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そして「飛龍」は残った -「昭和15年研究方針」と陸軍爆撃機開発計画。その後-


文:加賀谷康介(サークル:烈風天駆)


一 捨てる神あれば拾う神あり

 「昭和15年研究方針」に基づき計画された諸爆撃機がほとんど開発中止か不採用に終わった今、辛うじて審査が続いていたキ67も安泰とは言い難かった。

 そもそも、キ67の属する「重爆撃機」カテゴリそのものが、「昭和15研究方針」において著しく精彩を欠く機種であった。
 「昭和15年研究方針」を以前の「13年研究方針」「12年研究方針」と比較すると、文言に若干の変化みられるものの、用途及び性能に大きな進歩はなく、他機種の長足の進歩に比べて停滞感の否めない内容となっている。
 「昭和15年研究方針」の前の大改定「昭和12年研究方針」の内容にしても、さらに前の「昭和10年研究方針」の内容がほぼそのまま踏襲されていたから、キ67は実に5年前の思想に基づいて試作に着手された機体であった。
 その意味では、キ67=四式重爆を評して「時代遅れの新型重爆」と形容するのも、あながち間違いとは言えない。

 完成したキ67はただちにテストに着手されたが、試作機の当初発揮した最高速度は510キロと、要求仕様の550キロに40キロも及ばない結果となった。
 速度性能こそは「昭和15年研究方針」において、わざわざ一節を割いて「速度は努めて大ならしむ」とした重爆撃機カテゴリの最重要項目であったから、その点で要求を満たせない以上、キ67の採用も危ぶまれる事態となったのである。

 しかし、陸軍にはキ67をすぐ不採用にできない事情が存在していた。
それは、開戦後急きょ浮上した陸軍雷撃隊構想の影響である。

 キ67の審査が続く昭和18年、陸軍はソロモン、ニューギニアの南東方面で連合軍の反攻に直面していた。地形上この方面での戦闘は敵の海上進攻を阻止しうるか否かが勝敗を左右したが、本来その任務に当たるべき海軍機は消耗激しく、また決戦志向の強さから地味な船団攻撃より派手な艦隊攻撃を優先する傾向が強かった。

 海軍航空を頼るに頼れない陸軍航空は、「重爆不要論」で揺れる重爆隊を改変し、自前の艦船攻撃部隊を編成する構想に着手。まず海軍に対し天山100機の譲渡希望を行うが、海軍としても本格生産を開始してまもない新型艦攻を陸軍に融通する余裕はなく、代案として海軍側から雷撃機としてキ67が適している旨の返答がなされた(昭和18年12月20日、参謀本部と軍令部の協議)。
 図らずもキ67は海軍機の一式陸攻と同じ三菱が開発を担当しており、設計構造上も一式陸攻の経験が反映された機体であったから、キ67に雷撃装備をフィードバックするのは他の陸軍機と比べても最も迅速かつ確実な方策であった。
(他の候補機としては九九双軽や一〇〇式重爆などが検討されたが性能面で折り合わず断念された。仮にこの両機に雷装を施すとしても構造・艤装の大改装を余儀なくされ、後のキ67=四式重爆がやったように雷装・爆装を使い分ける柔軟性は持ち得なかったと想像される)

 また、懸案であった速度性能も推力排気管の採用などの改良によって537キロまで向上。要求仕様の550キロにはやや足りなかったが、状況の切迫から許容範囲内と判断され、19年3月に量産1号機がロールアウト。この時点で陸軍は量産17号機以降の全機に雷撃装備を施すことを決定しており、事実キ67=四式重爆の部隊配備は、陸軍雷撃隊の第一陣として完全海軍式の訓練に着手していた飛行第98戦隊から開始された。
 陸軍雷撃隊の構想が具体化した昭和18年末の段階でキ67の審査はおおむね終了しており、雷撃機としての使用がキ67採用の直接の理由ではないと考えられるが、量産開始間もない昭和19年前半、キ67=四式重爆は陸軍雷撃隊の2個戦隊(98戦隊と7戦隊)に集中的に配備されており、明らかに雷撃機としての使用が優先されていた。

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二 失われた双軽を求めて

 ようやく日の目を浴びた四式重爆は、雷撃隊への充足を優先しつつも、しだいに各重爆飛行戦隊に浸透。昭和20年に入って以降は前世代機である一〇〇式重爆を完全に更新した。
 これは比島捷号作戦で一〇〇式重爆装備の重爆飛行戦隊がのきなみ壊滅的被害を受けたことに起因する歓迎されざる事態であり、また折からの戦闘機超重点方針に基づき、重爆戦隊の数が限られていたという条件の下での達成であったが、開戦後登場した機体が前世代機を完全に更新することのできた数少ない成功例となった。
 遡ること5年前、一〇〇式重爆の採用に際し「然れども速やかに飛躍的優秀機の出現を希望す」という試験報告の結びがこうして現実のものとなったのである。

(ただし、本土で機種改変の機会を逸した南方軍の3個重爆戦隊が、より古いが実用性に優れる九七重爆の運用を続けていた)

 四式重爆の普及は重爆隊にとどまらず、軽爆隊の飛行第16戦隊も終戦時には四式重爆への機種改変に着手していた。
 軽爆隊はキ66の不採用後も九九双軽で苦闘を続けており、同じ川崎製の二式複戦「屠龍」及びその性能向上機であるキ102を装備する襲撃隊に順次転換していたが、残る軽爆隊は能力的な上位互換である四式重爆を必要としていた。その意味では四式重爆は不採用となった姉妹機・キ66の代役としての一面を有していたのである。
(軽爆の攻撃力強化と重爆の高機動化が四式重爆という形で統合されつつあり、この点は海軍の艦爆・艦攻統合の流れと一致するようで興味深い)。

 この流れを裏付けるように、四式重爆の生産は開発の三菱のみならず、九九双軽・二式複戦「屠龍」・キ66を開発した川崎でも転換生産に着手されている(総生産697機のうち約7分の1、91機が川崎製と伝えられる)。


三 水平線まで何カイリ?

 四式重爆の多岐にわたる活用の前提となったのは、なにより実機の優れた基本設計と、空中における卓越した機動性であった。そしてこの点は、要求した陸軍より設計開発した三菱側の功績によるものが大きい。

 四式重爆の空中機動性については、「軽荷状態なら宙返り可能」や「急降下も可能(※)」という、従来の重爆撃機と隔絶した性能が広く知られており、雷撃機として使用するうえでもこの点が大きく評価されている。
 しかし、キ67要求の基礎である「昭和15年研究方針」中の「重爆撃機」カテゴリには、そのような能力を必要することは一言も文章にされていない。四式重爆の空中機動性は、「昭和15年研究方針」中の「重爆撃機」カテゴリがキ67として試作指示された際、仕様書においてようやく追加されたオプションの能力であった。この点は、はじめから急降下爆撃能力が必須の「陸上爆撃機」として開発された海軍の一五試陸爆(銀河)と大きく異なる点である。

 陸軍のキ67(四式重爆)と海軍の一五試陸爆(銀河)は、ともに爆撃と雷撃の両方が可能な新型機で、急降下性能など空中機動性に優れる点、実戦投入が同じ昭和19年であり、速度性能などが近似している点からライバル機として比較されることが多い。
 しかし一五試陸爆(銀河)が海軍の将来航空軍備の根幹をなす存在として、様々な新要素を盛り込んで多大な期待を寄せられていたのとは対照的に、キ67(四式重爆)は他の機種が次々と新機軸を打ち出してゆくなか、代わり映えのしない研究方針のもと発注された地味な存在であった。

 そのままであればキ66やキ71と同様、とりえのない新型機として機種整理の対象になりかねなかったキ67を大成に導いたのは、小沢久之丞技師を設計主務とする三菱側開発陣の功績である。
 開発陣はキ67設計にあたり、「昭和15年研究方針」の内容を忠実に履行するだけでは早晩陳腐化は免れないとして、幾つかの面で自主的に能力を引き上げる判断を行っていた。

そのうち、後日大きく影響を及ぼしたのは次の2点である。

○爆弾搭載量の増大・・・「昭和15年研究方針」では標準搭載量500キロ、行動半径700キロ以内に限り750キロも可能という程度であったが、開発陣は当初から標準搭載量800キロを前提に設計を行った。
この搭載量増大によって実際機の四式重爆は、約850キロの91式航空魚雷を搭載し、はるか洋上の敵艦隊攻撃を行うことを可能とした(仮にこの措置がなければ、魚雷搭載を強行しても航続距離が著しく減少し、沿岸部にかなり接近した目標以外は攻撃不可能であったと思われる)。

○航続性能の増大・・・「昭和15年研究方針」では行動半径について、爆弾量標準で1,000キロ、爆弾量を減少させた場合1,500キロとしていたが、開発陣は爆弾量の減少なしに1,500キロ飛行可能なように設計した。
この航続距離増大によって実機の四式重爆は、海上飛行が不可欠となった太平洋戦争の後半にあって、洋上の敵艦隊攻撃や硫黄島への長距離飛行爆撃を行うことを可能とした(マリアナ攻撃のため更に航続力延伸型が試作された)。


四 不遇の時を過ごした「みにくいアヒルの子」

 軍用機開発の過程にあっては、要求者である軍側が計画あるいは試作中の機体の要求性能や仕様を頻繁に変更し、開発の遅延や迷走を招く例が数多く知られているが、キ67=四式重爆にはそれが少ないのも特徴である。
 キ67に対する大きな仕様の変更は試作指示から4か月後の昭和16年6月、爆撃及び射撃装備に関する追加指示が出た程度で、その後は開発ほぼ完了後の昭和18年末、陸軍雷撃隊の候補機として雷撃装備の追加が命じられるまで大きな方針の変化は見られない。

その理由としては繰り返しとなって恐縮であるが、計画時点では「重爆撃機」カテゴリそのものが新味に乏しい機種として関心をひかなかったこと、審査時点では「重爆無用論」の影響で過大な期待を浴びなかったことなどのマイナス要素が、結果的に怪我の功名としてプラスに作用したと考えられる。
 その意味では四式重爆もまた「自主設計に近いほど傑作機になる」という航空機開発上の俗説に符合する存在であるのかもしれない。

 最後に、航空機研究家として有名な秋本実氏は、その著書において四式重爆を評し、次のような言葉を残している。
陸軍が本機 (※四式重爆。ただしこの場合は「昭和15年研究方針」における重爆撃機カテゴリとして捉えるほうが適切だろう) を計画した時は、確固たる方針もなく、試作を繰り返せばそのつどいくらかでも進歩していくであろう、といった程度の考えしかなったといわれているが、ともするとそのような形でスタートした機を、名機に仕上げたスタッフたちの努力は高く評価すべきであろう。

 四式重爆を語る言葉として、この一文に勝る要約を筆者は未だ知らない。


【参考文献】
戦史叢書『陸軍航空の軍備と運用(1)~(3)』
戦史叢書『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』
秋本実『日本軍用機航空戦全史(1)~(5)』
生田淳『陸軍航空特別攻撃隊史』
伊沢保穂『陸軍重爆隊』
学研編集部(編)『日本陸軍軍用機パーフェクトガイド 1910~1945』
雑誌「丸」編集部(編)『屠龍/九九軍偵・襲撃機』『飛龍/DC‐3・零式輸送機』『飛燕・五式戦/九九双軽』『疾風/九七重爆/二式大艇』
神野正美『台湾沖航空戦』
鈴木正一(編)『陸軍飛行戦隊史 蒼穹萬里』
その他各氏の著作、論説を参考とした。

  

<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』

URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx