KI-43
飛行第64戦隊は64番目の飛行戦隊か?


文:加賀谷康介(サークル:烈風天駆)

 「日本陸軍で最も有名な戦闘機隊は?」と聞かれた場合、陸軍航空隊について少しでも興味のある方ならば、その多くが『加藤隼戦闘隊』こと飛行第64戦隊(以下、64戦隊)と答えるだろう(次点はおそらく本土防空戦の244戦隊か)。

 ビルマ戦線で約3年間、数と性能で勝る英米軍機を相手に一歩も引かず互角の戦いを繰り広げた同戦隊は、往年の俳優・藤田進演じる映画の存在も相まって、数々の武勲と逸話に彩られた有名部隊である。

 今回はその有名部隊について一風変わった分野から触れてみたい。


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 それは「飛行第64戦隊はなぜ【64】戦隊なのか?」という点である。ご存じのとおり陸軍航空隊は、機種や所管鎮守府、常設又は特設を区別するため複雑な3桁番号制を採用した海軍航空隊と異なり、飛行戦隊には機種を問わず通し番号を付ける一見シンプルな方式を採用している。

 では64戦隊はその名のとおり64番目に発足した飛行戦隊か?
その答えは否である。

 この問題を紐解くためには、時計の針を太平洋戦争突入から約3年と4か月巻き戻さなくてはならない。

 昭和13年7月から8月にかけて、日本陸軍はその航空隊の編制に画期的な一大改革を加えた。「航空部隊編制要領(軍令陸軍第27号)」に基づくこの改革は、従来の飛行連隊を根幹とした編制を改正し、空中勤務部隊たる飛行戦隊と、地上勤務部隊である飛行場大隊を分離するもので、太平洋戦争で数多登場する飛行戦隊の歴史はここに端を発する。

 この編制改正の対象は主として内地(台湾・朝鮮を含む)の飛行連隊と、陸軍航空の新天地たる満州の飛行連隊であり、この時点で存在していた全飛行連隊が一度に改編された。

 しかし、陸軍航空隊が展開していたのは内地と満州だけではなかった。1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に端を発する日中戦争に伴い、陸軍航空隊は華北へすでに兵力を派遣中だったからである。

 派遣兵力の実態は、内地の飛行連隊から概ね2個中隊を標準に抽出したもので、連隊と中隊の中間的な存在として飛行大隊を名乗っていた(大正年間の飛行大隊とは別)。

 その数は飛行第1大隊から第9大隊まで計8個(第4大隊欠)。これら飛行大隊もこの編制改正を期に飛行連隊改編部隊と同じ飛行戦隊に改編された。そして華北の飛行第2大隊を改編して誕生したのが、冒頭に挙げた飛行第64戦隊である。

 この改編期を過ぎた陸軍航空隊は、16個飛行連隊、8個飛行大隊、10個独立飛行中隊から32個飛行戦隊、5個独立飛行中隊に模様替えした。つまり64戦隊誕生時点で、飛行戦隊は半分の32個しか存在していなかったのである。64戦隊が64番目の飛行戦隊でないことはこの一点からしても明らかである。

 では、【64】の数字の理由を少し考察してみたい。

 昭和13年当時、日本陸軍は一号計画と呼ばれる航空軍備充実計画の途中であった。一号計画は昭和12年から17年までの6か年計画で、計画達成時の整備目標は142個中隊。昭和13年は計画の2年目で、あらかじめ整備完了後の戦隊数を見込んで余裕のある数字を付番したという仮説はどうであろうか。

 だがこの仮説は次の検証から否定される。1個戦隊3個中隊編制という標準定数に従えば、142個中隊は約47個戦隊分でしかなく、64個戦隊分には到底及ばない。しかも64戦隊とほぼ同時期に、70番台の飛行戦隊が複数誕生している点からして、一号計画達成時の数字を前提に【64】が付番されたという仮説はどうにも成り立ちそうにない。

 視点を変えてみると、この編制改正に伴う飛行戦隊の付番には一つの傾向が見てとれる。

 それは「番号に規則性のない飛行戦隊は日中戦争派遣の飛行大隊から改編された部隊が多い」という特徴である。

 27戦隊(旧飛行第1大隊)、64戦隊(同第2大隊)、31戦隊(同第5大隊)、60戦隊(同第6大隊)、75戦隊(同第7大隊)、77戦隊(同第8大隊)、90戦隊(同第9大隊)はいずれも日中戦争派遣の飛行大隊を改編して誕生している。

 この傾向に反するのは、既存の16個飛行連隊から誕生した22個飛行戦隊のうち、旧連隊名と異なる数字を付番された6個戦隊(24・33・58・59・61・65)であるが、そのうち59戦隊は編制後すぐ日中戦争の前線に派遣されている。

 これら日中戦争派遣の飛行戦隊がすべて規則性のない番号を与えられたことはおそらく偶然ではないのだろう。多分に推測の要素を含むが、その理由には防諜の問題があったことが想像される。

 対戦する中国軍その他外国軍事関係者であれば、飛行第1~16連隊及び飛行第1~9大隊という名称から日本陸軍航空隊の大よその兵力を想像することは難しくない。

 部隊名の通し番号から総兵力を暴露することは大問題であり、日中戦争派遣の兵力には敢えて規則性のない、なるべく大きい数字を部隊名とする意図があったのではないだろうか(飛行第9大隊を改編した第90戦隊などその最たるものである)。

 塗装面でもこの時期から機体に部隊名や機体の機種、製造番号を大書することが止められてゆくが、これも同様の配慮によるものと思われる。

 こうして誕生した飛行第64戦隊であるが、その後華南作戦、ノモンハン事件そして一式戦・隼を装備してのマレー・蘭印作戦、そして運命のビルマ戦線へと転戦してゆく。

 終戦までに9度授与された部隊感状、その最初の1枚は、改編前の飛行第2大隊時代、華北航空戦における第1中隊の活躍に対し授与されている。その中隊長は後の軍神、第4代戦隊長となる加藤建夫大尉(当時)その人であった。

<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』

URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx

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