものの、人員と武器の輸送を第一としたため、食糧の輸送は後回し。ようやく余裕ができたときには悪天候でヘリコプターが飛べなくなってしまい、第3空挺大隊は4日間の間、寝袋と携行食糧なしでフィッツロイと、隣接するブラフコーブの防衛を強いられています。[1-1]

 この補給の憂いは、内陸部に展開していた第3特殊旅団の第2空挺大隊や第45海兵隊コマンド大隊も同様でした。ヘリコプターは数が少ないばかりか、天候不良による飛行停止によって、想定以上に輸送効率を落としていました。[1-1]

 さらに、サンカルロスで待機しているグルカ小銃兵大隊や、実戦的な訓練が不足していた第1ウェールズ近衛大隊および第2スコットランド近衛大隊の前進についても、何かしらの策を講じる必要がありました。 [1-1]


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(引用元)http://histomil.com/viewtopic.php?t=4432&start=10
グルカ大隊の兵士。彼らはネパール出身の精鋭部隊として知られる一方、傭兵部隊と看做されることもあるため政治的に微妙な存在だった。


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(引用元)http://www.treasurebunker.com/forums/index.php?showtopic=1104
スコットランド近衛大隊。

 次第に陸路やヘリコプターによらない輸送法が模索され、6月3日には海兵隊のムーア少将と海軍のクラップ准将は、人員を輸送する手段が海上によるものしかないとして、艦艇を統括するウッドワード少将に、フィッツロイ・ブラフコーブへの揚陸艦の派遣を要請します。[1-1]

 ウッドワード少将は艦船の被害の可能性から難色を示したものの、紛争の終結を急ぎたいイギリス本部からの圧力も加わり、やむなく要請を承認しています。しかし少将は条件として、揚陸艦を派遣できるのは夜間か、航空攻撃をうけにくい荒天時のみ、としています。[1-1][2-1]

 またアドバイザーとしてサンカルロス上陸作戦に貢献した、海兵隊のテルユア少佐も参加。少佐はフィッツロイ・ブラフコーブの海岸の狭さを考慮し、舟艇によるピストン輸送を進言しています。ただ本来の同地は上陸作戦向きの海岸ではないとして、作戦を疑問視していました。[1-1]

 さらにこの時期に五つの各級司令部(ロンドン、空母ハーミーズ、サンカルロス湾橋頭堡、ティールインレット、フィッツロイ)が並行して存在し、連絡士官の不在や地形による無線通信の阻害、指揮官同士の不信で、作戦の障害となりかねませんでした。[1-1]


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引用『フォークランド戦争史』P182より、複雑なうえに連絡線も途絶していたイギリス軍の指揮機構

 この統合作戦の問題が表面化しつつあった6月5日、歩兵部隊の揚陸艦への乗艦が開始されたものの、スコットランド近衛大隊とウェールズ近衛大隊の乗艦順についてトラブルが発生しています。両部隊の乗船順番を入れ替る命令と、それを打ち消す命令が繰り返されたことによって、現場は皆怒り心頭。さらにテルユア少佐が上陸部隊に同行することについても、本人に事前連絡が一切なかったようです。[1-1]

 この混乱の後、どうにか部隊の乗艦を完了させた強襲揚陸艦イントレピッドと揚陸艦サー・トリストラム、さらに2隻の護衛艦は16時30分にサンカルロス湾を出港。翌6日午前0時頃には目的地から36kmほどのリプレイ島西方に到達します。[1-1]


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(引用元)http://www.navy-net.co.uk/community/gallery/photos/hms-intrepid-l11.2723/
強襲揚陸艦イントレピッド


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(引用元)http://www.britishempire.co.uk/forces/armycampaigns/southamerica/falklands/tristram.htm
揚陸艦サー・トリストラム。

 テルユア少佐はさらに10km先にあるエレファント島まで前進してもらいたい、とイントレピッドのディングマンズ艦長に要求したものの、艦長は強襲揚陸艦を1隻でも失うと政治的影響が大きいとして、前進を拒否。結局リプレイ島西方からLCU(上陸用舟艇)を発進させることになりました。[1-1]

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(引用元)http://www.thinkdefence.co.uk/2014/06/story-fres-eighties/
Mk.9型LCU

 長距離航行を強いられたLCUの小船団でしたが、その途中で42型駆逐艦のカーディフと12M型フリゲートのヤーマスに遭遇しています。2隻はスタンレーに対する夜間射撃を実施するため、この海域に展開していました。ところが、この2隻は「この海域で味方艦が他に運行していることはない」という誤った情報を伝えられていたため、LCUを撃沈する寸前に至ります。[1-1]

 幸い敵味方の識別に成功し、事なきを得ていますが、カーディフは直後に陸軍のガゼルヘリコプターを誤射し、撃墜する事故を起こしています。[4-1]

 カーディフがガゼルをアルゼンチン軍のC-130と間違えたこと、ガゼル側のIFFが電子機器の干渉問題のため、スイッチを切っていたことが直接の原因でしたが、前述の連携不足も事故の遠因となっています。[4-1]


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(引用元)https://en.wikipedia.org/wiki/1982_British_Army_Gazelle_friendly_fire_incident
ガゼルを撃墜したカーディフのシーダートミサイル発射機

 誤射を免れた4隻のLCUは航行を続け、朝8時頃にブラフコーヴへ上陸します。乗船していたスコットランド近衛大隊は荒天による波浪に晒され、皆ずぶぬれでしたが、出迎えの第2空挺大隊も寒さと空腹で疲弊していました。[1-1]

 この海上ルートによる人員と物資の輸送は翌日の6月7日も継続され、イギリス軍の兵站を維持しました。ところが、この動きがアルゼンチン側に察知されてしまい、6月8日にはアルゼンチン空海軍の、最後の組織的な航空攻撃をうけることになります。[1-1][2-1]



出典
[1-1]フォークランド戦争史 P290~296
[2-1]The Falkland Islands CampaignよりActions, losses and movements on land and sea
[3-1]空戦フォークランド P209~211
[4-1]テレグラフ紙 Widow of 'friendly fire' pilot visits Falklands

参考
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日)
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
平成25年度戦争史研究国際フォーラム報告書(防衛省防衛研究所 2015年11月18日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
thinkdefence.co.ukよりタグfalkland