<冴えないペギーの育てかた -「昭和15年研究方針」と陸軍爆撃機開発計画->
文:加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
旧日本陸軍航空隊の四式重爆撃機。略して四式重爆といえば、一般に知名度の低い日本陸軍爆撃機の中にあって、陸軍機ながら航空魚雷を装備し、連合軍艦隊に果敢な夜間雷撃戦を挑んだその経歴から、生産機数(約700機)や活動期間(終戦まで約1年)に比べ知名度の高い機体である。
そして四式重爆の評価には、「軽快俊敏な双発爆撃機の傑作」という好意的な見方と、「英米の戦闘爆撃機にも劣る爆弾搭載量」という否定的な見方が常に付きまとっている。故に日本陸軍の爆撃機に対する時代錯誤な見解を象徴する存在として、時には書籍等で取り上げられる場合もあるだろう。
そのイメージを一概に誤りと決めつけることはできない。
しかし、その経過を丹念に見てゆけば「四式重爆=キ67」が、はじめからそのような宿命を背負っていたわけでないことが判明する。
今回は、その歩みを少しだけ視野を広くして辿ってみたい。
文林堂
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一 「こんなこといいな できたらいいな♪」
昭和15年3月6日、太平洋戦争開戦を遡ること1年4か月前のこの日、軍需審議会においてあるペーパープランが決定された。
名称は「昭和15年陸軍航空兵器研究方針」(以後「昭和15年研究方針」と略す)。これから陸軍航空が保有するべき機種と、達成するべき性能及び装備を具体的に網羅した、今後の開発方針の基本となる重要文書である。
この研究方針は目安として3年ごとに大改定される傾向にあり、前回の「昭和12年研究方針」では、(翌年の内容改正を反映のうえ)一式戦「隼」、二式単戦「鍾馗」、二式複戦「屠龍」、一〇〇式司偵、九九双軽、一〇〇式重爆「呑龍」、そして九九襲撃/軍偵という、第二次大戦前半で陸軍航空隊が主力とした機体が次々と生み出された。
そして今回の「昭和15年研究方針」では、それら機体の後継機を調達するべく、次のような機体計画番号(キ番号)が次々と割り振られた。
(※「昭和15年研究方針」に基づくキ番号はキ86まで続くが、ここでは当初部分のみ抜粋)
キ60・・・重単座戦闘機
キ61・・・軽単座戦闘機(のちの三式戦闘機「飛燕」)
キ62・・・軽単座戦闘機
キ63・・・重単座戦闘機
キ64・・・重単座戦闘機
キ65・・・襲撃機
キ66・・・軽爆撃機
キ67・・・重爆撃機(のちの四式重爆撃機「飛龍」)
キ68・・・遠距離爆撃機
キ69・・・爆撃掩護機
キ70・・・司令部偵察機
キ71・・・軍偵察機兼襲撃機
キ72・・・直協偵察機
のち四式重爆「飛龍」となるキ67は、文書上初めてここに登場する。
ここで重要なポイントは、上記のキ番号が無作為に割り当てられたものではなく、「昭和15年研究方針」の機種掲載順(軽単座戦闘機→重単座戦闘機→襲撃機→軽爆撃機→重爆撃機→遠距離爆撃機→爆撃掩護機→司令部偵察機→軍偵察機→直協偵察機の順)と完全に一致するよう採番されていることである。
すなわち陸軍は、「昭和15年研究方針」に基づき、戦闘機から偵察機までの第一線軍用機を一斉に更新することを目標に、体系だった試作方針を明確に打ち出していたのである。
二 「あんなゆめ こんなゆめ いっぱいあるけど~」
「昭和15年研究方針」の特徴は、爆撃機に新たなカテゴリとして「遠距離爆撃機」つまり超重爆撃機を追加している点である。
陸軍航空隊はこの超重爆撃機を自力開発によってではなく、先行する海軍一三試大型攻撃機(4発機。のちの深山)を陸軍機仕様で採用するという、手堅く効率的な調達方法を検討していた。
一三試大攻の要求性能は爆弾ないし魚雷3トン。航続距離(攻撃装備で)約6,500キロ以上と、実際に登場する英米の4発機と遜色なく、陸軍のこの種の大型爆撃機に対する見解は一般のイメージと異なり、至って健全かつ常識的なものと言えるだろう。
そしてこれら計画機がすべて戦力化できた場合、最終的に陸軍航空隊は機甲部隊攻撃に適した双発襲撃機(キ65)、急降下爆撃能力を備えた双発軽爆撃機(キ66)、高速な航空撃滅戦向け双発重爆撃機(キ67)、戦略目標攻撃も可能な四発遠距離爆撃機(キ68)に加え、軍偵と共用で小回りの利く単発襲撃機(キ71)という重厚で理想的な爆撃隊兵力を形成できるはずであった。
そしてキ67は、この時点ではまだ5種ある爆撃機の一つにすぎなかった。
三 渡る世間は没ばかり
しかし、ここから計画より脱落するキ番号が現れはじめる。
まず、重爆撃機(キ67)の機体を転用するはずの爆撃掩護機(キ69。重爆撃機と同じ機体に大量の防御火器を装備したもの、海軍の翼端掩護機に相当)が、同様の発想で先に試作されたキ58(一〇〇式重爆を転用)の実績不振により計画中止。
さらに双発襲撃機(キ65)が、折から試作中の海軍一四試局地戦闘機(のちの雷電)を重単座戦闘機として採用する計画にキ番号ごと転用され、その穴は軍偵察機兼用の単発襲撃機(キ71。実態は九九襲撃の性能向上型)で補填することになった。
そして「昭和15年研究方針」における新カテゴリ・遠距離爆撃機(キ68)も、昭和16年4月に初飛行を行った一三試大攻が要求に遠く及ばない性能不足を露呈すると、そのまま正式な試作指示も出ないうちに計画中止となった(担当を中島から川崎に変更、キ85の番号で構想はその後も一応継続している)。
この段階で前述の計画機のうち、試作機完成まで進めることができたのはキ66(双発軽爆撃機)、キ67(双発重爆撃機)、キ71(軍偵察機兼襲撃機)の3種である。
キ66は昭和16年3月に試作指示、昭和17年11月に試作1号機完成。
キ67は昭和16年2月に試作指示、昭和17年12月に試作1号機完成。
両機とも同じ時期に試作が命じられ、同じ時期に完成したほぼ兄弟機と言える。これに昭和17年試作機完成と伝えられるキ71を加えて3機種が審査に入ったが、すでに開戦から約1年を経過しており、実戦における戦訓が新たな障壁として立ちはだかっていた。
開戦後、陸軍航空隊には在来型機種に対する能力上の不満から「重爆不要論」「軽爆不要論」が内部から沸き起こっていた。
爆撃隊全廃という極論はさすがに実現しなかったが、一部襲撃・軍偵飛行戦隊の戦闘飛行戦隊への改変は実行に移され、今後爆撃隊全体に割くリソースは減少する一方であった。
そして審査途中の3機種は能力上の不満を叫ばれている「在来型機種」そのものであり、重大なトラブルや欠陥こそ生じなかったものの、この逆風を跳ね返すだけの高性能を発揮することはできなかったのである。
キ71は、この程度の性能で行動するような軍偵飛行戦隊が今後存在しなくなるという軍備上の理由で不採用が決定。キ66は、そもそもの開発目的である急降下爆撃能力の獲得が、本来更新すべき前機種-九九双軽Ⅱ型-へのダイブブレーキ追加で達成可能、という本末転倒の理由で同じく不採用となった。
つまり、「昭和15年研究方針」に基づき計画された諸爆撃機のうち、昭和18年半ばの段階で採用の可能性が残されているのは今やたった一機種、三菱開発のキ67が残されるのみとなったのである。
【参考文献】
戦史叢書『陸軍航空の軍備と運用(1)~(3)』
戦史叢書『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』
秋本実『日本軍用機航空戦全史(1)~(5)』
伊沢保穂『陸軍重爆隊』
学研編集部(編)『日本陸軍軍用機パーフェクトガイド 1910~1945』
雑誌「丸」編集部(編)『屠龍/九九軍偵・襲撃機』『飛龍/DC‐3・零式輸送機』『飛燕・五式戦/九九双軽』『疾風/九七重爆/二式大艇』
鈴木正一(編)『陸軍飛行戦隊史 蒼穹萬里』
田中耕二他2名『日本陸軍航空秘話』
その他各氏の著作、論説を参考とした。
<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』
URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx
株式会社潮書房
コメント
襲撃機と軽爆っていつも違いがよくわからない
未だに4式「重爆」が1t弱程度しか爆装できないのが不思議でしょうがない。
B-25H型は3200ポンド(1452.8kg)まで積めるのに。
>襲撃機と軽爆っていつも違いがよくわからない
「昭和15年研究方針」の表現に沿って、両者の異なるところを挙げてゆきます。
1.概要
襲撃機・・・急降下、「超低空」攻撃及び瓦斯雨下に適し軽快かつ努めて速度大なる「単座機」とする
軽爆撃機・・・急降下爆撃に適し速度大かつ努めて行動軽快なる「複座機」とする
2.行動半径
襲撃機・・・標準400km。600kmに延長可とする
軽爆撃機・・・標準500km。700kmに延長可とする(いずれも+1時間の行動余裕)
3.搭載量
襲撃機・・・標準100kg。30kg以下の爆弾を使用
軽爆撃機・・・標準300kg。15kgないし50kgの爆弾を使用
4.常用高度
襲撃機・・・2000m「以下とす」
軽爆撃機・・・2000mないし5000m
5.射撃装備
襲撃機・・・固定機関砲2、固定機関銃2
軽爆撃機・・・機関銃3。「特に後方死海消滅に努める」=つまり旋回機銃
6.装甲
襲撃機・・要部を装甲す(必須)
軽爆撃機・・・要部の装甲につき研究す(今後の課題)
7.特別装備
襲撃機・・・「雨期装置、雪上装置、離着陸制動装置の装着につき研究す」=不整地の多い前線基地運用を強く意識している
要は襲撃機とは超低空攻撃に適した高速軽快な単座機であって、攻撃手段としては爆弾より固定火器による掃射を重視し、専ら低空飛行を行うため装甲が必須な飛行機という事になります。これだけ述べると、爆撃機としての飛行性能を重視した軽爆撃機より、むしろ戦闘爆撃機(ヤーボ)に近い存在です。陸軍がしばしば重戦闘機の襲撃機転用を企画するのは一見ミスマッチのように感じますが、研究方針のうえでは早くから現れている傾向で、事実開戦後戦闘隊の一部はこの種の任務に積極的に取り組んでいます。
そりゃ失敗を想定しない研究開発とかやるわけないっしょ
なんでこのタイプの機体は必要じゃないのかってのを自国の技術水準やら戦訓やら込みで研究する必要があるから、対象は多くなるもんだと。
技術がないから失敗を恐れるより、作ったはいいけど使い道なかったってのを恐れたって話なら全力同意だったけどw
ご丁寧にありがとうございます
確かに二式複戦の活躍を見ると襲撃機は戦闘爆撃機ぽいですね。低空での運動性も重視されてただろうし
襲撃機と軽爆の違いに搭載爆弾の差があったのは知りませんでした。勉強になります
海軍の零戦みたいに後続機の開発が遅れて終盤に悲惨な戦いを強いられた機種もあるので、色々な試作機を作る事自体は間違いではないよ。
また当事は戦闘機無用論が流行っていたり単発戦闘機にすべてが劣る双発戦闘機が作られたりと航空機開発の行く末について各国で暗中模索の時代だったから、作ってみないとわからないことがいっぱいあったんでしょ
まぁ国力や技術力との兼ね合いを考えると、もう少しうまいやり方があったとは思いたくなるけど・・・
うむ、すべては日中和平を邪魔して性急な日米開戦を行った海軍が悪いな(こじつけ)
※5
飛行速度の違いじゃないか?
四式は最大速度: 537 km/hで、B-25で最大速度: 442km/hと100km/hくらい違うし、その他の航続距離とか武装とか色々と加味したら実質同じような能力な気がする
ありがとうございます。
※12
搭載された機関銃や機関砲の口径すら統一性皆無な時点で…しかも同じ口径でも弾薬の設計が違うという…
Wikiで見ただけでもクラクラします。
当事はまだ空軍が独立していなかった国も多かったし、軍隊と言う巨大官僚機構の縄張り争いはアメリカやドイツでも多々見られたことなので・・・
個人的には記事中に「海軍一三試大型攻撃機(4発機。のちの深山)を陸軍機仕様で採用するという、手堅く効率的な調達方法を検討していた」という文章が印象的、陸海軍とも非効率な点はある程度承知していて、なんとか協力関係を築けないものかと試行錯誤していたんだと思う。
戦争が無ければ遠からず陸海軍の航空戦力を統合して大日本帝国空軍が出来ていたんじゃないかな?
もしも出来ていたら統帥権の問題とかどうなったか気になるがw
あと四式重爆は防弾を強化した一式陸攻という話は結構ロマンだ
※5
そもそも日本軍機は航続距離と速力重視で搭載量はそこまで要求されないというのと、国内の飛行場が貧弱なのでそれに合わせないといけないという事情がある
例えば例えばカタログスペック上500~800kgしか爆弾を積めないとされる97重爆だけど、大陸では爆弾2tに燃料弾薬満載で運用したなんて話があったり
あと、あの有名な陸攻乗りの高橋さんは、飛龍はパーっと離陸して行くのに、陸攻は地上姿勢が這う様な姿勢だったから、モタモタ離陸していったから羨ましかった、ってあるな。
やっぱ、飛龍って馬力余ってるんだよな。
記事の終わり方が中途半端だと思われた皆さま、説明不足ですみません。
この記事には第二章があります。
「冴えないペギーの育てかた ~FLYING CIRCUS~」(大嘘)は、今晩更新していただく予定です。
こちらもよろしくお願いします。
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